2016年12月21日

ホームページとコラムのお知らせ

私の個人事務所 トラベシアのホームページを作りました。



こちらです。
http://travessia.biz/







これをきっかけに、ブログもお引越し、こちらのコラムにて書くようにしています。

よろしければ、こちらもお読みくださいね。



2016年9月22日

メイクの力〜今日のキレイを明日の希望に〜

男性の方にはあまりピンと来ないかもしれませんが、メイクには大きな力があるそうです。

正直なところ、私自身は顔つきには興味があるけど、メイクにはあまり・・・・。
メイクの方法や化粧品の素材などには、ふだんほとんど興味がありません。

だけど、そんなことを言っているくせに、
プロの方にメイクをしてもらった時にはとても気持ちが上がることは、
自らの体験でよくよく知っています。

そう、人はちょっときれいにしてもらうだけで、気持ちは変わるのですね。

自分を再確認する

8月6日、東京・日本橋にてこんなイベントがありました。


その会場ロビーに展示されていたのが、笑顔の女性たちの写真。




「プラチナメーク&フォトプログラム写真展」とありました。
そのキャッチフレーズが、「今日のキレイを明日の希望に」。



メークはがん患者さんの気持ちを明るくポジティブにする効果があると言われています。

メークで自分をキレイにしてもらい、そういう自分を再確認することが、
きっと自分の中で力を作っていくのですね。

写真としてキレイな記録を残すことは、
本人が自分自身を客観視できるし、
そのキレイな私を繰り返し思い出せます。
それは、家族など周囲にとっても、きっと嬉しいに違いないと思うのです。

この写真展は、今、治療が続いている患者さんへの応援メッセージとして、
日々明るく過ごしてほしいという願いが込められた写真展で、
化粧品会社が協賛していました。


メイクの力

 心の回復、自力支援をしている宗像美由さんは、
アフターDVからの回復自立支援を目指す一般社団法人たんとすまいるの代表。
若かりし頃の辛かった状態から、
自分を取り戻すために前に進んだきっかけはメイクだったそうです。

アフターDVとは、かつてのDV被害経験のために生きづらさを抱えている状態。
DV経験のせいで自分のことを認められなくなり、
たとえそれから時間がたってもずっと自分のことを大事できなくなってしまう状態です。

その回復自立支援として
一般社団法人たんとすまいるが用意しているプログラムの一つにメイクがあります。

辛いことや哀しいことが続いて顔が曇っていく。
そのうち、そういう顔つきへと定着してしまいそうなとき、
きれいにメイクしてもらうことで、自分の顔が曇っていたことに気づく、
いつもより少しきれいになると気づく、
~そういうことで自分のことを少しづつ認めることができるのだそうです。


自分のためにも「いい顔」でいたい

私自身はメイクが上手ではないし、化粧品にもあまり興味はないけれど、
顔や顔つきはとても大事だと思っています。
いつのまにか、生き方までが滲み出てくるのが、顔だ、と。

ずいぶん前に「人は、生きるように逝く」という言葉に私は強く共感し、
それをきっかけに、人の命や生き方についていろいろ考えるようになりました。
今回この写真展を目にしたのは、「キャンサーフォーラム」にやって来たからでした。

素敵な顔でいることは、周りから素敵だと思われるだけでなくて
自分自身の気持ちを上げるためにも、
自分自身のことを前より好きになるためにも、
とても大事なことだと思います。

そして将来、今の生き方が滲み出た顔になるのだと思うと
納得した生き方をせねば、と改めて思います。

今よりもいい顔になるために、いつも普段から

今の私、どんな顔してるだろう?

と、気にしながら、生きていきたいものですね。








2016年9月19日

会社を辞めたら、私どう生きる? そのための「副業」はいけないことですか?

今の時代、40代以降の雇用環境の流れは、
「早期退職制度」と「定年延長」。
だけどこれって、正反対の話!
両方の制度を進めるということは、まるでアクセルとブレーキを同時に踏むようなもの。

一方「私」たちにとっては、
会社に居続ける道と、
早めに卒業して次の道を探すのと、
幸せな道はどちらか?!・・・それを選択するということです。

気をつけなくてはいけないのは、
あくまでも「私」にとってということ。
みんな一緒ではありません。


「私」のこれから・・・

今の会社、いつまで働く?

会社を辞めたら、私、どうする?どう生きる?

会社を辞めてからの私の人生、どれくらいある?

会社を辞めてから、私は仕事する?しない?

仕事するなら、私はどんな仕事する?

~「副業」は、そんなことをちょっとでも考えている人にとって
一つの選択肢かもしれません。
なぜなら、「副業」は
将来やりたいことの準備として、
できるかどうか、私に向くかどうかのステップとして、
将来に向けた修行として、
のカタチだから。

「副業」しても大丈夫か、不安

本業とは別の活動には趣味とかボランティアとかいろいろあるでしょうが、
収入を得ると、「副業」です。

お給料が上がりにくい今の時代、収入になることも魅力、
ですよね。

だけどその「副業」が会社にバレたらどうしよう?!と不安に思う人は
少なくありません。
だって、会社が副業禁止だから。

バレたら、どうなる? クビになるの?

それに、マイナンバー制度の導入でバレるんじゃないかと気にしている人も多いようです。

マイナンバーのせいで、バレるんでしょ?

そんなわけで「副業」することにビクビクしてたり、
「副業」するのを我慢したり、あきらめたりする話をよく聞きます。
「副業」していない人も、これからの考えながらも気持ちにブレーキがかかる人もいるようです。

でもできればやりたいことはあきらめたくないし、人生はまだまだ長い。
いや、むしろこれからです。
だから自分がやりたいこと、追い求めたいこと、面白そうなことは
できれば少しづつ準備したいもんです。

本当のところを、きちんと知ろう

私は、40代の時に会社を卒業しましたが、
会社員の頃には「副業」をしていませんでした。
新しいことを始めたいと考えて卒業したにもかかわらず、
実際には何も準備していませんでsた。
そのため、ずいぶん回り道をすることになりました。
当時は「副業」しながら少しづつ準備する、など思いつかなかったのです。

ではその「副業」を会社にバレないようにするにはどうしたらいいのか?
そして、改めて自分の人生をどうしたいのか考えてみる。
そして、自分で人生をデザインしたい。
「副業」する不安のモトをきちんと知って
「副業」することを選ぶなら、不安なく「副業」したい。
自分の人生のために。

そんな思いをお伝えしたくて、
本当のところをぶっちゃけ教えてもらうセミナーを企画しました。

 【日 時】 10月26日(水) 19:15~21:30

 【会 場】 東京・千代田区神保町

 【参加費】 3,500円(事前振込)

教えてくれるのは、
労務管理とマイナンバーのプロ、岡田裕之先生です。



会社バレしないための秘策は何か。
サラリーマン(サラリーウーマン)がやっていいこと、悪いことは何か。

・・・・岡田先生に教えてもらいます。
聞き洩らしそうなことは、私が本音で突っ込み質問する予定です。


お問い合わせ・お申し込みはこちらから。


そろそろ会社を卒業しようと思う人、

役職定年後に自分で何かやっていきたい人、

副業しながら、いつもドキドキしている人、

これから副業しようかなと思っている人、

副業は考えてもいないけど、将来のことを少しづつ考え始めたい人


お待ちしています。


トラベシアフォーラム
「『マイナンバー社会に副業は危ない!』は本当か?!」
http://www.kokuchpro.com/event/fd5261c21ebf0300ab8f3d777a56ced8/



日々の生活、日々の仕事に追われて、ふだんなかなか考えられないこと、
この機会にご一緒に考えてみませんか。

2016年8月9日

「ザビエルになって愛を語れない」・・・なぜ?!できないと思うのにはわけがある

覚せい剤取締法違反で14年に懲役3年(執行猶予4年)の判決を受けたASKAは、フランシスコ・ザビエルになったから、愛を語れないと嘆いているのだそうです。



これだけ知って、私が思ったのは、
なぜ伝道師になると愛を語れないのかしら?ということでした。
私にとって、ザビエルと言えば「伝道師」なので。
 
だけどASKAが言うザビエルは見た目のことだったのです。

フランシスコ・ザビエルと言えば

フランシスコ・ザビエルと言えば、キリスト教伝道師。
歴史をほとんど知らない私でも、
歴史の教科書にザビエルのイラスト(肖像画?)が出ていたのは知っています。
最近はその肖像画が誤りだという話もあるようで、
今の教科書には載っていないらしいですが、
私たちの世代で、その風貌を知らな人はあまりいないと思います。

ASKAの言うザビエルとは、その風貌だったのです。
つまりは、髪の毛が薄い人、それも頭のてっぺんが薄い人のことでした。

ザビエルはなぜ愛を語れないの?


ASKAの嘆きはさも当然のようで、そこに理由なんてありませんでした。
でも私には、それがどうにも不思議な感じがしました。

誰なら愛を語れて、誰なら愛を語れないのか。
・・・そんなこと、きっと誰も思っちゃいないつもりなんだけど、
ふと自分がそうなると、これじゃダメだと思う。

それはきっと自分では気づかなかったけど、
実は○○だと愛は語れないと思いこんでいた自分が確実にいたから。

ASKAの場合も、きっと無意識にそう思っていたのでしょうね。
だから、自分が覚せい剤か治療の影響で髪の毛が抜けたことで、
そんなことを嘆いたんだと思います。

それより嘆くこと、他にいっぱいあるでしょう?とツッコミたいくらい、
私から見ればどうでもいいようなことだけど、ね。

でもASKAは、自分が髪が薄くなることはあり得なかったのでしょう。

私の○○はなに?あなたの○○は?

「○○だと愛は語れない」はほんの一例ではあるけれど、
でもそんな○○は、きっと人によっていろいろあると思うのです。
それが髪の毛ではなく顔の中身だったり、体型だったり、匂いだったり、声だったり・・・
それは人の好みの場合もあるでしょうが、
もし自分が○○になった時、と思うのは、
自分が大事にしていることの裏返しなのかもしれません。

「私が○○になったら、愛を語れない」と思うことはいったい何だろう?
そんなことをふと考えてしまいました。


2016年8月7日

「女性にとってのロールモデル」・・・必要なのかな?!

「会社を辞めたのはロールモデルがいなかったからかも・・・」
私がそう言ったら、同世代の男性が言いました。

「ロールモデルがいない~それ、女性はよく言うよね?!
そんなにロールモデルって必要なのかなあ?!」

うーん、
たしかに必要ではないのかもしれません。
だけど、私の世代の場合、目指す形であるかどうかは別にしても、
そもそも先輩(女性)が極端に少なかったんです。
なぜなら、私の場合、社内では27歳の時からずっと最年長の女性社員だったので。
それは、その会社を辞めるまで20年以上も続きました。

目指す相手はもちろんのこと、比較対象もいなかったから、
私の前に道はない・・・・

今から考えると、常に「ロールモデルがいない」
不安と不満を抱えていたような気がします。


女性活躍推進の課題はロールモデル


そんな風に思っていたのは私だけかと思ったら、
そんなことはありませんでした。

全産能連の調査によれば、
女性活躍推進に向けての職場の課題は、
「ロールモデルの不在、または不足」がトップ。
漠然と感じていた私の不安は、当時から意外にみんなも感じていたのかもしれません。



http://www.jad.or.jp/knowledge/tabid/225/Default.aspx



男性の場合、もともと先輩がたくさんいるでしょう?
中には自分のロールモデルに近い人がいるかもしれない。

たとえロールモデルなんかいなくても、
複数の人のいいとこ取りで自分の目指す形をイメージできたり、
「ああいう風にはなりたくない」と逆イメージできたり、
することはないでしょうか。

あるものを肯定したり否定したりすることと、
何もないところから考えることとは、
雲泥の差。

女性が「ロールモデルがいない」としばしば言うのは、
たぶんそういうことではないかと思います。

もちろん、何もなくても自ら一生懸命考えられる人、
悩まずに走れる人もいるでしょうが、
誰もがそうはいきません。

私の場合、当時はロールモデルがいないから不安だったということにすら、
気づいていませんでした。
10年以上経って初めて、
私の不安とは、結局はそういうことだったのかと思うに至ったのです。

東洋経済の記事には「ロールモデルは不要、百害あって一利なし
とあったけれど、私は必ずしもそうは思いません。

目指す形をイメージしやすいかどうかは、実はとっても重要なこと。
ロールモデルって、自分が目指す形をイメージするための
お助けになるのはずですから。


これからのロールモデルは?

50歳を目前にして私は会社を辞めましたが、
その後は、流れに身を任せてみたり、自発的に仕掛けてみたり。
会社員の時以上に試行錯誤しているように思います。

では、今の私にロールモデルがあるか?と言うと
あるような、ないような、・・・・

生きていれば先輩諸姉はたくさんいるから、参考にできることも無限大。
年齢を重ねていけば、必ずしもロールモデルは年上とは限らないかもしれない。

その結果、今の私は具体的なモデルは持たないけれど、
多くの先輩諸姉の生き方を見つつ、自分より若い人の生き方も参考に、
自分自身と相談することが多くなりました。

ロールモデルがあることはきっと力になるでしょう。
だけど、ロールモデルがないことは、必ずしも問題ではない。

今の私はそう思っています。



2016年7月29日

欧米から見て、仏壇の遺影に語りかける日本人の姿はヘンな人?!

遺影というのは、日本独特のものだとご存知でしょうか?


海外の場合はポートレート。
生きている時にこそ飾られるもので、
亡くなってから飾る、ということがないから遺影がないのですね。


この遺影との向き合い方は、日本人の死生観と大きく関わっているようです。



ご先祖さま、という概念


私たち日本人には、「ご先祖様」という概念があります。
無意識にも、亡くなった人が見守ってくれる、
亡くなった人に見られている、と思っている節があります。

そういう概念があるから、
故人に力を貸してください」と祈ったり、
故人に対して恥ずかしくないかと自分を戒めたり、
故人に叱られる、故人が褒めてくれる、
と思ったり・・・。

ほら、遺影に向かって話しかける人、あなたの周りにもいませんか。
もしかしたら、あなた自身も無意識に話しかけているかもしれませんね。

甲子園やオリンピックなどでも遺影を抱える姿もよく見かけます。
それは、大事な場面を故人に見せたい、
故人に対して、見ててね、力を貸してね、という
気持ちの表れでしょう。

もちろん人によって、宗教観によって、その違いはあるとは思いますが、
それでも日本人のこのような遺影に接する様子を見て、私たちはあまり違和感を感じないと思います。



この人、ダイジョウブ?


けれども欧米の人から見ると、
仏壇の遺影に語りかける日本人の姿は、ヘンな人にしか見えないようです。
この人、大丈夫かしら?と疑われかねない光景なのだそうです。

文化人類学と
「ターミナルケア(終末期医療)」「みとり」をキーワードとした
医療・福祉の文化的背景が研究テーマの郷堀ヨゼフさんは、
1979年、チェコスロバキア(現チェコ)生まれの
上越教育大非常勤講師で淑徳大(千葉市)准教授。

このたび日本人の死生観などに関する考察をまとめた著書
「生者と死者を結ぶネットワーク〜日本的死生観に基づく生き方に関する考察〜」
が出版されたそうですが、そのニュースによれば、

来日後に見た仏壇の遺影に語りかける日本人の姿を見て、
欧米では精神疾患すら疑われかねない光景に驚き、
これが研究の出発点になった

そうです。



この死んだ人と生きた人とのつながりというのが日本独特のもののようで、
これはその日本人らしい生き方というのに考察を加えた本だそうです。

私たち日本人にとっては普通の死者との会話、故人との対話で、
たしかに私たちは慰められたり、チカラをもらったり、します。

そこで自分が一人ではないことを再確認します。
でもそれは、自分自身と向き合うきっかけを得ることもあり、
実は自分との対話でもあるのです。

大事なことを故人に報告します、よね。
私の父はお墓詣りに行くと、
お墓に向かって大きな声で延々と家族の近況を報告していました。


今の時代、死者との対話の機会は激減


今、都会に暮らす私の家には仏壇がありません。
供養に関わるものもありません。
でも実家にはあるので、ときどき実家に帰ったときに仏壇に手を合わせ、
そこで故人を思う程度。
死者との対話の機会など、ほとんどありません。

郷堀さんは
新潟県糸魚川市能生地域で研究テーマのフィールド調査を実施したそうです。

地域には亡くなった人を含め、脈々と続く人々のさまざまなつながりがあり、
「決して1人ではなく、何かがあれば、手を差し伸べてくれる」関係性があった。
一方で、田舎の煩わしい人間関係を嫌い、都会に出て行った若者が孤立すると、
地域や死者との「縁」が断ち切られるという。

人との「縁」は故人とのつながりだけじゃない、ということです。

私たちは、日本人にとって日常だったはずの脈々と続くさまざまなつながり、縁
というものを、今、忘れつつある

外国人の目が警鐘を鳴らしている、とも言えます。


遺影があれば亡くなった人と対話できる

だけど、遺影だったらどうでしょうか。
仏壇がなくても、供養をしていなくても、
遺影という故人の写真を見るときには、私はふっと故人を思うことができます。
心の中で声をかけることもあります。

それは、実は自分自身に語っていることなのかもしれません。
報告しながらも

がんばれ!
よしよし!

と。

現代人は、この日本独特の「遺影」に対して、
もう少し注目してもよいのではないでしょうか。
人と人とのつながりを大事にする、手を差し伸べる、助けを乞える社会のためにも。

いい遺影を遺そうとすることは、やさしい社会のためにもなるのかもしれません。


2016年7月26日

百歳超えの人と若い人、大事なポイントって結局のところ変わらない

雑誌「百歳万歳」編集に35年たずさわり続け、シニア周りに関わったきたのが40年という植松さんは現在68歳。
偶々縁あって、今春その植松さんのお話を聞く機会がありました。


精神力が80%、自分が決めたことはやる

長年シニア周りに関わってきた植松さん。
もはや取材した相手は数え切れないでしょうが、
その中から超長寿者(100歳以上)の調査をしている慶應義塾大学医学部の広瀬信義先生のお話を紹介してくれました。
それが、
「精神力が80%、ポイントは自分が決めたことはやる」

こんなにも医学が発達し、厳しい病気もどんどん治せるようになりつつある時代であるにもかかわらず、精神力80%と内科の医学博士がおっしゃると言うのです。

なるほど。

結局、大切なのは
精神力を鍛えること、
自立(※)した生き方をすること、
ってことか。

けれども高齢になったからと言って、
さあ!精神力を鍛えよう!とか、
自分で決めたことをやろう!とか思ってみても、
そうそうできることではないでしょうね。

広瀬先生のおっしゃるお話は、
高齢者のみならず、どんな世代であったとしても
結局は同じこと。

シニアの心得とは、すなわち若者の心得でもありました(^^;;
それは人としての心得そのものでもあるわけで、
もはや生き方なんだなあと考えさせられます。


超長寿の10箇条

さて、その植松さんが教えてくれた超長寿の10箇条はこちら。

①新しいことが好き
②依存性が少ない
③几帳面
④外向性、活動的
⑤若い頃に一緒懸命働いている
⑥幸せ感が高い
⑦ストレスをためない
⑧周りとのコミュニケーションが上手
⑨親切 
   ※「憎まれっ子世にはばかる」はうそだった。
⑩ユーモアがある

超長寿を目指すかどうかはともかくとしても、
この10箇条を見ると、
やっぱり高齢者特有のものとは考えにくいことばかり。
年齢固有のことではないのですね。

もちろん人によって性格もいろいろ。
個性はさまざまなので、
こうでなきゃいけない、なんてことはないはずですが、
オトナになったら○○しよう、○○な人になろう、
仕事をリタイアしたら○○しよう、○○な人になろう、
ということは、実は机上の空論なのかもしれません。

今を大事にすること
・・・今できることは今のうちに。

今の蓄積が未来であることは間違いないのですから。



※自立
人に依存することなく自らの意志を持ち、しかも自分以外の人のことを慮る、と言う意味で私は使っています。
必ずしも経済的自立を指しているのではありません。


2016年7月13日

永六輔さん、逝く 「死ぬって言うからおかしくなる、先に行くっていうだけなんだから」

7月7日、七夕さまの日に永六輔さんがこの世を旅立ちました。
最後の仕事は2月.ということですので、結構最近まで仕事をしていたのですね。

有名人の訃報が出ると、それまでの功績がニュースで語られます。
そのおかげで、私にとっては知らなかったその人について初めて知ることが出てきたり、改めて思い出すことがあったり。
さらにそれで自分自身をふり返るきっかけになることもあります。

永六輔さんが作詞家をしていたことは知っていたけれど、その活動は私の世代から見るとひとつ前の時代。
私の時代には、作詞家と言うよりはマルチな才能を持って活躍する人の印象が強く、逆に何屋さんだかよくわからない人でもありました。

報道では、黒柳徹子さん、瀬戸内寂聴さん、加藤登紀子さん、倉本聡さん、落合恵子さん・・・
そうそうたる方々が永六輔さんの死を悼み、コメントを寄せられ、その功績と人望に、改めて気づかされます。

今回の報道で、
永さんが語った「死に方はいき方だ。」という言葉を紹介していました。
それは、永六輔さん著「大往生」で書かれている言葉でした。




大ベストセラーにもなった永六輔さん著「大往生」で語られたのが、
死ぬって言うからおかしくなる、先に行くっていうだけなんだから
ということでした。

永さんがそれを語ったのは、平成6年。
今から20年以上も前のことでした。
当時私はまだ、人生のこと、命のこと、死についてなど
考えたこともありませんでした。
命には限りがあると気づかなかったのだと思います。

それを語った永さんの年齢に、今の私は近づきつつあります。
そのせいか、今の私には「死に方は生き方だ」というのが
しっかり腹落ちする言葉になりました。
他にもそのように語る人は少なくありません。

エンディングノートに注目してきた私自身も、
今いろいろな場で同じようなことを言っています。

人は生きるように逝く、

逝くことは生きることそのものだ、

・・・と。

でも、平成6年当時の私は、そんなことを全く知らなかったのです。
その時にならなければわからない、時期が来ないと理解できない、
というのは、こういうことなのでしょう。

作家の柳美里さんは、訃報を知ったときに
ちょうど飾られていた永六輔さんの言葉を見ていたそうで、
twtterでその写真を公開していました。
その永さんの言葉は、今の私にはさらに心に沁みる言葉でした。


明日死んでもいいように
百まで生きてもいいように
考え考え生きて行こう
行きたいところに行っておこう
会いたい人に会っておこう
食べたいものを食べておこう
百まで生きてもいいように
少しは恋をして見よう
       永六輔の句より

偶然のようですが、
一昨日、私の伯父が亡くなりました。
昨日、友人がこの世を旅立ちました。

明日死んでもいいように、
百まで生きてもいいように・・・

私は今、その思いをさらに強くしています。




2年半続けてきたエンディングノート講座ですが、
今月の開催を最後に、一旦お休みすることを決めました。

そのテーマは、

これからの生き方を考えるワークショップ
「私の人生をふりかえる」~命が終わろうとする時~

-----------------

7月のエンディングノート講座

◇日 時 2016年7月14日(木) 18:30~20:30

◇場 所 麻布十番サロン

◇テーマ これからの生き方を考えるワークショップ
       「私の人生をふりかえる」~命が終わろうとする時~

◇ 宿題(ご参加にあたって考えてきていただくこと)
      自分の人生に大きく影響を与えた人物5人を書きだしてくる。
       よくも悪くも自分の人生に大きく影響を与えた人物
       (生きている人、死んでいる人、偉人、アイドルなんでも可)

-----------------
直前ですが、キャンセルが出たので
体験参加したい方など、あと1受け付けています。


2016年6月20日

白川由美さんの遺影は、20代前半の時の横顔でした

6月14日、女優の白川由美さんが心不全のため亡くなり、
17日に東京都渋谷区の祥雲寺でお通夜が営まれたそうです(享年79歳)。
近親者のみでという報道でしたが、結果的には約500人が参列。
そのシンプルな祭壇には20代前半に撮影したという遺影が飾られたことが
ネット上のニュースに出ていました。


http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/06/18/kiji/K20160618012801950.html

遺影を見る機会が少なくなった

かっての葬儀は大きくて、訃報を知ったらとりあえずお通夜に駆けつける、という
のが当たり前で、だからいろいろな方の遺影に出会う機会がありました。
近親者だけの葬儀は、昔は密葬などと言われて、あまり多くありませんでした。
芸能人や有名人も近親者のみということが少なかったから、
訃報の後の芸能ニュースではだいたい遺影が飾られた祭壇が出てきたものです。
今は、葬儀が簡略化し、家族葬が増えたこともあり、有名人・一般人問わず、
近親者でもない限り遺影を見る機会が少なくなりました。
だから葬儀・終活業界でもない限り、一般の人が遺影について考えることなど、
たぶんほとんどないのではないでしょうか。

遺影について思うこと

私が終活やエンディングノートの世界に入っていったのは、生きざまが滲み出た「顔つき」に興味をもったから。
その「顔つき」の究極が遺影だと考えていたので、その昔、ブログで遺影について思うことを書いていました。

私はカメラマンではないので、自らファインダーを覗いてひとさまの遺影を撮ることはしないけれど、
それでも

なぜ遺影が大事なのか?
どういう遺影が素敵なのか。喜ばれるか。
本人にとって、
遺された家族にとって、
友人知人にとって・・・

そういうことだったら、持論がありました。
たぶん当時、世の中の誰よりもそういう思いを強く持っていた、
という自負があったので、そんなことをぼちぼちとブログに書いていたのです。

そのせいか、一部で「遺影研究家」なんて言われることもあり、
私自身も、その言われ方はまんざらでもない気分。
ちょっと嬉しかった。。。
最近は遺影についての発信をあまりしていませんが、
その興味関心は、今も変わらずアツいものがあります(笑)。

この度の白川由美さんの訃報で私がまず思い出したのは、二谷英明さんの遺影でした。
煙草を燻らし、ちょっと斜めを向いて。
それはそれはカッコいい、クールで品が良く色気もある写真でした。
二谷英明さんは晩年に患った脳卒中の後遺症で車椅子生活で、施設におられたそうですが、その頃、白川由美さんの寝室にはこの写真を大きく引き伸ばして飾ってあったそうです。
二谷英明さんの葬儀で、白川由美さんは
「素敵なパパ。
皆さんには素敵なパパを覚えていてほしい。」
と言って、その写真を遺影に選んだというエピソードがありました。

20代前半の写真を遺影に選んだのは、白川由美さんご本人でしょうか。
それとも喪主を務められたご長女の二谷友里江さんでしょうか。
おしどり夫婦で有名だった二谷英明さんと白川由美さん。
二谷英明さんが旅立たれてわずか4年で、追いかけて逝かれました。

遺影っていつの写真がよいのですか?

ときどき終活や遺影についてお話をする機会があり、
そこでよく聞かれるのが
遺影はいつの写真がいいのですか?
という質問。

いろんな考え方があるでしょうが、
私の答えは
いつだってよろしいと思いますよ
です。

ほんの30〜40年くらい前の遺影は黒枠、白黒の怖い顔で、笑うなど持ってのほか。
普段のスナップ写真が遺影に使われるようになったのは最近のことです。
遺影がない葬儀なんて考えにくいかもしれませんが、一般の人のお葬儀で遺影が飾られるようになってから、まだせいぜい100年経つかどうかのこと。
決まりなどないのです。


今もお元気でご活躍中の鳥越俊太郎さんは、
ご著書のなかで遺影を決めていると書いていますが、その写真は30代のとき。
それは毎日新聞の記者としてテヘランにいらした時の写真です。
おそらくご自身が一番思い出深かった時なのだと思います。

そして今回の白川由美さんは、今から50年以上も前の写真を遺影にしたことになります。
しかも少し横を向いていて、目をきりっとして、自分の胸に当てた手にも力が入っているように見えます。
女優さんらしいなあと思いました。

私たち一般人の場合は、
数十年も前の写真を遺影に使う人はあまり多くないかもしれません。
だけど自分の今までをふり返って、遺影にしたいくらいの時期っていつなんだろう?と
考えてみるのも、悪くありません。

そういう写真を何枚か用意してみませんか。
それはきっと、その時の自分にOKをだしている証しでもあります。
できれば少しづつそういう写真を増やして行けたら、自分の人生が豊かになっていくような気がします。




2016年6月19日

一喜一憂する理由は比較するから。でもどうせ比較するなら

若い頃、手足が細かったはずの私も、年齢と共になかなかそうはいかなくなってきました。
暑い時期にノースリーブを着て出かけた日、若い人と一緒に撮ってもらった写真を見て現実を突きつけられました。
がっくり・・・
二の腕の悩みって、こういうことだったんだ~と納得したのが数年前のことでした。

先日実家に帰り、家族一緒に近所に出掛けた時、私の後ろの方から歩いてきた母が私に言いました。

いいわね~、ノースリーブが着れて。
私なんて二の腕がたるんじゃって、隠さないと外に出られないのよ。

 え〜っ?!(叫ぶ)

母は続けて言いました。

ピッチピチよ~
うらやましいわ~
私なんていつのまにか二の腕がブラ~ンって弛んじゃって、もう絶対腕を出す服を着るなんて無理になるんだから。
 
はあ?!
ピッチピチかぁ?!
10代じゃあるまいし。

母は81歳です。
80歳越えた母に羨ましがられてもね〜(苦笑)


母も私も比較してる
母は私と比較して羨ましい、と言っているのです。
でも私は10代20代の頃の自分と比べてガックリ。
さらに母と比較して、そりゃそうでしょとちょっとホッとしたり、冗談じゃないよと思ったりしているのです。
たしかに81歳に比べればピッチピチなんでしょう。

考えてみれば、私たちはしばしば他の人と比較して、それで一喜一憂しています。
自分は自分、Going my wayができればいいのだけど、無意識につい他の人と比較して自分のダメさ加減にうんざりして苦しくなる。
時には他の人だけでなく、過去の自分とも比較して、私、こんなじゃなかったはずなのにって。
そういうことはしたくないと思いながら、比較している自分に気づいて、内心、しまった!と思うことが私にはしばしばあります。

何と比較してるの?私。
比べるから、
嬉しくなったり、苦しくなったり、気持ちが揺れるのです。
わかっているのだけど、ね…。

人生は生まれてから死ぬまで。
私がエンディングノートに関わるようになり、よく言っていることが、
人生は生まれてから死ぬまで。

過去があって、今があって、未来がある。
今の積み重ねが未来を作る。
今の積み重ねが将来の顔つきにまで表れてくる。

どうせ比べるんだったら、自分と比べる。
「自分と比べる」となるとついつい過去の自分と比べがちですが
比べるなら、将来の自分と比べてみれば
苦しくなったりイヤになったりしないのではないかと思い至りました。
間違っても将来を憂うのではありません(・・;)

将来、それも5年後の私、10年後の私、20年後の私と、今の私を比べてみる。
自分の将来をイメージして、今の自分と比べようとすると、今の自分にガタガタ言ってなどいられないなと自分に苦笑いしてしまうのです。

でもそのためには、将来の私をイメージしてみないと、比べることもできません。
日々に追われていると、なかなか将来をイメージする機会はありません。
私にとってエンディングノートは、将来をイメージするためのきっかけの一つでもあります。
40代50代がエンディングノートを開いてみるのは、そんな意味もあるのではないかと思います。






毎月開催してきた40代50代から人生を考えるためのエンディングノート講座
---------------------------------------------
《7月のエンディングノート講座》
---------------------------------------------

【テーマ】
 これからの生き方を考えるワークショップ
  「私の人生をふりかえる」~命が終わろうとする時~

【日 時】 
 7月14日(木)18:30~20:30

【場 所】
 麻布十番サロン

【宿題★ご参加にあたって考えてきてください】
 自分の人生に大きく影響を与えた人物5人を書きだしてくる。
 よくも悪くも自分の人生に大きく影響を与えた人物
 (生きている人、死んでいる人、偉人、アイドルなんでも可) 
---------------------------------------------

2014年4月からスタートし
毎月開催してきた40代50代から人生を考えるためのエンディングノート講座は

2016年7月が最終回です。

会員制の継続講座ですが、体験参加も受け付けています(初回参加に限る)。 
体験参加費;3,000円(消費税別)お申し込み、お問い合わせはこちらまで。

トラベシアのエンディングノート講座は、
原則毎月第2水曜日開催、会員制・月謝制の継続講座(体験参加も受付中)

入会金 10,000円
月会費  6,000円
☆体験参加は、3,000円  (いずれも消費税は別途)

ご用意いただくもの
・お持ちのエンディングノート
・筆記用具

2016年6月16日

楽しいことだけやっていればいいわけではないことを痛感しました

最近私の世代では、急に運動してカラダを傷め、運動ができなくなったと嘆く人ご増えています。
私もその一人です。
でもそれは、カラダだけの話ではないことに気づかされるのです。

確実に運動不足

会社員を辞めて、自宅を拠点に仕事をするようになったら、著しく運動不足になりました。
元々の怠け者性分も手伝い、万歩計によれば1日当たり18歩!
もはや寝たきり状態です。
まあ、万歩計をつけ忘れていた時間もあるけど。
まず毎日の通勤がなくなるから歩かなくなるのです。
駅の階段の昇り降りも激減しました。
満員電車じゃないから、意外にゆっくり座れることも多くなります。

筋トレを、やらねばならぬ!しなくては!

そんなことから、近所の筋トレ施設に通うようになりました。
そこは比較的高齢者が多く来ているところで、皆さん驚くほど元気でした。
マシン30分、ストレッチ5分。 
コーチが回って指導したり、励ましたり。
毎回同じことを黙々とやってさっさと帰る。
今思えば、たぶんその時の私は少しずつ筋肉が増えていたのだと思います。

だけど、私にとってはその筋トレがどうにもつまらない。
人によっては、ストイックなまでに筋肉を鍛えることに熱心な人もいるようですが、私はあまり関心が持てませんでした。

つまらない、つまらない、つまらない。
もっと楽しくやりたい。

本当はダンスが好きで以前は少しやっていたのですが、
忙しくなって全くやらなくなってしまいました。
マメに通っていればそれなりに多少踊れるようになって楽しいのだけど、
忙しくなるとなかなか行けなくなってしまう。
そうすると踊れなくなり、楽しくなくなってしまう。
ーーいつのまにか行かなくなってしまいました。

加えて、走る・踊るなど有酸素運動だけでは筋肉が作りずらいことも知りました。

きちんとパーソナルトレーナーをつけて、私の志向に合うプログラムで、しかもカラダに合うものを、という選択もあるでしょう。
でもそうなれば、きっと1回当たり1時間ではすまない、
2〜3時間をかけ、それを週に2〜3回継続するなんてことはそうそうできることではないから仕方がない、
と自らを納得させ、「やらねばならぬ」の思いで、週に2〜3回、2年近く通ってはいたのです。

すると、近隣に全く違ったタイプのスポーツ施設ができました。



楽しそうだから、つまらないことはやめちゃおう!

ヨガ、ピラティス、太極拳、ズンバ、トランポリン・・・
全て音楽に合わせたグループレッスンで、1回45分。
しかも毎月プログラムが変わります。

楽しそうかも。
多少筋トレにも効果あるかも。

迷った挙句、私は今までの筋トレ施設のメンバーをさっさと退会し、
新しい施設のメンバーに入会し、通い始めました。

インストラクターのグループレッスン。
プログラムもバリエーションがあるから初めてやることも多く、
できずにアタフタしながらも、始めたのでした。
スローやアップテンポの音楽に合わせて。

楽しいかも(^^) 
たっぷり汗をかき、満足度が上がった感じ。
でもあまり筋トレになってる気がしない。
もっとハードにやればいいのかな。

いつも以上にハードにやった翌日、
私は膝の痛みで歩けなくなってしまったのです。


つまらなかったことを続ける価値もそれなりにはある

お医者さんの診断によれば、膝の痛みの原因は鵞足(がそく)の炎症。
持ってる筋肉以上の負担をかけて、その周りを傷めてしまった、ということでした。

残念ながら長年の運動不足は、思っていた以上に私を老化させ体力筋力が落ちていて、運動を楽しむには、やや負荷が強かったということです。

楽しいことをやりたい。
好きなことを。
そう思った結果でした。
それが間違いとは思わないけれど、「いきなり」はダメだったということ。

基礎練習、基礎体力。
上手な人は、基礎体力が違う。
それはコツコツと地味な努力の賜物です。

「ポッと出」がいきなりガンガンできるわけではなくて、
ガンガンできる人、上手な人は努力してたり、継続してたりするわけです。

運動に限らず、いろいろと思い当たる節があります。

便利な世の中になり、情報はたくさん転がっている。
だからあまり勉強しなくても、上っ面だけの切り貼りの知識で、
尤もらしい「わけ知り顔」をすることだってできてしまう。

私の膝の痛みは、そんなことまで気づかせてくれる出来事になりました。

ここまで書いて記事公開後にイチローが記録更新!


イチロー語録が次々とニュースで出てきて、
ますます地道な努力の積み重ねの重要さをタイミングよく知らされている今・・・です。

2016年6月8日

子どもも、高齢者も、行きたい所に行かれないのはいろんな格差につながって い くと思う。


宮城県の部活では試合に行くのも大変。

東日本大震災依頼、鉄道が通らなくなったことで、公共交通機関では試合会場まで行けず、部活の顧問の先生の車で行かざるを得ない、という現実があるそうです。

入学時に保護者から
「お子さんを先生の車に乗せることがありますけどいいですか」
という同意書を取っている学校もあるとか。
教員の車による生徒の送迎なしには、学校運営そのものが成り立たない実態がそこにあります。

行きたくても「足」が確保できなければ行けない。
以前、同意を取ることに注目してこの件を書いたけれど
http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html

この件でもう一つ注目したいのは足の確保の問題。

部活の中学生・高校生の中には、試合や大会に参加するためにどうやって足を確保しようかと悩まざるを得ない鳩たちがいるということ。
足が確保できなければ諦めざるを得ないのです。
たぶんそれは震災に関係した地域だけではなく、過疎の進む地域共通の悩みでしょう。

マイカーが増えて電車やバスの利用客が減る。
電車もバスも、民間が運営する以上は、
乗る人がいなくなれば存続できないのは当たり前。
だから廃線、廃止になってしまうのだけど、
でも暮らしている人にとっては、それは行きたい所に移動する自由を奪われていることでもあります。

誰もがマイカーを運転できるわけではない。
上記の例のように、部活の中学生・高校生といった運転免許がとれない子どもたちだけではありません。
大人でも諸事情で運転免許を持てない人もいるでしょう。
免許証を自ら返納した高齢者だってそうです。

そのせいで、病院に行けない。
買い物にも行けない。
友達のところに行けない。
役場に行けない。
やりたいことを諦めることが多くなる。
結果、孤立したり家にこもりがちになったりすることも。

いろいろな機会を奪ってしまうのです。
だから家族の送り迎えが必要?
だから学校の先生が車を出す?
それって、やっぱりおかしいと思います。
そうやって周りに負担をかけなければ、自分が行動できない環境というのは、基本的人権を奪われてる。
周りに無理を強いたり、遠慮してガマンしたりすることは、格差を生んでしまいます。
そして、その差はどんどん広がっていってしまいます。

地域や社会のしがらみいっぱいの中、何でもルールがあって周りについていけばよかったかつての時代と違い、今は、たくさんある選択肢から何を選ぶか、「自分」はどういう生き方・暮らし方を望むかを自分で考え、選択できる時代。
それは、個々の自立を促す時代でもあります。
だからこそ、せめて移動のためのインフラは確保しておかないと。
奪ってはならないと思うのです。

高齢者に至っては、インフラが確保できなければ自立を奪い、心身が弱っていくのを加速させていくのではないかと思います。


2016年6月4日

同意しないと何もできないから、どんなに同意したくなくても「同意します」

宮城県の部活では試合に行くのも大変。
東日本大震災依頼、鉄道が通らなくなったことで、公共交通機関では試合会場まで行けず、部活の顧問の先生の車で行かざるを得ない、という現実があるそうです。

入学時に保護者から「お子さんを先生の車に乗せることがありますけどいいですか」という同意書を取っている学校もある。教員の車による生徒の送迎なしには、学校運営そのものが成り立たない実態がそこにある。

部活動の送迎 違反に悩む教諭(2016年5月26日(木)掲載) - Yahoo!ニュース
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6202245


リスクの可能性もあるから同意

いつのまにか、何でもかんでも同意書ですね。
少なくとも、今から20年くらい前にはこんなに同意を取ることなどなかったように思います。



エンディングノートに携わっている立場から見ると、
同意書と言ってまず頭に浮かぶのは医療現場です。

インフォームドコンセント、インフォームドチョイス・・・
「きちんと説明を受けた」ということに間違いありません、とサインして
次に[治療を選択」し、万一のことがあるかもしれないけど責任は問わないことに同意する。

医学の進歩によって、医療は選択する時代へと移ってきています。
その分リスクも高まるわけで、どのたびに「同意」が求められるのです。

本当はイヤだと思っていても、同意しないと前に進めません。

「同意します」は、「仕方ないね」とほぼ同義語です。

前に進め、と言う意味の同意

ネットの世界はもっとひどいかもしれません。
なんだかよくわからないことがだ~っと書いてあって、
最後に「同意します」にチェック。

読んでもよくわからないし、とりあえず「同意」「同意」…
実際、ちゃんと読んで同意している人ってどれくらいいるのでしょう?!
だけど同意しなかったら、前に進まないから、
同意せざるを得ません。

「同意します」は、もはや「ススメ!」と同義語です。



アンケートに答える時も、
お店のお客様会員になる時も、「同意」を求められます。

今の時代、いちいち「同意」。
だけど、本当の意味で同意してなんかいません。
面倒くさいから「同意」。
前に進めないから「同意」
やむなく「同意」にチェックしているだけで、気持ちとして同意などしてはいないのです。

これ以上、実際は同意していないのに「同意」が増えていく世の中になると、
なんだか嘘ばかりな感じがして、私はどうもざわざわしてしまうのです。



2016年5月28日

家族だから難しい・・・家族はつらいよ

高齢になった父が話す話題と言えば、

○○の調子が悪い、
どこの医者が○○と言った、
・・・・

それも毎回同じような話ばかり。
娘の私としては、正直なところ心の中では「またか」。
親身になって聞くこと、共感することが何よりも大事なことは百も承知だけど、
頭ではわかっていてもなかなか難しいのが現実です。

忙しいなか、来てるのに。
他の話題はないのかしら。
年をとればあちこちガタが来るんだから。
もう少しおもしろい話はないのかしら。
等々。

これが家族じゃなければ、そんな風にはあまり思わないだろうに、家族だとそう思ってしまうのです。

前はこんな話ばかりじゃなかったのに。
しっかりしてよ。

内心そう思うのですが、
それでもまた親が喜びそうな情報を一生懸命集めてきたり、
話してみたり。

私にとって大きな存在だったはずの親が小さくなってきました。
理屈では理解しているのですが、私の中ではかつての親との関係性の記憶が残っていて、今でも親に褒めてもらいたい〜みたいな厄介な気持ちも少し残っているのです。
だから親のために一生懸命やってやってやって、それなのに思うような反応が得られないと、勝手に不満に感じたり、自分がバカみたいに思えたり、親に文句を言ってみたり。

家族だから期待があるし、甘えもある。
だいたい親に良かれと思って言ったりやったりするのですが、
肝心の親は別にそんなことは望んでなどいない。
おそらく親の方も、娘なんだからこれくらいはわかってほしい、聞いてほしい、愚痴らせてくれ、という気持ちで話しているに違いないのです。
甘えがあるし、遠慮がない(偏ってる?)から、文句を言ってるうちに言わなくてもいいことまで口にしたり、喧嘩になってしまったりまでしてしまうこともあります。

私は、今までコミュニケーションやカウンセリングを勉強してきました。
その私自身が、家族のこととなるとなかなか学んできたことを生かしきれないのは実に残念な限りです。
でも、これが家族というもの。
近い関係性の難しさを感じます。

日常のことになると日々の繰り返し。
不満や愚痴は蓄積していくから、ブレーキが利かなくなっていくことも想像に難くありません。

だから介護というのは、地域やプロの力を借りるのがよいのですね。

家族のことは家族だけ、という形にすることで、澱んでドロドロしたものが見えないまま溜まっていって、勝手に増殖していくような気がします。
友だちやお節介なご近所さんや役所やプロなどなど、他の手を借りることは、そういう増殖へのブレーキに。
だって他の人の目があれば、そうそう喧嘩もできませんから。
不満やストレスの受け皿だけではありません。

とは言うものの、現実はなかなか厳しく、外の方のお世話になろうとすると父は強硬に拒否し続けています。
でもどんなに嫌がったとしても、その価値や意味を私が理解した上で、父の賛同を得る努力を続けることは、私たち家族にとって、そして父本人にとってもいいことに違いないのです。

2016年5月18日

トラベシアのエンディングノート講座

トラベシアのエンディングノート講座は、自分らしく生きることを考える講座。
それもエンディングノートを使って。

これから私はどうなっていくんだろう。
どうしたいんだろう。
老親が弱ってきて、家族のことをどう考えていこうか。

そんなことを、エンディングノートを使って考えていきます。
ちなみに、なぜエンディングノート講座を続けているのか、どういう気持ちで始めたのかについてはこちら




---------------------------------------------


《7月のエンディングノート講座》

---------------------------------------------

【テーマ】
 これからの生き方を考えるワークショップ
  「私の人生をふりかえる」~命が終わろうとする時~

【日 時】 
 7月14日(木)18:30~20:30

【場 所】
 麻布十番サロン

【宿題★ご参加にあたって考えてきてください】
 自分の人生に大きく影響を与えた人物5人を書きだしてくる。
 よくも悪くも自分の人生に大きく影響を与えた人物
 (生きている人、死んでいる人、偉人、アイドルなんでも可) 
---------------------------------------------
会員制の継続講座ですが、体験参加も受け付けています(初回参加に限る)。 
体験参加費;3,000円(消費税別)お申し込み、お問い合わせはこちらまで。

トラベシアのエンディングノート講座は、
原則毎月第2水曜日開催、会員制・月謝制の継続講座ですが、
体験参加も受付中です。

入会金 10,000円
月会費  6,000円
☆体験参加は、3,000円  (いずれも消費税は別途)

ご用意いただくもの
・お持ちのエンディングノート
・筆記用具

詳細お問い合わせや参加希望の方はこちら



トラベシアのエンディングノート講座の詳細はこちら

動画で講座の雰囲気をご紹介しています。→こちら

---------------------------------------------
 


以下は、終了しました。
---------------------------------------------


6月8日(水)18:30~20:30
 ライフプラン崩壊は突然に ~脳卒中経験者から直接聞く話から学ぶ~
 ※参加者が記事を書いてくれました。

5月18日(水)18:30~20:30
 生きがいとは何か?~アクティブシニアからの提案~

4月14日(木)18:30~20:30
 家族が生き切るのを見届ける ~「家で死にたい」と言われたら~

3月10日(木)18:30~20:30
 生まれるということ。死ぬということ。~科学的側面から見つめる~

2月9日(火)18:30~20:30
人の最後の最期 ~最後に守りたい尊厳とは何か~

1月13日(水)18:30~20:30
 家族信託~今だけでなく、これからもずっと円満家族でいるための契約になるか?!~

12月9日(水)18:30~20:30
 老後貧乏は避けられる~将来のお金について考える

11月12日(木)18:30~20:30
 心を整えるお墓磨き ~お墓参りから見える新しい自分~ 

10月14日(水)18:30~20:30
 私のルーツ、家族との関係 ~家系図を知ることで見えてくること~
 こちらで報告しています。

10月5日(月)18:30~20:30 ※台風により9月開催予定が延期。
  もしも今・・・?!
  命にかかわる医療について、もう一度考えてみる
  こちらが報告記事です。 



2016年5月6日

「ストック」から「フロー」へ …50代だからこそ、そうありたい

新入生、新入社員ので初々しい姿をしばしば目にしていた4月も終わり、
5月に入りました。

気持ちの良い風、きれいな緑・・・
暑くもなく寒くもなく、私にとっては大好きな季節です。

だけど、この季節は5月病が忍び寄る季節でもあるのですね。


5月病の季節

夢を抱いてスタートしたはずなのに。
頑張る気持ち満々のはずだったのに。

なんとなくやる気が出ない。
自分が何の役にも立たないことがやるせなくなる。
こんなはずじゃなかった。
もう辞めちゃいたい。

そんなところでしょうか。
5月病というのは。

先日ラジオを聞いていたら、
京都大学の地質学の先生のお話が流れていました。

そこで話していた言葉に驚きました。

5月病、ようこそ
スランプ、ようこそ!

えええ??

5月病はお疲れサイン

5月病というわけではありませんが、
私もしばしばスランプに落ちていきます。

そもそもスランプというのでは、
元々高いレベルにあるけどそのパフォーマンスを発揮できないことを言うから、
元々高いレベルにない人にはスランプなんてない!
などと言う考えもあるようですが、まあ、この際それは棚に上げて、
気持ちの問題と捉えれば、スランプは誰にも訪れること。

なんとなくやる気が出ない。
自分が何の役にも立たないことがやるせなくなる。
こんなはずじゃなかった。
もう辞めちゃいたい。

そんな気持ちになるのは珍しいことではありません。
しかも、そうなるとなかなかそこから抜け出すことができません。
できることなら、そんな気持ちにはなりたくない。

その先生によれば、
5月病やスランプになるというのは、疲れがたまってきたから。
5月病になったのは、「休みましょう!」のサインだ、と。

休めばいずれやりたくなる。元気になる。
人には必ずそういう力が備わっているから、ということでした。

本当かなあ。

ストックからフローへ。

現代人は、勉強し過ぎ、働き過ぎ。
どんどんため込み過ぎるからイッパイイッパイ。
だけど休めば勉強したくなる、働きたくなる。

先生のお話によれば、器がイッパイイッパイになっていると言うのです。
ため込むばかりでなくて、それをどう使うか、活用するかが大事だ、と。

例えば、勉強しようと思って本を買い込む。
なかなか読めないから積読(ツンドク※積んだまま、読まない状態)。
新たな知識が仕入れたくて別の本を買おうとしても、
そう言えば家に積んである本がある…
仮に買ったとしても、積んである本が先かなと思って、
結局新しい本が後回しになり、どちらに読まなくなってしまったり…、
なんて、もったいないことも。

ためているから入らない。
ためたものは活用する。アウトプットする。
そうするとスペースができて、また新たな知識が入っていく。
せっかく得た知識は活用しないと。
流していきましょう、と。

「ストック」ではなくて「フロー」なのだそうです。

インプットしたら、アウトプットして、アウトプットして・・・
そうすると空っぽになるから、また新たに仕入れる。仕入れたくなる。
そうすると循環する。
元々持っていた智恵と合わさって、大きな力になったり、
アウトプットすることで新しい力になったり・・・

これは、私にとって大変なるほど!なことでした。

流れている水はきれいだけど、
たまっている水はだんだん澱んでいくのと一緒ですね。

断捨離流行りの世の中で、なかなかモノを捨てられない私は、
断捨離の考え方はなかなか馴染みにくかったのですが、
捨てるんじゃなくて流していく。活かしていく。
今まで貯めたものを循環させていく。
・・・そう考えると合点がいきます。
そういうことか、と改めて思うわけです。

最近は皆さん本当によく勉強してらっしゃいます。
私も、かつては勉強するのが大嫌いだったのに、
意外に頑張って勉強しています(のつもり)。

それはもちろん素晴らしいことではあるはずなのですが、
いくら頑張って学んでも、
せっかく今まで頑張ってきても、
ため込んだものを活かさなければ、使わなければ、そのうち古びていくというもの。
どんどん流していきましょう、循環させていきましょう、ということなのですね。

学校や講座などに行かなくたって、
長く生きていればそれだけでいろいろ学んできたことが多いはずです。
たしかに私の世代は、とかくため込みがち。
5月病なんてもう忘れてしまったような世代であればあるほど、
肝に命じたいところです。

循環させて、
スペースが空いたところに新しいことを入れて行くことは、
人生経験が豊富であればあるほど、
自分の中で化学反応を起こせるのですから。

そのラジオとは、4/17(日)朝9時ころのFM大阪。
話を聞かせてくれたのは、京大の鎌田浩毅教授でした。

ちなみに鎌田先生は地質学者だそうで、
なんと!去年の秋には予言するかのような本↓


を出していた先生ですが、地質学者っぽくない本もたくさん書いています。


「想定外」を生きる 一生モノの超・自己啓発

京大・鎌田流 知的生産な生き方

京大・鎌田流 一生モノの人脈術 

座右の古典 ―賢者の言葉に人生が変わる

恥ずかしながら、読んだことがありませんでした。
参考にさせてもらおうと思います。



================

100人いれば100通りの人生がある。
生きるってなんだろう?
生き方とは? 命の終わりとは?
2014年4月から毎月1回、そんなことをご一緒に考える講座を開催しています。

エンディングノートを使って、これからの生き方を考える
================
トラベシアのエンディングノート講座 毎月若干名の体験参加受付中。




5月の開催(第26回)

 5月18日(水)18:30~20:30 麹町にて。

【 テーマ 】

 生きがいとは何か ~アクティブ・シニアからの提案 ~



6月の開催(第27回)

 6月8日(水)18:30~20:30 麻布十番にて。

【 テーマ 】

 ライフプラン崩壊は突然に ~脳卒中経験者から直接聞く話から学ぶ~(仮題)



=======

詳細はこちら
参加ご希望の方はこちらまで。
メールは info@travesia.biz まで。

「私がエンディングノートを使って講座をしているわけ」はこちら