2010年12月30日

2010年が暮れようとしている。
このブログも、2010年最後のアップになる。
今の受験生は、年末年始も関係なく、毎日予備校に通っているようだ。受験生を抱える家族も年末年始関係なく、その支援体制に入る。一方で、今、卒業間近の大学生で就職が決まらないのが4割という。既に卒業していても親の保護のもとで自宅に暮らし、アルバイトで小遣い稼ぎをしている人も少なくない。そういう先行きが不安な世の中での受験体制は、本人も家族もしんどいことだろう。
今の社会、企業はとことん優秀な人を求めている。その優秀な人にどんどん仕事は集中し、忙しい人はどんどん忙しくなる。365日体制、24時間体制の仕事を求めたりする。
一方で、普通の人は仕事をみつけるのも一苦労だ。就職活動の厳しい競争を繰り返す中で精神的にボコボコにされて自信を失っていく。でも世の中の多くの人は、そういう普通の人だ。普通の若い人が普通に仕事を見つけられないような世の中というのは不幸なことだ。どんな人にでも、それぞれその人に合った仕事があって、それぞれが自立できる、しかも相互に思いやりが持てて助け合えるような心の余裕もある・・・そんな社会になればいいのにと思う。
ほんの一握りの優秀な人だけがまともな仕事にありつき、心身を壊すほど働かざるを得ないなど、幸せな社会であるわけがない。
2011年が、そういう幸せな社会に向かっていくためのステップになればと思う。

2010年12月22日

神様のご利益

今日発売の「妊娠できる!病院選び完全ガイド2011」(主婦の友社)は、不妊治療というナーバスな悩み解決をお手伝いするガイドブックとして発行されるムックだ。私はその企画制作等に関わり、この数ヶ月間それに奮闘していた。不妊治療については考えさせられることも多いがそれは別の機会に改めて触れることにしたい。
そのガイド本の中で、子宝スポットを紹介するページがある。子宝を望む神社仏閣等を紹介しているのだが、その企画を進めるにあたって、NHKの「直伝 和の極意」にもレギュラー出演されていたテラタビスト(寺旅研究家)の吉田さらささんと出会った。
神社仏閣をしばしば訪ね歩き、詳しい吉田さんに、私は下世話ながらそのご利益の有無について尋ねてみた。
吉田さんのお答えは「ご利益はあるでしょう」。
そのご利益というのは、「気の持ちようみたいなところが大きいと思う」ということだった。その気持ちというのが、「神様(や仏さま)にお願いする」という気持ち、「こうやってお願いしたのだから・・・」という気持ち等々、そういう気の持ち方が大事なのでは?ということだった。そういうことが地道に効いてくるのだろうということだった。吉田さんご自身は宗教心が特に厚いというわけではないそうだが、神様(や仏さま)はひいては“自然”に通じるものであり、お参りをするということは自分の力ではどうにもならないような“自然”に対して、謙虚な気持ちでいるということになるのではないかしら・・・と話された。その言葉には、私もとても共感するところがあった。
私も12月21日に、「運」がいいのも本人次第と書いたが、まさにそういうことなのだろうと思った次第。。。
世の中には、自分の力だけではどうにもならないことがたくさんある。うまくいくことも自分の力だけでそううまくいくわけではない。そんなことを日々思いながら、仕事も謙虚に進めていきたいものだ。

2010年12月16日

仕事に「愛」は必要か?

先日、かつて勤務していた会社で後輩だった男と飲む機会があり、仕事観について話をした。
私は日頃、クライアントやパートナに対しての「愛」がない仕事はダメと公言している。一方で彼は「仕事に愛なんかいらない」とよく言っていたた。けれど、彼の仕事への姿勢や考え方は私とよく似ていたので、そのことについて私が彼に突っ込んでみた。彼の言葉によれば、それは「愛」ではなく「スキル」だということだったのだ。
「愛」ではなくて、クライアントに喜んでもらうための「スキル」。
「愛」という言葉の概念、捉え方が、私と彼と違ったようだ。彼が言うには、「仕事の上で喜んでほしい」というのは、個人的な感情ではなく、あくまでも仕事の上での話である。だからこそ、「愛」などという曖昧な言葉にはしたくない、仕事の上のことはスキルであるというのだ。ましてや、「人間力が求められる」などというのは、彼にとってあり得ない表現だという。なぜなら、本来人は、仕事だけでなく仕事以外の場面でさまざまなことがあるわけで、仕事のある一場面だけで問題があったとしても、それでその人が否定されるわけではない。「人間力」とか言ってしまうと、それはもはやその人を否定しかねないわけで、そんな表現は使いたくないし、それはあくまでも「スキル」であるはずだ・・・と。
なるほど。彼の考えを聞いて、私は妙に納得。そして、自分が情緒的でありすぎたことを反省する機会を得た。そう言えば、女はとかく情緒的、と世間では言われるなあ・・・などと違うことまで考えてしまった。
私にそういう思いをさせてくれた彼は、そもそも優秀なアドマンであるけれども、彼は、約10年前に私の部下であったこともある後輩だ。そういう人が自分を反省させたり納得させたり感動させたりする機会に出会うと、私はとてもうれしくなる。

2010年12月10日

運も実力のうち

私は、かなり若いころから自分のことを運のいい人間だと思っている。今でもそれは変わらない。
どのように運がいいのかと言えば、健康であること。大きな病気をすることなく、心身共に健康で、かなりの苦境やハードな場面に立たされても、体を壊すことはないし、多少寝なくても平気なくらいのタフさは持っている気がする。おかげで仕事でトラブルがあったときも、体力的に無理ができ、バタバタしながらも乗り切れたことは少なくない。就職してからは上司に恵まれた。何度かの人事異動を繰り返すも、いつもいい上司に恵まれていたように思う。そのおかげもあって、若い頃には分不相応にいい扱いを受けたり、実力以上のチャンスをもらうこともあったような気がする。そして何より、出会う人に恵まれている。仕事もプライベートも含めて、本当にいい人に出会ってきた。これは最大のラッキーだと思っている。
すごく優秀だけど、しばしば「運がいいね」と言われる男がいた。彼は、そう言われるたびに「ハイ!運だけで生きてますから!」と明るく返しているが、いやいや彼の場合は、周りの妬みもあって「運がいい」と言われるにすぎない。運がいい風に仕向けて行くために、彼は人の何倍も努力し、頭を使っていることが、私にはよくわかるのだ。
11月27日の朝日新聞で、勝間和代氏が「幸運は天から降ってこない」というコラムを書いていた。イギリスの心理学者の法則をベースに、幸運は天から降ってくるものではなく、心がけ次第で自分で見つけられるものだと最後に締めている。おもしろかったのは、運がいいか悪いかは、後天的な考え方や行動習慣から違いが現れるということ。運がいいと思っている人は、例え不幸があっても運が好転するし、うまくいくだろうという自信があるというのだ。
「運も実力のうち」とよく言われるのは、どうやらうそじゃなさそうだ。
小さいころから私を見てきた母は、私のことを「運が悪くてかわいそうだと思うのに、当の本人はなんとおめだたいこと!」と言って笑うが、とんでもない! 私自身はやっぱり運がいいと思っている。
勝間氏が紹介してくれた、心理学者ワイズマンの4つの法則は、私自身は知らないものだったが、意外と私の行動規範に合うもので、私をさらに幸運にしてくれそうな気もして、気分がよくなった。
私自身は前述の彼のように運がよくなるような努力をしているとはまるで言えないのだが、これからも運のいい人であり続けたいものだし、そう心がけていきたいと思う。

2010年12月5日

スジを通す

新たな分野の仕事を始める時には、たいていその業界やその分野に関連する資料を調べたり、関連する人を捜して話を聞く機会をうかがったりするようにしている。特に人の話を聞くことは、資料では計り知れないことがわかったり、裏事情をのぞけたりするので、大きな価値がある。
けれども、その業界や分野によっては、「人」にたどりつくのが意外と大変だったりする。というのも、「人」には“格”と言うのがあって、その“格”を無視すると面倒なことになるからだ(と思われる)。例えば、その分野の話を聞くには、まず誰に話を聞くかだが、ある人に話を聞いた後で他の人にも話が聞きたいとなる場合は、それぞれの“格”が問題になるのだ。はじめに聞いた人よりも“大物”に、あとから話を聞くわけにはいかないという場合が出てくることがある。まず聞くなら“大物”からで、“大物”から話を聞けなかったらその次の“大物”・・・という風に、スジを通さねばならない、とアドバイスをもらうことがあるのだ。
事情は推察できるので、私自身もその法則にのっとって動くようにはしている。けれども往々にして“大物”ご本人は、あまりそのようなことを気にしていないケースが多い。こちらの趣旨や目的が明確でさえあれば、とても気さくに話をしてくれたりする。そういうことを気にしているのは、ご本人よりもむしろ周りにいる人たちのような気がする。「○○さんをさしおいて・・・」ということなのだろう。
中に入る人や周りの人とも気持ちよく仕事を進める上で、スジを通すことは大事なことではあるけれど、それ以上に大事なことは、こちら側がどういう考え方で何のためにどんな話を聞きたいのかが明確であることだと思う。もちろん、ご本人に迷惑がかからないことは言うまでもない。

2010年11月24日

愛情表現から見るコミュニケーション

私自身は典型的な日本人だし、日本語以外の言語をまったく話せないので、日本語を話せない人と愛を育むなど、想像もできないことだ。けれども、一般に欧米の人はI love youを連発し、愛情表現が豊かだというのはよく言われることだし、きっと国際結婚した夫婦の場合は、愛情表現はかなり違うんだろうな・・・とおぼろげに感じていた。
先日、日本人と結婚し、日本でビジネスを展開しているインドの女性に会う機会があり、「日本人の男性は愛情表現が冷たいでしょう?」と聞いてみたところ、意外なことにその答えはNO!だった。彼女が言うには、「“I love you”など、言おうと思えば思っていなくてもいくらでも言える。日本の人はあまり言葉にしないけれど、日々の態度などで心を感じるから却って愛情の深さを感じる。」と言うのだ。
これは、夫婦という関係だからこその話なのかもしれない。それでも、心のないコミュニケーションなど意味がなく、愛情の安売りにしか映らないのだということを、改めて感じた。
ビジネスの上でも同じなのかもしれない。言葉にしなくては伝わらないことはたくさんる。けれども、心がこもっていなければ、結局は伝わらないに違いないのだ。
蛇足だが、彼女は「今はいいけれど、年をとったら日本には住みたくない。」と言う。日本は老人にやさしくない国だからと。実際、海外を渡り歩いた彼女の両親は、今、日本でもインドでもなく、ニュージーランドに住んでいるそうだ。老人にやさしくない国、日本は、今後どうなっていくのか。国際的にどのように見えていくのだろうか。

2010年11月4日

中国の活況

ビジネスで日本に来た中国からのお客様との会食があった。こちらは5名、先方は3名。先方の3名に加えて、こちら側の2名の合計5名が中国人だ。
こちらの中国人2名と、相手の1名が日本語と中国語を自由に話す。私自身はまったく中国語は話せないし、英語もほとんど無理な状態のドメスティック人間だ。それでも、会食中の中国人はやたら元気でよく話す。食事の場は大変な賑やかさだ。しかも会話のスピードも早い。通訳してもらいながらの会話になるので、話をするのに時間はかかるのだが、それでもスピード感は伝わってきて、話に勢いを感じる。
彼らは「ビジネスは政治よりも進んでいる」とサラリと言いながら、来春以降のビジネスの提案を次々と話題に出し、「日本は1億2000万人、アメリカは3億人、でも中国の人口は13億人だから。」と言う。これが勢いの源だ。
「銀座の土地は上海よりも安くて価値がある」と言う彼らの背景にあるのは、中国では70年後に土地を返還しなくてはならないという現実だ。日本の土地であれば子孫に残すことができるので、価格差以上に価値が高くなるのだ。しかも中国の人たちが土地を買うときはキャッシュで購入する。ローンなど組まない。威勢のいい話で、最近の私の身の回りにはあまりない空気感だ。
会話の端々から感じる中国の進歩は、日本から見たイメージとはかなりかけ離れている。私がイメージしていた中国は、どうやら20~30年前の中国のようだ。ちょっとした話題に「あ~、90年代の話ね・・・」と笑う彼らを見ると、彼らにとって90年代などもはや大昔なことなのがよくわかる。
ちなみに会食の場になった店(銀座のすき焼き屋さん)の仲居さんに話を聞いてみると、現在確かに中国のお客様は多いのだが、それでも2年前に比べればビジネス系のお客様は減ったようで、今はビジネスだけでなく観光で来店するお客様が多くなって生きているのが特徴だそうだ。

2010年10月28日

土壇場のキャンセル

依頼済みのことでキャンセルをするのは好ましくない。そんなことは当たり前のことだが、諸般の事情でやむなくキャンセルせざるを得ないことがある。
今回、既に発注済みであるにもかかわらず、キャンセルせざるを得ない事情が発生した。それもかなり直前のドタキャンだ。直前であればある程、キャンセルと言うのは、発注相手だけでなく、さまざまなその周辺にまで迷惑をかけることになる。できることならキャンセルは早めに、直前の場合はキャンセルは本来避けるべきだ。しかし急な事情でどうにもならなくて、キャンセルすることになってしまった。
まず、発注先にキャンセルする旨を連絡。ここでスムーズに話が済めばいいのだが、なかなかそうはいかない。感情的な不満や、その弊害の大きさなど、想定範囲内とは言え、実に心苦しいものだ。そういうことを一件落着させるほど、私には有効なノウハウなどない。
それでも、やはり大事なのは、本当にキャンセルせざるを得ないほどの事情なのか、相手から見てもやむなしと思ってもらえる内容なのか、がまず大前提だと思う。そのための熟慮なしに、迷惑をかけるような直前キャンセルなど、絶対にしてはならないのだ。そして、迷惑をかけて申し訳ないと心から思っているか、そしてそれがきちんと伝わるか、ということが次のステップだろう。
それが満たされたとしても、相手やその周囲に損害を与えるのは間違いないわけで、そこでどのようなお詫び(補償等)をするか、というのが次の段階になる。丸く収めるのは難しいことではあるが、最後は補償で納めるしかないケースもあるだろう。それでも、将来のことを考えれば、感情的な不満は最小限にしておきたいところである。
通常は電話とメールで連絡する相手ではあったが、今回、私はまず経緯の説明をしに訪問した。かなり険悪な状況ではあったが、相手の懐の大きさにも助けられてご理解をいただいた。さらに、改めてお詫びと補償の話をしに再訪問の形で出かけた。私自身、迷惑をかけた相手とその周囲には、心の底からから申し訳なく思っている。必ずしも100%ハッピーな解決をみたわけではないが、次回機会があればぜひまた・・・ということで決着ができた。結局のところ、ビジネス上でもそこに心がなければ、解決などできないと思い知った。
とは言うものの。今回の私の相手は、長いお付き合いがあったこと、相手の損害は大きかったがその方自身がいい人であったこと、などが今回は大きな助けになったのも、間違いない。

2010年10月21日

Twitterで奏効すること、しないこと

今週の週刊ダイヤモンドの特集は、「頑張らない介護&安心の老人ホーム」。
週刊ダイヤモンド編集部は、以前Twitter特集をやった時にその前から編集部がつぶやきまくり、本誌発売で一気にフォロワーを増やし、しかもTwitter上でも編集内容に関連してかなり盛り上がったことがある。今回の、介護特集については、編集部が発売前からつぶやきまくっていたものの、意外と反応は鈍かった。私自身は個人的に特集内容にとても興味を持っていたので、やや意外感があった。
と思っていたら、この介護特集の週刊ダイヤモンド、2万部の重版が発売日翌日の火曜日に決定していた。これで書店着は土曜日。もはや次の号の発売直前だ。この号の売れ行きのスピードがとても速かったことがわかるし、例え次号の直前であったとしてもまだまだ行けるという自負もあったのだろう。
週刊ダイヤモンドは、「FREE」や「電子書籍」の特集の時にも、編集部発の情報からスタートし、その後Twitter上では、掲載内容に関連して、一般の人たちでかなり盛り上がっていた。Twutterが販促に大きく貢献していく様子が、リアルタイムでわかったものだ。Twitterは、販促ツールとしてとてもおもしろいツールの一つだと、その時改めて私は感じたのだが、それはついこの前のことだ。
しかし今回の介護特集の場合で考えると、やはり今までの層とは明らかに違う層が反応(購入)したことがよくわかる。特集が大きな個性になっている週刊ダイヤモンドだからこそ、このように号によって大きな違いが出てくるのだろう。それにしても今回の週刊ダイヤモンドを購入した人たちは、どこで情報を得たのだろう。重版と言うことだから、定期購読等の恒常的読者ではない、スポット読者がかなり多くいたはずで、それは本屋さんの平積みを見て衝動買いが多かった、ということになるのだろうか。
本屋さんに来る人(ネット書店ではなく)にとって、介護や老人ホームというテーマが、身近で関心の高いテーマだとも言えるのかもしれない。

2010年10月14日

普通の人の「死」の捉え方

私事の話題で恐縮だが、今月、身内に不幸があった。
余命が限られた病気の宣告から亡くなるまでの間、今の医療の在り方、「死」の意味、死の捉え方と迎え方、家族としての送り方等々、考えさせられることが多い1年だった。中でも、気になったのは人生哲学や倫理観をたびたび問われたことである。
今の世の中、完治の見込みがない病気になった場合、医療機関は、おそらく患者本人にその事実をごく普通に伝える。今や、患者以外の家族だけに伝える、というケースは稀のようだ。インフォームドコンセントの重要性が言われて久しい今、病名についても「事実を伝える」ことが当たり前になっている。そのため、患者本人が例え知りたくなかったと後で思うかもしれなくても、事実は正しく伝えられるので、「知らずにいる権利」を守られることはないのだ。さらに、治療法に関しても、医師からいくつかの治療法が提示されるが、選ぶのは患者本人である。基本的には医師は選択肢を提示するまでである。その時に「患者さんの人生哲学や倫理感によって、どのような選択をするかが決まりますよ」と言われるのである。
本来、これは正しいことなのだろうが、それにきちんと対応できる患者は、果たしてどれくらいいるのだろうか?
日々自らの「人生」や「死」について考え、自分の倫理観を確立できている人は、どの程度いるのだろうか?
まず、患者にとっては、完治の望みが薄い病気にかかったという事実を受け入れること自体が、大変な作業であるのは間違いない。そしてそれを受け入れがたい人も数多く存在するであろうし、告知が原因で、もっと大変な問題が出てくることだってあるだろう。治療法の選択肢についても、確かに医師は細かく説明してくれはするが、そもそもベースの医学的知識が希薄な者にとっては、正しく理解することは容易ではない。
私の身内は、治療法を選択する段階では、いみじくも「先生の言う通りにしたい」と言った。
“自分のことは自分で決める”という考え方は、私自身は共感する。けれども、誰もがそう思うわけではない。日々そういうことなど考えずに生きている人は、少なくないはずだ。それに自分で決めずに済むことは、精神的に楽な面もあるし、“知らぬが仏”も事実だ。
人の権利とはなんだろうか? 人によって守りたい権利は千差万別なはずだ。
だから、一様にインフォームドコンセントの重要性を説き、事実を包み隠さず伝える今の医療の世界の正義は、必ずしも正しいとは、私には思えない。
身内のことながら、いい家族に恵まれ、お世話になった医療者の皆さまの説明やご厚意のおかげで、いい選択ができ、安らかな最期を迎えることができたと、今私は思うことができるが、なかなかそう思えないままに終わってしまうケースも多々あるだろうと思う。世の中には「死」を目前にしながらも生き抜く素晴らしさを伝える著書などは多く発行されているが、「普通の人」の死に方について、もう少し考えていければいいような気がする。

2010年10月8日

哀しいニュースと素敵なニュース

さて、先週末、業歴50年以上にもなる老舗広告代理店、中央宣興が事業停止し破産申請の準備に入ったというニュースが飛び込んできた。中央宣興は、ある時期、その仕事内容では高い評価を受けていたし、多くの社員を抱え、社員はクライアントのコミュニケーション活動を担っていたことを思うと、同じ業界にいた私には悲しいニュースである。
とは言え、景気低迷とともに、広告代理店の倒産は後を絶たない。「中央宣興が危ない」という噂はかなり前からたびたび耳にしていたし、特に驚くべき内容ではないのかもしれない。
ここで私が注目するのは、破産の事実よりも、その後のネット上での暴露情報である。業界内やその周辺にいる人たちから見れば、それら情報はある程度予測できることとは言え、経営陣への不信感や不満がネット上に一気に噴き出したのには驚いた。破産のニュースとともに、「中央宣興」で検索される数は大変なものになるはずだが、その検索結果に出てくるのは、大変な数の暴露情報が満載だからだ。
確かに中央宣興の経営陣は、暴露情報にあるように社員を大事にしていなかっただろうし、そのツケとしてこういうことになるのはやむを得ないことかもしれない。けれども、あっという間にここまでの情報がネット上に溢れてくるとは、つくづくネットは恐ろしいものだと感じる。そして、そういう情報が溢れてくることに哀しみを感じてしまう。こういう形で破産後に暴露される前に、もう少し早い段階でなんとかならなかったのだろうか?もう少し前に、マイナスのエネルギーをプラスに変えて、社員が路頭に迷うことなく破産に至らずに済ませることはできなかったのだろうか、と考えると哀しい。
一方で、嬉しいニュースは、ノーベル賞受賞のニュースだ。
さらにその事実以上に私が感動したのは、ノーベル賞を受賞した鈴木章さんのコメントだ。
「研究をやっていくと、人生においてもそうだと思いますが、何か機会に恵まれ、それを進めるとよい仕事ができるケースがある。こういうチャンスを神様は平等に与えて下さっていると思うんです。」「努力とか、注意深さとか、熱心さがないと幸運をキャッチできない。幸運をつかむ機会を大事にしなければいけないと私は考えています」「一生懸命やれば面白くなる。興味を持てば負担は感じないもの」「神が与える幸運もあるが、手を抜いては決して幸運はやってこない」「一生懸命やっていれば幸運にも恵まれる。」などなど。
そう、一生懸命の継続が幸運を呼ぶ、というその考え方は、とても素敵だ。私自身の信条に大いに重なるところだが、このコメントを知って、ますます私も日々そういう思いを抱いて仕事をしていきたいという思いを強くしたのである。

2010年10月1日

考える力とコミュニケーション力

9月1日にアップした「言葉の意味」からさらに1歩前に進めて考えてみたい。

難しい言葉で言うのは簡単だが、平易な言葉で言うのは難しい。本質まで理解していないと、平易な言葉にはできないからだ。だから難しい言葉でもっともらしく説明するのは、物事を理解していない証拠でもある。言葉をちゃんと理解しているかどうかは、そこに至るまでに自分の中できちんと考えているかどうかによるところが大きい。だから、難しい言葉の意味を理解しないまま使うと、思考停止にはまっていきかねない。
「コミュニケーション」とは、そういうことに裏打ちされた言葉を使って初めて成立するものだと私は考えている。だから、俗に言う「コミュニケーション能力」とは、物事の本質を理解できるかどうかの能力でもあるわけだ。その理解がなければ、相手に本質が伝わり分けなどあり得ないのだから。話し方や文章が上手かどうかなど、二の次、三の次だ。
インターネット環境やマニュアル文化が浸透し、仕事環境はとても便利になった。しかしそのせいで近視眼的にしか物事を見ない(=本質を理解しない)ままに仕事を進める人が、若い層で増えてきた感がある。“作業”が早いことが、“仕事”ができることであると勘違いするムードがあるのも一因かもしれない。ベテランが若い世代を便利使いし、「考える」「理解する」ことを重視しないために、「考える」ことを育む環境が減っている側面もあるのだろう。
しかし、例え今の“作業”が遅くとも、「考える」「理解する」ことを続けているかどうかは、数年後に大きな差が出てくるはずだ。それを放棄して“作業”ばかり早くなっても、いざ困難に直面した時に課題の発見も解決もできなくなるのは間違いないと、私は確信している。
今私が接している若手営業マンたちには、キャリアが浅い分、砂漠に水がしみ込むように少しづつステップアップしていくのを感じる。だからこそ、本当の意味でのコミュンケーション能力を、今の時期しっかり磨いてほしいと思うし、「考える」ことの重要性を感じ続けてほしいという思いを胸に、日々接している。

2010年9月14日

見せたい、見られたくない

東京マラソンの人気で皇居ランナーは大変な数だ。
皇居ランナーのウェアも多岐にわたり、特に女子のウェアはとても可愛いものが多い。ユニクロでもランナー用の速乾性ウェアが多くラインナップされている。ランナーの気持ちの中には、走っている姿を見せたい意識があるのを感じさせる。
見せたいのはランナーだけではない。ロードタイプの自転車もほぼ同様だ。今は「自転車」を「バイク」と呼ぶようだが、バイクはもちろんのこと、バイクに乗る人のウェアもデザイン性に富んだものが多く、見られることを明らかに意識して走っている。それは若者だけではない。中高年に至るまで、住宅街や公園などで黙々と歩いたり走ったりする人が多いし、休日の道路はおじさんバイカーであふれ、車が走りにくいほどだ。そしてみんな結構お洒落なのだ。
見せたい(見られたい)意識は、周りからの羨望や憧れを前提としているわけで、そういう意識のもとに成立するものは、市場も拡大していくのを期待させる。自然と「走ること」「自転車に乗ること」は時代にマッチしてカッコイイものなのだと私は思っていた。
しかし、地方に行くと少し事情が異なる。「歩いたり走ったりするのを見られたくない」と強く思うのだという。それは、周りがすべて知り合いなので、見られるとすぐに周りからあれこれ言われるのでそれがとても嫌だというのだ。その人は、健診で痩せるように言われたから何か運動をしなくてはと思ったのだが、歩いたり走ったりすれば「歩いているのね」「痩せたいの?」などと必ず言われることになる。周りから何か言われたくないので、人に見られない何かをと考え、家の中でできる運動を家族にも内緒で始めたのだという。
東京では体を鍛えたり、体を動かす姿勢は、むしろ周りに見せたい意識が少なからずあるのに、地方では間逆なのだ。私は不思議に感じた。
周りがすべて知り合いで、何をしているのか、何のためにしているのかを詮索される地方と、知り合いの方が少なくて、例え知り合いでもあまり他人の行動をあれこれ言わない都会との差なのだろうか。それとも、そもそも体を動かす美意識が根本的に違うのか。
「歩く」「走る」「自転車」など運動周辺のマーケットも、地域によって意識にはこんなにも差があり、マーケティングは一筋縄ではいかないものだ。
この見られたくないという地方の意識も、もう少し時間がたつと、「見せたい」意識へと都市化する日が来るのだろうか?

2010年9月8日

仕事がないのは景気のせい?

景気低迷の時代と言われるが、一方で人手が足りないという話も耳にする。
あるデザインプロダクションも、手が足りないのでデザイナーの求人活動をしているそうだが、採用に至る人に出会えないと言う。それなりにいい仕事の経験に恵まれ、十分なキャリアがある人がたくさん応募してくるにもかかわらずだ。
そのプロダクションの代表が言うには「うちでは戦力にならないから」。
時代がどんどん変化し、社会の仕組みも志向も嗜好もどんどん変化している。例えばデザイナーでも、大事なのはデザインが上手いかどうか以前に、、「今」を踏まえてどう表現するのかが重要になってくるのだ。過去の実績や経験が優れているとしても、それをどう今に生かすか・・・。
それが企画力や構成力につながってくるはずなのだが、大きい仕事ではスタッフ数も多く、意外と個人が「考える」ことを多少おろそかにしても、進んで行く。その蓄積の結果、新しい「今」をどうとらえ、どう構成して表現するのかが見えなくなっていくのだ。
今、景気低迷の中で、仕事が減っているのは確かなことかもしれない。実際、広告業界は確実にパイが縮小している。けれども、そういう時代だからこそ、(今までになかったような)新しい仕事の可能性はたくさんあるし、小さくても化けさせることも可能になってきたのだと私は信じたい。
前述のプロダクションに応募してくるのは、大きな仕事を経験してきた40歳前後のベテランデザイナーが多いそうだが、採用に至らない人たちに共通して言えるのは「今、仕事がない(=少ない)のを景気のせいにしている」ことだそうだ。
デザイナーに限る話ではない。仕事がないのは不景気のせいではないし、不景気のせいにしていては仕事なんて益々なくなって行く。プロダクションの人の話は、どんな仕事をしている人にも言えることだし、私自身も大いに共感と反省をする機会になった。

2010年9月1日

言葉の意味

私は、この春からある広告代理店の業務委託を受けて若手営業マンに対するアドバイスを行っている。若手営業マンとはキャリア3年以下の20代前半であるが、知識も経験も浅いので、少しの手助けや指導で、想像以上に効力を発揮し、日々成長するのを見るのは、私にとっても嬉しく意義深い。
その仕事を通じて、言葉のチカラや意味を理解する必要性を改めて実感する。
彼らはキャリアが浅いとは言え、広告業界に身を置くようになって新たに覚えた業界用語が、時とともに日常の言葉になってくる。それは、その言葉が業界だけに通じる言葉であることを忘れて行く危険性と隣り合わせだ。さらに深刻なのは、普通にその言葉を使いながら、その言葉の本当の意味を理解できているかが、私から見て微妙な気がすることだ。
専門用語に限らず、ビジネス用語などでも、本当の意味が曖昧なままに使用しているシーンには、一般的にしばしば出会うことがある。「効率的」「効果的」広告業界なら「イメージアップ」など、よく使われる言葉だが、どういう意味で「効率的」なのか、何と比べて「効果的」なのか、どんな「イメージアップ」なのか? それが相手にどこまで伝わっているのか? 例えば、「効率的」「効果的」「イメージアップ」などは、とても便利な言葉ではあるが、言っている本人がどこまできちんと消化して使っているのかどうか、疑問に思うことは多い。言葉を安易に使ってはいないだろうか?
昨今の学生時代から続くコピペ(コピー&ペースト)文化が、もっともらしい言葉を身近にするうえで大きな役割を果たしたと思うが、結果的に言葉を理解しないまま使う方向に向かわせたことで、結果的に思考停止になっていきかねないのだ。
日本語に堪能な外国人と日本語で会話をするときに、気の置けない相手だと、ちょっとした世間話であったとしても、「それはなに?」と突っ込まれることが少なくない。そういうときに、その日本語独特の表現について、言葉の意味を説明しようとするのだが、これが本当に難しい。その言葉の本質を理解しているかどうかを、自分に突きつけられたような気がするし、自分自身の理解の甘さにうんざりすることもある。
難しい言葉で言うのは簡単だが、平易な言葉で言うのは難しい。本質まで理解していないと、平易な言葉にはできないからだ。
だからビジネスの場面においても、難しい言葉でもっともらしく説明するのは、場合によっては物事を理解していない証拠でもあるのだ。

2010年8月25日

外から見た日本

前回に引き続き、中国の人から聞いた話を紹介したい。
その人は幼少の頃から親が日本在住だったが、自分自身は中国で祖母に育てられ、夏休みなどの長期の休みになると親に会いに日本に来ていた。
小学4年生のころ、親とともに暮らしたくて日本への移転を決意し、日本の公立小学校に転校する。結局は半年で中国に戻ることになるのだが、その半年間の日本での暮らしは、今までの人生の中でバラ色の暮らしだったと言う。あんなに楽しい時間はなかったと。
小学生だったその人は、当時まったく日本語も話せないのだが、子どもの間に言葉の壁など大きな問題ではなかったようだ。その人は隣の席に座る同級生に中国語で話し、同級生は話しかけられてもわからないし、当然のことながら日本語で応える。それでも笑顔と身振り手振りでコミュニケーションが図れて、楽しかったというのだ。
その「バラ色」な幸せとはいったいなんだろう? よくよく聞いてみると、表現しようもないほどの解放感だというのだ。子どもながらに「自由」とはなんとすばらしい!と実感したというのである。
日本語がわからないのでほとんどの授業はちんぷんかんぷんだったはずだが、算数だけは言葉が分からなくても数字だけ読めればいいので楽だったそうだ。何より、公立小学校の4年生に編入したが、日本の授業でやっていた算数は、中国で2年生の時に習ったことで、簡単で楽ちんそのもの。しかも宿題もなくて、子どもにとっては天国だったと。
けれどもすぐに、このままでは中国に戻ったらついていけなくなる、引いては中国で自分は生きていけなくなる、ということを子ども心に感じ始めたそうで、日本で一生暮らすのかどうかを散々悩んだ末、結局半年間でバラ色の経験を捨てて祖母のいる中国に戻るのである。
小学校4年生の子どもが、そんな風に感じる日本・・・。
今、日本が中国に抜かれるわけである。
結局、その人は中国に帰国した後、進路を選択する段階で、日本での半年間で感じた解放感や「自由」を懐かしく思い出し、いつかは日本で!と思いながら日本語が勉強できる大学を選択し、今、日本で働いているのである。
それにしても、今、日本で暮らしている日本人の中で、日本の「解放感」や「自由」を実感している人などいるだろうか?
当たり前になっている「自由」の価値を認識し、この環境に感謝しつつ日々仕事をしていきたいものだと、その人の話を聞いて私は改めて思うのである。 

2010年8月19日

中国の底力

元大学教授の恩師が4週間滞在したイギリスから帰国し、会うことになった。私が最近担当した仕事でお世話になったからだ。先生は御年70代中盤。大学をリタイヤ後、他の大学その他から数々の仕事のオファーがあったものの、今までにやりたかったけど忙しくてできなかったことをする時間に充てるためにほとんど断ったと言う。そのやりたかったことというのが語学の勉強だった。
先生はリタイヤ後、毎年この時期にイギリスのサマースクールに出かけ、語学勉強を軸にした寄宿舎生活を送っていらっしゃるそうだ。先生が参加するのは語学のクラスだが、そのプログラムは多岐に渡り、外国からの学生を受け入れるイギリスのサマースクールなので、世界各国から学生が集まっている。それが各国の経済事情と連動するようで、かつて参加者が多かった日本だが、今、日本人はめっきり少なくなったそうだ。その中で急速に増えているのがアラブ諸国だという。石油産出国だ。そういう国の学生はお金持ちのご子息が多いせいか、せっかく来ているのにあまり熱心に勉強しないと先生は笑ってらした。その次に多くなっているのが中国だという。しかも中国の人たちはとても熱心で、しかもとても英語が上手だそうだ。
ああ、ここでも中国か・・・。
私が現在接点がある20代前半の中国人にこの話をしたところ、中国国内でイギリスのサマースクールに行けるような人は、高級官僚かよっぽどのお金持ちでなければありえないだろうと笑った。おもしろいもので、中国共産党で国をこよなく愛していても、自分の子息には海外の教育を受けさせたいと願うのは、中国の中では当たり前のことらしい。20代前半の子が「自分に将来子供ができたとしたらやはり少しでも高い教育を受けさせ、経済的に可能であるなら海外に留学させたいと思うし、それは中国人の誰もが思うことだろう」と教育の重要性を語るのを聞いて、私は少しびっくりした。
その話をしてくれた中国人は、大学時代に日本語を勉強し、卒業直後に日本に住んでいる家族を頼って昨年日本に来てから、日本人と同じ土俵で就職活動をし、現在日本企業で働いている。。日本滞在1年なのに、日本人とほとんど変わらないくらいの日本語を上手に話し、英語も堪能で、しかも日常的に何事についてもとても勉強熱心だ。
元大学教授だった先生も、イギリスのサマースクールで、中国人の勉強に対する必死さは見ていて清々しいくらいだったとおっしゃっていた。
世界的にも目を見張るほど経済成長著しい中国だが、その背景にはこうした中国の人たちの教育熱と、努力をおこたらず勉強熱心さがあるからこそ成長しているような気がする。

2010年8月9日

専門用語

メールやインターネットはもはやインフラなので、ビジネス上なくてはならないものであるのは、間違いないのだが、Web系業界の人と打ち合わせをする場面で、私はしばしば苦しくなる。(すべてのWeb業界の人と言うわけではないので、誤解のなきように)
なぜなら、彼らはまず話し方がそっけない(感じがする)。私から見るとロボットのようだ。そして会話の中にはWeb系用語が頻繁に飛び出すので、言葉の理解ができない私は質問を連発する。質問すれば彼らは丁寧に教えてくれるが、どうも「あなたのITリテラシーが低く、困ったもんだ」と思われているような空気を感じるのだ。
それは、多少被害妄想なのかもしれないが、私自身が自分の無知を恥ずかしく思っているコンプレックスや自己嫌悪がベースにあることも大きく影響しているのだと思う。
かつて広告業界は「ギョーカイ」と呼ばれ、仕事の場面以外でも専門用語を得意げに使って話す人がたくさんいた。バブル時代には、クライアントに対して説明しながら、「そんなことも知らないの?」「わからないなら、黙って我々に任せておけばいいのだ」という空気を醸し出しながら仕事をしていた人も少なくなかった。
どこの業界でもそうだと思うが、その業界で日常的に使う用語が、他の業界でも同様に理解されるとは限らない。しかし仕事を発注、受注する上では、用語はわからなくとも、意思疎通ができ、理解できなければ、本来仕事として成立しない。場合によっては、自分の知らない業界用語も覚えながら進めなくてはならないこともあるだろう。だから、相手にわかりにくい言葉は理解できるように説明しながら進めるのは、ビジネスをするうえで当たり前のことだ。
私の発していた言葉は相手に理解してもらえる言葉であっただろうか。そのつもりはなくても、専門用語で相手を煙に巻くようなことはなかっただろうか。
Web業界の人たちと接すると、長年広告業界で仕事をしていたころを振り返って、私は今さらながら反省するのである。そして、改めて言葉の意味や重みを常に感じながら仕事をしていきたいものだと思う。

2010年8月2日

「日本の食材帖」続編発行

昨年9月に発行した「日本の食材帖」(主婦と生活社)が好評だったことから、続編のレシピ本発行の企画が進み、このたび発行となった。
新たに発行したのは「日本の食材帖 実践レシピ」。
本書には、日本の代表的な食材、野菜・魚・肉を使ったさまざまなレシピが紹介されている。ご当地グルメや保存食なども網羅し、掲載されたレシピの数、500点。さらにレシピと合わせて、その素材がどのようにカラダにいいのかという栄養面の記述もある。
私は、その掲載レシピのネタ提供や栄養面の記述について執筆する形で参画した。
手前みそで恐縮だが、世の中に出回る料理本の中では、かなり便利な本に仕上がっていると思う。7月30日発行なので、まもなく書店に並ぶものと思われる。
前書に引き続き、日本の食材に興味のある皆さまのお役に立てれれば、と願っています。

2010年7月21日

年齢観

かつて国民的なファミリーだったサザエさんの磯野家の人の年齢について話題になった。
テレビでもやっていたそうだが、その年齢は、サザエさんは27歳(アニメ版は24歳)、お母さんの磯野フネは48歳(アニメ版は52歳)、お父さんの磯野波平は54歳だという。女優の黒木瞳が、磯野フネとほぼ同じ年ということになる。調べてみるとこの年齢は1949年を想定している年齢だそうだ。今から60年以上前の想定だ。
私の感覚では、あの磯野波平&フネ夫婦は、どうみても70歳以上。自分自身をフネと同じくらいの年齢だと自覚している50歳女性など、日本全国探してもおそらく一人もいないだろうし、見た目の雰囲気がフネのような女性も、なかなかお目にかかれないのではないだろうか? 今の感覚とは大きく異なる。
俗に、最近の○○歳代は若いなどと言われるが、そもそも年齢観が大きく変化しているのである。10年以上前から有望と言われるシルバーマーケットの商品開発をしている人が考える50代、60代、70代は、ちょっと前にイメージしていた50代、60代、70代とは明らかに変化しているのである。そんなことはとっくの前からわかっていたことではあったのだが、改めて磯野夫妻の年齢を知り、その思いを強くするのだ。
時代が刻々と変わっている。それも予想以上のスピードで。簡便化とかIT化とかはよく言われることだが、目に見えない感覚の変化は、目に見えるものよりも早いし、影響が大きい気がする。

2010年7月14日

「うまく言えないけれど」

動的平衡で有名な科学者、福岡博士は「うまく言えないけれど」を使わない、と自分に課しているそうだ。
それを知って、正直なところ私はハッとした。というのは、私は「うまく言えないけれど」を口癖のように使っていると改めて感じたからだ。「うまく言えないけれど」は、本当はいろいろ考えているけれど(実は考えていなくても相手にはどう思ってほしい)、適当な言葉が見つからないことを理由にして話をするときに、私は使っている気がする。考えてみれば「うまく言えないけれど」はかなりずるい表現だ。本当はちゃんと考えているのなら、伝わる言葉を探せばいいわけだし、ただフリをしているごまかし以外の何物でもないと思ったのだ。イタイ。
それにしても、自分が言葉を大事に選んでいるだろうか?と改めて思う。コミュニケーションに関わる仕事をする者として、今一度福岡博士の言葉を胸に刻みたいと思った。

2010年7月7日

権利は与えられるもの?勝ち取るもの?

前回は香港女性の意識について書いてみたが、もう少しオンナ問題について続けて書いてみたい。
とは言っても私が仕事を始めた頃の日本の話だ。当時はまだ男女雇用機会均等法前だった。お茶くみは普通だったし、お客さんと飲みに行けばデュエットとチークダンス。私はセクハラなんて言葉も知らなかったし、仕事の接待とはそういうものなのだと思っていた。それでも当時私が勤務していた会社は、男女関係なくいろいろな仕事のチャンスを与えくれたし、能力がなければ先輩が育ててくれた。そして私は少しづつ仕事を覚えながら、それとともに会社にいろいろな要求もできるようになっていったのだ。
男女雇用機会均等法が施行され、「セクハラ」という言葉を知らない人もいなくなり、いつのまにか仕事の上での「女性の権利」は勝ち取るものではなく、当然のようになってきた。オンナの私が言うのも変な話だが、そういう女性の与えられて当たり前の姿勢や意識に、私はやや違和感を感じている。何事も与えられて当たり前という風土・環境は、結局のところ、人の成長を止めるような気がする。勝ち取っていくための努力や智恵を積むからこそ、その価値が大きくなるし、勝ち取る者にとってはそのありがたみや充実感が増すのだと思う。勝ち取っていく作業は苦しい半面、男性にはできない作業だし、自分と格闘する絶好のチャンスでもある。
企業として女性を戦力化すべきと考えているファーストリテイリングの柳井社長は、女性が活躍するための制度を会社として用意するのは当然としながらも、その仕組み作りには女性が声を上げ、それを形にしていくことが望ましいと、朝日新聞のコラムで書いていたことがある。
その通りだと思う。私自身はあまり女性問題を考えることはないが、それでも女性が頑張る姿勢に接すると、つい自分自身の若かりし頃と重ねて応援したくなってしまうことがある。しかしその女性が長続きしなかったり、簡単に物事をあきらめたりするのに接して、残念に思うことが少なくない。
今や日本では、専業主婦志向の大学生(女子)が増え、私のような考えはもはや前時代的なのかもしれない。でも仕事を通じて、そしてひとつづつ働く上での仕組みやチャンスを手に入れていきながら、自分にとって心地よい環境を手に入れていくことは、必ず自分自身の成長につながるのではないかと私は思う。

2010年7月2日

香港の女性たち

前回、スピード時代について書いたにもかかわらず、全く更新ができないまま2週間が過ぎてしまった。スピード時代と逆行したBlogになってしまった。日々の業務や雑事に追われる中で、ついつい遅れがちになってしまうのだが、「スピード時代」について前回書いていただけに、お恥ずかしい限りだ。
さて、今回は香港の女性について書こうと思う。
仕事の関係で、香港や中国の人と接する機会がある。仕事の話だけでなく、それぞれのお国柄や価値観、意識の話を聞けることが私にとっては興味深い。特に仕事関係の資料などではなかなか見えてこない“気持ち”に関わるテーマはおもしろい。
先日聞いた香港の女性の話によれば、香港の女性は仕事場に化粧をしていくことはないという。日ごろ化粧をしない、というわけではなく、仕事の場に「女」を持ち込まないということだそうだ。仕事はスキルを提供する場であるのだから、そういう場でお洒落をしたり化粧をしたりといった“チャラチャラしたこと”を持ち込む女性は、ちゃんとした女性から見ると軽蔑に値する、と言うのだ。だからと言って香港の女性がきれいにしないのかと言ったらそうではなく、香港の女性は恋人の前ではお洒落をし、きれいに化粧をする。「女」であることは彼の前だけでいいのだから、彼女はとさらりと言ってのけた。
香港の女性は、しばしば「強い」と言われる。実際、男を立てることもなく、カップルを見ていても、どちらかと言うと男が女の後をついているような感じだ。共働きは当たり前だし、仕事の上司やボスは女性のケースが多い。どうやら、その背景には環境的なものが大きいようだ。
香港では、かなり前から大体どこの家庭でもお手伝いさんがいるのが一般的で、妻(母)は家事をしないと言う。朝食からお粥などの外食も一般的だし、食事の宅配のようなケータリングも充実しているので、食事作りの必要がない。洗濯や掃除などの家事はお手伝いさんがやってくれるので、主婦(妻、母)の仕事として家事が必要ないのだ。子どもが小さい時は子育てもお手伝いさんが熱心にやってくれるので、母親は普通に仕事を続け、子育てというよりはスキンシップやコミュニケーションなどの愛情を注ぐことに集中すればよいのだ。
そう言えば、かつて私が香港に遊びに行ったとき、日曜日の公園がフィリピン人であふれかえっているのを見たことがある。フィリピンの人たちは皆、香港の人に雇われているお手伝いさんだそうで、日曜日はお休みなので、公園に集まるのだという話を聞いたことがある。
香港の共働き夫婦にとっては、お手伝いさんの費用は世帯収入の15%程度なのでそう負担もなく、女性にとってはストレスなく働くことができるのだという。そういう話をいろいろしてくれた彼女(香港女性)はまだ20代の独身で、今、日本と香港を頻繁に往復している。日本企業と仕事をする中で日本人の価値観や女性観、仕事意識をよく理解しているので、彼女は日本で仕事をするときはスーツを着て化粧をし、仕事場の男性をきちんと立てて仕事をしている。
国が変わると意識や価値観が変わる。円滑に仕事を進めていく上では、そういった価値観を踏まえてコミュニケーションをとらなければならないことを、彼女を見ていて改めて感じる。あらゆる場面で国境の壁がどんどん低くなる今、そういう意識を磨くことも見過ごすことができないはずだ。

2010年6月16日

スピード時代

サッカーのワールドカップが始まった。私自身は特にサッカーのファンというわけではないが、ワールドカップは国民的お祭り。初戦のカメルーン戦は、当然生中継観戦することになった。
サッカーファンでない私でも、1-0の勝利は本当によかったと思う。社会がなんとなく暗く、景気・経済もなかなか上向かない今、「日本勝利」は社会を明るくする素材にすらなる。あの北朝鮮でも、北朝鮮が負けた試合でも中継しているそうだ。頑張っている姿は国民の意識を元気にするからではないかと「コリア・レポート」の辺真一氏がテレビで語っていた。
電車の中は携帯やゲームばかりで、雑誌を読む人などなかなか目にすることができない今なのに、ワールドカップ初戦が近づくとともに、その特集の雑誌「graphic Number」を電車の中で読む人を、私は何人も目にした。世の中がサッカーに夢中になっている空気がある。
その初戦で勝利を決めた10時間後に、その様子が掲載された「サッカーマガジン」が配本された。発売日は配本日の翌日。試合が終わったのは午前1時である。私がその「サッカーマガジン」を見せてもらったのは午前11時だ。半日もたっていない。本田のゴールを決めたシーンはもちろん、その試合の数々の写真とその様子が、新聞ではなく、雑誌で掲載されている。 いったい、何時に出来上がっていたのだろう? 昨日全国に配本され、今日はその発売日。おそらく多くの人たちが、その「サッカーマガジン」を手にしているに違いない。
インターネットや電子メールがあたりまえのインフラになり、24時間動き続けるのがあたりまえになったとは言え、その記事を書いたライター、デザインをした人、そして印刷、製本・・・10時間で仕上げるシステムはすばらしい。もちろん、その裏では大変厳しい労働を強いられている人が多くいることは間違いないのだろうが・・・。とは言え、そのスピードに改めて驚いた。さらに、この国民的お祭りで、それに夢中になる空気があるのだから、確実にその情報を待つ人は増えていて、出版社はその商機をきっちりつかんでいく。それは、社会を明るくしたり、元気にしたりすることにも、必ずや貢献するに違いない。

2010年6月7日

日本ブランドと憧れ

日本の安心安全ブランドについては、いろいろな場所で報じられているが、日本の中で暮らしていると、そのブランド価値については、あまり実感できるものではない。私自身は「そんなものかしら・・・」程度に感じていたのだが、最近それをリアルに感じる話をいくつか聞いた。

海外では日本車への人気は高く、日本車の中古車は高額で取引される。そういう中で、日本車の中古車を定期的定量的に取引できるルートをどう確保するかが課題になる。ある知り合いは、ヨルダンの人からそういう相談を受けたということだが、需要の方が大きくてなかなかそれに応えることができず残念がっていた。
中国では、食品や医薬品・化粧品について、日本ブランドが高く位置づけられている。中国人の話によれば、中国人自身も「中国製品は少し怪しくて信用できない。」と考えており、できることなら日本製品を購入したいと考えていると言う。経済的に余裕があれば日本製品を購入するのはもはや当然で、お金がないからやむなく中国製品で我慢しているのだと言う。その分、中国人はカラダに免疫ができていて、悪いものが体内に入っても、日本人のようにひ弱ではなく、体が対応できるくらい強くなっているのだと笑っていた。
香港では、ファッションも、イケメンも、日本がお手本だという。日本は憧れの対象であり、まさにファッションはそのように位置づけられる。これは中国の都心部でも似たような傾向がある。雑誌も、一部中国の言葉に書き換えられた日本のファッション誌を愛読し、そのスタイルをお手本にしている。なぜそうなったのか?・・・それは今の香港の若者の、憧れのエンターテイメントは日本のコンテンツだったからと言う。子ども時代に好きだったのは「セーラームーン」。青春時代にジャニーズ系のアイドルに憧れ、
ジャニーズ系アイドルの国、日本に強く憧れてきた。二十歳を超えると、人によっては何度も日本に来ている。都市部だけでなく、全国の観光地を巡っている人も少なくない。ジャニーズが生まれた日本を知りたい、観光に行きたい、という気持ちからなのだと言う。そしてさらに日本語を勉強するようになるのだ。香港の女の子にとっては、SMAPはすごい人気だ。私が話を聞いた香港の女の子(25歳)はキムタクが大好きで、いつかキムタクと話ができるチャンスが来たときのためにと、日本語の勉強を始めたのだという。
それは昔々の日本で、ビートルズやハリウッド映画に夢中だった少年少女時代に欧米諸国に憧れ、欧米諸国の文化やブランドを好み、より深く知るために英語を頑張って勉強していた、30~40年前の日本の少年少女によく似ている。憧れる力が上昇志向へとつながってきたのだろう。
今、日本はどこに憧れているのだろう。何に憧れているのだろう。かつて憧れた欧米諸国を追い抜き、身近になってしまったため、目標や憧れなどを失ってしまったようだ。
憧れは、大きな力になる。憧れる気持ちがなくなった今、何に向かって進めばいいのかもわからなくなっているのかもしれない。

2010年5月31日

iPad 見た!

5月28日に発売になったiPad。アメリカでの販売は既に100万台を突破し、日本では予約開始日に行列ができ。そして発売前日にも店頭での徹夜行列がニュースになった。
私は、アップル信望者でもないし、iPhoneユーザーでもないし、自分自身がデジタルのリテラシーは著しく低いし(苦笑)・・・。アップルと言えば、唯一iPod(&iTune)のみヘビーユーザーであるものの、正直なところ、このブームの真髄についてよく理解できていなかった。
しかしながら、コミュニケーションを仕事にしている立場上、「知らない」ではすまされないし、情報収集は必須だ。けれど発売後の話では、行列のニュースに反して意外にも、iPadは売り切れというわけでもなく店舗に在庫は十分な様子だし、「な~んだ。しばらくは様子見だなあ。」などと思っていた。
そうしたところ、今朝の通勤電車の中で、偶然iPadを見た。座席でiPadを見ている人がいたのだ。日本での発売からわずか3日後・・・。いち早くiPadを入手したと思われる彼は、iPadで読書しているという様子ではなかったようだが、使い始めたばかりで各種アプリを確認中という感じだった。操作している様子はまさにiPhoneと同じ。確かに大きい。しかし、見るからに軽そうだった。だからどうというわけではないのだが、言葉にできない流れを感じた。内心「iPadなんて・・・」と軽視していた私は、今朝の電車のたった一人を見ただけで、いきなり「これはやはり来るに違いない」と確信してしまったのである。

2010年5月20日

デジタルの波

世の中のデジタルが進む中、私自身はITスキルがまるでついていかず、内心おいてきぼりを食らったような不安な感じを覚えることが少なくない。今さらデジタルかよ?!という感もあるが、それでも私が携帯も使うのは基本機能が中心だし、Webを見る時も、どうも出力したものを見ないと頭に入らないような気がする。話題のiPadで本を読むなど、私にとってはあまり現実味がないことだ。
それでも、Web&モバイルの展示会に行ってみることにした。
出展数は多かったがそのプレゼン方法はさまざまで、来場者に価値をアピールできているところは果たしてどこまであっただろう? 来場者のレベルも多様であろうから、一概には言えないが。しかし結論としてはとてもおもしろかった。有意義なイベントだった。
結局のところ、技術は進んでも、コミュニケーションとして誰にどう見せていくのか、を考えることで初めて、デジタル技術の価値を享受できることを再認識した。同時に、どんなことができるのかを知らないままでいることは大変な損失であることも、百も承知のつもりではあったが、改めて再認識した。コミュニケーションを生業にする者にとっては、そこをどうわかりやすく加工するかが仕事だ。
その昔、まだ印刷は写植文字で版下で入稿していた時代から、Macで原稿を制作する時代に変わっていくときに、コンピュータをバカにしていたデザイナー。その昔写真はフィルム中心だった時代に、デジタルの写真などは撮らないと言っていたカメラマン・・・・。それでも時代は確実に進み、もはやデジタルは避けて通れなくなった。今やメールは場合によっては電話よりも重要なインフラだ。
iPadで本なんか読まないと思っている私も、「そんなことを思ってたよなあ」と言う日が、いずれ来るのかもしれない。

2010年4月29日

百貨店になっているテレビ

百貨店の不振が続いている。今や百貨店は集客力のあるユニクロや無印などスペースを丸ごと貸しているケースも少なくない。
NHKは別にして、テレビ局のビジネスモデルは時間枠をスポンサーに販売する広告収入で成り立っている。景気が悪くなって広告が落ち込む中で、テレビでモノを売る「テレビショッピング」の形は少なくない。テレビ局にとっても、テレビショッピングによって収入が見込めれば悪くない話だ。キー局ではそう多くないが、BSやCS、地方局ではモノを販売するための番組がとても多くなっている。テレビ局は、放送する時間をクライアントに販売し、クライアントは商品を販売するための番組を持ち込んで、その買った枠で放送するのだ。
この仕組み、果たしてこのまま続くのだろうか?
本来、テレビ局は視聴者にとっておもしろい番組、有益な番組を制作し放送する。そのすきまでそこに接する人たちに対して広告を流す、ということで成立してきたのだ。コンテンツが勝負である。しかし、今やその番組枠自体を商品を販売する番組に差し替え、しかも局制作ではなく持ち込んだものをそのまま流しているのだ。本来勝負すべきコンテンツを手放していることになる。
確かにテレビの影響力は強いし、テレビを通してモノを売りたい会社は多い。私自身もそういう活動に携わってきた。しかし、コンテンツの魅力がなくなり、売らんかな情報が溢れるようになれば、視聴者は確実にテレビから離れていくのだ。目先の金が未来の金を奪っていることになる。テレビでモノを売りたかったはずの企業にとっても、すぐに思うような効果を得られなくなっていく。テレビ局のそれは、百貨店が自らのマーチャンダイジングを捨ててユニクロや無印に丸貸ししていることによく似ている。
クライアントの立場がテレビを使ってモノを売りたいと思うとき、将来を考えるとその活用方法としては、安易にショッピング番組を持ち込んでも決して長くは続かない。新しいテレビの使い方を考えなくてはならない。そのためには視聴者が望むもの、視聴者が楽しみにするものをどう提供するかが、まず大前提にあるべきだと思う。

2010年4月22日

すさまじい競争その2

前回、20社近い参加となるコンペについて書いたが、この智恵の提案競争ということについて、もう少し考えてみたい。
私たちのような、モノではなく智恵を売るサービス業の場合、勝負はその智恵の内容で行うは当然のことだ。けれどその智恵でアウトプットされたものはほぼ使い回しができるものではなく、大量販売も難しく、その智恵のアウトプットはそのお客さんのための、いわばオーダーメイドだ。ということは、コンペで出した智恵の結果(=アウトプット)が採用されなかった場合は、タダ。俗に言う「タダ同然」ではなくく、「タダ」そのものである。
これは今のデフレとか値下げとかではなく、もはや今はやりのFREEである。けれど、そのコンペで採用されなかった智恵は、他のお客さんの目に留まることもないので新たな商機もない。
そういう勝負を繰り返すのは、勝負で勝つことを目標に置くにしても、かなりしんどいことだ。
例のクライアントのコンペのプレゼンテーションの日は、もう目前だ。今、各社は見せ方の工夫など、ツメの作業に入っていることだろう。
しかし今回、私はあえてそのコンペでの勝負ををやめようと代理店に提案し、結果的に辞退を決断した。これは前向きな辞退だと思っている。
機会均等と言えば聞こえはいいが、このようなコンペでここまで多くの会社のプレゼンを受けようというクライアントは、結局のところ、いい智恵を得られなくなっていくのではないだろうか? ビジネスマナーとしてどうなんだろう?とも思ってしまう。
牛丼屋さんの世界では、この経済不況を受けて、価格勝負の値下げ競争が始まっている。最初のうちは消費者も安くなっていいのだろうが、そのうちその価格を維持(またはさらに値下げ)するために、会社によってはきっと品質がキープできなくなる。各社はコスト削減を繰り返すうちに、よほどの体力がないとどんどん疲弊していく。
これとまさしく同じようなことが、コミュニケーション活動のような智恵の勝負をする業界にも起きているのだ。
その渦中にいる者としては、この競争に勝ち続けるか、この競争から撤退して違った土俵で勝負するか、どちらかしかない。負けるかもしれない競争のために日々ボロボロになりながらがんばるなど、私はしたくないし、共に頑張る者たちのためにも、してはいけないと思う。
智恵は、違う土俵を探し、新しい企画のために使わなくてはいけないと思うのだ。

2010年4月14日

すさまじい競争

外注する場合に、業者を1社に絞らず、できるだけ多くの業者さんから見積や提案をもらうことは、もはや世の中の流れとして常識とも言えるかもしれない。
そうは言っても、今回のコンペには驚いた。
そのクライアントは、毎年4月に、出入り業者各社を集めて、12月までに納品してもらうものについてのオリエンテーションを行う。日常的な出入り業者だけでなく、希望があれば新規参入業者も、原則参加は可能だ。そして提案日は、オリエンテーションの約3週間後。
提案するのは、企画、デザインを含めたプロモーションツールだ。
去年は10社がオリエンテーションに参加した。私もそのうちの1社のスタッフとして参加し、高評価をもらいながらも獲得には至らなかった。
そして今年は・・・・・・、なんと19社がオリエンテーションに参加!ほぼ倍増だ。
経済が厳しいとはいえ、仕事獲得のチャンスがほしいとはいえ、これはいったい・・・・?!
仕事を獲得するために知恵を使う。これは当然のことではあるけれど、提案するにあたっての知恵も、本来なら有償のはずである。なぜなら、各社はモノではなくソフト=知恵を売っているわけなので。それがコンペであり、しかも19社から知恵を受けるしたら、金額ベースでどの程度の知恵が集まるのだろう。
クライアントにとってはありがたいし、すごいことではあるけれど、コンペの決定が出る会社以外には1銭も支払われないわけで、どこかで多くの誰かが泣いていることになる。結果的には体力勝負とも言えなくはない。このような競争は厳しい競争ではあるけれど、本当の意味でいい知恵を獲得するための正しい競争と言えるのか、疑問だ。・・・・こんな風に思うのは、昨年獲得できなかった者=私の負け惜しみなのだろうか。

2010年4月7日

同窓会気分

テレビ局や新聞社などが企画・招聘する世界的なイベントは多い。
著名なところでは「シルク・ドゥ・ソレイユ」の「コルテオ」。フジテレビが企画招聘していて、ダイハツが協賛している。
このようなイベントは、実際の運営にあたっては券売だけでは営業的に難しく、協賛をつけなくてはならない。協賛候補の企業にとっては、イベント協賛で直接的な売上アップを望むことはありえないし、協賛企業を募る営業は大変だ。イメージアップや知名度アップ、士気高揚や取引先への感謝などが、その目的にはなるが、今のような時代は特に厳しくなっている。イベントは、メジャーなものからマイナーなものまであるが、ほぼ定期的に日本にやってくるイベントもあるが、協賛企業は必ずしも毎回同じではない。 つまり、毎回協賛企業を募る営業活動がされているわけだ。
結果的には、そのイベントを応援したいという心意気(企業トップがそのイベントや芸術が好きなどを含む)に加え、周年事業など、何か企業にとって協賛するきっかけも、必要になってきたりすることも多い。
数年前に、テレビ局が企画招聘したあるイベントについて協賛プロモートを行い、クライアントが、当時全国10都市での公演に協賛した。そのイベントは、翌年以降は別の企業が協賛し、公演する都市は減ったものの、今でも定期的に公演が行われている、もはや恒例イベントだ。
先日、かつて協賛したクライアント企業の方々とともに、その公演を見に行った。公演内容はリニューアルされながらも、プログラムの基本線は変わらない形で構成されており、固定ファンをつかみ続ける理由が納得できる。お決まりな感じは、私たちにとっては懐かしさを誘い、協賛していた頃を彷彿させるものだった。
鑑賞後には当時のテレビ局イベント担当者、広告会社、協賛していたクライアント企業の方等そろっての軽い会食。今回の公演が当時に比べてどう違うか、当時の苦労や楽しかったことなどを思い思いに語るなど、同窓会気分だ。
イベント協賛というのは、そのイベントへの思い入れなどを育て上げていくプロセスがある。即効性はなく、コストパフォーマンスを問うには厳しい現実など、通常のプロモーションとは比べるには無理がある。企業にとってのイベント協賛の効果、価値は、消費者が主対象というよりはむしろ、インナープロモーションの側面が大きいと思う。関係企業や取引先、その担当窓口になる社員、ひては全社員やその家族。
さらに私たちにとっては、それが協賛後数年たってもこの公演がきっかけで当時の気持ちに戻れるわけで、それはまさに同窓会。そのクライアントとはイベント協賛後も日常の仕事は継続しているのだが、日常とは違う「同窓会」によって、クライアントとのリレーションを再確認できたりもするのだ。

2010年4月2日

入社式

昨日、4月1日は、各社で新入社員の入社式があった。昨夜や今朝のニュースでも、悲喜こもごもの入社式が報道されている。
リーマンショック以来の景気悪化で、就職しようという学生たちは大被害を受けている。4月直前まで就職先が決まらない人、数十~100社にトライしてNGをもらい続けた人・・・。
私の頃は、就職は売り手市場ではなかったが、氷河期でもなかった。10社以上受ける人はそうはいなくて、就職のための準備や勉強などはしないまま、学校や教授の推薦で入社する人も少なくなかった。私自身も、就職前に勉強することもなかったし、入社した頃には社会のことを何もわかっていなかった。
入社後のヒヨコ時代にバブル経済絶頂期を垣間見ていた。当時、上司や先輩は自信に充ち溢れていた。働けば働くほど売上が上がり、それを横目で見ていた私は、一生懸命頑張れば必ず報われるような気がしていた。大した働きもなく、ほとんど会社の役にも立ってなどいないのに、とりあえず頑張った私に対して、先輩は会社帰りに頻繁にご馳走してくれたものだ。
今の若者は、どうなんだろう。ゆとり教育後に訪れる異常な競争。多くの若者は、会社に入る前に何度も何度も各社から「あなたはいりません」とNGをくらい、自己嫌悪の塊のようになってから入社する。一方で一部の若者はいくつもの内定をもらって取捨選択して入社するのだから、自信満々(過信?)でエリート意識に溢れて入社するのだ。
彼ら、彼女らにとっての将来はどう見えるのだろう。社会に出る前に疲れきって、入社したら気が抜けてしまいはしないだろうか。希望を持って働くことができるだろうか。仕事の上で勝負に出ようと思えるようになるだろうか。
意味もわからず希望にあふれていた自分自身の昔を思うと、今の若者はとても気の毒だと思う。
いずれ、そういう人たちが中心となって日本経済を動かす時期がやってくる。そういう10~20年後、日本はどうなっているのだろう。
そんなことをと思うのは、私自身が単に年をとったということなのだろうか。かつて私の大先輩たちも私たちに対してそんなことを思っていただろうか? いや、そんなことはないだろう。やはり、若者が未来に希望を持てるような社会でなければ、若者自身も日本も成長できないはずだ。
だから、やはり今の若者はかわいそうだと思う。

2010年3月25日

アシスタント希望

営業アシスタントとして働いている、20代の女性たちの話を聞く機会があった。彼女たちはかつて自らの売上個人目標を背負った営業経験がある転職組で、営業経験があるからこそ、転職は「営業アシスタント」としての仕事を探したと言う。
私が社会に出た頃は、男性と女性の働き方には大きく差があった。女性はアシスタントとして働くのが普通だった。だから、男性のようにまかされる仕事をすることは目標であり、憧れだった。日々の仕事の中で、ひそかにそういうチャンスをうかがったものである。
転職組の彼女たちはコミュニケーション能力に優れているし、それなりに営業スキルもありそうだし、営業経験があるのなら、そのスキルを生かした仕事はいくらでもありそうだし、それによってステップアップすることもできるだろう。なぜアシスタントを希望するのか・・・? 私にとってはとても不思議だった。
しかし彼女たちが「営業アシスタント」を希望するには大きな理由があった。彼女たちはそれぞれ業界は異なったが、新卒後すぐに、営業職として就職した。数字ノルマを背負って飛び込み営業を基本とした営業を担当。毎日毎日つらく苦しい日々だったという。仕事を決める楽しさよりも数字に追いかけられる苦しさに潰されてしまったのだろう。
かつて、営業すればおもしろいように売れてどんどん数字を上げられていた私の時代とは大きく違っていた。今の時代、営業数字ノルマを背負い、その営業方法は飛び込み訪問を繰り返すだけという営業はつらいだろう。精神的にはかなりめげるだろう。へこむだろう。毎日毎日その繰り返しで、その苦しさの先にはどんな明るい未来があるか将来像を描けなくなると、逃げたくなるのもしょうがないのかもしれない。
彼女たちは口をそろえて、「今は数字の責任がなくてすごく楽。仕事も楽しくできる。」と言う。残業を厭うこともなく、営業の最前線で働く男性をしっかりフォローする優秀なアシスタントだ。営業経験があるからこそ、営業マンの先を読んだ動きもできるし、フォローは的確だ。
それを見て私は、結果としてこれでいいんだとは思うものの、大きなチャンスを逃しているような気がして、どこか残念な気がする。

2010年3月15日

自然体な文化、社風

ある出版社の社長と会うために、その会社を訪問した。その出版社は青月社。2005年創業だから、5年目になる。ビジネス書を中心に様々な分野の書籍を出版している。出版不況と言われている真っ最中の今だが、確実に成長し続けているというのは立派だ。出版に関わる誰もがハッピーで居続けられるようなビジネスモデルで出版を行っていることがその成功の秘訣なんだろうと思う。
その社長とは、私は初対面だった。まだ30代半ばに見受けられるような若いイケメン社長だった。
受付は電話だけ。昨今の受付は電話だけで受付嬢はいない、というのはもはや当たり前だが、その電話がプッシュ式ではなくダイヤル式。しかも、受話器は話すためのマイク部分と、音を聞くための部分が別物になっている昔風のこげ茶色の電話だったのには驚いた。さらに、打合せ室に通されたら、そこは床の間付きの和室で、靴を脱ぎ畳みの部屋に上がり、座布団の上に座って打合せが始まったのだ。その和室にも、受付にあったような昔風の電話がある。打合せの前に、ひとしきり昔風の電話や和室についての話に盛り上がった。そういう話に花が咲くのは、私に限ったことではないと言う。
けれども聞けばその電話は、普通のビジネスフォンで、外線も内線も可能で、音も普通の電話と変わらない。価格的にはそう高価でもないので・・・と社長は笑っていた。和室についても、社内に一間でいいから和室を作りたいと思って・・・と。社長は、いかにも「頑張りました!」みたいな気負いはまるでなく、屈託がなかった。
普通の会社にはないような場所(部屋)や小物を、遊び心で置いてしまう。でもそれに対して気負いは全然ない。こういうう自然な感じで仕事場を作っていく空気や文化が、おそらくここの会社の文化なんだろう。肩の力が抜けた感じが、私にはとても心地よく感じた。

2010年3月12日

研修の価値

広告担当者に対して、広告会社と共同でテレビ媒体について研修を行う機会があった。
テレビや新聞、雑誌など、昔からある広告媒体。でもその活用方法や価値、活用の仕方など、社内の知識や理解の共有も不十分であるケースが多く、改めてきちんと理解する機会はそうあるものではない。
広告会社が、日常的に媒体についてわかりやすく説明をするのは当然のことではあるが、体系立てて説明し、理解を深めてもらうには時間もかかり、なかなか徹底できないからだ。そういう中で、今回の研修となった。
この研修を行うことは、クライアントにとっては媒体をより効果的に活用することにつながるのはもちろんのことだが、広告会社にとっては理解を深めてもらうことで日常業務をよりスムーズに進行できることにもつながるので、双方にメリットがある。
今回の研修にあたっての資料等準備、さらに実際の研修場面での主なる説明は、広告会社の若手が中心になって進めた。近くで見ていた私は、研修準備を行った彼らが、誰よりも研修内容に関して深堀りでき、知識を体系化でき、今後の仕事を進める上で、大きな財産になったように思う。
君たち、先輩たちよりもはるかにプロフェッショナルになったね。

2010年3月8日

さかなの検定

検定が流行していると言われてずいぶんたつが、今年の5月に日本さかな検定の試験が始まる。
3月6日には、プレジデント社「dancyu」編集による、日本さかな検定公式ガイドブック「うまい魚がすべてわかる本」が発売になった。東京都内の書店では、この週末から平積みされている。
私自身はその昔(大昔?)、水産関係の仕事に携わっていた。当時から見ると、水産業界は大きく様変わりしている。街の魚屋さんが激減し、店で売られている魚の種類が激減した。高級でなかなか食べられなかった魚の値が下がり、日常的に食べられるようになった魚が多い一方で、日常的だったはずの魚の中には漁獲量が激減して高嶺の花になった魚もある。
1匹売りから、切り身やパック販売が主流になり、魚の料理の機会も方法も変わりつつある。
魚食は日本の食文化の象徴でもあり、魚の知識を広め、普及啓蒙を図ることは、日本文化の継承につながることでもある。
この検定事業がどこまで拡大していくかは、日本の食文化を継承できるかどうかにもつながるのかもしれない。

2010年3月2日

結果とプロセス

若手とともに進めていた仕事でミスが起きた。
実は、前にも同じメンバーで同じようなミスが起きたことがある。その時には、どのようなリカバーをするか?と、早急な対処方法を検討した。同時に、なぜそのようなミスが起きたのか?二度とこのようなことが起きないようにどうしたらいいか?と、今後の仕事の進め方について、関係者でずいぶん話し合った。
にもかかわらず、再び同様のミスが起きた。担当の若手は、前回の経験をもとに、早急にリカバーのための対処方法を出し、すぐにクライアントへの報告し、これにて終了!だった。
が、しかし・・・・ちょっと待て。前回のミスで、その原因を分析し、二度と起きないための対策を講じたはずなのに、なぜ再び、しかも同様のトラブルが起きたのだろう? 担当者はそこに言及しないばかりか、思いも至らなかったようだ。

確かに、ミスったことでどう謝罪するか、謝罪を形としてどう見せるのか?が結果だ。それは大事なことであり、速やかな対応も重要だ。そこまでは正しい。しかし、そこに至るまでの経緯や問題点をそのままにすれば、同じようなミスは何度も起きる。だから、対応策をすぐ出していくことも重要だが、それまでのプロセスは、それ以上に重要なのだと私は考える。
成果報酬が当たり前になり、プロセスよりも結果重視の世の中になり、途中経過をしっかり認識しようとしなくなった影響だと思う。特に若手はそういうプロセス重視の文化自体を経験していないのだから。

ミスやトラブルが起きるのは仕方がない。仕事をしなければ問題も起きないのだから。たとえ、その場がうまく解決できたとしても、そうなったときにどう考え、どう行動するかが、今後の仕事の質に大きな差が出てくるのは間違いないと思う。

2010年2月23日

2009年 日本の広告費

昨日電通が発表した「2009年 日本の広告費」。全体で前年比11.5%減。そして、媒体別の金額では、初めてインターネット広告が新聞広告を上回り、テレビに次ぐ第2位の媒体になった。
このニュースは、昨夜NHKでも報道されていた。民放のニュースでは私は見かけなかったが、これは偶々なのか、それとも広告頼みの民放テレビ局にとっては脅威だから報道しなかったのか・・・。
そういえば、その昔、インターネット広告がラジオ広告をぬいて、媒体で4位になった時、大ニュースになったなあ・・・と思い出す。
ニュースではインターネット広告の話にスポットが当たっているが、むしろ深刻なのは、新聞が18.6%減、そして雑誌が25.6%減という数字だ。活字媒体が苦戦している。苦戦する雑誌業界でも、新興出版社一部の雑誌が健闘しているという状況を考えると、老舗の出版社の苦境がいかに大変なものかがよくわかる。活字への接触が猛スピードで減っているのだろう。この数字は今後復活する時が来るのだろうか?
この統計は金額。インターネット広告は、全体に比較的安価であることを考えれば、その活用の広がりは大変なものであることが想像できる。しかもクリック保証など、効果がある程度見えるものも多く、広告業界にとっては、今までの広告ビジネスからの転換も考慮せざるを得なくなる時期に確実に入ったと言える。広告費をベースにしたビジネスモデル自体が壊れようとしている。
それでも私は、広告でモノは売れ、人の気持ちが変わる、ということを否定しない。ただ、広告とのつき合い方が変わったのだ。広告主も。消費者も。それを忘れると、大やけどをしそうだ。

2010年2月15日

「何回言ったらわかるの?!」

「何回言ったらわかるの?」子どものころによく言われた言葉だ。
中小企業の経営者向けにメルマガを発行している経営コンサルタントが、「教育とは言ってみれば“思い込ませること”、相手の思考をAからBに動かすものだということをわかった上で、同じ人間に同じ話を400回言えるかどうかだ。」と解説している。 「文化とか伝統とかいうものは、こうやって作るのだ」と解説している。
子どもの頃、同じことを2回・3回と言われ、「何回言ったらわかるの?」とよく言われたものだ。仕事を始めてからも先輩からそう言われたことを思い出す。私自身も、若手と仕事を進める場面でしばしば言う言葉でもある。それでも私が言うときは、せいぜい3回~5回同じことを言い続けた結果使う言葉である。しかし400回とはすごい数だ。これには驚いた。
なるほど、人を育てようとしたら、400回言わなくてはいけないのか・・・・。
それだけのエネルギーがなくては、文化や伝統は作り上げることができないということなのだろう。
ただ、「教育とは“思い込ませる”“相手の思考を動かす”」という表現が少々気にかかった。
そういうことよりも、言う(=教える)側は400回言い続けられるだけの熱意が必要だし、聞く(=教わる)側は何回も聞くたびにそれを受け入れられる心があるかどうかがむしろ重要な気がする。表面上は聞いていても、心に届いていなければ意味はない。結果、納得しなければ400回が500回になったとしても無駄になってしまう。
言う方も400回言い続けられるだけの熱意が必要であり、それだけの熱意があれば、400回にまでならなくても、言葉は届くはずだ。
結局、それは愛情だったり、信頼感だったり、リスペクトできるかどうかだったり、などの別の要素が、回数よりも重要になってくるような気がする。
これは教育だけでなく、あらゆる場面でも同じことが言えると思う。

2010年2月10日

Made in Japan神話は大丈夫か?

今週は、キリンとサントリーの合併破談、トヨタのプリウスリコール問題と、日本の産業界のビッグニュースが広がった。どちらも衝撃的なニュースだ。
キリンとサントリーは、当初から社風がこんなに違う会社が一緒になって、どうやって仲良くやっていくのだろうか?と興味深かったが、結局統合比率の問題から破談になったようで、「どうやって仲良くなっていくか」を見ることはできなくなった。
さて、気になるのはトヨタのプリウスリコール問題である。
私が愛読するメルマガでは、ビッグスリーの更生中であるアメリカの意図を指摘していた。確かにトヨタ側の問題も否定できないものの、そのような国レベルの意図が働くというのは、トヨタにとって悩ましいことである。
さらに気になるのは、このニュースが世界的に大きく発信されていることである。日本を代表する製造業、トヨタのリコール問題だ。それが世界中に配信されるのである。ニュースに接して一般消費者は、「あのトヨタが・・・!」と思うだろう。
ファッションも、雑貨も、車も、日本製の商品は高い価格帯で販売されている。中国の富裕層からは強い支持を得ている。それは「Made in Japan」はしっかりしたモノづくりをしていて、安心・安全な商品であり、高級品だから、というイメージがあるからだ。特にアジア諸国に広がる「Made in Japan」に対する信頼と憧れ。日本ブランドができあがっているのだ。このイメージが、日本の製造業を代表するトヨタのニュースをきっかけに崩れていきはしないだろうか。
今や農産物に至るまで多種多様の業界製品が、「日本ブランド」でアジア市場に高価格帯の商品で商売をしている。私の関係するクライアントさんも、そのブランドに支えられてアジア市場で健闘している。
「日本ブランド」の財産とも言える「憧れ感」は、一朝一夕で築けるものではない。トヨタ1社のニュースが(ホンダのニュースも出始めたが)、日本の製造業全体に影を落とすことがなければいいが・・・と、私は危惧するのである。

2010年2月4日

ツイッターの旅・・・?!

アメリカのオバマ選で一般的になったツイッター。
その内容や価値は、理屈の上では理解していた(つもりだった)。その昔、携帯やメールが限られた人だけの時代から日常のインフラに変わったように、ツイッターもそうなるかもしれない。そう感じてはいるが、自分自身が実際にやるところまではなかなかいかなかった。
しかし、1月23日発売の週刊ダイヤモンドの第1特集は「2010年ツイッターの旅」。概念はわかるものの、果たしてそんなに効果があるのか半信半疑だ・・・。
しかし企業がツイッターを取り入れてしっかり販促面で効果を上げているという実績がある。2009年後半からのスタートで・・・。これは広告業界にとっては大きな脅威だ。ツイッターに市場を奪われるかも、とびくびくしている業界は多種多様のようだが、広告業界もその一つだろう。場合によっては広告不要論も出てくるだろう。
広告不要?! それでようやく、私も重い腰を上げる気になった。
まずはアカウントをとって・・・・。
つぶやきねぇ・・・・・・3日たつが、ユーザーとしてそのおもしろさや奥深さについて、残念ながら実感としては感じ切れていない。 使いこなせていないせいなのか、文化が合わないからなのか、それもまだわからない。

2010年1月26日

コラボは皆ハッピィを目指したい

販促プロモーションを考える上で、異なる業態とのコラボを検討したいがどうしたらいいだろうか?という相談を受けた。
その企業の新商品のコンセプトと、よく似たコンセプトの商品が新発売される。異なる業界、異なる商品で。せっかくなので、コラボできないだろうか・・・?と、その担当者は考えたのだ。今の時代、どこも厳しいし、できるだけコストを抑えたいのはもはや常識。お互いにメリットがあるのであれば、いい話だ。ぜひ進めたいものである。
その発案者は、その進め方や具体的なコラボ案について考えがまとまりきらなかったようで悩んでいた。進めるにあたって、具体的にどんなコラボをしたいとか、どんな販促プロモーションをしたいとか、明確なケースは多々あるだろうが、必ずしも明確なコラボイメージがなくても、お互いにメリットを得られる方向を目指しながら交渉していくのは大いに意味があると思う。
大事なのは、それによってどれだけメリットを得られるか。そしてコラボ相手にもどれだけメリットを与えられるかだ。双方の商品の顧客ターゲットの一致、コンセプトの一致、ストーリー性などなどの素材を利用して、結果的に、顧客側に双方の商品がわかりやすくなったり、話題性が高まったり、情報発信の広がりが出たり、購入(=販売)チャンスが増えたりするのであれば、それは、双方の企業がメリットを得られるだけでなく、顧客側もメリットを受けられる。

相互メリットを考える時は、その企業やコラボ先企業だけでなく、消費者等顧客メリットもぐんと高まるように、皆がハッピーになる方向を模索していきたいものだ。

2010年1月22日

新サービス開始

昨年から準備を進めていた新規事業が、ようやくスタートした。
「大人の発表会」というサービスだ。
同窓会やウェディングの代行業ならいくつかある。個人向けのコンシェルジュ的なサービスも最近はいくつか出始めている。けれども、「大人の発表会」に類似するのサービスは、おそらく今どこにもないのではないだろうか・・・?
写真、絵、陶芸、コレクション、料理、楽器演奏などなど、自分の趣味を発表しようというものだ。自分が見せたいものを“発表”する、というパーソナルなイベントを通じて、家族親戚が集まったり、旧交を温めたり、新しい出会いが生まれたり・・・・人と人とのつながりを深められればと願ってスタートさせた。
今までコミュニケーション活動にまつわる仕事を長いことしてきたが、“パーソナルな幸せ”づくりに貢献できるような新規事業がしたいと考えてきた。今までのノウハウをパーソナル需要に生かせればと思っている。今回事業を始める上で、多くの新たな気づきがあったので、今後少しづつこのBlogでもご紹介していこうと思う。
この新サービス「大人の発表会」が、多くの人の生活に潤いを持たせるはずだし、発表者本人はもちろん、それを見に行く周囲の人たちも楽しい気持ちになってもらえれば願っている。
暗い時代だからこそ、そういう明るい場の提供をどんどんしていきたいと思う。

皆様のご支援をよろしくお願いいたします。

2010年1月13日

世論と政策

今年になって、住宅版エコポイント制度に関する話題を耳にすることが多くなった。省エネに寄与するエコリフォームに対して、エコポイントが付与されるというものだ。

昨年、家電業界が厳しい不景気の中でも省エネ家電で活況を呈したこともあり、その続編でもある。鳩山政権で大幅なCO2削減を掲げたこともあり、住宅(周辺含む)業界は、今年、この制度をきっかけに各社大きなプロモーションを仕掛けてくるだろう。
私も、若干それに関わる仕事に関わったりもした。

環境問題が叫ばれ始めてから、いったいどのくらいたつだろうか。

かつては環境に配慮したことを訴えても、どうしても価格が高くなって、売上にはなかなかな貢献できなかった。かなり環境意識の高い人だけしか受け入れにくいもので、ものづくりの過程で環境負荷を減らすことで価格転嫁することは、なかなか一般消費者に受け入れられにくかった。当時、環境意識の高い人はマイノリティだった。
そんな頃から今の時代、あれから10年くらいたつのだろうか・・・? 今や環境への取り組みは当たり前、そうでないことは恥ずかしいくらいだ。環境意識の希薄な人がマイノリティになった。先日、自動車販売台数ベストテンがニュースになっていたが、当然のことながらハイブリッドカーの台頭が目覚しく、かつてのランキングと比べて、車種は様変わりしている。これは、世論だけでなく税制など政治の力が大きかった。

ある時期、マイノリティだったものがマジョリティになるために、税制やエコポイントなどのような政策、政治方針が大きなきっかけになる。世の中の環境意識が高まり、誰もが地球に優しい暮らし方を志向するのはすばらしいことだ。環境に真摯に取り組む鳩山政権は評価したい。
けれども、もしもそういう政策がなく、世論(PR等を含めて)だけの力でここまで意識を変えることができないのだとしたら、コミュにケーション活動を仕事にする私にとっては、少し残念な話でもある。

2010年1月6日

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

世の中の動きからすると、やや出遅れの感がありますね。申し訳ありません。



正直なところを言うと、昨日いきなりプロモーション企画のプレゼンがあり、年末から年始にかけてはそのための準備で、新年ご挨拶どころではなかったのが実情だ。
2010年にスタートするプロモーションについての数社コンペで、年末にオリエンテーションがあり、プレゼンは5日。厳しい経済環境の中、企業は生き残りと売上確保に必死だ。無駄な時間を作らないためにも、世の中が休みの間を有効に使った(?)というわけだろう。
当方のプレゼンは最後だったこともあり、プレゼンを受け続けてきたクライアントは、もはや疲労の限界だった。

年末年始をはさんだ仕事で100%を力を出し切ることができず、やや悔いもあるが、おもしろい仕事ではあった。社会環境の流れをどう「力」に変えていくかという提案ができたと思っているが、果たしてどこまでクライアントの期待に応えられただろうか。

企業が求めるスピード感はますます速くなっていくことは間違いなさそうだ。グローバル化とe-mailで、世の中は24時間働き続けるようになってきたと思ってはいたが、その流れはますます加速し、私のようなフリーランスはもちろん、企業にとっての仕入先や関係性として立場の弱い者は、今まで以上に人が働かない時間に働いていく形が進むのではないかと危惧することにもなった。