2015年9月28日

資格にはどんな意味があるのか。あの人、資格持ってるのに・・・。資格取ったくせに・・・。

私は会社員の頃、甚だ僭越ながら資格というものをバカにしていました。
机上の学びより現場だ、と。
資格なんかより、仕事ができるかどうかだと。
でも、会社員でなくなって7年。
この間に、必ずしもそうではないとだんだん感じるようになってきました。
でもせっかくそう思うようになったのに、
またまた資格に疑問を感じてしまうことがあり・・・。
だけど結局のところ、それは自分の生き方次第なのですね。

「ちょっと!」大きな声で怒鳴られた

先日、かねてから興味のあったイベントに出かけたら、
以前一度だけお見かけしたことがある人が、受付スタッフをやっていた。
ご挨拶しようかなと思ったけど、先方が私を忘れているみたいだったのでそのままにしていた。

私はそのまま会場内に入り一通り見学したところで、ちょうどお目当てのセミナーが始まる時間になっていたことを知った。
MC(司会者)も動員を呼びかけていたので、私は急いでセミナー席に駆け寄り、座った。

そのとき、

ちょっと! ここから入っちゃダメです!

私はとても大きな声で怒鳴られてしまった。
声の主は先ほどお見かけしたスタッフさん。

え? 私? ダメ?

ダメですよ!
ちゃんと入口があるんだから!

あ、すみません・・・
知らなくって・・・

私は周りから一斉に視線を浴びながら慌てて立ち上がり、外に出て、
改めて本来の入口に向かった。
申し訳なさと恥ずかしさ・・・

コミュニケーションスキルをいっぱい学んできたくせに

知らないとは言え、間違えた私が悪いのはたしかとは言え、
それでももう少し言い方があるんじゃない?

その人はコミュニケーションスキルに関わる数々の資格をお持ちの方だった。
私自身が憧れて勉強したことや、
今後体系的に学びたい、目指したいと思うことを既にたくさん学び、
それに関係する資格をたくさん保有する同世代の女性だったのだ。

そういうことををいっぱい学んできたくせにコレ?!
・・・私はつい、そう思ってしまった。

資格取得の学びというのは

会社を退職し、これからの働き方を私が模索していた頃、
偶々貴重な学びの機会を得て、そこで、「学ぶこと」の異議や価値に私は気づいたのだ。
その時、資格取得というのは、学ぶ結果なのだと思った。

通常は長い時間かかる経験や諸先輩の助言などから得るスキルや力を、
資格取得のための勉強によって
短時間に、しかも体系だてて学べる機会になることを知った。
長い長い経験に伴う時間とか、人によって微妙に異なる解釈を、
理論というベースを元に、理解していくプロセスであると。
そこには、わかっていたつもりでも漠然としていたことや
今までの勘違いに気づく機会があり、資格取得以上に得る価値がある。

資格については、もう一つ思うことがあった。
会社を辞めると、会社員のときに背負っていた「見えない看板」を失う。
そんなことは想定内と思っていたはずなのに、
私の中で「資格が欲しくなる自分」というのがムクムクと顔を出してきたのだ。
見回せば資格を持っていた人が結構多いのに、気づけば私は何にも資格を持っていなかったからだ。

学ぶ価値を感じて学ぶ資格取得の養成講座に通う自分。
その一方で、バカにしていたはずの資格をほしいと思っている自分。
心の中では両方を抱えながらの学びだった。

結果としては、学ぶ価値は想像以上に大きかったし、
学ぶという機会を通じて得た人とのつながりも大きかったし、
資格取得以上の価値はあった。

学ぶ価値があるなどとは言ってられなくもなる

しかし、その資格試験に合格するのがとても大変だったりすると、
学ぶ価値があるなどとは言ってられなくなる。
そうは言っても資格だ、という気になっていく。
私よりもはるかに立派で尊敬する人が資格試験に合格しなかったり、
その逆があったりする現実の中で、いったい資格ってなんだろうと思う。
そんな割り切れなさをずっと抱えていたときに、冒頭のような人に会うと
本当に悲しくなるのだ。
学ぶ価値があるのだろうか、と。
私が大事にしたいことを汚さないで、と。

けれども反面、いろいろ資格を持っている人と話していると、
いろいろ勉強しているだけあってさすがだなあ、と唸ってしまうような人にお会いすることもある。

結局のところ、私がどうしたいのか。要は自分の問題

結局は私の問題なのだろう。
学ぼうが学ばなかろうが、私が学びたいか学びたくないかのこと。
それをどう生かすのかも、私の問題。
それは私がどう生きていきたいのか、そのものなのだ。

社会では資格で判断されることも多いし、
その資格がないとできないもの、できないこと、というものもあるのはたしか。
だけど「資格」という目に見えるものに頼ろうとした自分は
まぎれもなく「資格」に惑わされていたわけで、
それは本質を見そこねていたのかもしれない。

「資格」というのは、「学びました」の宣言書。
資格取得する以上は、自分で胸を張って宣言できるようでありたい。
人がどういう言うかなんて関係ないことではあるけれど、
少なくとも○○を学んだくせに・・・・などと言われるような恥ずかしいことにはなりたくないものである。



エンディングノートを使って、自分らしく生きることを考える講座
毎月第2水曜日18:30~麻布十番にて開催
体験参加も受付中です。
  10月5日(月)18:30~
    ※9月9日(水)開催予定でしたが台風の影響により延期を決定しました。
    もしも今・・・?!
     命にかかわる医療について、もう少し考えてみる
  10月14日(水)18:30~
    自分のルーツと家族の関係
     ~家系図から見えてくること~

   会員制の継続講座ですが、初回は体験参加できます。
   体験参加費用;3,000円(消費税別)







2015年9月22日

好きだった食べ物が、今、実は嫌い?! 


子どもの頃好きだった食べ物は何でしたか。
その食べ物を今でも好きですか。

食べ物の好みは年齢とともに変わっていくもの。
自分のことならそうわかっているのですが、
人の好みとなると、意外に変わらないものと思いこんでしまいがちだと気づきました。

私の父は穴子が好きだった

父は昔から鰻や穴子が大好きだった。
子どもの頃、わざわざ遠くのおいしい鰻屋さんまでしばしば家族で出かけたものである。

今、私が住んでいる近所のお寿司屋さんは穴子寿司が有名で、持ち帰りも充実している。
10年くらい前にその穴子寿司を実家に買って帰ったところ、
父は旨い旨いとたいそう喜んで食べた。
それ以来、私は実家に帰るときには、よく穴子寿司を買って帰るようになった。


実は嫌いなの・・・

シルバーウイークの1日、
実家に行くにあたって、私は「穴子寿司買って帰ろうか?」と母にメールを送ったところ、
「申し訳ないけど、実は嫌いなの」と返信が戻ってきた。

なんだって?!
大好物だと思ったからわざわざいつも買って帰っていたのに・・・・。
どうやら私の思い違いだったようだ。

以前好きだったものが、今でも好きというわけではない

父はたしかにかつて穴子が大好きだったのだが、今はその穴子寿司が口に合わないらしい。
実際のところは、穴子自体が嫌いになったというわけではなさそうなのだが、その穴子寿司が口に合わわなくなったのだと言う。
親は年をとり、体の変化と共に食べ物の好みが変わっているのかもしれないし、そのお寿司屋さんの味が変わったのかもしれない。
そのあたりのことはわからない。

気遣うのも善し悪し

それにしても、そんなこと、早く言ってよぉ~
私のほうも、時間がないのに穴子寿司を買うために今まで無理したことが何度もある。
そうと知っていれば無理して買うこともなく、私も手ぶらで帰ればよかったのに~。

父にしてみれば、いつも当然のように買って帰る私を見て、
本当のところを言い出せなかったのかもしれない。
娘の私を気遣ったのだとしたら、余計な気を遣わせて申し訳ないことをした。

親のことを知っているつもりでも、実際のところはいったいどこまで理解しているのだろうか。
時間の経過とともに、親も周りもいろんなことが変わっていく。
それなのに、一度インプットされた親のことは、当然のことのように自分の中の思い込みになっていることを知るのだ。

知っているつもりでも知らないこと、変わっていることは思っている以上に多い

考えてみれば、自分自身の食べ物の好みもかなり変わってきた。
かつての私はこってり好きの大食漢。ガツガツ食べたものだが、今では野菜好きであっさりしたものを好んで食べる。
私がこんなに変わったのだから、80歳を超える親の好みが変わるのは当然といえば当然だ。

昔のように確執がありながらも一緒に暮らしていた時代と違って、今は互いに気遣った核家族が当たり前。
迷惑になりたくない、自分の生活を大事にしたい、などいろんな背景があるだろうが、そのおかげでちょっとした日常や、毎日の微妙な変化を、実は知らない。
定期的に通い、家族円満でわかっているつもりでいるから、あ0る瞬間に実際のところ意外に知らないことに気づき、驚いてしまうのである。

エンディングノートを書く人は、一度書いて終わりにしてはいけない。
人の気持ち、考え方、世間の常識は時々刻々と変わるものである。
書くなら、いつの情報なのかの日付を。
そしてできれば時々見返して、変わったら変わったことを加筆しておきたい。
消して書き直すのではなく、加筆すれば変化の過程もわかる。

今、どんどん老いて弱っていく親にとって、食べ物の好みはこれから大事な情報だ。
意識して気にしておこう。
今日知った「穴子寿司を実は嫌いになった」ということも、私たち姉妹間で共有しておこうと思う。





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    ※9月9日(水)開催予定でしたが台風の影響により延期を決定しました。
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2015年9月21日

自分史とエンディングノート・・・どちらも自分らしく生きるための道具だと思う

自分史を書くって、どんなイメージでしょうか。
かつて私が抱いていたイメージは、
ご年輩の偉い男性が今までの功績を記録に残す・・・って感じでしょうか。
でも実際には、考える人は男性が多いそうですが、いざ書くのは女性の方が多いそうです。

さてその自分史、書くのは目的ではなく、あくまでも手段。
だってそれによって、どんな人でも今よりも少し(人によってはとっても)幸せになれそうに思うのです。

自分史フェスティバルが開催中

このシルバーウイークに、日本橋三越の7階で自分史フェスティバルというイベントを開催中だ。


会場は異なれど、毎年開催しているこのイベントを主催しているのは
自分史活用推進協議会。
私自身はそのメンバーではないが、協議会のテーマや考え方には共感することが多い。
3年めになるが、今年はデパートでの開催も加わって面白いコンテンツがあり、
イベントに関わっている人には知っている人も多いので、出かけてきた。

自分史とエンディングノートは重なる部分がある、と思う

そもそも私がエンディングノートに出会ったきっかけは遺影だ。
私が、人の生き方がにじみ出る顔つきというものに興味を持ち、
その究極が遺影だと思い始めたことが始まりだ。
遺影について語り始めたところからエンディング業界(人の死の周辺)の方々と
つながりができた。
私が初めて見たエンディングノートを開いたとき、
それはいい顔つきになるために考えておいた方がいいことが詰まったノートだと
思った。
その項目一つ一つを考え、なぜそう思うのかを考えることは、
今までの生き方を確認することそのものだと思ったから。
それはそのまま、これからどう生きたいかにつながっていく。

だからエンディングノートを開くことは、
これから自分がよりよく生きていくための作業だと思うのだ。
この部分が、エンディングノートと自分史がよく似ていると思うところである。

だけど、残念ながらエンディングノートも自分史も、年をとってから書くものだと
思う人が多い。
私自身もずっとそうだった。
だけど、そうじゃないんだよなあ・・・。
そんなところも、よく似ているところだ。

たとえ20歳であったとしても、それまでの人生をふり返ると見えてくることがある。
エンディングノートも自分史も、今までどう生きてきたのかをふり返るもの。
エンディングノートは人生のゴールである「死」から逆算して今を考える作業
とも言える。
自分史を書くための準備は、
生まれてから今までの自分を思い起こしていく作業だ。

20歳の自分史なんて、まさにこれから生きるか、どうしたいのかを考えるために
絶好な道具になるに違いない。

本来はもっともっとずっと手前のことこそ、考えたい

私は1年半前に「失敗しないエンディングノートの書き方」を出版したことがきっかけで、終活やそれに関連したお話をさせていただく機会をいただくようになった。
普通エンディングノートというと、
相続、医療・介護、葬儀などの専門家さんがお話することが多いのだが、
私がお話する場合はその手前の話。

そもそもエンディングノートって何?
なんのために書くの?
書いていいことってあるの?    などなど。

なぜならエンディングノートっていざ書こうとすると結構大変だし、
実際に書いている人は5%未満ととても少ないからだ。

エンディングノートの話をするときに、その前提として私が必ず話すことがある。
・遺言
・遺書
・エンディングノート
これらはそれぞれどういうものなのか?
いったい、何が違うのか?
実際問題必要なのか?
ということ。

遺言、遺書、エンディングノートは、それぞれにそれぞれの特徴があり、
違うものだ。
だけど意外にこれをきちんと理解している人は少ないので、
まずここからお話するのだ。
法律的なことが違う、
書く目的が違う、
扱い方が違う、
書き方が違う、
読む人が違う、 ・・・

これからは、
遺言/遺書/エンディングノートの三つそれぞれの特徴と違いだけでなく、
ここに自分史を加えて、4つの特徴と違いをまず考えるところからお話してみようかな。





  10月5日(月)18:30~  
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2015年9月17日

雨でうんざり、雨でゴキゲン

大事な契約があった日、朝からずっと雨降りだった。
それもどしゃぶりで。
荷物もいっぱいあって、私も気持ちも沈みがち。
うんざりしていた

「契約の日にお天気に恵まれないなんて、
なんだか幸先が悪そうで嫌になっちゃいます」


その契約のお世話をしてくれていた士業の先生に
私はその場でポロッとこぼした。

そうしたらその先生が言ったのだ。

そうですか?
ボクは意外に雨降りの契約は好きなんですよ。
だって、雨降りはみんな出かけたがらないから、どこも比較的空いているでしょう?
銀行なんて、本当に空いています。
いろいろな手続きがあまり待たされることなくスムーズにできます。
今日の契約作業は、きっとスムーズですよ。

私は当然のようにに、パーッと晴れた日に、澄み渡った青空の日に
契約したい、と思っていたのだけれど、なるほどね・・・

士業の先生のその言葉で、今日でよかったんだ、と思えた。

ちょっとした気の持ちよう。
それも人の言葉で簡単に変わる。

なんだか幸先がいいような気がする。

2015年9月16日

オバサンなんて絶対呼ばせない!・・・ じゃあなんて呼ばれればいい?

名前を知らない女性を呼ぶ時、なんて呼べばいいのでしょう?
なんて呼ばれればイヤじゃないのでしょう?
考えてみると、呼ぶほうも呼ばれる方も、なかなか悩ましい問題です。

オバチャン? オバサン?

うちには子どもがいないから、子どもに囲まれる機会は圧倒的に少ない。
友だちには独身も多く、私の気分は20~30年前とほとんど変わらず、
自分が子どもから見てどう見えるかなど、あまり考えたことがない。

子どもに「オバチャン」と呼ばれる機会がないこともあり、
日頃オバサンと呼ばれる機会はほとんどない。
甥っ子姪っ子たちには、まだ言葉を話せるようになる前から
オバチャン、オバチャマの類は一切呼ばせず、ずっと「きみこちゃん」と呼んでもらってきた。

孫がいる同級生も出始めてきた今だけれど、
私は、今4歳の姪っ子にも「きみこちゃん」と呼んでもらっている。
どんな場所でもどんな相手にもオバサンなんて、絶対に呼ばせない(笑)。

ご機嫌になれる呼ばれ方がある


先日、学生時代の同級生(女性)数名と会った時のことだ。

「オネエサンって言われちゃった~!」

その友人はとてもご機嫌に言った。
エレベーターに一人で乗っていたら、親子連れが乗ってきたのだと言う。
親子連れは、5歳くらいの男の子とそのパパ。
子どもはパパに「何階?何階?」聞きながら大騒ぎをした後、
彼女はそのパパに「○階お願いします」と言われて、
彼女がフロアのボタンを押したのだ。

そのフロアに着いたとき、

パパ 「オネエサンに御礼を言おうね。」
男の子「どうもありがとう!」

そう言って、親子はエレベータを-降りていったのだと言う。

「オネエサンよ、オネエサン!」

彼女の声は弾んでいた。
まさに、小躍りするするほどに。

彼女の娘さんはとっくに20才を超えている。
彼女の年齢は推して知るべし。
あ、同級生だから私と同じ(笑)、つまり50代だ。

さて、その同級生の

「オネエサンよ、オネエサン!」

という言葉を聞いて、その場に居合わせた他の同級生が言った。

「そのパパ、やるわね~」
「イケメンだったでしょう?」

そこで「オネエサン」と言って友人を小躍りさせた男性に、俄然高得点がついたのだ。
その男性が咄嗟に言った「オネエサン」にはどんな意味があったのだろう。
自然に出た言葉なのか、
かつてイタい思いをしたのか、
それとも・・・(笑)。

不愉快になる呼ばれ方

「オバサン」は今や蔑称。
ビジネスの現場では、今、「オバサン」は差別用語のごとくの扱いだ。
男性の人たちは、内心そう思っていたとしても、
セクハラと捉えられないように、決してそう言わないように
ドキドキしているように見える。

たしかに言われる方にしてみれば、「オバサン」は嬉しくない呼ばれ方だけど、
「オネエサン」とはどうも嘘くさい。
でも名前を知らない場合の呼び方として、どう言われればいいのだろう?

別の友人が遭遇した話を聞かせてくれた。
生鮮食材のお店で70歳前後と思しき上品な女性とお店の人とのやりとりだ。

その女性は食材を購入し、お店に下処理をお願いし、それを待っていた。
できあがったところで、お店の人が一声かけてそれを手渡した。

「はい、オカアサン。できあがり~!」

その一言に、女性のご機嫌が悪くなったのだそうだ。

「私、あなたのオカアサンじゃない!」

失礼じゃない呼び方、不愉快じゃない呼ばれ方とは?

呼ばれ方の捉え方は、たぶん人によってずいぶん違うのではないかと思う。
同じ呼ばれ方でも何も感じない人もいれば、過敏に反応する人もいる。
名前で呼ばれるにしても、本名、名前、ニックネーム・・・
人によって内心嬉しい呼ばれ方もあろうし、実は嫌な呼ばれ方もあるに違いない。

だから自分で呼ばれたい名前をつける人もいる。
実際、
「○○と呼んでください。」
と宣言してからスタートする勉強会もあるくらいだが、
私の場合は、姪っ子など子どもたちに言うことはできても
オトナに向かってそんなことを宣言するのはとても恥ずかしい。

前述のエレベーターのパパはなかなかの世渡り上手かもしれない。
たまたま乗り合わせた程度の関係の場合は、これくらいのスマートさが求められるのか。
でも私にはできそうにない。

前述の生鮮食材のお店のようなケースでは何と呼べばよかったんだろう?
う~ん・・・・「お客さん」か。

本当は失礼にならないようなオールマイティな呼び方があればいいのだけど、
思い当たらない。
かつてはそういう呼称がいろいろあったように思うのだけど、
いろいろな配慮のもとでいつの間にかそれを使いにくい世の中になってきたように思う。

「おばさん」「奥さん」「お母さん」「おばあちゃん」・・・・

実はかつて普通にそう呼ばれていた人たちも、
当時は内心、本当は不愉快だったのかもしれない。
あるいは、人権を大事にしようという動きの中で、
まるで寝た子を起こされたように気にもしなかったことに気づき、
そう言えば不愉快かも?!と思うようになったのかもしれない。

いずれにしろ、
自ら呼んでほしい呼び方をお願いできるような
かなり限定した間柄(あいだがら)には、直接お願いし、
お願いできない間柄の場合は名前をお知らせするのがよさそうだ。
そして、名前を知る由もない間柄の場合は、
そのときの呼ばれ方で一喜一憂するのを楽しむっていうことが求められる気がする。

2015年9月14日

欲しい!と心が動く理由 

ここ数年、中学高校の同級生と会う機会が増えました。
私の出身校は毎年クラス替えがあった中高一貫教育なので、
同学年の人は、ほぼ同級生のようなもの。
母親業が忙しかった人は子育てがほぼ終わったこと、
仕事が忙しかった人は、最前線から少し引いてきたこと、
など事情はそれぞれですが、Facebookの影響も大きいかもしれません。

最近、同級生のFacebookグループでトレンチコートが話題になりました。
そこには、昔のワクワクにつながることがありました。

同世代だからわかることってある

私が使うもの、身につけるものの商品企画に、
同世代の意志や気持ちは入っているだろうか。
しばしば、そう思うことがある。
若い頃には気づかなかった不便、不自由、窮屈を感じるモノが多いからだ。

一方でモノに心が動く時というのは
「この商品企画にきっと同世代が関わっているんじゃないかな」と思う時だ。

昔々、夢中になったことには心が動く。

 「アクアスキュータムのトレンチ、買っちゃおうかなぁ」

同級生で作ったFacebookグループの投稿で賑わっていた。
9月1日からアクアスキュータムが『ベルサイユのばら』とのコラボキャンペーン「LOVE & and TRENCH」をスタートしたからだ。
このキャンペーンで、
オスカルとアンドレがトレンチコートを着用したビジュアルが展開されている。

昔々、「ベルサイユのばら」が大ヒット

私が中学生の頃、漫画「ベルサイユのばら」は大ヒットした。
ふだんあまり漫画を読まなかった私も、夢中で読んだ。
時代はフランス革命直前。
女だけど男として育てられたオスカル。
マリー・アントワネットに仕え、幼馴染みの男性に恋心を抱くオスカルは、
夢物語の中とは言え、私はとてもワクワクした。

今のアニメとは全然違う、目は星だらけの画風。
フランス革命をモチーフにしながらも、非現実的なストーリー。
私は特に漫画好きだったわけではなかったのに、
ベルばらの作家、池田理代子さんの顔だってちゃんと知ってるくらいなんだから。

「週刊マーガレット」で読んだ後、再び単行本で読み、
友だちの間では、やれオスカル派だ、アンドレ派だと言って大騒ぎしていた。




中学の時には、先輩が文化祭で劇を上演し、それにも夢中になった。

キャンペーン公式サイトのオスカルを見て、
私はそういうことが一気に思い出されたのだった。

さらに、「アクアスキュータム」と聞くと心がキュンとする。
なぜなら、
大人になって手に入れた憧れのトレンチコートが「アクアスキュータム」だったから。
いいものは長く着られると言うけど、
微妙に形は変わるので、やっぱり古びていった。
でもなかなか捨てるには勇気が必要だった1枚である。
今でも色や形、細部までよく覚えている。

ワクワクの記憶が、私の「欲しい!」を呼び起こす

今となっては、
「アクアスキュータム」は私にとって特に憧れのブランドではないのだが、
それでもオスカルやアンドレのトレンチ姿を見て、

 「アクアスキュータムのトレンチ、買っちゃおうかなぁ」

と、また欲しくなってしまうのだから、まさしく広告の狙い通りだ(笑)。

なんだか、昔ワクワクしたものに心が動くなんて、まるで老人のようで
自分でもちょっと苦笑いしてしまうのだけど、それでもやっぱり
昔ワクワクしたものの力は大きい。

この企画に、必ずや同世代が関わっているに違いない。

学生時代にワクワクしたものは、
同じ同世代と言っても、仕事関係の同世代よりも、
たぶん学生時代を共にした同世代の方が盛り上がる。
昔だったら日常的に会うわけではない学生時代の同世代では、
なかなか盛り上がりに欠けたかもしれないけれど、
今はSNSのおかげで、10年前よりもきっと盛り上がりやすいのではないか。

さてこのコラボキャンペーン、
公式サイトでは『ベルサイユのばら』のオリジナルコミックが公開されたばかりだ。
今月下旬にはオリジナルムービーも公開されるらしい。

もう一度『ベルサイユのばら』、読んじゃおうかなあ・・・。


全国の店舗にもコラボビジュアルが展開されるそうで、
私もお店に見に行っちゃおうかなあ・・・。
広告の思うツボだと百も承知だし、ちょっと悔しいけど、ね。

でも広告には、悔しくなるくらい思うツボだと思わせてほしいものです。

2015年9月11日

どうする? イベント開催の時に大台風来襲と重なったら・・・

関東地方は、台風18号と秋雨前線の影響で、
9月8日、9日、10日と記録的な大雨になりました。
その後も、11日は北関東から東北へと被害が広がっています。
ここのところ、記録的な○○、史上最大、100年に一度の○○、最大級の警戒、
など、それこそ未だかつて聞いたことがないような表現が飛びかっていますが、
今回はまた想像をさらに超えることになりました。

すごい雨だけど、東京都心は電車がちょっと遅れる程度なんじゃないの?

私は天変地異に対して危機感が薄く、
日頃そういうことに対して予め準備をするということもほとんどない。
ニュースで騒いでいても、
不謹慎ながらあまり気にせず日常通りに過ごすことが多い。
外出を控える、早めに帰る、など、ほぼ考えることなくこれまできた。

ただ、この台風がピークの9月9日(水)、
私は自らの主催で18:30~、エンディングノート講座の開催を予定していた。
この日は専門家の講師をお招きして行う予定だった。
開催前日、台風も雨もニュースでは一応確認していた。
天気図では、台風は日本列島を通過し、夜には抜けそうだった。
それを見て私が思ったのは、雨降りで嫌だな、という程度だったのだ。

翌日(9日)、午前中から問い合わせが入り始めた。

「今日の講座は中止ですか?」

「いえいえ、予定通りやりますよ。
台風も夜にはぬけそうだし、雨もやめばいいですね。」

私は気にもせず、明るく答えた。
内心、ずいぶん気にする人がいるんだなと不思議にすら思っていたのだ。

午後になり、雨がとても強くなってきた。
それでも私はどこかまだタカをくくっていた。
台風の時は雨が強く降ったり弱く降ったり、風が強くなったり弱くなったりを繰り返すのは普通なんだから、と。

やっぱりイベント開催は中止した方がいいのかしら

ところが14時を過ぎたところで、
東京都内に洪水をはじめたくさんの警報が出始めたのだ。
参加者から
「もし電車が止まると帰れなくなるからお休みします。」
という連絡も入ってきた。

ええっ?!
そこで初めて、私は中止(延期)を検討した方がいいのだろうかと思い始めた。
15時になろうとしていた。

イベント参加者に連絡がつかない

中止(延期)するなら、参加者だけでなく、
今回お願いした講師にまず連絡をしなくてはならない。
会場はキャンセルできるだろうか。
会員制の継続定期講座だから、もしも中止するならそれは延期だ。

講師は延期しても対応してくれるだろうか。
参加者は延期になることで不利益をこうむらないか(=参加できなくならないか)。
延期日の調整がつくだろうか。その日会場は確保できるだろうか。
延期で参加できない人には返金手続きをしなくてはならない。

それにしても、参加者全員に今日は中止という連絡がつくだろうか。

いろいろなことが頭に浮かぶ。
とりあえずメールと電話であちこちに連絡をつけ始めた。
会場、お招きする講師、参加者。
講師や参加者は仕事中だし、ほとんど連絡がつかない。

もし中止の連絡がつかなかったら大変な迷惑だ。

結局、全員に連絡をつけることができないまま、
私は16時の時点で中止を決定した。
幸い、開始予定時間の30分前に全員に連絡がついた。
そのまま、延期候補日の調整に向けて、
講師や参加者に連絡をし続けることになり、
その日の夜、会場確保までが確定した。

判断はいつすべきなんだろう

午前中に問い合わせが入ったときに、私はもっと考えておけばよかった。
私の判断が遅すぎた。
今回は少人数の講座だったことが幸いし、
その日のうちに延期となる振替日が確定できたのだが、
もしも大人数だったら全員に連絡しきれたかどうかはわからない。
私は中止を決められなかったかもしれない。
それによって、参加者が帰宅できなくなったり、
危険な目に合わせることになったかもしれない。
実際、参加者の一人の自宅は
今回の台風で甚大な被害が出た地域のすぐ近くだった。

判断の遅れは命取りだ。

今回、私が漠然と検討を始めたのは14時、イベント開始の4時間半前だった。
そこから逡巡し、各所に連絡を取り始め、中止を決定したのは16時だった。
どちらにしても、私の判断は絶対的に遅かった。
朝、問い合わせが来た時点で中止を決めていればよかったのだ。

私は会社員時代から、イベントの開催側スタッフの経験も少なくはなかったけれど、
天変地異による中止や延期は経験したことがなかった。
芸能人のコンサートなど、急遽中止になることがある。
延期日程が示されたり、チケットの払い戻しがあったりするのをしばしば目にする。
しかしそんなのは他人事だった。

打ち合わせやアポイントなら当事者同士だけの話だから簡単だけど、
イベントのような場合は決行しても中止しても迷惑をかける範囲が大きい。
しかも今回のような時々刻々と変化する自然災害の場合の判断は難しい。
いつ、どこで判断すべきなのか。

イベントを主催するということは、
いざという時に的確に判断せねばならないということとセットである。
主催する以上はその判断の重要性を肝に銘じるとともに、
自分の中の判断基準をいくつか明確にして持っておく必要があることを
痛感する1件となった。

イベント開催だけじゃない。
今回のような天変地異による中止や延期だけでもない。
あらゆることについて、主催者の判断の遅れは命取りだ。
しかし、早まった判断ミスが命取りになることだってあろう。
判断というのは難しい。
勢いや覚悟だけではすまない。

大雨を降らす雨雲が関東地方を通り過ぎても、東北ではまだ大雨が続いている。
大雨がやんだ地域も、まだ土砂崩れの危険は続いている。
どうかこれ以上の被害が出ませんように。




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