2013年12月18日

本日発行 「失敗しないエンディングノートの書き方」

こちらで予告をしたように、本日12月18日、「失敗しないエンディングノートの書き方」(法研)が発行された。



全国の書店で販売中のはずだが、私はまだ本屋さんに行っていないので未確認だったが、昨日、東京・恵比寿の本屋さんで買ったと連絡をくださった方がいるので、そろそろ本屋さんに出回り始めているようである。

ついこの前まで知らない人が多かったエンディングノートは、今やほとんどの人が知るものになった。
ものすごい数のエンディングノートが出回っている。
エンディングノートを持っている人も増えてきたことだろう。
しかし、実際に書いている人はあまり多くない。
書き始めても、すぐにやめてしまう人も多いと言う。

エンディングノートに興味を持っている70代の方々に、私がお話をした時も、書いている人は0(ゼロ)だった。
書こうと思っても、書きたいと思っても、ちゃんと書こうとするとエンディングノートは結構難しいのだ。
でも、書こうとすることで小さな発見があることも確かだ。

エンディング=終焉。
そう考えると、なかなか書けなかったり、まだまだ先と思ったりする人が多いが、エンディングノートの項目は、実は終焉の為だけとは限らない。
30代、40代、50代・・・どんな年代であっても、エンディングノートを書こうとすることは、自分の人生を再確認する上で意味があると、実際に書いてみると実感する。
家族関係や友人関係を再確認することもできる。

それは、これから自分がどう生きていくか、どうやって自分らしく生きていくか、を考える上で、とても役に立つことであり、意味のあることだ。
終焉の為だけにエンディングノートを書くなど、あまりにもったいないことに思えてならない。

世の中は終活ばやりと言う。
エンディングノートを書きましょう、という活動や講座も数多い。
相続問題、お葬式の方法、お墓問題・・・そういうことも大事だが、そこにいくまでどう生きるか?どう自分らしく生きるか?
その生きた結果が最期、終焉であるにもかかわらず、今はそこばかりに注目が集まっているように見えるのは、残念なことだ。
そういうことを考えるのならば、ぜひとも「どう生きるか」と合わせて考えていきたい。

「エンディングノートを書こう」と思うことは、終焉だけでなくもっともっといろんな意味を持つことであり、自分らしく生きるために役立ててこそ、価値が出るものだと私は思う。

私は、エンディングノートについて、そういうことを書きたかった。

本書で、そういうことまでお伝えしきれているかどうかは甚だ自信がないが、エンディングノートをきっかけに、今よりももっとイキイキと生きていく人、ワクワクしながら生きていく人が増えていけばいいなと願うばかりである。

2013年12月10日

いまの時代の手帳とは

この時期、文房具売場は手帳売場が大きくなる。
買う年、いただく年、さまざまだが、それでも自分が使いやすい手帳は決まっていた。
愛用していたのは「能率手帳」。
それがなくなり、NOLTYに変わると言っていたのが、10月2日掲載の新聞広告だった。



「変更の大きな要因は時代背景の変化だ。
仕事の能率化をテーマに『能率手帳』を作ってきたが、もっと自由に様々な用途で使ってもらいたい。若い人や仕事以外でも使ってもらうためにはどうすればよいのか。5、6年前から名称変更の思いがあった。『能率』という言葉が自由に使ってもらう幅を狭めてしまう、ということで思い切って変更することにした」と言うことだ。

私が能率手帳を使い始めて、たぶん20年くらいになると思う。
それでもここ数年はあまり使わなくなっていた。
イマドキの、ネット上のクラウド手帳(スケジューラ)を併用して使い始めたらそれが便利になり、気づくと紙の手帳をあまり使わなくなって行ったのだ。
そのうち紙の手帳に書き忘れることが多くなり、毎日持ち歩いているのに、開かなくなっていった。

ところが最近、私はネット上のスケジューラに問題を感じ始めていた。

「書く」作業をしないせいか、予定が頭に入らないのだ。
日にちがいつだったか、時間が何時だったかをすぐに忘れる。
明日のことなのに、何回も見て確認する始末だ。
1週間後の予定となると、ますます何日の予定だったか思い出せなかったりする。
ひどい時は予定自体を完全に失念し、慌てることすらある。
さらに困るのは、対面でスケジュール調整をする時に、咄嗟にスケジュール確認をしたくても電波状況が悪くそのスケジューラが見られない時があることだ。

そこで、本当に使いやすい紙の手帳をきちんと選び直そうと思い立ち、まだ暑い頃から探し始め、やっとみつけた手帳を先月から使い始めた。

ネットかリアルか・・・。

まだまだネット上のスケジューラと、紙の手帳の併用ではあるが、今のところ、紙の手帳の使い心地は上々だ。
ネット上のスケジューラは、空き時間がどこにあるかが一目瞭然ではあるが、常にその日1日のスケジュールの確認、「点」でとどまっているような気がする。
けれども紙の手帳は、今、少し先、ずっと先、・・・というのが一つの線につながっていくような感覚がする。

広告の中で注目したフレーズがある。
------------
右肩上がりでない時代
書くことは考えることであり、振り返ることであり、思い描くこと、
------------

今、私は紙の手帳に戻って、日々書く作業を繰り返しながら、改めてこのフレーズに賛同する。それは古い世代だからなのか、それとも・・・?!
来年が終わる頃、私は今と同じような気持ちでいるだろうか?

能率手帳ではなく、NOLTYか。
覚えられるかな。

2013年11月28日

予告「失敗しないエンディングノートの書き方」

昨年2月よりスタートした大人の出張写真館i-face(アイ・フェイス)は、遺影を意識した「いい顔」撮影サービスだ。
私はカメラマンではないので、プロカメラマンを同行して「いい顔」を引き出すためのプロデュースを行う。
モデルや役者さんと違って、一般人は特に、カメラマンの存在を忘れた瞬間に一番「いい顔」になると私は信じているのだ。

もちろん、出来上がった写真は遺影などにとらわれることなく、最近ならSNSのプロフィール写真など、いろいろ使っていただいてよいのだが、私がこだわっていたのは、自分らしい生き方をしていくために、自らの顔をいつも確認し続けて行こう、ということだ。

 何かに夢中になっている顔、
 嬉しくてたまらない顔、
 心の底から楽しんでいる顔、
 真剣な顔 ・・・

それは、必ずしもメチャクチャ綺麗な写真とは限らないかもしれない。
しかしそういう写真からは、心が見えてくる。
メッセージが聞こえる。
だから遺影にふさわしいはずだ、と提案してきた。今も変わらずそう思っている。
最近は、別人かと思うほど綺麗に撮ってくれる写真もあるが、それは本人は嬉しい写真ではあるにはちがいないが、遺影の場合はどうだろうか。
遺影だったら、その人が普段よく言ってた話が聞こえてくるような、そんな写真を目指したいと、私は思う。

そんなことがきっかけでエンディングノートに出会い、私なりにエンディングノートについて思うことや考えていることを話してきたら、今年の春にそういうことを書いてみないかと言うお話をいただいた。

それから悪戦苦闘の9か月。
多くの方からのご指導やご協力のおかげで、12月18日に発行となる。

世の中には、多くの終活本が出ているが、私の場合は相続や法律の専門家さんではなく、いわゆる普通の人の目線で書きたいと思った。
私自身がわからないこと、ついつい先延ばしにしていることがたくさんあったからだ。
だから、本書には自分の親や、義理の両親、友人知人のエピソードなどもまじえ、できるだけ日常に近いことを書いてみた。

「失敗しないエンディングノートの書き方」
監修 弁護士 武内優宏先生(法律事務所アルシエン)
A5判 定価(本体1300円+税)
出版社は、あの上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」を出した法研さん。
12月中旬より全国書店で発売予定です。




とりあえず今回は予告まで。
詳しくはまたこちらでご案内します。

2013年10月30日

徹底的に責める"世間"と、企業ならではの体質~阪急阪神ホテルズの問題から考える

ここ数日、ニュースをにぎわしている、阪急阪神ホテルズがメニュー表記と異なる食材を使っていた問題。
東京在住の私にはあまりピンとこないが、関西の人から見ると、絶対的信頼ブランドの「あの阪急阪神が?」ということになり、衝撃の大きさは計り知れないと言う。
それが28日、社長が辞任の記者会見へと発展した。

ここで注目したいことは二つ。

一つは、徹底的に責めていく世間の空気だ。
記者会見の様子を見ると、そこまで聞くのか・・・と、なんだか暗い気持ちになっていく。
責めても責めても、もっともっと。
半沢直樹の土下座問題の時にも書いたが、土下座とか謝罪とか、反論すらも一切させないところまで追い詰めていくような気がして、見ていて気分が悪い。

企業だけではない。
以前も書いたが、次男の事件で、番組を自粛し、警察も信じるが息子も信じると語ったみのもんたさん。その後、それを含めたみのさんの姿勢を世間が許さなかったのか、事件に関係あることないことが次々に出てきて、結果、番組降板となり、最終的に長い記者会見へと発展した。
ここにも、徹底的に責めていく世の中の空気を感じる。
SNSでいたずら写真を出した結果、責められていく若者への仕打ちもそうだ。

なんだか魔女狩りのようで気持ちが悪い。

先日、私が主催している勉強会で、偶然クレーム対応や、顧客満足について、メンバーでディスカッションをする場があった。
そういう時の望ましい対応とは、どういうことなのか。
顧客の不満はどうすれば解決できるのか。
その時、自分が顧客の立場で大きな不満を感じてクレームを言っているうちに、どんどんエスカレートして、自分でも驚くくらい怖いことを言うようになる、という話が出てきた。

なぜそうなっていくのか?
それは、相手の心が見えないから、のように思う。
この件についてどうかんがえているのか?
不満を感じている自分のことを理解してくれているのか?ということ。

今、世の中は気持ちが見えにくくなっているのではないだろうか。
誰もが、最初から責めたくて責めてるんじゃないんだろう。
心が見えなくなるから、肉声が聞こえないから、イライラする。
だから、もっともっとと責め上げていくのではないだろうか。
阪急阪神も、みのもんたさんも、心にフタをして、生身を見せないでいると、相手がイライラする。イライラさせると、どんどん狂暴になっていく。そういうことなのではないか。

もう一つは、会社の体質。
今、阪急阪神の事件では、誤表示か、偽装か、そこばかりがメディアから追求されているが、私がそれ以上に注目したいのは、会社として、顧客のことを大事にしない体質なのではないかということ。

今回の社長辞任の理由は、1企業ではなくグループ全体にまで多大な迷惑をかけたから。
お客さまへの多大なる迷惑については、この辞任会見で語られなかったのだ。
これは消費者問題研究所代表の垣田氏がテレビでも語っていたことであるが、ホテルズの社長がグループに迷惑をかけたからと、ホールディングスの社長に辞任を申し出た際にも、グループよりもお客さまへの迷惑だ、辞任理由はお客さまへの迷惑だと指摘するタイミングがあったはずだと。
それもなかったから、このような会見になったのだろうと。
記者会見報道で、私が何かもやもやしていたのはこれだったか、と垣田氏の発言をを聞いてハッとした。
会社のそういう体質がなんとなく垣間見えるから、私がもやもやしたのかもしれないし、記者からより責められていくのかもしれない。

そこには、長年の蓄積による体質と言うものがある。
他の世界では不自然なことであっても、その世界では「あたり前」と感じる体質。
これは、とても怖いことだ。
自分自身に翻ってみても、自分にとって普通なことが、他から見て異常に見えることは、きっといくらでもあるだろう。

今回、気になった体質が、企業論理と言うか、企業目線に終始する体質、企業内の論理だ。

記者会見でも、誤表示か偽装かどちらなのかと1時間も平行線の中で追求するよりも、むしろ、会社としてお客様をどう考えるのか、教育システムがどうなっているか、というテーマ等に、もっと言及してほしかった。
翌日のテレビでも、垣田氏が番組内で「まず言いたいことは・・・」とせっかく語っているのに、その後すぐにまた、誤表示か偽装かどちらなのか、という話に戻り、芝エビは・・という展開になっていくのは、お粗末だと思う。
記者会見に出席したり、報道したりするメディアの方も、会社の論理で、視聴率を上げるにはどうするか、どう報道するかと、会社目線で考える体質だから、そういうことには気づきにくいのかもしれない。
私たちは、日々企業論理で動いていると、大事な目線を忘れてしまうのだろう。

メディアだったら、例えばお客様を大事にすることで伸びている企業が、どうやってそういう風土を作ってきたのかを考えたり、取材したり、してほしい。
一方で、阪急阪神とは異なる問題だが、顧客に迎合するあまり、被害を受ける企業のつらさだってあるだろう。
企業として、どういう体質に育てていくか。

私自身も、今回の件を、自分の思い込みや間違った体質が自分自身に染みついていないかを考える契機にしたい。この事件をきっかけに、企業内(グループ内)への迷惑や体面を守る体質から、お客様への愛情を考えられるような意識改革や体質づくりを考えるためには何が必要なのか、これから考えていきたい。




2013年10月29日

社会問題をわかりやすく考えさせてくれた天野祐吉さん、亡くなる 

80歳でした。

新卒からず~っと、20年以上広告会社で仕事をしてきた私にとって、天野さんは憧れの人でした。
広告を素材に社会を考える、という形が私は好きで、しかも広告に対してのスタンスが、時に優しく、時に厳しく・・・・。
天野さんの、広告への愛情があふれているのを感じました。
そこが元アドマン(=広告人)の私としてはなんとも嬉しく、また共感することが多かったです。
広告とは無縁の方でも、朝日新聞に連載されていた「CM天気図」で、そういうことを感じる一般の方もきっと多かったことでしょう。
そういう天野さんの柔らかさは、やはりお顔にしっかり表れているなあ、と思うのは私だけでしょうか。
特にここ10年くらいは、社会に対しての痛みや哀しみとともに語られることが多かったので、優しさの向こうにあるそういうお顔を、感じました。

なぜ売上目標は毎年毎年上がるんだろう? なぜ経済は成長せねばならないんだろう?と、私がこっそり考え始めたのは15年くらい前でした。
当時は広告会社の会社員で、仕事は面白いし、毎日ワクワクしているんだけど、それでも社内の営業会議に出ると、どこか腑に落ちないものを感じていました。
そういうことをいろんな人に質問すると、頭では納得するような答えをくれたり、叱られたりしながらも、心ではどこか納得できずに何年か過ぎたころに、天野さんがコラムで経済至上主義への批判を、誰もがわかるように、明るく、でもピリッと辛く書いているのを読み、とてもホッとしたことがあります。

朝日新聞(10月22日)では、CMディレクターの川崎徹さんが天野さんへの追悼コラムを書いていて、そこに1981年の天野さんの写真が掲載されていました。


「広告批評」が創刊されて2年後の写真です。
当時の広告業界は、多くの有名クリエイターが面白い広告を次々と作っていた時代で、就職する者にとっては人気産業。
大学生の憧れの職業でした。
その「広告批評」は2009年に休刊。

私が好きだった広告の時代の終わりを感じ、寂しいです。
ご冥福をお祈りします。

2013年10月21日

ドラマ「半沢直樹」から思うこと2


今さらではあるが、前回に引き続き、ドラマ「半沢直樹」から思うことのもう一つを書いてみたい。

番組終了後、このドラマがきっかけで、あちこちでこれを今の社会現象と合わせて評論された。
中でも注目されるのは土下座。
NHK「クローズアップ現代」でも、土下座に注目し、ドラマから始まって、現実の企業経営者の謝罪会見での土下座などを紹介していた。
このような形は、日本人が心のゆとりを失って不寛容になり、相手を土下座させるまで追い込む風潮が広がっているからだと分析している。

私には、土下座くらいで何をそんなに・・・という感覚がどこかにあった。
それは、和室で正座してご挨拶をすることと、土下座をすることとが、そんなに大差あるように思えなかったからだ。
正座して手をついてのご挨拶=旅館などの「いらっしゃいませ」の形と、土下座の形。私から見るとその体勢には大差がない。
極論をすれば、そのときのご挨拶の気持ちが、偶々お詫びになったのが「土下座」だと言ってもいいくらいだ。
しかし、ドラマの中の土下座は随分違う。

屈辱の象徴。
土下座する側の人は、ブルブルと震えながら、やっとの思いでしゃがみこみ、絞り出すように声を出して土下座をするシーンが、半沢直樹に屈服した象徴のように描かれていた。

このドラマ、そして社会現象として取り沙汰された「土下座」と、私が認識する軽い「土下座」とは、いったい何が違うのか。
その大きな違いは、自分から土下座をするか、土下座させられるかの違いのような気がする。

謝罪する、詫びる、という行為は、本来強制されるものではないはずだ。
強制された謝罪には、申し訳ないと言う気持ちが伴いにくいわけで、もし伴わないのなら、謝罪してもなんの意味もない。むしろ、理不尽な土下座も少なくないのではないだろうか。
ましてや、土下座させる側から見れば、「頭さえ下げればいいんだろう」などという気持ちで土下座してもらったところで、何の意味があるのだろうか。

男性の場合は、頭を丸めて「坊主にする。」というのも、近いかもしれない。
「坊主にしろ!」と言われて頭を剃るのと、自らの謝罪の気持ちを表す「坊主」との違いだ。
そうだとしたら、仮に屈服させたとしたところで、それこそ倍返しのリスクを背負うだけだ。

私自身は、仕事でミスを犯し、クライアントに土下座がしたこともある。
しかし、それは強制されたわけではない。
申し訳ないという気持ちを表現するときに、芝居がかっているとは思ったが、当時は若くて土下座しか思い浮かばなかったのだ。
だから、土下座で屈辱的な思いなどは全く感じなかったので、ドラマの土下座とは全然様相が違う。
今思えば、あれは土下座をするようなことではなかった。
実際、謝罪した相手は、私のその態度に驚き、許してはくれたものの、振り返ってみると、相手にとってはきっと、あまり気持ちのよいものではなかったと思う。
今考えてみれば、もっといい解決策があっただろうと思う。
そういう知恵がなかったから、土下座するしかなかったのだなと、今、苦い思いで振り返る。

さて、半沢直樹のドラマ終了後、衣料品店で販売員を土下座させた画像がSNSに出回った。
「やられたらやり返す。倍返しだ。」どころか、やられてもいないのに、ネット上で晒し者にするなんて・・・!と、私は画像投稿者に対してかなり驚いたのだ。
が、その後、土下座させた方が強要罪で逮捕される騒ぎへと発展した。
こうなると、それはもう土下座した販売員からの倍返しに他ならない。
やられたからやり返したのだろう。


世の中で話題になったのは、土下座をさせるという行為と、それを生むストレス社会についてである。
たしかにそういうことはあるだろう。
さらに、ドラマ「半沢直樹」が、目上の人に対して土下座をさせたのに対して、衣料品店の例は、立場が下の人に対して強気に出る、土下座だ。世の中で話題になる、企業トップが土下座するのも、結局は顧客を意識した社会に土下座して謝罪するのだから同じことだ。
ドラマでは、相手が目上なだけに、目下の人に大して土下座させる以上の小気味よさのような感覚が、視聴者にはあったかもしれない。

でも、それ以前の大前提として、人の心は変えられない、ということ。
強制、強要などできないということ。
そんな当たり前のことが、いつの間にか忘れ去られていくことが問題ではないかと私は思う。
何でも意のままになる、意のままにできる~そういう傲慢な方向に人々が皆で向かっていることだ。

強制したところで、それはその時だけのこと。何も解決しないし、何の意味もない。
特に心や気持ちなど、本人以外の人が変えることなどできはしないのだ。

しかも、自分よりも弱い者、下の者に対して強気に出ること、気持ちを強制しようという行為は、暴力につながっていくわけで、私にはそれがとても気持ちが悪い。

だから、変えられないからこそ、どうやってわかってもらうか。どうやってわかり合うか。
どうせわからないだろう、どうせ無理だろうではなく、どうやってこちらの主張をわかってもらうか。
政治も、職場の中でも、社会生活の中でも、家庭の中でも、土下座させて主張を通すのではなく、理想論のようだが、心から納得してもらう、理解してもらうためにどうするか。
子どもの頃に読んだイソップ物語の「北風と太陽」のように、あの手この手を考えたい。
知恵をしぼりたい。
土下座の背景を考えることにとどまらず、じゃあどうする?!という方向に目を向けたいものだと思う。

2013年10月16日

ドラマ「半沢直樹」から思うこと 1

ドラマ「半沢直樹」が終わってだいぶ経つが、改めて今思うことを2回にわたって書こうと思う。

あのドラマは、オバケのような視聴率だった。
日曜日に出席したある懇親会では、主催者から「今日は皆さん気になるドラマもあるので、早めに終わりましょう」という発言があって、その話題の高さには驚いたものだ。

私は3回めくらいから見始めた。
テレビドラマの話題などまずしないような人から
「面白いよ。周りで結構話題になってる。」と聞いたのがきっかけだ。
そういうところから、すでに今までのドラマとは違っていた。

回を追うほどに話題がうなぎ登りで、目が離せなくなった。
にもかかわらず、私の中にはなんとも言えない心地悪さも同時に残った。
それでも、見ずにはおれない魅力も併せ持っていたのだ。

私が心地悪かったのは、
毎回登場する「やられたらやり返す。倍返しだ。」のセリフだった。
一方で、見ずにはおれないのは、主人公がどうやってこの苦境を乗り越えるかが見たかったからだと思う。

「やられたらやり返す。倍返しだ。」
そういうことは、ひそかに思うことだと思っていたが、いつから世の中は、こんなに恨みつらみを堂々と表現するようになってしまったのだろう。

生きていればやられることなんて、珍しいことではない。
やり返すことができる人なんて、きっとごくわずかだ。
やり返すだけの環境や能力がなければ、そうできるものじゃない。
たとえ恨みがあっても、それは時間が解決してくれたり、それをバネにして別のところに力を振り向けたりしながら、人は自分のなかで折り合いをつけて、日々生きていると思う。

私は、このドラマの中で感じた、恨みを忘れずしつこく追い回し、復讐することを是とするようなムードが嫌だったのだ。
そして「倍返し」と言っていたセリフは、「10倍返し」へと膨らんで行く。
ドラマの回を重ねていくうちに、やり返すことをカッコいいとする風潮が、世の中に広がってきてはいないだろうか。
復讐を応援するような雰囲気・・・

まあ、ドラマの話であって現実ではないのだが、こういう空気が蔓延していく気配を感じる世の中は、私にはどうも生きづらい気がしてならない。

できれば、忘れられないくらい嫌なことでも乗り越えていける、やられても許せるくらいのタフさを身につけられるような、そういう教育を整備してほしい。
そういう人が増えていくような世の中であってほしい。
本来、そういう人がカッコいいはずだ。
そういう人が賞賛され、認められる社会であってほしいと、私は思うのだ。

そしてもう一つ、このドラマを通じて言いたことがある。
でもそれはまた次回。。。

2013年10月4日

対抗するのではなく、ワクワクしながら共存

ニュース映像制作会社を辞めるに当たって、自分が会社で踊る映像を背景に上司への不満をぶちまけたビデオを作った女性、シフリンさん。
彼女が作った映像の再生回数が1,200万回を超えるほどの人気だ。
でも、私が注目するのは、この会社がそれに対応した作ったビデオ

SNSの時代、誰もが情報発信者で、その情報に興味を持つ人がいれば、その情報はどんどん拡散していく。
それが炎上したり、絶好なPRになったり、イメージダウンになったり、大きなダメージを受けたり・・・。

シフリンさんが作ったビデオでは、会社への不満、上司への不満を発信しているが、会社のいろいろな場所で自分ががむしゃらにダンスを踊る映像を背景にしているので、陰湿性は感じられない。
構成のセンスもいい。
厳しい労働環境で働く者から見れば、同情や共感を呼ぶだろう。

けれども、会社や上司から見れば困りものだ。
この映像を見た人から、とんでもない会社だと思われるかもしれない。今風に言えば、ブラック企業的イメージが定着するかもしれないのだ。
映像制作会社なだけに、いい人材を集められなくなっていく可能性もある。

会社の立場だったらどうするだろう。
シフリンさんを呼びつける会社もあるだろう。
お金を払ってでも、映像を削除するよう要請する会社もあるだろう。

でも、この会社はシフリンさんに対抗するのではなく、シフリンさんに返答するビデオを会社として制作したのだから洒落ている。
ビデオには社員全員が出演し、
デスクでランチを食べるのは、周囲にレストランがないからだよ、
会社には屋上プールやサウナもあるよ、
社員はみんなでシフリンさんのよき将来を願っているよ、
・・・というメッセージに乗せて、それぞれがシフリンさんの映像と同じように会社の中で踊っている。
その出演者が「私たちは、会社に雇用されている従業員だ」というメッセージを送りながら、人材募集ビデオとして完成している。
出演する彼らはとても楽しそうだし、そのダンスがあまり上手でないところも、嘘っぽくなくていい。

シフリンさんはこれで会社を辞め、その映像が話題になったおかげで、新しい仕事のオファーが来た。
今、この会社が制作した映像の再生回数の方は、まだシフリンさんの映像の1/6程度。
これから増えるかもしれないが、すでに新しい人材応募がいくつか来ていると言う。

もし、会社がシフリンさんへの対応を間違えたらどうなっていただろう。

シフリンさんは退職したけど、彼女と会社は、いわゆる、Win-Winの関係にある。
会社が制作した映像再生回数が、シフリンさんよりもどんなに少なかろうと、この会社に対するイメージが上がればいいし、いい人材が確保できればいいのだ。

これは、いかにも今の時代の会社PRの形だ。

対抗するのではなく、共存すること。
それも楽しく、ワクワクするような形で。

企業と従業員だけでなく、自治体と住民、家族関係、プライベートな人間関係等々、あらゆる関係性において、こういう対応ができるようでありたいと思う。

2013年9月27日

母親の気持ち

前回、みのもんたさんの親心について書いたが、親子に関連してもう一つ。

経済界から出版された新刊  むさしの学園小学校の母親を変える教室 子どもの心を育てる「伝え方」

子育て本が多い中で、母親に目を向け、母親が変わることで子どもの心を育てることを説いている。

どんなに子を思う親であってもやはり人の子。
イライラすることもある。

私が子どもの頃、母が小学校の担任から呼び出され、「家庭に何かあったのか?」と聞かれたことがあったと言う。
我が家は3世代同居してまだ間もない頃だった。私にとっての祖父母を、遠く離れた郷里から東京に呼び寄せたばかりだったが、父は仕事が忙しく、あまり家にいることがなく、家庭内が落ち着かない時期で、誰よりも母が精神的にかなり苦しい時期だったそうだ。

まだ子どもだった私には、そういう雰囲気はまったく理解できていなかったし、それで傷ついていた自覚もなかった。
しかし担任の先生から見れば、当時の私の挙動不審は明らかで、母に連絡が入ったのだ。

担任の先生からそれを告げられた母は、当時とてもショックを受けたと言うが、その後、私の行動・ふるまいはすぐに普通に戻ったと先生から連絡があったと言う。
それは母の対応が変わったからだろうと言うのだ。
私がそれを聞いたのは比較的最近の話で、私自身はまったく記憶にもないし、まさか自分が挙動不審だったとは!と、随分驚いたものだ。

しかし、母親には限らないだろうが、親の子への対応がいかに影響を与えるか、について改めて痛感させられた。
そう言えば・・・と思い当たる人も意外に多いかもしれない。
概念としてはある程度予想できることかもしれない。
しかし、当の親自身はその真っ最中にはそんなことまで頭が回らないし、いざそういうこと気づいたとしても、具体的対応まではなかなか考えが及ばないのが一般的ではないだろうか。

本書ではそのあたりを易しくわかりやすくガイドしている。
何より、著者のママへの優しい視線で書かれているのがよい。
現代ママは、孤立化する恐怖と背中合わせの日々でストレスは大きいと聞いているが、本書はそういう母親をホッとさせるのではないだろうか。



著者の青木洋介さんが勤務するむさしの学園は、職員室がない学校として有名だ。
私の同級生にも、何人かむさしの学園出身者がおり、その学校の雰囲気について聞いたことがある。子どもの自主性を重んじ、各自の個性に合わせてすくすく伸ばしていこうという学校の教育方針は、好感が持てる。
私は、青木さんと数年前に出会い、彼の教育論を何度か聞いてきた。
「子どもの幸せはママの幸せ、ママの幸せは子ども幸せ。」
青木さんらしいそういう思いが、本書のベースとして流れている。

子育て中のママたちにぜひ読んでもらいたい1冊だ。


2013年9月24日

親の責任、親の情

番組タイトルにもなっているくらい、
ズバッと言うのが売りのタレント、みのもんたさん。
ご次男の逮捕で、報道番組出演を自粛された。
逮捕されたのは窃盗未遂容疑で、そのご次男は某テレビ局勤務の31歳。

13日に、みのさん自身が「父親として深く責任を感じている」として謝罪し、敬老の日をまたぐ連休を明けてからは、メディアはこぞって「親の責任とは?」という取り上げ方をしていた。

みのさんが責任を感じているちしながらも、会見でも語った「20歳越えれば別人格」。
これに賛同し、みのさんに同情するコメントが次々と出てきている一方で、みのさんの場合はどうかは別として、という前置きつきで、たとえ20歳を超えても例外として親が責任をとるべき場合とは?と言ったコメントまで飛び出していた。

いったい親の責任というのはいつまで問われるものなのか、と思ってしまう。

本来、成人した子どもが何をしようと、
親が責任をとる必要などないと私は考えている。
でも私が今回、何よりも感じたのは、そんなことではなかった。

責任云々ではなく、私が感じたのは、みのさんの親の情。
そして、提供サービスの質を落としたくない(キャスターとして、中立の立場で語ること)という、みのさんの矜恃。

今回のみのさんの決断は、そういう両方の気持ちに挟まれた結果であり、ご次男の件で責任をとる、というニュアンスとは少し違うものを私は感じている。
だからいいとか悪いとか言うのではない。

みのさんが有名人であるからこその親子関係、
親が大物であるがために、子どもは幼い頃からさまざまな人的交流と人間関係に恵まれ、一般の人とは違うものがあったかもしれない。
それを批判する向きもあろう。

容疑を否認している息子に対して、みのさんは子ども信じたいと思っている。
そういう思いを、みのさんは実際に口にした。
それは、何歳になっても親は親であるということを痛感させるもので、私には親の情けや愛情を感じずにはいられなかった。

そんな親の愛情を「甘い」と言う声もあるだろう。
実際、みのさんに対してもいろいろな批判が出ているようだが、みのさんの会見を見ながら、自分の親のことを思い浮かべた人も多かったのではないだろうか。
私自身は今さらながら、かつて自分が悪いことをした時の親の処し方を思い出したり、親が自分のことを心配するのを今でも煩わしく感じることなどを、自然に思い浮かべずにはいられなかった。

そもそも成人した子供が犯した罪の責任など、誰にも問う資格などないと思う。
しかし今回の件は、みのさんが責任をとって降板したというよりはむしろ、子どもへの愛情、子どもを信じたいという思いがあるために、結果的に報道の仕事を続けられなくなった、というのが実情なように思う。
私自身も、みのさんの責任感というよりは、親の情を感じたことで、みのさんの中にある親の顔を垣間見たような気がした。
それは、中高年以上の親世代視聴者にとっては、大きな共感と同情を誘うことになったに違いない。
当該番組視聴者の主流は、そういう人たちだったのではないだろうか。
みのさんがそれを狙っていたかどうかはわからないが、イメージが大切なキャスターにとっては、賢明な対応だったと思う。

個人的には、私は、親としての顔、仕事人としての顔、その両方の顔を大事にしたいという姿勢が痛いほどわかったから、みのさんへの批判の思いなどはまったく感じなかった。
そして、自分のキャスターとしての品質を落としたくないというところには、仕事人としての姿勢としても賛同する。

甘いですか?
ハイ、甘いかもしれません。
私自身は、みのさんを特に好きというわけではまったくないのだが、
しかし、人の気持ちとはそんなものではないだろうか?

今回の容疑の結論がどうなるかは別にしても、みのさんの今回の決断が、今後のご次男に生かされますように、とつい願ってしまうのである。



2013年8月7日

カフェ女主人から教わること


前から気になっていたカフェ風甘味屋さんがあった。
中に入ることはなかったのだが、外から見る限り、壁やテーブルは白木のウッド。かなり狭いこじんまりとしたお店。幹線道路の近くで車の往来は多いものの人通りは少なく、一般的な住宅街でもなく、どこの駅からも歩けば10分以上。雰囲気が小洒落ているだけに、いったい誰が来るんだろう?と気になっていた。
たまたま通りがかったら、店の外には近日閉店の貼紙。「あと少しなので、よかったらお立ち寄りください。」と書いてあり、驚いて、初めて入ってみました。
外から見る以上に、中はこじんまり。くつろげる空間。
家にあるような本棚が目に飛び込んできた。そこには、小説、図鑑、児童絵本、文庫本・・・。ジャンルは多種多様だが、つい手に取りたくなるような感じ。ソファ―席とテーブル席があって、ソファー席には一人先客がいて、本を読んでいた。
お店の人は感じのいい女性が一人。
なるほど、こういう店だったのか。
お店全体に、この女性の優しさや温かみが溢れているのがわかる。

聞けば、その女性がご主人だった。オープンして1年だと言う。
本棚に並ぶ本はご主人の私物と、ご主人の知人友人からのもらい物だそうだ。
脱サラで始めたお店だそうで、駅前は家賃が高くて厳しく、人通りが多い場所は一人でやるにはお客さんに迷惑をかけるかもしれない、と選んだ場所だったそうだが、さすがに来店客が少なすぎて経営は厳しかったようだ。
来店客は近隣の人が中心で、リタイアされた高齢者の方が読書に、子育て中ママの息抜きに、昼食に、など利用されていたそうで、中には、ママ公認で学校帰りに来ていた子どももいて、お店で宿題をしていたと言う。
お店の雰囲気と家庭的なご主人の様子からうなずける話だ。

カフェをやりたい、事業を始めたい、新しい仕事を始めたい・・・
そう語る女性は少なくない。カフェの女主人なんて、憧れの仕事の一つだろう。
しかし、現実は厳しい。
このお店のご主人はどうか知らないが、一般的には扶養家族を持たない身軽な女性は、そうでない人に比べて、そういう夢を描きやすい側面があるかもしれない。
特に女性は、ビジネス・経営よりも夢を追いやすいと言われる。その分、感性に訴えることができたり、いろいろなビジネスアイデアが生まれたりするメリットも注目される。
しかし、経営が立ち行かなくなれば継続できなくなるし、夢を実現することもできなくなるのだ。
経営を考えることを忘れてはいけない。私自身も、お金よりも夢を優先する傾向にあるだけに、自戒を込めて言いたい。

「飲食店は肉体労働っていうのも、少し実感しました。」と言う、そこのお店のご主人の言葉が印象的だった。
こちらのカフェは、火曜定休で8月19日まで。
甘味だけでなく、コーヒーと稲庭うどんにもこだわりがあり、自慢の一品だとか。
女主人の温かみある雰囲気も素敵です。

2013年7月31日

科学の進歩が可能性の芽を摘むことはないだろうか

高校時代、勉強は嫌いだったが、理科は好きだった。
中でも生物は、マクロの生態系と、ミクロの遺伝子DNAという、正反対なことを学ぶのが面白くてぐいぐい惹きこまれていった時期がある。
進路を考える時に、成績が悪いなりにも、「食う⇔食われる」の関係を基本にする生態系と、人の神秘を探り解明していく遺伝子工学と、どちらの方向が自分に向いているか、真剣に悩んでいたことがあった。
そんな思いが発端になって紆余曲折の結果、私は栄養学に進むことになったのだが(それについては別の機会にゆずる)、悩んでいた当時、DNAがらせん状であること、遺伝子の配列はたった4つのA、T、C、Gの組み合わせであることを学び、SF映画を見るようにワクワクしたものだ。
高校生の頃、そんなことが解明されたらすごいだろうなあ、と思っていた。

それがSF映画なんかではなく、現実としてもう次々解明できつつあることを、7月7日のNHKスペシャル「あなたは未来をどこまで知りたいですか~運命の遺伝子~」で伝えていた。
おそらく反響が大きかったのだろう。今日の朝イチでも、「ちゃんと知りたい、遺伝子検査」という特集で、この情報が取り上げられた。

さて、そのDNA、いろいろなことが解明されてきたために、遺伝子が原因の病気の治療に役立てらるようになった。がん細胞の遺伝子の解明で、がんの進行を抑えることもできる。その人にどんな病気リスクがあるのか、どんな才能があるのか、までが見えるようになってきた。
その結果、子どものDNAを調べ、どんな才能があるかを確認した上でお稽古ごとを選ぶことができる。
好きな人の病気リスクを調べてから結婚を決めることができるかもしれない。

私が夢物語でワクワクしていたのは、現実では四半世紀以上前とは言え、それでも私にとってはついこの間のことだ。
けれども、当時ワクワクしていたはずが、今の私は、もはや、そういうことにワクワクはできない。何か納得できないものがある。

今年の5月、ハリウッド女優、アンジェリーナ・ジョリーが、乳がんリスクが高い遺伝子と知ったことで乳房切除手術を行ったことが大きなニュースになった。私も驚いたし、その精神的強さに私自身が感動したのも事実だ。

遺伝子で才能がわかる、遺伝子で病気リスクがわかる、遺伝子で未来がわかる・・・?!

私が納得できないのは、遺伝子を知ることで人生を制限してしまいそうなところにある。
遺伝子情報を知った本人、知った家族(親など)は、それを知ったことで生き方を変えることはないのだろうか。可能性を伸ばすこともあるだろうが、可能性の芽を摘むことはないのだろうか。

さらに、知る権利と知らない権利について。
知りたい人がその権利を行使するのは理にかなっているのかもしれないが、知らずにいたかった人が知ってしまうことはないのだろうか。「何も知らなかった時」に後戻りはできない。

科学の発達はすばらしいことだ。医学の発展もすばらしいことだ。
けれど、それが本当に幸せに向かっているのかどうかを考えると、私はときどきわからなくなる。

その昔、「がん告知」は家族が別室に呼ばれてされるもので、本人には告知されない時代があった。
今では、地域差や医療機関によって多少の差があるかもしれないが、風邪ではなくインフルエンザだと告げられるのと同じように、がんは医師から本人に告げられる。治療に向かって頑張っていきましょう、という言葉とともに。
医学の進歩だからこそのことだとは思うが、誰もがそれに対応できるわけではないと思う。中には「知りたくなかった。」と思う人もいるだろうに、そういう権利は守られない。「知る権利」の方が優先されるからだ。

そして、遺伝子情報を知ったがために、諦めてしまうことができたり、遺伝子情報による人の選別や差別が起きたりするような社会がもしもやってくるとしたら・・・。怖いことだと思わざるを得ない。アンジェリーナ・ジョリーは確かに素敵だし、素晴らしいと思うが、それでもやはり私は、納得できない思いがどうしても残ってしまうのだ。

2013年7月21日

よりよい社会のために~たんとすまいる 

ブログをサボりがちだったところ、あちこちから
「最近全然更新していないけど、もうブログはもうやめるのか?」
「体調を崩したのか?」
などと言われ、思わぬご心配をおかけしていたようだ。

すみません!
単に、怠けておりました。。。

さて、今回は「お仕事ブログ」らしく、最近関わった仕事の一つをご紹介したい。

たんとすまいる~一般社団法人Turn to Smile

この団体は、DV経験者の回復自立支援活動を中心に、DV/デートDV防止啓発活動を行っている非営利法人。

この団体との仕事がきっかけで、
私は、今まで知らなかった多くのことを知ることになった。

結婚歴のある女性で、3人にひとりが配偶者からのDV経験者であること。
10人にひとりは、命の危険を感じているということ。

最近、男女間で起きているニュース・事件の背景の一つとして、
こういうことがあるのかと思い知ったのだ。

DVとは、ドメスティック・バイオレンス。
親しい男女の間でふるわれる暴力のことであるのは、おそらく多くの人が知っていることだろう。
けれどもその暴力とは、肉体的暴力だけをイメージする人が多いのではないだろうか。それだけではなく、精神的暴力、経済的暴力、性的暴力があることは、あまり知られていないのではないだろうか。
精神的暴力とは、「外出をさせない」「無視する」「暴言をはく」・・・
経済的暴力とは、経済的自由を奪うこと(=お金が使えない)。
そう言えば・・・とハッとすることが、身近に意外とあるのではないだろうか。

さらに、その暴力が存在する状態・環境から抜けることができれば、「よかった!」となって終わりなのかと思っていたらそうではなく、それをきっかけに、その後長く心身の不調や生きづらさが続くということ。

たんとすまいる 一般社団法人Turn to Smileは、その状態をアフターDVと呼び、
アフターDVで生きづらさを抱える人たちの回復自立支援を行っているのだ。
設立は昨年夏。
目指すのは、DVのない社会だ。

この活動をどのように社会に発信していくか・・・というところから、私のお手伝いがスタートした。

彼女たちの強さは、自ら経験者である人たちが中心になって活動していること。
アフターDVを知らなかった私にとって、一つづつヒアリングをするのは、机上の空論ではないリアリティにあふれ、自分自身の無知や想像力の欠如にげんなりすることも多い。
始めてみると、なかなかスイスイ進むものではなく、当初予想をはるかに上回る、長い時間を要する仕事になった。
まだまだ継続中ではあるのだが、その一つの形が、6月下旬に公開したホームページだ。

ホームページについてはまだまだ製作途中で、支援プログラム等々、現在も新しいページを検討、作成進行中だ。

ぜひ、一人でも多くの方に見てもらいたい。
メンバーは、経験者が中心なだけに共感力が高い。
「どうせわかってもらえない。」と思ってきた人の、温かい受け皿になるだろうし、これが、これから多くの人の励みにつながるに違いない。

「伴走者でありたい。」と語る、たんとすまいる 一般社団法人Turn to Smile代表、宗像美由さんの、寄り添う姿勢と、強い思いには、私は応援せずにはいられないものを感じる。
この団体の活動を知る人が一人でも増えていくことが、DVのない社会への小さな小さな1歩につながっていくのは間違いないだろう。
この団体を応援していくことが、よりよい社会づくりにつながるはずだと私自身も信じている。

2013年4月25日

i-faceで、こんな仕事しました


このブログは「お仕事Blog」と言いながら、どちらかと言うと、仕事内容よりは仕事の場面で感じることを中心に書いていることが多い(それ以前に更新頻度が低いのも問題なのだが)。
たまには仕事についても、少し書いてみよう。

各種ご専門のコンサルタントさんを、複数名インタビューさせていただく機会を得た。この仕事は、私がサービス提供しているi-face(アイ・フェイス)がきっかけだった。

i-faceとは、私の顔、いい顔、愛のある顔…。
私が考える、そういう顔を引き出すために有効なことは、その方の人生、熱い思い、気持ちや考え方を伺うこと。i-faceは、このような考え方をベースに展開している撮影サービスだ。強張ったり緊張したり、妙にオスマシしたりすることのない、本来の「その人らしい、いい顔」撮影には、お人柄やそれまでの生き様が表れる。

撮影に当たって、私はその人からいろいろなお話を伺い、その様子をカメラマンが撮影していく。お話に夢中になっていくうちに、お客さまはそのうちカメラの存在を忘れてしまう。もちろん、同行するカメラマンは、日頃メディアなどで活躍するプロカメラマンである。

今回のコンサルタントさんのインタビュー&撮影は、このi-face撮影を見学された方からのご依頼だった。

ご依頼内容は、各々のコンサルタントさんの専門性や仕事内容をお伺いすること。そして、その方がお答えする様子(インタビューカット)を撮影すること。

コンサルタントさんの専門性高い仕事内容をお聞きするのはもちろんのこと、今のお仕事を始めた理由、きっかけ、やり甲斐を感じる時、目指したいもの・・・等をお聞きしていくうちに、その人ならではの個性が輝いてくる。まさにその方のオンリーワンの部分だ。

予め、その人について、またその人の実績やかつての勤務先等について下調べをし、どこで輝くかを半ば想定してから当日に臨むのであるが、その情報収集の段階から、私は早くもその人の魅力に取り憑かれ始めている。
人とは面白いもので、どんな人でも情報収集していく中で興味深い要素が見つかり、惚れっぽい私は、お会いする前からワクワクが始まっている。
これはどんな人でも同じだ。

今回は、お話を伺う相手がコンサルタントさんばかりだったので、インタビューをしていくうちに、私自身がまさにこういう人からコンサルティングを受けたいものだと、強く思うこととなった。
実際、それくらい魅力的なコンサルタントさんばかりだったということもある。

早くそういうコンサルティングをお願いできるくらいに、私自身も大きく成長したいものである(苦笑)。

このインタビューは、いずれWeb上でも公開される予定なので、機会があれば、またここでその報告をしようと思う。
ちなみに、その時にお聞きしたコンサルタントさんのお話は、どなたも実に魅力的ですばらしい内容で、いろいろな人に教えて差し上げたいことばかり。
そして撮影した「顔」は、それはそれはイキイキとした、愛の溢れる、しかも力強い、いいお顔をしていらっしゃいました!

公開される日を、私も楽しみに待ちたいと思う。

2013年3月27日

雑談の大切さって?!

効率が重視されて行きすぎるあまり、雑談の大切さが叫ばれるようになってきた。
NHKでこんな番組までできるくらいだから。

確かに雑談ができなければ、相手のことを理解することもできないし、課題も見つけられないから、雑談は大切であるということに、異論はない。

会社員時代、私は取引先から聞いた面白い話、同僚や後輩への声掛けなど、会社にいる時はよくしゃべっていた。
喜んで聞いてくれる人も多かったけれど、他の人から「オイ、石崎! うるさいよ。」と言われることも少なくなかった(汗)。
だから、この雑談を重視する風潮は、少し嬉しい。

雑談の中にヒントがあったり、新しい企画が生まれたり、トラブルの芽を摘めたり・・・。
雑談の価値を見直す話題や、雑談力アップで会社の売上を伸ばした例が紹介されたりすると、そうだよなあ、と思う。

だけど、それは、お笑いや落語家の人に習うことなのだろうか?
大学では、落語家の人やお笑いの人がコミュニケーション力を磨くための講座を設けているという。
前述のNHKの番組でも、面白いダジャレをいかにして連発するか、様々な素材を元に、出演者が悪戦苦闘していたが、果たしてそういうことなのだろうか。

今の時代、大事なのはコミュニケーション力と叫ばれ、誰もがコミュニケーション力をどうやって上げるか、右往左往しているように見える。
雑談を重視するよりも、本当に大事なコミュニケーション力というのは、相手の気持ちを知りたいと思うかどうか、理解したいと思うか・・・。
本質はここではないかと思う。


効率重視の弊害で、無駄を省いていくうちに、大事な気持ちまでがおざなりにされていく。
便利なこと、早いことが大事になっていくあまり、仕事も、仕事でない場面でも、自分の今求めていることにいかに近づくかに目が行ってしまう。
だから、気づいたら雑談のような、一見無駄なことを排除してきてしまった結果、雑談がどういうことだったのかが、わからなくなってきた・・・そんな風に感じる。

中には、面白いダジャレをサラリとカッコよく言える人もいる。私の周りでも、寒い空気を作ることなく、スイスイとダジャレを上手に言う人がいて、周りを和ませ、その頭の良さはカッコいいし、少し羨ましい。
でも、ダジャレを言う方法など習わなくたって、ダジャレなんか言えなくたって、雑談はできる。
コミュニケーション力を無理して一生懸命磨こうとしなくても、行きつくところ、人への「愛」があれば、コミュニケーションはとれるはずだと思う。
拙い話し方でも、誠意を感じることはしばしばあるものだ。



2013年1月30日

たかが年齢、されど年齢。でも年を重ねるのは素敵だ。


自分が年を重ねれば重ねるほど、
年齢なんてどうでもいいじゃん!と思うようになってきた。
一方で、悲しいかな、いかにして若くあり続けるかを、
無意識の中で気にしていることにハッと気づくこともある。

今月、芥川賞を受賞した黒田夏子さんは、最年長75歳ということが大きくクローズアップされた。

筆歴70年、中学の国語教師や校正者を経て、地道な努力の結果という報道には、
勇気をもらえる。

ベストセラー詩集で注目を浴びた柴田トヨさん。
1月20日に亡くなったことがニュースになったが、享年101歳、という年齢が
クローズアップされた。
詩集「くじけないで」で、どれだけ勇気をもらった人がいることだろう。
刊行されたのは、98歳の時だったという。
改めて、力をもらえる。

先週、私は、かつて会社員時代の大先輩に15年ぶりくらいに会う機会があった。
私が入社間もない頃、その方は取締役寸前の偉い方だったので、
本来、私にとっては雲の上のような人だったのだが、
休日にスキー場でばったり会った偶然のおかげで、
若い女の子だった私を覚えてくれ、年賀状のやりとりに発展したおかげで、
再会となったのだ。
その人は、当時の勤務先を早々と去り、いくつかの会社の上層部を経た後、
自分でビジネスを起こして数年がたっていた。
現在70代なかば。
年に何回か、一人で山登りをすると言う。
人に振り回されることなく、苦しくても黙々と自分のペースで登ることがいいそうで、
何よりも達成感がたまらないそうだ。
それも、60歳を超えてから、ハイキングから少しづつ始めたと言う。

こういう話に、私はとても大きな力をもらえる。
誰しも、自分よりも年長の人の頑張る姿に救われ、しなやかな姿に惚れ惚れし、
力をもらえることがあると思う。

私にとっては、50代・60代・それ以上の世代の人たちのそういう話から
大きな力を得られるように、
私よりも若い世代にとっては、きっと、私のような世代の行動が、
多少の応援歌になることもあるに違いないと思う。
そう、ありたいと思う。

間違っても、
「ああはなりたくない。希望がない。」などと、思わせてはいけないのだ。

今の若い世代は、社会に希望が持てない、持ちにくい、とよく言われるが、
それは、彼らが「年をとるのも悪くない」と思えるような先輩が
少ないからに他ならない。

ステキな大人、それもいろいろな形の「素敵」な大人が増えることで、

10代は10代なりに、30代は30代なりに、60代は60代なりに、
「年をとるのも悪くないね~」と思えるような先輩を、
一人でも多く持てるとよいと思う。
そういう循環が、結果的に社会をよくしていくはずなのだから。

人が生きる価値と言うのは、そのあたりにあるのではないかと思う。

2013年1月20日

老いも若きも、「○活」万歳!


就活、ソー活、婚活、保活、朝活・・・・○活は、今や花ざかり。
言葉を短くして軽々しいなどという批判もあろうが、私はそう否定的ではない。なぜなら、私にとって、いくつかの○活は、意外と身近な言葉だから。

年齢を重ねた顔に興味があった私は、遺影に注目したことで「終活」という言葉に出会い、エンディング周辺の方々とのつながりが広がっていった。
そのご縁のおかげで、「終活」が単に終末に向けての活動ではなく、よりよく生きるための活動であることを学び、私が提案するアイ・フェイスi-faceに込めた思いとの共通項を知るようになったのだ。
かつては「縁起でもない」と言われタブー視されがちだったテーマだった「終活」は、突き詰めれば、自分の人生をしっかり受け止め、どんな思いをこの世に遺すか、あるいは遺さないかを考えることである。
それは、自分らしく生きるということはどういうことなのかを追及することそのものの活動に通じる。
生き方は十人十色。これから先をどのように生きていくかのお手本などなく、自らの人生観や倫理観が問われることになるのだ。当初はほとんど知られていない「終活」という言葉だったが、あっという間に誰もが知る言葉になって行った。

妊娠するための活動「妊活」は、私が不妊治療業界の情報産業に多少関わっていたことから、私にとって身近な言葉だ。
今でこそ一般的な言葉になり、少子化が深刻化する現代社会において、妊活は期待される活動の一つではあるが、かつては公言にしにくいテーマであり、職場では不妊治療中であることなど言える空気はなかった。
子どもを望んでもなかなかできない夫婦の苦悩は、子どもに恵まれた夫婦には理解しがたいものがある。私もこの仕事に関わるまで、その現実をよく知らずにいた。「お子さんは?」~この言葉に彼らがどれだけ傷つけられ、自らを追い込んでいるか・・・。「赤ちゃんが欲しい」=その一念で、毎月の結果に一喜一憂しながら、さまざまなトライを続けている。中には子どもができないことで自分を卑下したり、すべての自信を失ったりして精神的に追い詰められていくケースもある。
それが狭い意味での「妊活」だ。もう少し広い意味では、そこまで真剣・深刻ではなく、出産を視野に入れた人生設計を考えることを「妊活」と呼び、その特集を行う雑誌は少なくない。

例えそうだったとしても、終活も、妊活も、かつてはタブー視されがちな、普通の話題としては、なかなか公な場で語るには憚られるようなテーマだった。それが、○活という言葉になったことで、「ただいま○活中です」と語りやすくなったわけでもあり、それ自体は、いいことだと私は捉えている。
さらに、「○活」という言葉には、積極的な姿勢が感じられはしないだろうか。
コトによっては、オープンにしにくかったテーマについて、自発的に積極的に取り組んでいる姿勢だ。受け身ではなく自発的に活動しよう、というトーンだ。
努力をし、頑張っている姿勢を、○活という言葉から私は感じるのだ。

それは、就活(就職活動)も、ソー活(SNSを使った就活)も、朝活(学習会や交流会などの朝の活動)、転活(転職活動)、離活(離婚に向けた活動)、保活(保育所に入れるための活動)も、みんなそうだ。
待ちの姿勢ではなく、自らの積極的な活動。
頑張っている姿勢が、そこにはある。

私が学生時代は、○活と言えばクラブ活動の「部活」くらいしか知られてはいなかった。
就活も、婚活も、妊活も、そんなに一生懸命頑張らなくてもなんとかなったような気がするし、そこまでがんばってなんとかしなくてもいいという気持ちもあったような気がする。
それが今は、みんなガンバっている。そのガンバっている活動が○活と評される所以だろうと思う。

だから、私は○活と聞くと、つい応援したくなる。
人は、頑張っている人を応援したいものだから。
それがどんな活動であろうと、自分の人生を切り開こうと言う勢いを感じるからだ。
○活、大いに結構だ。
老いも若きも、○活万歳!
そして私は、これからワクワクするための活動、「ワク活」を目指し続けていきたいものである。