2015年5月30日

50歳以上のあなた、ファッションに興味ありますか?

Q)ファッションに興味ありますか?

テレビで見た街頭インタビューの一コマ。
対象は50代以上の男性だ。

60代男性〉
昔はね。でも今はもう・・・
40年くらい前はバキーパンタロンとか、マンボとか・・・。
あ!スカジャンとかもね。気張ってたよね〜(苦笑)

<50代男性>
どうせこのカラダだから何着たって似合わないでしょう?

<70代男性>
ええ? そんなのもう・・・
何着たらいいかわからないからテキトーだよ、テキトー。

オジサンだけじゃない。

着たい服を探しに行っても、体型が変わって自分のサイズに合う服がない。
買物に行くこと自体がつまらなくなる。
スーパーで売ってる服しか、体に合わなくなってしまい、オシャレする気になれない。

テレビの街頭インタビューに限らず、私の周囲の同世代女性からも、しばしばそう言う声を聞く。
私自身も例外じゃない。


だけどそういう声が多かったなか、テレビの街頭インタビューでひときわ目立っていたオシャレな男性は次のように答えていた。

そりゃ気にしますよ。
年とってくるとたるんでくるから隠したり工夫したりね・・・
大事な関心事だね。

この方、81歳だったが、とてもそんな年には見えなかった。


加齢で多少残念なことはあるけど、
本当はみんなオシャレしたいのに諦めちゃってるだけ。
実はオシャレさんなのに・・・・
内心興味あるのに、興味ないと自分に言い訳してるだけ・・・。

81歳の男性が教えてくれた。
素直にオシャレに関心があると言えるから、この人、オシャレなんだ。

本当は興味があるのに、興味がないと思いこんだり諦めちゃうのはもったいない。
それはファッションだけじゃない。
いろんなことに対して、自分に言い訳するのがどんどん上手になっているような気がする。


だけど、自分自身も、年齢を重ねていく中で言い訳しながら開き直っていくような、
ある種残念な気持ちを突きつけられるような感覚を抱いた。


どこか、そんなものかと思い込んでる。
81歳のオシャレさんのコメントに、つい私が驚いてしまうなんてことも、我ながら大問題!
本人だけでなく周りに、「オシャレは若い人のもの」という思い込みがあるのも
かなり残念な話だ。
そんなもんだと思い込んでいるから、オシャレができない。
オシャレなものが見つけにくいのだ。

それにしても、アパレルメーカーさんは大きな機会ロスをしている。
内心ンオシャレしたい気持ちをもっと知ってほしいし、
カラダに会う服を用意してほしいし、オシャレしたくなる服をもっとわかりやすく見つかるようにしてくれればいいのにね。

2015年5月26日

出世すると残りの人生が大変・・・偉くならない方がいい理由

今の若い人は、仕事とプライベートをきっちり分け、
職場での飲み会にも昔に比べてあまり行かないと聞く。
ということは、会社の中で「出世」することなんかに対して、
興味がないのかもしれない。

当時から「出世したい」などと声高らかに言う人はあまりいなかったけれど、
それでもみんな密かに出世を望んでいる空気はあったように思う。
やっぱりサラリーマンは偉くなってナンボなんじゃないかなあと、
私も漠然と思っていたように思う。

でも、出世の結果が明らかに見える年齢になった今、
周りを見渡してふと思うことがある。

なんでみんな出世したかったんだろう? 
どうして偉くなりたかったんだろう?
偉くなった人は、それでよかったと、心から満足しているのだろうか。


偉くならなかった方が、ずっと楽しく働けるって!

今、趣味やコミュニティ活動などを活発にやるだけでなく、
ても楽しそうに仕事をしているT.Oさん。今、65歳だ。

偉い人は、使う方も使いにくいでしょ?
使う方は気楽に使いたいじゃない?
働く方は、定年後なら小さい会社でもいい、
好きなことをさせてさえもらえれば働くだけで楽しい。
1人社長より上場会社の部長クラスの方よっぽど優秀なことも多いのに、
なまじ偉くなったせいでリタイアして他で働けなくなってくすぶっているのは残念だよね〜

そういうT.Oさんはも、昔は偉くなりたかったのだそうだ。
現役のときは休日出勤たり、残業したりして人並み以上に頑張って来られたそうだ。
でも、もしももう少し出世して子会社の社長にまでなっていたら・・・・
今のようには働けなかっただろうと笑う。
もしそうなっていれば、きっと残りの人生が大変だろう、と。

今、考えてみると、会社は人使いが上手いな!

T.Oさんは苦笑する。
上に行けば行くほど権限はある、給料は上がる、待遇か良くなる。
例えば新幹線はグリーン、飛行機はファーストクラス、送迎の車・・・
こうやって見せつけられるから、当然のようにみんな上を目指す。
会社は管理職と言うニンジンをぶら下げて働かせる仕組み・・・

T.Oさんの場合、一部上場会社の部長まで昇ったけれど、
子会社へ出向したことで考えが変わったそうだ。
その出向先で若い上司に仕える業を修得し、
結果的に長く雇ってもらえるようになったのだ。
おかげで今、仕事で全国~世界を飛び回り、
仕事をしながら、合わせて趣味を楽しみ倒している。

休日出勤し、残業し、出世することを目標に、
モーレツ社員と言われながら会社のために頑張ってきた人の中には
今、家の中にひきこもりになり、毎日やることがないという人が多いと言う。

それはオジサンだけだと思ったら大間違いだ。
あと10年もすれば、キャリアウーマンともてはやされ、
働き続けて定年を卒業した女性たちもどんどん放出される。他人事じゃない。

私自身も、会社員だった頃には
「いざとなれば、ファーストフード店でスマイル0円って言って働くもん!」
などと言っていたけれど、会社員でなくなった今、本当にそれができるかどうかは
甚だ疑問である。
長年の経験、というプライドにしがみついているかもしれない。
そうなれば使う方も、オジサン化した私を使いにくいはずだ。

誰もがT.Oさんのようになれるわけじゃないけれど、
楽しく長く働き続けるためには、偉くならないほうがよさそうだ(笑)。
T.Oさんの実感ある言葉の意味が、私は今、少しわかるような年齢になってきた。


 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
   体験参加受付中 

2015年5月21日

離れて暮らす年老いた親・・・それは「突然の出来事」だ。

実家を離れて東京で仕事してかなりの時間が経つ。
今まで自分のことだけ考え、好きなようにやってきたけど、
いつのまにか親が随分老いてきた。。。。

私が生き方やエンディングノートに関わるようになって、こういう話を聞く機会が増えてきた。

高齢化社会についての報道が多いから、
親のことは頭の片隅にはあるけれど、まだまだ、もう少し・・・、
いずれは向き合わねば、等々思いながら、
まだ問題にはなっていないから、そこまで真剣には考えていない。

高齢の親がだんだん弱ってくる・・・・。
離れているから心配だけど、まだまだ元気だし、自分も忙しいし、
自分の生活、リズムもあるし・・・

そんな時にある日突然、親の健康状態で事態が動くと、
どうしたらいいかわからなくなるのだ。



何から考えたらいいかわからない。
自分が仕事を辞めなくてはならないだろうか。
自分の今の生活はどうなるのだろうか。

いろんな不安が渦巻いているのがわかる。

特にご自身は都会で仕事をし、老親が離れた郷里で暮らしている場合、
シングルの人は自分がやらねば、という思いを抱える人も多く、
切羽詰まったように見える。

何もできずにいる人たちから直接声をかけられたり、
そういう人を見かねて、知り合いが私に声をかけてきたりする。

どこの家にも、出てきそうな話だ。
私自身も、似たような状況が過去もあったし、今も進行中だ。

これが経験者だったら、ある程度知識もあるし、それをもとにどこから手をつけたらいいかを考えていく。
だけど未経験者だと、どんな支援体制があるのか、どこに聞けば分かるのか、を知らず、問題の本質がどこにあるかもわからないままに、自分自身の将来不安と重なって呆然となってしまうように見受けられる。

私の場合は、似たような経験をしている人をあちこち探してそれぞれに話を聞きながら、一つ一つ新しい知識を仕入れた。
それを自分の問題に照らし合わせながら、解決策を探っていった。
今も進行中だ。

周りを見回すと、経験者と未経験者とでは、事態が起きたときの心構えや対応が全然違うのがよくわかる。
また、情報や知識がある人とない人とでは、対応力や落ち着き度合が全然違う。

老親も、どんな病気なのか、どういう介護が必要なのか等、
状況はいろいろだろうが、ネットではいろいろな情報が溢れていて、
自分にフィットする情報にはなかなか辿り着けないことが多い。

しかも未経験者で知識がない人の場合には、まず気持ちがイッパイイッパイ。
「どうしよう、どうしよう、」が心から溢れているから、
益々、当事者にとって本当に必要な情報、適切な情報に辿り着けないのである。

本来、こういう状況はじわじわとやってくることが多いのだが、
今の時代は、家族(老親)と一緒に暮らしている人が少ないから、
子どもから見ると、「突然の出来事」になりがちだ。

心の準備がない。
情報や知識がない。
しかも最近の親がどんなふうに暮らしているのか、どんなふうに考えているのか、を想像以上に知らないのである。
だから大変なのだ。

お医者さんにはどこにどれくらいの頻度で行っているのか?
朝、何を食べているのか。
誰と仲がよいのか、誰とどこに出かけるのか。
何をしている時間が楽しいのか。
苦痛なのはどういうことなのか。
等々・・・

当たり前にに知り得た情報が、一緒に暮らしていないとわからない。
昔、元気だった頃の記憶やイメージしかない。
意外に変化しているものだけど、今でもそうだと思い込みがちだ。

行政の支援体制、民間の支援体制の情報を知ることは大前提ではあるけれど、
それに加えて、暮らしぶりを知っていると、「突然の出来事」への対応力がさらに上がるように思う。

そういうことまで整理する上で、エンディングノートは便利である。
とは言え、エンディングノートを持っている人でも、
実際に書いている人はわずか2%と言われる。

親に書いてもらうのではなく、一緒に書く。
あるいは、子どもの方がエンディングノートを参考にしながら、親に話を聞く。
~そんな風にエンディングノートを使えるとよいと思う。



 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
   体験参加受付中

 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
   マンダラエンディングノート開発者をお招きしたワークショップ
   終了しました。

2015年5月20日

年齢のことを気にしてる人、自分のことをもう歳だと思っているあなたへ

女性、36歳、
わたしは女にとってなかなか難しい年頃なのですが、
これから先、素敵な歳の重ね方をして
楽しくきれいに生きていきたいと思っています。

村上さんのところ」より

なんじゃ~?!
36歳でなかなか難しい年頃だって?!

これは、村上春樹さんが読者からの質問を受け付け、
それに回答するというサイトで見つけた質問である。
※新潮社(の人)の運営サイトで、5月13日に質問内容公開終了済み。


若者が何を言ってるんだよ~?と言いたくなるけど、
こういう記事に私が反応するのも、
私自身が「年齢なんか気にしない。」と言いながら、結構気にしている証しなんだろう。

ふと考えてみると、私も36歳の頃は、当時の自分の年を
微妙な年頃だと思っていたような気がする・・・・

でも50代になった今、私は50代を微妙な年頃だと思う。

きっと80歳になれば80歳を微妙な年頃だと思うんだろう。
そう、いつだって微妙なお年頃。
後から思えば、なんじゃ~!って感じであったとしても。

だから、
いつだって今が大事なの!

いつだって「」は、「取り返しがつかない」時間。

そういうこと、日々の忙しさにまみれていたり、
なんとなくふわって生きていると、すぐに忘れちゃうんですよね。

人生とは、生まれてから死ぬまでの時間。
その間に「今」があるわけだけど、
「今」が積み重なっていくのが人生とも言えるわけです。

可愛い盛りの子どもを見て
「今だけよね~、こういうのって・・・」と言う言葉、
よく聞かれるけれど、いやいや、子どもだけじゃないよ。

子どもだって大人だって、
30代だって、50代だって、80代だって、「今」は「今だけ」。

そんな風に思うと、何やってるのよ、私!って思う。
自分に喝を入れられる。
人生を考えることは、「今」を大事にできるのだ。

だから微妙なお年頃なんて、今の年齢を気にしても仕方がない。
なぜならどんな年齢だろうと微妙なお年頃なのだから。
年齢を気にし過ぎず、今を大切に生きていけば、
いくつになっても、きっと素敵に生きていける。


・・・・・・・・・・・・
むむ?この記事、読んだことあるけど・・・そう思う方もいらっしゃるだろう。
そう、実は10日前に公開した記事のリメイク版。
改めて有名ブロガーかさこさんの添削を受けて書き直した原稿だ。

その添削と詳細アドバイスがこちらで↓公開されています。
「ブログ文章を生き返らせる!
 ブログ文章添削講座:余計な情報はバッサリ切れ!」
http://kasakoblog.exblog.jp/23132378/

これを受けて、さらに私自身がタイトル、本文に手を加えてみたのが
今日の記事でした。
ポイントはテーマに沿って主題以外の部分はバッサリ切ること。
書く本人は、つい欲張ってあれもこれもと言いたくなるもの。

言いたいことは何?
的を絞って!

これは、人には言えても自分に対してはおざなりになって気づきにくいもの。
公開添削はちょっと恥ずかしいけれど、
他からどのように見えるのかという視点を知る上で、かさこさんのアドバイスは有意義だった。

生きざまを生かしたブランディングのお手伝いをしている私でありながら、
自分のことは自分では見えにくくなる。難しい。
自分を客観的に見直してみたくて、去年入ったのが、4回完結のかさこ塾だった。

日々思うことをなんとなく書いていたブログではあったが、
読む側から見てどうなんだろう?・・・そう思って添削をお願いしてみたところ、
率直なアドバイスをいただいた次第。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

2015年5月18日

ブランディングとエンディングが、とても近いと思う理由

私がテーマにしているのは、ブランディングとエンディング(終活)。

いろんな場所で、いろんな人に、しばしば聞かれることがある。

元々広告業界なのに、なぜ関係のない終活に関わるようになったの?

広告の仕事から「人の生き死に」に変わったきっかけは何?



どうやら他の人から見れば全然違うことに見えるようだが、
私にとっては、とても近いテーマだ。

一般的には一見全然違うものと思われているかもしれないが、
今の時代は、人の生き方そのものがブランディングに大きな影響を与えていると思うから。

会社、商品、人、をどうブランディングしていくか、を考えるとときに
会社のトップや会社にいる人たち、商品を作った人、商品を売っている人が
どう生きてきたのか、どう生きたいと思っているのか、が
垣間見えるようなブランドが今、求められる時代だと思う。

一方、エンディング(終活)はどう生きるかと表裏一体である。
どうもメディアでは、葬儀や墓の「無駄」を省くことや相続ばかりがクローズアップ
され、「死に方を考えること」=「終活」と見えがちなのは実に残念。

人生が後半戦に入ったからこそ、これからの生き方をどうするかを考えていく。
それこそが本来の終活だ。
どんなお葬式をしたいかは、あとの話である。
どのように生きたか、という結果の一つの形が葬儀ではないかと私は思うのである。


これまでどんな人生を送ってきたか、これからどんな人生を送りたいか。
ブランドにはそういうものが込められていてこそ、顧客の心に届くものだと思うのである。
そういうブランディングができるのは、
やはりある程度の年齢を超えた人ならでは、と思うのだがいかがだろうか。

そんなわけで、私の目から見ると、ブランディングとエンディング(終活)はとても近いテーマなのである。

エンディングノートは、まさに自分の人生ノートそのものだ。

人生折り返し点を超えたかな、と思ったらエンディングノートを開いてみる。
書かなくてもいいから見てみる。
気が向けば書き始めてみる。
無理に書かなくたっていいから。
眺めてみるだけでいい。

あなたは自分が何歳くらいまで生きていると思っていますか?
あなたは今、その年齢の半分を超えましたか?

もしも超えているのなら、今までの人生でいろいろなことが積み上がっているはず。
だからエンディングノートを見てみることをオススメしたい。
書かなくたっていいから。
見るだけでいいから。

ましてや生きかたを反映したブランディングを考えたい人には、益々オススメだ。






 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
   マンダラエンディングノート開発者をお招きしたワークショップ
   満席でしたがキャンセルが出ました。体験参加ご希望の方はお問い合わせください。

 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。

2015年5月16日

大人になると勉強が面白くなるのはなぜ?

学生時代、勉強が大嫌いだった。
学校は休み時間が楽しくて行っていたようなものだし、帰宅後の宿題はほとんどしなかった。
自分の部屋で勉強するのは、勉強するふりだけでラジオの深夜放送を聞くため。
せいぜい試験前に一夜漬けする程度だった。

そんな私が、今、結構勉強してる。
あれ~?! 私、こんなに勉強好きだったっけ?


私が自ら勉強するようになったきっかけは、会社を辞めたときにハローワークに行ったのがきっかけだった。
職業訓練講座の一つとしてみつけた研修が私の興味を引くコンテンツで、すぐにも申し込み、論文と面接の試験を経て通うことになった。
行ってみたらかなり内容が濃いもので、約3か月、朝から晩までみっちり。
宿題もたっぷりあった。
大学卒業以来、塾やセミナー、学校になど行ったことがなかった私だったが、これが結構夢中になって学ぶことになった。

今思えば、それが始まりだ。
その後、次々といろいろと学ぶ機会を得るようになった。

学んだから何、と言うわけではない。
資格取得のために、というわけでもない。
でも勉強することが苦ではない自分がいた。

なぜ苦ではないのか。

大人になってからというのは、意味のない反抗心はないから、
感情的に突っかかることがない。
先生の言う言葉を素直に聞ける。

大人になってからというのは、教える立場、伝える立場であるケースが多い。
そういう立場だと、学んだものを使おうと思うから吸収力も違う。
教えてくれる人の言葉一つへの関心が違う。
スルーできない(しない)。

だからどんどん理解力が上がる。
理解できれば面白くなる。
ますます勉強する。

あんなに勉強嫌いだったのに・・・。

やらされてる、と思ったからきっと嫌いだったんだろう。
やらねばならない、と思ったから。
なぜやらねばならないかわからなかったから。
その先に何があるかわからなかったから。
自分がその先に求めるものを持っていなかったから。

知りたい。
考えたい。
教えたい。
伝えたい。
役に立ちたい。

例えばそういうことのために学ぶとなれば、きっと誰だって嫌いではなくなるのだろう。
私があれからずっと、少しづつ学び続けてきたのも、きっとそういうことだ。

私が知りたかったから。考えたかったから。
伝えたかったから。そして、役に立ちたいから。

学ぶことで儲かる。
何かハウツーを学ぶ。
いろいろあるかもしれないけれど
何より大きいのは、学びたいと思うことを勉強するからだ。
誰に強制されるわけでもなく学ぶのだから、面白くないわけがない。

それでも勉強は大変で、ときどき辛くなったり向かないかなと思うことが
あったりもするけれど、やっぱりやりたいのは私。

大人になると勉強が面白くなるのは、私が勉強したかったから。
きっとそれに尽きる。





 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       満席でしたが1名キャンセルが出ました。
       体験参加ご希望の方はお早めに。

 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中

2015年5月14日

やっていたこと・やったことは、見たり聞いたりするのとは全然違う

自宅を拠点に仕事をするようになってから、気がつくと運動量が激減した。
1日の歩数が100歩に満たない日が少なくない。
身体の調子もあちこちおかしくなってくる。

危機感を感じて、都心はできるだけ電車を使わず自転車で移動するようになった。


自転車乗りの夫の影響だ。

5年くらい前から、夫は自転車に夢中になった。
週末になると200キロ、400キロと走る。
そこには夫より一回り近く歳年上の師匠の存在がある。

もちろん、私は夫とは全く違って、近隣への交通手段の選択肢のひとつとして
自転車に乗るよういなったにすぎない。
せいぜい5~6キロのことで、長距離と言っても10キロ程度だ。

さて夫は、その師匠からこれまでにいろんなことを習ってきたと言う。
体力の温存の仕方、スピードコントロール、筋肉の使い方・・・
夫が自転車を始めて既に5年以上経つのだが、
夫にとっては、師匠はどう頑張っても超えられない大きな壁なのだそうだ。
60を優に超えているけど、とてもかなわないのだと言う。

師匠は穏やかな紳士で、
気張るとか偉そうなところが全然なく、私から見ても魅力的な素敵な60代だ。

大型連休の最終日、私は友人たちと車で群馬県の馴染みの宿に出かけた。
同日、夫は師匠と自転車で日光からいろは坂に向かい、私たちは宿で合流した。

一緒にお酒を飲みながらくつろいでいた時、その師匠から聞いた話。

どんなスポーツでも、多少でもやっていれば大体カラダは覚えている。
スポーツをやっていたことって無駄にならないんだよ。

サッカーをやっていた人とやっていない人、
テニスをやっていた人とやったことがない人、
スキーをやっていた人とやったことがない人、・・・
歴然とした差がある。

たしかにその通りだ。
私は昔、ずっとスキーをやっていた。
ここ20年は滅多にスキーに行かなくなったが、それでも今でもスキーをやれば、
一応多少は滑れる。
疲れるけど、板をかついで歩くこともなんとかできる(だろう)し、
リフト待ちではスキーを履いたまま少しづつ歩くこともできる。
スキーをやったことがなければ、
スキーを履くのも立っているだけでも、きっとイッパイイッパイだ。

やっていたという事実だけでなく、そのスポーツ特有のカラダの動かし方、
コツみたいなものをカラダはちゃんと覚えているのだ。
どんなに長い時間がたっていたとしても。

だからやったことがないことはできないのは当たり前だし、
やっていたことはそれだけで貯金でもある。
今からでも始めれば、カラダの中に貯金ができる、と。

今、私は自転車に乗るようになり、
私のカラダの中に少しづつ貯金がたまっているのかもしれない。
「やる」ということ・・・それは必ず貯金になる(と思う)。

だから、とりあえずやってみるというだけでも、きっと大きな力になるだろう。
カラダだけじゃない。
どんなことだって、やってみることに意味がある。

本で読んだり映像で見たりするだけでなく、実際に自分がやってみること。
やったことがあること、
それ自体は、見聞きするだけよりもずっとずっと大きな意味がある。
夫の自転車の師匠の話は、そんなことを教えてくれた。





 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       満席でしたが1名キャンセルが出ました。
       体験参加ご希望の方はお早めに。

 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中



2015年5月13日

思っているより世界は狭い。人はいろんなところでつながっている。

SNSのおかげで、世界が広がる人は多い。
代表格のFacebookは、もちろんそういう価値があるのだろうけど、
私が面白いと思うのは、逆に世界が狭いことに気づくこと。
教えてくれるのは「共通のお友達」だ。

例えばある人と出会って、facebookでお友達になる。
そこで初めてわかる「共通のお友達」。

え?!
この人、私の知っている別の人と友達だったんだ。

ちょっと前だったら気づかないことだ。
言わば人のつながりの網目構造みたいなものがわかるのだ。

共通の知り合いがいるとわかるだけで、距離感が一気に縮まる。
まだ親しくなる前に、その人の違う一面を推測できたり、知ることができる。

もちろん、それがイヤだ、という意見もあるかもしれないが、
(数年前の私はそう思っていた)
今は、例え隠してもなんだって簡単にバレてしまう時代。
イヤな面よりも役に立ったり、興味深い面の方が勝っているような気がする。

そういうことを知るたびに思うのが、世界は自分が思っているよりも狭いということ。
「ここだけの話」と思っていても、あっという間に広まるのも頷ける。
コッソリ悪いことをしたって、そのうち知られてしまう可能性がある。

SNSってすごいなあと思っていたら、いやいやネット上だけじゃなかった。
リアルだってあった!

昨年末から参加していたある勉強会があった。
受講料を徴収して行っている民間の勉強会やセミナーではなく、
学びたいという人たちが自主的に集まって自主的に運営している勉強会だ。
その運営にはボランティア精神あふれる人たちが多数尽力されているのは言うまでもないが、参加している人たちの協力体制も実に気持ちがいい勉強会だ。
その心意気やメンバーのお人柄が嬉しくて、私も参加させてもらっている。

回を重ねるうちに、勉強だけでなく
親しくなったり、飲みに行ったり、するようになっていく。
個々人の人となりに接し、それぞれの魅力を感じるようになるからだ。

そうやっていろんな話をするようになっていった時のこと。

昔、私は広告代理店でサラリーマンをやっていた、という話をしたら、
「うちの長男も広告代理店で・・・・」とおっしゃる方がいた。
聞いているうちに、すぐにわかった。
今から15年前の私の直属の部下が、そのご長男のことだと。

世の中は本当に狭い。
悪いことはできないものだ(笑)。

ひぇ~っ!
お願い!私がこんな勉強をしているなんて内緒にしておいて~!

別に恥ずかしいことを学んでいるわけではないのだが、
昔のこととは言え、元部下だった彼にそんなことを知られるのがどうにもこそばゆい。
ガリ勉君のようにどこかコソコソ勉強したいのか、
一生懸命学んでいることをカッコ悪いと思っているのか、
昔の上下関係で今や何の関係もないのに、どうも知られては恥ずかしいような思いがあった。
私にはなぜか自分がオープンになりきれない一面があり、そんな風に思ってしまったのだ。

けれども、逆にその方にしてみれば、私は「昔、長男の上司だった人」となるわけで、
これまたもっとやりにくいことにちがいない。

すぐに気を取り直し、その場でそのご長男に電話をし、
本人を驚かせたあとは、
お互いにそんなことを気にするのをやめて、もはやオープンだ(笑)。

世の中は狭い。
意外といろんなところで人はつながっている。
だから、カッコつけたり、嘘ついたり、ごまかしたり・・・そんなことは実に無意味だ。
それがバレた時のカッコ悪さを考えると、大恥じだ。

今の時代は、昔よりもずっといろんなことがすぐにわかる。
だからオープンマインドであることが本当に重要になってくるのだ。
昔の気分を引きずっていること自体が、相当カッコ悪いのだと改めて思うのである。






 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       1名キャンセルが出ました。体験参加お申し込みはお早めに。

 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中


2015年5月12日

一人のいろんな顔は、意外になんとなくバレてるもの。隠している方が恥ずかしいこともある。

会社の顔、家庭の顔、趣味の場での顔・・・

人にはいろんなコミュニティがあり、誰にもそれぞれに応じた顔が
きっとあるだろう。

私は何もかもをオープンにするのではなく、
それぞれの場でそれぞれの顔を出すというのをヨシとしていた。
それが、TPOに応じて、というものだと思っていた。

さらに、一人でいろいろな顔をたくさん持っている、という人を
私はカッコいいと思っていたようだ。
たぶん若い頃からずっと。

そのせいか、
××なイメージを抱いていた人が、実は○○、
みたいな意外性には、めっぽう弱かった。
それだけでその人がメチャクチャ魅力的に思え、勘違いした失敗もある(苦笑)。
単にこっちの思い込みに過ぎないのだが。

そんなこともあってか、
自分自身もたくさんの顔を持っていた方がいいと考えていたようだ。
しかも意外性があれば、尚よいと。

 会社では遊びの顔をあまり見せない方がいい。
 どんなふうに遊んでいるのか、休日にどんなふうに過ごしているのかを
 敢えて知らせない方がいい。
 だけど、ふとした時にチラッと見えると、ちょっとカッコいいかも?。

今となっては笑い話だが、どうやら私にはそんな思い込みがあったようだ。
もはや7年以上前のことだが、会社にいる頃の私は
そんな風に思っていたことに今さらながら気がつくのである。
随分恥ずかしい自己顕示欲だ(汗)。

私は仕事も大好きだったけれど、遊びも大好きで
スキーをやり、キャンプをし、音楽をやり、ダンスをし、
大勢を集めた野外遊びイベントを主催し・・・・
いろんなことをやっていたけれど、
会社の中ではそれについてはあまり語らなかった。

そういう遊び仲間の一部が偶々社内の人であった場合には、
私は会社の中では彼らとほとんど言葉を交わさなかった。
彼らは、私がそういうことを社内でオープンにしたがらない気配を悟り、
社内でそういう話題しないように気をつけていたらしい。

当時の私は、仕事の場に遊びを持ち込むのをヨシとしなかったし、
私は後輩には厳しかったつもりなので、
そんな顔を仕事の場で知られたら示しがつかないと勝手に思っていたのだ。

だけど、社内にいた遊び仲間は、全く違うように思っていたらしい。

 公子さんは自分が厳しい人、仕事では怖い人だと思っているだろうけど
 周りは意外にそうは思っていない。
 オッチョコチョイだったり、ヌケていたり、
 そういうことを含めて、周りは公子さんを見ているんだから
 別に気負わなくてもいいんだけど・・・ね。

あはは、なんともお恥ずかしい話で・・・・
自分では結構うまく演出しているつもりでも、意外に周りは知っている。
「素」のままでいいのに。

今でも私は、どこかオープンにしきれない弱さがある。
ちょっと秘密、あまり知られたくない、と(苦笑)。

今の時代は、どこかでいろんなことがすぐにバレてしまう。
どんなふうに生きてきたのか、調べようと思えば普通の人でも簡単に調べられる。
その人の仕事だけでなく、働き方だけでなく
実はいろんな部分が見える方が信頼を得やすい時代でもある。

いくつもの顔を持つ人が素敵だと、私は思う。
意外性もやっぱり魅力だろうと思う。

だけど、そのいくつもの顔を持つのは一人の人間であり、ベースは一つ。
必ずつながっている。
いくつもの顔は別個のものではなくて、積み上がることできっと価値を持つのだろう。
足し算ではなく掛け算で。







 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
 1名キャンセルが出ました!体験参加のお申込みはこちら。

 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中



2015年5月11日

難しい年頃っていつ? ・・・いつだって微妙なお年頃です。

しばしば年齢について書くのは、
私自身が
「気にしない。気にしない。」
と言いながら、結構気にしている証しなのかもしれない。
いろいろ見てると自然に目に留まるのだから。

村上さんのところというサイトがある。
村上春樹さんが読者からの質問を受け付け、それに回答するというサイトだ。
すでに質問の受付を終了しているばかりか、サイトの更新自体も4月30日をもって終了している。
このサイト、実は新潮社(の人)が運営している。

私は村上作品と言えば「ノルウェイの森」しか読んでいないし、


ハルキストではないけれど、
「1Q84」は社会現象になり、新潮社はこれでずいぶん儲けたと話題にはなったよね。。。


だからこのサイト、ハルキストのファンクラブみたいなものなのでしょうが、
そろそろ次の新刊本が出てくるのかな?!


さて、そのサイトに寄せられた読者からの質問で、
どうも気になる記事を見つけたのだ。

女性、36歳、
わたしは女にとってなかなか難しい年頃なのですが、これから先、素敵な歳の重ね方をして楽しくきれいに生きていきたいと思っています。


なんじゃ?!
36歳でなかなか難しい年頃だって?!
若者が何を言ってるんだよ~?と言いたくなるけど、
私も36歳の頃は、当時の自分の年を微妙な年頃だと思っていたような気がする・・・・

でも、50代になった今、私は50代を微妙な年頃だと思う。
きっと80歳になれば80歳を微妙な年頃だと思うんだろう。

そう、いつだって微妙なお年頃。
後から思えば、なんじゃ~!って感じであったとしても。

だから、いつだって今が大事なの!

いつだって「今」は「取り返しがつかない」時間。
そういうこと、日々の忙しさにまみれていたり、
なんとなくふわ〜って生きていると、すぐに忘れちゃうんですよね。

人生とは、生まれてから死ぬまでの時間。
その間に「今」があるわけだけど、
「今」が積み重なっていくのが人生とも言えるわけです。

可愛い盛りの子どもを見て
「今だけよね~、こういうのって・・・」と言う言葉、よく聞かれるけれど
いやいや、子どもだけじゃないよ。

子どもだって大人だって、
30代だって、50代だって、80代だって、
「今」は「今だけ」。

そんな風に思うと、
何やってるのよ、私!
って思う。
自分に喝を入れられる。

人生を考えることは、「今」を大事にできるのだ。


補足)
このサイトの質問者の趣旨は、素敵な中年女性に共通するところを知りたいことで、たまたま私がその質問のなかの「難しい年頃」というフレーズに食いついただけです。





 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中


 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       入会は受付中ですが、体験参加は満員御礼となりました。
→5月13日に1名キャンセルが出たので受付中です。
5月14日現在情報なので、お問い合わせください。

2015年5月10日

シニアというと高齢者を指すけど、今の団塊世代は高齢者なんかじゃない

会社員でなくなってから、ビジネス以外のいろいろな活動に関わるようになった。
NPOアクティブ・シニア・クラブは、私が関わっている活動の一つだ。

「シニア」という言葉からは高齢者をイメージするけれど、
さて、高齢者とはいったい何歳くらいをイメージするだろうか?!
NPOアクティブ・シニア・クラブは、
団塊世代が会社定年後も楽しくアクティブに生きていくことを目指すNPO法人
として2007年に誕生した。
その当時、団塊世代は58~60歳だった。
今、団塊世代は66~68歳になる。

厚労省で言う高齢者は65歳以上なので、
たしかに今の団塊世代は高齢者になるのだが、
私の目から見てまったく高齢者という感じがしない。

私は団塊世代からは一回り下の世代ではあるが、
その趣旨に賛同するし、先輩諸氏がどう生きていくかを間近に見たくて
このNPOに入会し、今では理事を務めている。
メンバーは必ずしも団塊世代だけではなく、
団塊の動きに注目する私よりも若い世代の人たちも少なくない。

クラブでは、年金・雇用保険、医療保険、遺言・相続、介護・福祉、ライフプラン、
生きがい等々、よりよく生きる術を網羅して学ぶアクティブシニア講座や
面白そうなネタをテーマにしたオープン講座を開催するほか、
メンバーはいくつかの研修部会に分かれ、
情報交換したりさらに深掘りして学んだりしている。
メンバーがそれぞれの専門家としてほぼボランティアで教えるので、
他の民間講座に比べて圧倒的にリーズナブルでもある。

さて現在の団塊世代(男)は、
1日どうやって時間を潰せばいいか、わからない人が多いのだそうだ。

家にずっといると暗くなる。
旅行とかは一度行くと飽きる。
だから、そのためにも長く続く趣味を持つといい!と声高に言っているメンバーも、
このクラブに入った当時は、会社が自分の世界のすべてだったと言う。

一部上場企業に勤務する部長さんだった押野勉さん(65歳)は、
だんだんと定年が視野に入り、
会社関係の知り合いばかりでこれはまずいぞ!と思い始めたのだと言う。
でもどうやって自分の世界を広げたらいいかわからない。
そんな時に目についたのがこのNPOだったそうだ。
押野勉さん(65歳)
よりよく生きる術を網羅して学ぶアクティブシニア講座を学ぶことで何か新しい
世界とつながるのではないかと思い、この受講を申し込み、受講後は
メンバーになった。
そこで開催されたオープン講座でフェイスブックを知り、
その日からすぐに始めたことがきっかけで世界が爆発的に広がり始めたのだ。

フェイスブックをきっかけに次々とイベントに参加するうちに
3,000人以上になった友達は老若男女が入りまじる。
若い女性には「パパ」と呼ばれ、大人気だ。

同時に「昔からずっとやりたかった!」と思っていたけど仕事が忙しくてできなかった和太鼓のお稽古をスタートさせ、若者に交じって練習に熱中し、去年は海外遠征にまで出かけて行った。

元々の勤務先を卒業後の今は、第二、第三の職場へと移っている。

全国に飛び回る出張で大忙しだけど、
鉄道ファンの乗り鉄趣味も手伝い、仕事と一緒に楽しんでいる。

上野発、札幌行きの寝台特急北斗星、3月に廃止になると知ってすぐにチケットを入手し、廃止前の北斗星に乗った。
出張で出掛けても時間を見付けてはローカル線に乗っている。

最近、「撮り城」という趣味が加わったのだそうな。
日本に現存しているのは12城あるらしく、4月には現存城の弘前城へ行っていた。
これから2年で回る計画らしい。

仕事に、遊びに、と大忙しであちこちに飛び回っているので、捕まえるのも大変だ。
遊ぶために働くのをやめられないと笑う。

ちなみに愛妻を月に一度食事に連れて行き、
働いている間は一人旅OKを貰っていると言うので、気配りも抜群(笑)。


こういう人生の先輩を間近で見られるのは嬉しい。
その生き方そのものが、私にとってのベンチマークになる。
そういう先輩諸氏を見ながら、私は自分の10年後を考える。
60代になった時に私はどんなふうに暮らしていこうかなと思いを馳せるのである。







 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中


 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       入会は受付中ですが、体験参加は満員御礼となりました。
 


2015年5月8日

年齢を重ねることで日々進化していくけど、残念なのはすぐに忘れちゃうこと。

4年前、私は日記にこんなことを書いていた。

本を呼んだり、人と話をしたり、テレビを見たり、新聞や雑誌を見たり、
FBやTwitter等SNSの投稿を見たり、いろんな人のブログを読んだり・・・
いろんな情報に接すると、次々とアイデアが浮かぶ。
どんなに考えても浮かばなかった頃から思うと、気分がいい。

当時こんなことを書いたのには、
あるボサノバミュージシャンのライブで聞いたトークがきっかけだった。

人生で40代が最も油がのる時期。
日々進化していき、それがもうすぐ完成型になる。

このトークを受けて、その感じがちょっとわかると当時の私は思ったのだ。
あれから4年経った今、私は
次々とアイデアが浮かんで気分がいい、という心境ではない(苦笑)。

今、思い返しても、
当時そんなに次々とアイデアが浮かんだのかなあ、
そんなに気分がよかったのかなあ、と
残念ながらあまり実感もない。

ただ、その続きを読んでおかしくなった。

だけど残念なのは、すぐ忘れちゃうこと。
昔はそんなことなかった。

そう。
当時以上に、最近の私は記憶力が衰えて悲しい(苦笑)。
特に困るのは人の名前。
顔はわかっていても、その方の名前がなかなか出てこないことにほとほと参る。
元々私は記憶力のいい方ではないし、
忘れ物も多いそそっかしい性格ではあるのだが、それにしてもイヤになる。
本当に年齢のせいだけだろうか。

これから高齢化率がどんどん高くなっていくと言う。
2025年には3人に1人が高齢者になり、
その時、認知症の人が500万人近くになっているという試算があるそうだ。


最近、認知症関係の知識を得れば得るほど、
自分自身にもその疑いがあるのではないかとドキドキする。

同世代とその種の話をすると、
どうやら皆、同じような感覚を抱いている。
そのせいで自分自身をとても心配している人がいる反面、
私以上に記憶力が衰えていてもケロッとしている人もいる。
それを聞いて、私はちょっと安心する今日この頃だ。

それにしても、私は4年前から「すぐ忘れちゃうこと」を
残念に思っていたのか。。。

人の名前、地名、建物や施設の名前、本の名前、ちょっとした言葉・・・
固有名詞が出てこない。
漢字も忘れがちで、読めるけど書けない。

今、そういう私を最も助けてくれるのは、スマホである。

仕事関係の人の名前を忘れても名刺アプリがあるし、
Facebookの友達を辿っていけば、ほぼ思い出せる。
著名人や建物、本の名前なら、Google先生がほとんど教えてくれる。

今、私は、思い出そうとするよりも先に、すぐスマホで調べる。
いつの間にか無意識にスマホをいじっているのである。

4年前にはスマホを持っていなかったから、
一生懸命思い出すか、そばにいる人に聞くか、あきらめて帰宅後に調べるか、
しかなかった。
帰宅後に調べると言っても、メモしていないと調べ損ねるからほとんどそのままだ。

だけど今ならスマホは私といつも一緒。
いつだって私を助けてくれる。
私は今、一生懸命思い出すよりも先に、一生懸命スマホをいじっている。
もはやスマホがないと、今の私は不安で仕方がない。

だけど私を助けてくれるはずのスマホは、いつの間にか私をバカにもしてしまいそうだ。

世の中にスマホが普及し始めてまだ3年くらい。
私がスマホに慣れ親しむようになってからは、まだ1年になっていない。
スマホにずっぽりと親しんだ人が高齢になった時、いったいどうなっているだろうか、
まだ未知の世界だ。
ちょっと前に比べて、今の人はいったいどれくらいバカになっているんだろう。

今の時代は、
スマホがあるおかげでそれを助けてくれていると解釈すべきところか。
それとも、スマホが脳を甘やかして、記憶力の衰えスピードを速めているのか。

つい最近まで、私は自分の記憶力低下に対する自己嫌悪のせいで
自己肯定感が下がりまくり、何事にも後ろ向きになっていった。
しかし最近になって、それはもう仕方がないのだと思うようになりつつある。
不足する部分はスマホの力を借りていけばいい、と。

すぐに忘れちゃうことはたしかに残念なことだ。
でも、多少は仕方がないこと。
年をとってきたのだから。
・・・そう思うようになったことで、私の後ろ向きな気分も、実際に多少変わってきた。

年齢を重ねることで、どんどん知識・情報が入ってくる。
生きていると言うことはいろんな経験を重ねるということだから、
知識・情報と経験を積み重ねで、人は誰でもどんどん進化していくはずだ。
だけど、個人差はあるけど、
年齢とともに人はどんどん記憶力が衰えていくのは抗いようもない事実だ。

もしかしたら10年後、スマホに頼り過ぎる弊害が出てくるかもしれない。
だけど、文明の利器に頼らずにずっと悶々とし続けるのと、
いったいどっちがいいのだろうか。




 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中


 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       入会は受付中ですが、体験参加は満員御礼となりました。
 

2015年5月7日

高齢の親と話をしようとするときに大変なこと

大型連休の中で高齢の親に会いに行った人も多いことだろう。
私は三姉妹の長女で、私たち姉妹がそれぞれ結婚してからは
両親はずっと二人だけで暮らしており、今80歳を過ぎた。

姉妹がそれぞれときどき両親を訪れ、
顔を見せたり見に行ったりはしているものの、
私たち姉妹の日常はそれぞれバタバタと忙しくしていること、
おかげさまで両親がそこそこ元気であること、などを言い訳に甘えて、
そう頻繁に訪れているわけではない。
そのため、親に伝えたいこと、親に聞きたいことがあったときは、
電話ではなく、顔を見ながら話をした方がいいだろうと思い、
実家に出かけるように心がけている。

ただ顔を見る(見せる)のが目的ならそれはそれでいいのだけど、
話をしよう、話を聞こう、という目的がある時は大変だ。

なぜなら、なかなか本来しようと思っている話ができないから。

両親はまず会うことそのものを楽しみにしている。
久しぶりに会うから父にとっての話したいこと、母にとっての話したいことが
それぞれたくさんある。
そのため、なかなか私が話そうとしていること、聞きたいと思っている話題に
辿りつけない。
実家に帰ると、親はシャワーのようにしゃべり続けている(笑)。


illustration ; Yuka Fujiwara

それは私だけでなく、妹が帰っても同じだ。

やっと話したい話題に辿りついて話が始まったとしても、
話しているうちに親が何かを思い出したり、気がついたりすると、
「そうそう、そう言えばこんなことがあって・・・」と話し始め、
アッという間に話題が変わっていってしまうのだ。
ご近所のこと、親戚のこと、親の友達のこと・・・
親にとっては大事な話題だ。

どんどん時間が過ぎてしまい、話したいことが話せない。
聞きたいことが聞けない。

これが仕事だったら、雑談から仕事の話に戻そうとするのだが、
家族となると難しい。

親としても話したいことがたまっているのだろう。
たまに会ったのだから話を聞こう。
・・・そうは思いながらもどんどん時間が過ぎていくから、
私はつい「話を戻していい?」と聞きながら、最初の話題に戻そうとする。
ところがすぐにまた違う話題にすり変わっていき、
肝心な話はなかなかできないのだ。

高齢の親と向き合って話をする難しさとは、こういうところにあると思う。

高齢になると、「今すぐ」意識が強くなるようだ。
気になったら今!
聞きたいことは今聞きたい。
言いたいことは今言いたい。

きっと、忘れっぽくなっていることを自覚しているから、
あとでまとめてやろう、まとめて聞こう、ということが不安になるのだ。

理屈は分かる。
他人だったら、頭で理解して待とうと意識できるかもしれないが、
家族となると、そこには甘えもあるし、感情もあるから難しい。

自分の話したいことが遮られると、親の話をじっと聞いて待つのは苦しい。
子どもとしては親の理解度が落ちているという現実が悲しい。
時間的精神的余裕がないと、話が進まないことにイラつく。
・・・家族だからこその感情だ。

そのうち面倒になって、親の話を聞かなくなったり、
聞いていても右から左だったり、話をするのをやめてしまったり
する家族も、きっと多いに違いない。

だけど、話をしなくなると、
「聞いておけばよかった。」
「言っておけばよかった。」
あとで大きなしっぺ返しが来る。
縁を切りたいなら別だけど、そうでないなら大きな弊害がやってくるのだ。

これを乗り越えるためには、
「話したい」「聞いてほしい」気持ちが溢れるほど溜まらないように
聞くしか、方法がないように思う。
もしも溜まってしまったときには、覚悟を決めて相手をする。
それができるように時間的精神的余裕をもって親に会いに行くしかない(苦笑)。

子どもの頃、私は祖父母と同居していた。
毎日他愛のない話をしながら、一緒に食卓を囲んでいた。
毎日話をしていたし、甘えたり、言い争ったりしながらも、
考えていそうなことは想像できた。
だから、しゃべり続ける状況や、それを遮ろうとする状況にはならなかったんだだろう。

暮らし方の変化や、核家族化は、
高齢の親と普通に話をすることへも大きな影響を与えている。





 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中


 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       入会は受付中ですが、体験参加は満員御礼となりました。
 

2015年5月6日

選挙で最後のお願いと言うんだったら、やっぱり候補者はポスターの「顔」を気にした方がいいんじゃないかと思う。

4月26日、ゴールデンウィーク直前の4月の最終日曜日は東京の区議会議員選挙だった。


「顔つき」に注目する私としては、選挙ポスターは興味津々だった。
特に街頭演説の「生身(ナマミ)の様子」と、「ポスター写真」との違いには驚かされた。
その違いが、果たして投票行動に影響が出るのかどうか・・・と。

特に私が注目していたのは、選挙ポスターの撮影のされかた(顔つき)。
気になったのは、目線がカメラよりやや上の方になっていて、
口角を不自然なくらい上げて撮影されたポスターだ。
私から見ると、なんだか嘘くさくて却って信用ならないような気もする。

そういう不自然なくらい「いい顔」にしたポスターの人の
選挙結果を確認してみると、当選している人、落選している人、いろいろだ。

投票結果については、顔写真だけでなく
候補者の思いや信条、実績、組織力等、様々なことが影響するであろうから
一概には語れないけれど、
私の地元、世田谷区の場合で実際に当選した人を見てみると、
候補者の3割以上が無所属だったが、無所属の当選者は2割以下。
無所属の人は組織力も弱く、資金面も心細く、写真もあまりよくなくて・・・という
状況が想像でき、選挙は不利なのかもしれないなと思われた。

実際、政党がついている場合は写真がいいケースが多かった。
特に公明党の候補者の場合は、
目線は上向き、口角はしっかり上がっている傾向が強い。
さらに肌もすべすべでシワもない「顔」が多い。

おそらく撮影の時にはプロのメイクさんがついて、
場合によっては撮影写真のデジタル加工も施されているであろうと思われた。

選挙は、市民にとって大事な権利ではあるけれど、
区議会議員選挙でいったいどれだけの人が
候補者の政策や信条で投票をしているだろうか。

私も、投票に当たってはいろいろな印刷物を目にしたり、
駅前の街頭演説を聞いたりすることはあったけれど、
自分の思いに近い人はどの人なのかを判断するのはなかなか難しい。
結局投票する直前まで、誰に投票するかを決められなかった。

投票日には、多くの人が投票所に入る前に選挙ポスター掲示板の前に立ち、
ポスターを眺めながら考えている光景を目にした。

ポスターの顔と選挙結果との間に相関関係があるのかどうかは、
今回はっきりわからなかったけれど、
 それでも投票前の最後の一押しは、選挙ポスターの顔なのではないだろうか。

私は、遺影に相応しい顔、プロフィールに相応しい顔、については
今までいろいろ言ってきたけれど、選挙にも選挙のための顔写真があるはずだ。

選挙ポスターではどんな顔(表情)を出すのがいいのか。
どんな写真だったらいいのか。

きりっとした顔の方がいい、
笑っている顔がいい、
動きのある顔がいい、
・・・・等はいろいろあるだろうが、
そういう表情と当落との相関関係は、今回の選挙ではわからなかった。
それは候補者の個性によって、変わるように思えた。

それでも大前提としては、ピントが合った写真であること。
そして、印刷してもクリアであること。
そんなこと・・・と言われそうだが、意外にもそうではない写真が、
無所属の人にはちらほら目立ったのである。

そしていくら写真がきれいであっても、
もし街頭演説をする人であるなら、演説している時の顔と
違い過ぎない方がいいとも思った。
私自身が実際驚いたので。

誠実さとか一生懸命さとかは、必ずしもきれいな顔から出てくるとは限らない。
選挙活動中に街頭演説している人には一生懸命な人が多く
演説している時の顔の方が、私から見て魅力的な人が目立った。





 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中


 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       体験参加は満員御礼となりました。
 

2015年5月4日

母の日プレゼントで思う・・・私はいったい何が遺せるんだろう

今年の母の日は、5月10日。
私はそんなにまめに母の日プレゼントを贈っているわけではないけれど、
今年はゴールデンウィークの前に実家に帰る用事があったので、
少々早目ではあったけれど、直接渡すことにして持参した。

選んだのは足半ふっくら布ぞうり
足半は「あしなか」と読む。
この商品は足半屋さんふっくら布ぞうりの会が共同開発したもの。

このふっくら布ぞうりの会とは、
東北の陸前高田・南三陸・石巻・東松島を拠点として、
仮設住宅や借り上げ住宅に住む女性たちが、布ぞうり職人として活動している会。
独立系FPの相澤由佳さんが関わっていた

私は相澤さんとのご縁もあって、かねてからふっくら布ぞうりに関心があり、
いつか、いつか、と思っていたのだが、
相澤さんは病いのために4月にこの世を旅立ったのだ。

私は相澤さんとのお別れの席でふっくら布ぞうりの会の方と出会い、
その場で自分用にふっくら布ぞうりを、母へのプレゼントに足半を、
購入させてもらったのだった。

今年、私の母は80歳になり、両親ともに80歳を超えた。
忍び寄る年齢で、父の足元はだいぶおぼつかなくなってきている。
母は比較的しっかりしてはいるものの、娘である私にとってはやはり心配だ。

この足半は、そんな母にぴったりのギフトに思えた。
布ぞうりは一般的にもよく知られているが、
足半は布ぞうりでも足の裏の全部ではなく前方だけを支える。

○足をしっかりさせたい
○軸感を鍛えたい(武道・スポーツ・ダンスなど)
○バランス感覚を鍛えたい
○腰痛・肩こりなどをよくしたい(すぐに戻ってしまう方)。
などと言う人にオススメなのだそうだ。

母に持参した時は、まあ普通に喜んでもらったのだが、
その1週間後、再び実家に行ったところ、母は足半を愛用していた。



最初はちょっと痛かったけど、すぐ慣れたわ。
とにかく気持ちいいの!
脱いだ時の気持ちよさがとても幸せ!

前だけしかないから、このまま正座もできるのよ。
毎日足が攣っていたのに、これを履いてたら足が攣らなくなったんだから。

母は、無邪気に喜んでくれた。

プレゼントをして一番嬉しいのは、こうして贈り物を日常的に使ってもらえること。
そして喜んでもらえること。
しかも足半を履いて毎日家事をすることが、
結果的に母の健康づくりにつながっていることにもなる。






私にとっては、いつかいつか、と思いながら
相澤さんがお元気なうちに購入できなかったことは大きな悔いではある。
けれど、ご自身がこの世から旅立っても、
こういうものをこの世に遺し、さらにそれを作る活動をこの世に遺し、
きっちりとつないでいったことを思うと、生きている意味を考えずにはいられない。

それを目の当たりにし、私はつい考えてしまう。
私はいったい何が遺せるんだろう、と。

ふっくら布ぞうりの会だけでなく、相澤さんは多種多様な活動を関わっていた。
彼女がこの世を旅立った後も、その活動はそれぞれきっとずっと続いていく。
相澤由佳さんのご冥福をお祈りするとともに、彼女の活動に敬意を表したい。




相澤由佳さんの遺志を受けて・・・「身体の閉じ方」製作委員会
企画進行中。
「いいね!」お待ちしています。


 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       体験参加は満員御礼となりました。
 
 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中

2015年5月1日

「老け手」ってなに?  「老け手」が気になる理由

「老け手」って聞いたことあるだろうか?
私は知らなかった。



文字通り、老けている手と言う意味なのだが、
手が老けている・・・・今までそんなこと気にしたこともなかった。
けれど、改めて自分の手を見ると、血管が浮き出て横皺も多く、
結構老け手だった(笑)。

そういうことが気になって、

どこででも手の甲を見せられないと言う人がいるのだそうだ。
その人は電車の中で座っていても、手のひらを上にしているのだそうだ。

  《NHK「あさイチ」4/13放送 《出会いの春に 解消!“老け手”の悩み》から

なるほど、電車の中で自分の手を隠すくらい気にする人がいたのね。。。

私は今までそんなこと考えたことも気にしたこともなかったけれど、
そんなことを聞いて、なんだか気になってきたぞ。。。
そう言えば、私の手はかなりしわだらけの手だ。
よく見たら節が太くてごついぞ。

気になるとか気にするとかいうのは、意外とこういうことなんだろう。
元々気にしていないことであったとしても、
気にするものなんだと知って、気になるようになる。
気にするかしないかは、所詮本人次第なんだ。

さて、気にする人は何を気にしているんだろう?

そりゃあ誰だって、手タレ(手専門のタレント)のように手が美しければ言いに決まってる。
でもそういうことではなく、敢えて「老け手」っていうんだから、
老けて(=年をとって)見られるのがいやなのね、きっと。
年齢が出る、あるいは本来の年齢よりも上に見えてしまう・・・そういうのがきっとイヤだから気になるんだろう。
今まで私が気にしなかったのは、手というものに年齢が出ると思っていなかったからだ。

それにしても、私も含めてどうして若く見られたいんだろう?
大人っぽく年上に見られたいと思っていた時期もあるのに・・・、
若々しいのはいいこと、老けこんでいるのはよくないこと、そういう思いこみの中でどうも縛られている。
若く見えることがとても偉いみたいに。
外国では必ずしもそうではないように聞く。
実際、「若々しいこと」と「若く見えること」は、似ているけど実はちょっと違うはずだ。
私自身も、こういう若々しさ信仰呪縛からできれば解き放たれたいものだと思う。
どうやって?!・・・それが問題だけど。

番組の中では、手というのは生きざまが出る、という話もちらりと出てきた。
例えば「働く手」。
どんな仕事をしているかを手が語っている、と。

顔には生きざまが滲み出る、と私はしばしば言っているけれど、
手もそうかなあ。
自分らしい手、なんてあるのかなあ。

手そのものにそこまで生きざまが出るかどうか、私にはわからない。、
でも、例え老け手になったとしても、「手つき=手の動かし方」というのは
意外に若い頃と変わらないような気がする。




 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       体験参加は満員御礼となりました。
 
 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中