2013年10月30日

徹底的に責める"世間"と、企業ならではの体質~阪急阪神ホテルズの問題から考える

ここ数日、ニュースをにぎわしている、阪急阪神ホテルズがメニュー表記と異なる食材を使っていた問題。
東京在住の私にはあまりピンとこないが、関西の人から見ると、絶対的信頼ブランドの「あの阪急阪神が?」ということになり、衝撃の大きさは計り知れないと言う。
それが28日、社長が辞任の記者会見へと発展した。

ここで注目したいことは二つ。

一つは、徹底的に責めていく世間の空気だ。
記者会見の様子を見ると、そこまで聞くのか・・・と、なんだか暗い気持ちになっていく。
責めても責めても、もっともっと。
半沢直樹の土下座問題の時にも書いたが、土下座とか謝罪とか、反論すらも一切させないところまで追い詰めていくような気がして、見ていて気分が悪い。

企業だけではない。
以前も書いたが、次男の事件で、番組を自粛し、警察も信じるが息子も信じると語ったみのもんたさん。その後、それを含めたみのさんの姿勢を世間が許さなかったのか、事件に関係あることないことが次々に出てきて、結果、番組降板となり、最終的に長い記者会見へと発展した。
ここにも、徹底的に責めていく世の中の空気を感じる。
SNSでいたずら写真を出した結果、責められていく若者への仕打ちもそうだ。

なんだか魔女狩りのようで気持ちが悪い。

先日、私が主催している勉強会で、偶然クレーム対応や、顧客満足について、メンバーでディスカッションをする場があった。
そういう時の望ましい対応とは、どういうことなのか。
顧客の不満はどうすれば解決できるのか。
その時、自分が顧客の立場で大きな不満を感じてクレームを言っているうちに、どんどんエスカレートして、自分でも驚くくらい怖いことを言うようになる、という話が出てきた。

なぜそうなっていくのか?
それは、相手の心が見えないから、のように思う。
この件についてどうかんがえているのか?
不満を感じている自分のことを理解してくれているのか?ということ。

今、世の中は気持ちが見えにくくなっているのではないだろうか。
誰もが、最初から責めたくて責めてるんじゃないんだろう。
心が見えなくなるから、肉声が聞こえないから、イライラする。
だから、もっともっとと責め上げていくのではないだろうか。
阪急阪神も、みのもんたさんも、心にフタをして、生身を見せないでいると、相手がイライラする。イライラさせると、どんどん狂暴になっていく。そういうことなのではないか。

もう一つは、会社の体質。
今、阪急阪神の事件では、誤表示か、偽装か、そこばかりがメディアから追求されているが、私がそれ以上に注目したいのは、会社として、顧客のことを大事にしない体質なのではないかということ。

今回の社長辞任の理由は、1企業ではなくグループ全体にまで多大な迷惑をかけたから。
お客さまへの多大なる迷惑については、この辞任会見で語られなかったのだ。
これは消費者問題研究所代表の垣田氏がテレビでも語っていたことであるが、ホテルズの社長がグループに迷惑をかけたからと、ホールディングスの社長に辞任を申し出た際にも、グループよりもお客さまへの迷惑だ、辞任理由はお客さまへの迷惑だと指摘するタイミングがあったはずだと。
それもなかったから、このような会見になったのだろうと。
記者会見報道で、私が何かもやもやしていたのはこれだったか、と垣田氏の発言をを聞いてハッとした。
会社のそういう体質がなんとなく垣間見えるから、私がもやもやしたのかもしれないし、記者からより責められていくのかもしれない。

そこには、長年の蓄積による体質と言うものがある。
他の世界では不自然なことであっても、その世界では「あたり前」と感じる体質。
これは、とても怖いことだ。
自分自身に翻ってみても、自分にとって普通なことが、他から見て異常に見えることは、きっといくらでもあるだろう。

今回、気になった体質が、企業論理と言うか、企業目線に終始する体質、企業内の論理だ。

記者会見でも、誤表示か偽装かどちらなのかと1時間も平行線の中で追求するよりも、むしろ、会社としてお客様をどう考えるのか、教育システムがどうなっているか、というテーマ等に、もっと言及してほしかった。
翌日のテレビでも、垣田氏が番組内で「まず言いたいことは・・・」とせっかく語っているのに、その後すぐにまた、誤表示か偽装かどちらなのか、という話に戻り、芝エビは・・という展開になっていくのは、お粗末だと思う。
記者会見に出席したり、報道したりするメディアの方も、会社の論理で、視聴率を上げるにはどうするか、どう報道するかと、会社目線で考える体質だから、そういうことには気づきにくいのかもしれない。
私たちは、日々企業論理で動いていると、大事な目線を忘れてしまうのだろう。

メディアだったら、例えばお客様を大事にすることで伸びている企業が、どうやってそういう風土を作ってきたのかを考えたり、取材したり、してほしい。
一方で、阪急阪神とは異なる問題だが、顧客に迎合するあまり、被害を受ける企業のつらさだってあるだろう。
企業として、どういう体質に育てていくか。

私自身も、今回の件を、自分の思い込みや間違った体質が自分自身に染みついていないかを考える契機にしたい。この事件をきっかけに、企業内(グループ内)への迷惑や体面を守る体質から、お客様への愛情を考えられるような意識改革や体質づくりを考えるためには何が必要なのか、これから考えていきたい。




2013年10月29日

社会問題をわかりやすく考えさせてくれた天野祐吉さん、亡くなる 

80歳でした。

新卒からず~っと、20年以上広告会社で仕事をしてきた私にとって、天野さんは憧れの人でした。
広告を素材に社会を考える、という形が私は好きで、しかも広告に対してのスタンスが、時に優しく、時に厳しく・・・・。
天野さんの、広告への愛情があふれているのを感じました。
そこが元アドマン(=広告人)の私としてはなんとも嬉しく、また共感することが多かったです。
広告とは無縁の方でも、朝日新聞に連載されていた「CM天気図」で、そういうことを感じる一般の方もきっと多かったことでしょう。
そういう天野さんの柔らかさは、やはりお顔にしっかり表れているなあ、と思うのは私だけでしょうか。
特にここ10年くらいは、社会に対しての痛みや哀しみとともに語られることが多かったので、優しさの向こうにあるそういうお顔を、感じました。

なぜ売上目標は毎年毎年上がるんだろう? なぜ経済は成長せねばならないんだろう?と、私がこっそり考え始めたのは15年くらい前でした。
当時は広告会社の会社員で、仕事は面白いし、毎日ワクワクしているんだけど、それでも社内の営業会議に出ると、どこか腑に落ちないものを感じていました。
そういうことをいろんな人に質問すると、頭では納得するような答えをくれたり、叱られたりしながらも、心ではどこか納得できずに何年か過ぎたころに、天野さんがコラムで経済至上主義への批判を、誰もがわかるように、明るく、でもピリッと辛く書いているのを読み、とてもホッとしたことがあります。

朝日新聞(10月22日)では、CMディレクターの川崎徹さんが天野さんへの追悼コラムを書いていて、そこに1981年の天野さんの写真が掲載されていました。


「広告批評」が創刊されて2年後の写真です。
当時の広告業界は、多くの有名クリエイターが面白い広告を次々と作っていた時代で、就職する者にとっては人気産業。
大学生の憧れの職業でした。
その「広告批評」は2009年に休刊。

私が好きだった広告の時代の終わりを感じ、寂しいです。
ご冥福をお祈りします。

2013年10月21日

ドラマ「半沢直樹」から思うこと2


今さらではあるが、前回に引き続き、ドラマ「半沢直樹」から思うことのもう一つを書いてみたい。

番組終了後、このドラマがきっかけで、あちこちでこれを今の社会現象と合わせて評論された。
中でも注目されるのは土下座。
NHK「クローズアップ現代」でも、土下座に注目し、ドラマから始まって、現実の企業経営者の謝罪会見での土下座などを紹介していた。
このような形は、日本人が心のゆとりを失って不寛容になり、相手を土下座させるまで追い込む風潮が広がっているからだと分析している。

私には、土下座くらいで何をそんなに・・・という感覚がどこかにあった。
それは、和室で正座してご挨拶をすることと、土下座をすることとが、そんなに大差あるように思えなかったからだ。
正座して手をついてのご挨拶=旅館などの「いらっしゃいませ」の形と、土下座の形。私から見るとその体勢には大差がない。
極論をすれば、そのときのご挨拶の気持ちが、偶々お詫びになったのが「土下座」だと言ってもいいくらいだ。
しかし、ドラマの中の土下座は随分違う。

屈辱の象徴。
土下座する側の人は、ブルブルと震えながら、やっとの思いでしゃがみこみ、絞り出すように声を出して土下座をするシーンが、半沢直樹に屈服した象徴のように描かれていた。

このドラマ、そして社会現象として取り沙汰された「土下座」と、私が認識する軽い「土下座」とは、いったい何が違うのか。
その大きな違いは、自分から土下座をするか、土下座させられるかの違いのような気がする。

謝罪する、詫びる、という行為は、本来強制されるものではないはずだ。
強制された謝罪には、申し訳ないと言う気持ちが伴いにくいわけで、もし伴わないのなら、謝罪してもなんの意味もない。むしろ、理不尽な土下座も少なくないのではないだろうか。
ましてや、土下座させる側から見れば、「頭さえ下げればいいんだろう」などという気持ちで土下座してもらったところで、何の意味があるのだろうか。

男性の場合は、頭を丸めて「坊主にする。」というのも、近いかもしれない。
「坊主にしろ!」と言われて頭を剃るのと、自らの謝罪の気持ちを表す「坊主」との違いだ。
そうだとしたら、仮に屈服させたとしたところで、それこそ倍返しのリスクを背負うだけだ。

私自身は、仕事でミスを犯し、クライアントに土下座がしたこともある。
しかし、それは強制されたわけではない。
申し訳ないという気持ちを表現するときに、芝居がかっているとは思ったが、当時は若くて土下座しか思い浮かばなかったのだ。
だから、土下座で屈辱的な思いなどは全く感じなかったので、ドラマの土下座とは全然様相が違う。
今思えば、あれは土下座をするようなことではなかった。
実際、謝罪した相手は、私のその態度に驚き、許してはくれたものの、振り返ってみると、相手にとってはきっと、あまり気持ちのよいものではなかったと思う。
今考えてみれば、もっといい解決策があっただろうと思う。
そういう知恵がなかったから、土下座するしかなかったのだなと、今、苦い思いで振り返る。

さて、半沢直樹のドラマ終了後、衣料品店で販売員を土下座させた画像がSNSに出回った。
「やられたらやり返す。倍返しだ。」どころか、やられてもいないのに、ネット上で晒し者にするなんて・・・!と、私は画像投稿者に対してかなり驚いたのだ。
が、その後、土下座させた方が強要罪で逮捕される騒ぎへと発展した。
こうなると、それはもう土下座した販売員からの倍返しに他ならない。
やられたからやり返したのだろう。


世の中で話題になったのは、土下座をさせるという行為と、それを生むストレス社会についてである。
たしかにそういうことはあるだろう。
さらに、ドラマ「半沢直樹」が、目上の人に対して土下座をさせたのに対して、衣料品店の例は、立場が下の人に対して強気に出る、土下座だ。世の中で話題になる、企業トップが土下座するのも、結局は顧客を意識した社会に土下座して謝罪するのだから同じことだ。
ドラマでは、相手が目上なだけに、目下の人に大して土下座させる以上の小気味よさのような感覚が、視聴者にはあったかもしれない。

でも、それ以前の大前提として、人の心は変えられない、ということ。
強制、強要などできないということ。
そんな当たり前のことが、いつの間にか忘れ去られていくことが問題ではないかと私は思う。
何でも意のままになる、意のままにできる~そういう傲慢な方向に人々が皆で向かっていることだ。

強制したところで、それはその時だけのこと。何も解決しないし、何の意味もない。
特に心や気持ちなど、本人以外の人が変えることなどできはしないのだ。

しかも、自分よりも弱い者、下の者に対して強気に出ること、気持ちを強制しようという行為は、暴力につながっていくわけで、私にはそれがとても気持ちが悪い。

だから、変えられないからこそ、どうやってわかってもらうか。どうやってわかり合うか。
どうせわからないだろう、どうせ無理だろうではなく、どうやってこちらの主張をわかってもらうか。
政治も、職場の中でも、社会生活の中でも、家庭の中でも、土下座させて主張を通すのではなく、理想論のようだが、心から納得してもらう、理解してもらうためにどうするか。
子どもの頃に読んだイソップ物語の「北風と太陽」のように、あの手この手を考えたい。
知恵をしぼりたい。
土下座の背景を考えることにとどまらず、じゃあどうする?!という方向に目を向けたいものだと思う。

2013年10月16日

ドラマ「半沢直樹」から思うこと 1

ドラマ「半沢直樹」が終わってだいぶ経つが、改めて今思うことを2回にわたって書こうと思う。

あのドラマは、オバケのような視聴率だった。
日曜日に出席したある懇親会では、主催者から「今日は皆さん気になるドラマもあるので、早めに終わりましょう」という発言があって、その話題の高さには驚いたものだ。

私は3回めくらいから見始めた。
テレビドラマの話題などまずしないような人から
「面白いよ。周りで結構話題になってる。」と聞いたのがきっかけだ。
そういうところから、すでに今までのドラマとは違っていた。

回を追うほどに話題がうなぎ登りで、目が離せなくなった。
にもかかわらず、私の中にはなんとも言えない心地悪さも同時に残った。
それでも、見ずにはおれない魅力も併せ持っていたのだ。

私が心地悪かったのは、
毎回登場する「やられたらやり返す。倍返しだ。」のセリフだった。
一方で、見ずにはおれないのは、主人公がどうやってこの苦境を乗り越えるかが見たかったからだと思う。

「やられたらやり返す。倍返しだ。」
そういうことは、ひそかに思うことだと思っていたが、いつから世の中は、こんなに恨みつらみを堂々と表現するようになってしまったのだろう。

生きていればやられることなんて、珍しいことではない。
やり返すことができる人なんて、きっとごくわずかだ。
やり返すだけの環境や能力がなければ、そうできるものじゃない。
たとえ恨みがあっても、それは時間が解決してくれたり、それをバネにして別のところに力を振り向けたりしながら、人は自分のなかで折り合いをつけて、日々生きていると思う。

私は、このドラマの中で感じた、恨みを忘れずしつこく追い回し、復讐することを是とするようなムードが嫌だったのだ。
そして「倍返し」と言っていたセリフは、「10倍返し」へと膨らんで行く。
ドラマの回を重ねていくうちに、やり返すことをカッコいいとする風潮が、世の中に広がってきてはいないだろうか。
復讐を応援するような雰囲気・・・

まあ、ドラマの話であって現実ではないのだが、こういう空気が蔓延していく気配を感じる世の中は、私にはどうも生きづらい気がしてならない。

できれば、忘れられないくらい嫌なことでも乗り越えていける、やられても許せるくらいのタフさを身につけられるような、そういう教育を整備してほしい。
そういう人が増えていくような世の中であってほしい。
本来、そういう人がカッコいいはずだ。
そういう人が賞賛され、認められる社会であってほしいと、私は思うのだ。

そしてもう一つ、このドラマを通じて言いたことがある。
でもそれはまた次回。。。

2013年10月4日

対抗するのではなく、ワクワクしながら共存

ニュース映像制作会社を辞めるに当たって、自分が会社で踊る映像を背景に上司への不満をぶちまけたビデオを作った女性、シフリンさん。
彼女が作った映像の再生回数が1,200万回を超えるほどの人気だ。
でも、私が注目するのは、この会社がそれに対応した作ったビデオ

SNSの時代、誰もが情報発信者で、その情報に興味を持つ人がいれば、その情報はどんどん拡散していく。
それが炎上したり、絶好なPRになったり、イメージダウンになったり、大きなダメージを受けたり・・・。

シフリンさんが作ったビデオでは、会社への不満、上司への不満を発信しているが、会社のいろいろな場所で自分ががむしゃらにダンスを踊る映像を背景にしているので、陰湿性は感じられない。
構成のセンスもいい。
厳しい労働環境で働く者から見れば、同情や共感を呼ぶだろう。

けれども、会社や上司から見れば困りものだ。
この映像を見た人から、とんでもない会社だと思われるかもしれない。今風に言えば、ブラック企業的イメージが定着するかもしれないのだ。
映像制作会社なだけに、いい人材を集められなくなっていく可能性もある。

会社の立場だったらどうするだろう。
シフリンさんを呼びつける会社もあるだろう。
お金を払ってでも、映像を削除するよう要請する会社もあるだろう。

でも、この会社はシフリンさんに対抗するのではなく、シフリンさんに返答するビデオを会社として制作したのだから洒落ている。
ビデオには社員全員が出演し、
デスクでランチを食べるのは、周囲にレストランがないからだよ、
会社には屋上プールやサウナもあるよ、
社員はみんなでシフリンさんのよき将来を願っているよ、
・・・というメッセージに乗せて、それぞれがシフリンさんの映像と同じように会社の中で踊っている。
その出演者が「私たちは、会社に雇用されている従業員だ」というメッセージを送りながら、人材募集ビデオとして完成している。
出演する彼らはとても楽しそうだし、そのダンスがあまり上手でないところも、嘘っぽくなくていい。

シフリンさんはこれで会社を辞め、その映像が話題になったおかげで、新しい仕事のオファーが来た。
今、この会社が制作した映像の再生回数の方は、まだシフリンさんの映像の1/6程度。
これから増えるかもしれないが、すでに新しい人材応募がいくつか来ていると言う。

もし、会社がシフリンさんへの対応を間違えたらどうなっていただろう。

シフリンさんは退職したけど、彼女と会社は、いわゆる、Win-Winの関係にある。
会社が制作した映像再生回数が、シフリンさんよりもどんなに少なかろうと、この会社に対するイメージが上がればいいし、いい人材が確保できればいいのだ。

これは、いかにも今の時代の会社PRの形だ。

対抗するのではなく、共存すること。
それも楽しく、ワクワクするような形で。

企業と従業員だけでなく、自治体と住民、家族関係、プライベートな人間関係等々、あらゆる関係性において、こういう対応ができるようでありたいと思う。