フェイスブックを見ていると、「プロフィール写真を変更しました」というお知らせがよく出てくる。
新たに自分の写真を撮影したり、前の写真よりもっと気に入った写真が出てきたりするから、変更するのだろう。
そういう写真を見て、
「おっ、ずいぶん化けたな。」と思うことがある(苦笑)。
実際のところ、それは成功なのか、失敗なのか・・・・?!
撮影してもらって楽しかった~!という満足が欲しい人なら、
それはきっと成功なんでしょう。
でも、もしもその写真がビジネスにもつながる可能性のあるプロフィール写真である場合は、必ずしも成功かどうかは、疑問だと思う。
ビジネス使用の場合、1度も会うことなく終わるのであればいいけれど、いざ会ってみて「あれれ?!」ということになると、これはちょっと困りものではないだろうか。
それを逆手にとって上手に商売している方もいらしゃるが、そうでないと、イメージダウンにつながりかねない。
タレントさんのようなポーズをしたり、素敵な写真に加工してもらった写真の場合、被写体本人の満足は大きいかもしれない。変身できるのだから。
けれど、その写真のイメージで初めて会う者の立場からすると、イメージとの差異に驚いてしまうことになる。
それがうまく行っている人も中にはいるが、その写真が無用なイメージダウンにつながるとなれば、却ってもったいないことだ。
穏やかな人のはずなのにイケイケの元気な顔写真だったり、妙なガッツポーズをしたり、不自然なオスマシであったり。
これがモデルのように撮られ慣れている人でないから、余計に違和感が出てしまうのだ。
私自身も、そういう方に何度かお会いし、変に無理しない方がずっといいのになあ、と思うことがたびたびある。
自分のプロフィール写真の良し悪しは、なかなか自分ではわからないものだ。
美しいかどうかよりも、魅力的かどうかの方が、実ははるかに重要ではないかと思う。
魅力的とは何か?!
これについては、別の機会に書こうと思うが、要は好意的に思えるかどうかではないだろうか。
どんなに美しくても性格が悪そうに見える顔だってあるし、ハンサムではないけど優しそうで感じがいい、ということだってある。
本人の思いとは必ずしも違う。
実際、美しすぎる写真を見て、ふだんの顔の方が仕事をお願いしたい雰囲気だと私自身が感じることがあるし、ふだんの方がもっと素敵なのに・・・と思う人は少なくない。
私が、年齢を重ねた顔や生きざまが表われる顔に注目するのは、実はそういうところにある。
作ろうとしたイメージは、その中身と合致していなかったり、場当たり的なものだと、すぐにバレてしまう。透けて見えてしまうものがある。
昔のような業態ではくくれないような新しい仕事や産業も生まれ、組織の時代から個人の時代へと変わりつつある中で、個人で仕事をする人が増えている。
そういう個人がビジネスのために出す顔写真が、カメラ目線の証明書写真のようなきちんとした顔写真である時代は、たしかにもう終わったと思う。
しかし、だからと言って、握りこぶしのガッツポーズや、斜めに構えたオスマシ女性顔が、ビジネスのために出すプロフィール写真としてふさわしいかと言えば、それは違うのではないかと思う。
むしろ、臨場感溢れた姿を正直に見せること~その方が評価される時代になったと思うのだが、どうだろうか。
では、そういう生々しい顔、表情、しぐさ・・・そういう本来の中身が表れた「素敵」を、どう撮影すればいいのか。
そこは、本来のその人の個性や良さが出ているシチュエーションで撮影するのが一番だと私は考えている。
しかもプロのカメラマンであれば、その瞬間を上手につかむので、当然いい写真になる。
願わくば、カメラマンがいることを忘れるくらいのシチュエーションで。
しかしもしもそういうシチュエーションを作れるのであれば、撮影するのは、日常的に写真を撮りなれている人や構図のセンスがある人ならば、必ずしもプロでなくてもよいと思う。
むしろ、シチュエーションの方がはるかに大事だと私は考えている。
よくある「笑って!」とか「いいですね~!」という声かけでは、素人は本当のいい顔にはならない。なれない。
ましてや、「斜めに体を振って。右肩を少し前に出して・・・」というような慣れない立ち方(座り方)の指示では、益々作られた顔、嘘くさい顔になってしまう。
写真から声が聞こえてきそうな顔、
写真から飛び出てきそうな顔、
・・・一緒に仕事をした時のその人をイメージできそうな、こういうプロフィール写真が出ていると、私はその人に会ってみようかなと思う。
一度会った後にサイトで確認した際に、こういうプロフィール写真が出ていると、会った時の記憶と一致するから安心できるし、また会いたいと思う。記憶にも残りやすくなる。
結局のところ、その写真は自分が見るための写真なのか。それとも人に見せるための写真なのか。
~これによって、どういう写真がいいのかが決まるのだと思う。
人に見せるための写真が、本人とわからないくらいきれいではやはり意味がないように思う。
それは自分が大満足するための写真だからだ。
けれども、本人とはわからないくらい化けた写真ほど、しっかりお金をかけて撮られていて、しかも人に見せるための写真として活用されることが多いのは、なんとも皮肉なことだと思う。
自分ブランディングとしてどういう顔を出すか、セッション受付中。
撮影も承りますが、私が撮影するわけではありません。
顔、顔の写真についての記事
整形しちゃダメだよ
遺影は選んでおきたいけど準備していない~アンケート調査結果から
遺影を決めていると語る芸能人の人たち
i-faceで、こんな仕事しました
2014年8月10日
整形しちゃダメだよ
映画「乱」の撮影の時、女優の原田美枝子さんが、故黒澤監督に言われたそうだ。
「整形しちゃダメだよ。」
顔は、年齢とともに生きてきたいろいろなものが出てくるからいいんだ。けど、整形するとそこに無理が出てくるから。
~というのが、その理由だったそうだ。
当時の原田美枝子さんはまだ若くピチピチで、監督の言葉に対し、笑って「整形なんてしませんよ~」とかわしたそうだが、当時は故黒澤監督の言う意味など全く理解できてなどいなかったと言う 。
今になって、年をとればシワも出るし、やっぱりイヤだ。でもだからと言って、整形するというのも・・・、そう言えば、それがいいんだと言われたよなあ、と今思い出す、と言う。
たしかに、失礼ながら原田美枝子さんは年をとった。シワも増えたとは思う。
だけど私は若い頃の彼女よりも今の彼女の方が好きだ。
若い頃よりも品があり、ぐんと知性と優しい包容力が感じられ、とても素敵に年を重ねているなと羨ましく思う。
若い頃よりも品があり、ぐんと知性と優しい包容力が感じられ、とても素敵に年を重ねているなと羨ましく思う。
そう。
巨匠、故黒澤監督が言うまでもなく、年齢を重ねると、ぞの顔にはいろいろなものが表れてくる。美人さんだったかどうかよりも大事な「何か」が、そこにはある。
それは知性だったり品格だったり、あるいは愛情だったり幸せだったり、もしくは楽しそうな様子だったり、満たされた様子だったり。
残念ながら、逆に幸(さち)薄そうだったり、貧相だったり、高慢だったりする顔になっていくことだってある。「そう。ある、ある」と頷く方々も多いに違いない。
若い頃には目鼻立ちが優先するのだが、年齢を重ねると、目鼻立ちよりもこういうことの方が先に目につく。
いくら着飾っても、気取っても、透けて見えてしまう気がする。
いくら着飾っても、気取っても、透けて見えてしまう気がする。
そこが怖いところだ。
これが整形をすると、故黒澤監督が言う「年齢を重ねるからこそのいい部分」が消えてしまいそうな怖さがある。
偽善のような「作られたモノ」無機的な感じになる。
しかも年をとるので周りの肉が弛む分、その隔たりが引き攣れたり不自然になって行くのだろう。
若いうちはいいけれど、年齢を重ねればメンテナンスしないと顔が壊れていく・・・らしい。
偽善のような「作られたモノ」無機的な感じになる。
しかも年をとるので周りの肉が弛む分、その隔たりが引き攣れたり不自然になって行くのだろう。
若いうちはいいけれど、年齢を重ねればメンテナンスしないと顔が壊れていく・・・らしい。
そう思ってはいても、プチ整形でシワが消えると聞けば、自然な顔にこだわっている私自身でさえも、「ん?なになに?ホント?」と心惹かれるてしまうのも事実。
加齢を素直に受け入れきれず、残念ながらジタバタしている私、とも言える。
このジタバタ感の方が、シワの存在よりも残念なのに・・・と頭では思うのだが、その思いが消せないのは、とりあえず微妙なオンナゴコロとでも言っておこうか。。。(苦笑)
それでもやっぱり、百歳の人の顔を見れば、「これこそが、年齢を重ねた人の顔のよさだよなあ~」と、また再認識するのである。
百歳にはまだ遠いとはいえ、今の積み重ねが未来に通じるのは何事においてもそうだ。
顔だって、間違いなくそうであることを、今の年になって私も一応理解できるし、やっぱり自分の未来のためにも、微妙なオンナゴコロなんかに惑わされてはならん!と思うのである。
このジタバタ感の方が、シワの存在よりも残念なのに・・・と頭では思うのだが、その思いが消せないのは、とりあえず微妙なオンナゴコロとでも言っておこうか。。。(苦笑)
それでもやっぱり、百歳の人の顔を見れば、「これこそが、年齢を重ねた人の顔のよさだよなあ~」と、また再認識するのである。
百歳にはまだ遠いとはいえ、今の積み重ねが未来に通じるのは何事においてもそうだ。
顔だって、間違いなくそうであることを、今の年になって私も一応理解できるし、やっぱり自分の未来のためにも、微妙なオンナゴコロなんかに惑わされてはならん!と思うのである。
2014年8月5日
起業家にとっての大問題、生活費の不安
サラリーマンなどをやめて起業する人に対して、政府が年間650万円の生活費を最長2年間、支給する制度が今年中に始まると言う。
しかも、その生活費とは別に、1500万円を上限にした市場調査費や試作品製作のための費用も出ると言うのだ。
これはすごい。
起業家さんの立場としては、経済産業省所管の独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」の関連会社の契約社員となり、形は給料ということになるようではあるが、数年前に会社員を辞めて独立した私としては、何ともうらやましい話だ。
とは言っても、この制度の場合、実際に制度を利用できそうな人はかなり限られそうだ。本当に優秀な起業家に絞っていくという。
■起業家に生活費支給、
しかも、その生活費とは別に、1500万円を上限にした市場調査費や試作品製作のための費用も出ると言うのだ。
これはすごい。
起業家さんの立場としては、経済産業省所管の独立行政法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)」の関連会社の契約社員となり、形は給料ということになるようではあるが、数年前に会社員を辞めて独立した私としては、何ともうらやましい話だ。
とは言っても、この制度の場合、実際に制度を利用できそうな人はかなり限られそうだ。本当に優秀な起業家に絞っていくという。
企業のあり方や個人の働き方が萎縮し、日本経済は萎縮していくなかで、国としても新しい産業を興していかねばばらないので、優秀な起業家を支援していこうという国の意図はよくわかる。
会社を辞めて一人で仕事をするというのは、当たり前のことながら、いくら働いても仕事しても、売上が上がらなければ収入が得られない。売上を上げて初めて収入を得るということだ。
そんなことは頭ではちゃんとわかっていたつもりだったけれど、私の場合、会社員として給与をもらう生活というのが予想以上に染み付いていたことを、退社後に痛いほど実感した。
私は、一定期間は売上0でも生活できるだけの用意をしてから退職したが、それでも売上0であれば不安がどんどん大きくなる。このまま売上が立たなかったらどうしよう、と思う。
扶養家族を多く抱えていればさらにその思いは強くなるに違いない。収入=生活費が心配になって、売上が立ちやすい手軽な仕事を次々引き受けて起業どころではなくなったり、就職活動をする人も少なくないと聞く。
そういうことを考えれば、この制度は本当にありがたい。
生活費の不安がなく起業準備ができるのだから。
しかし、意志の弱い人にとっては、ここは良し悪しになる可能性がある。生活費の助成が、起業進展スピードアップの足かせになるかもしれない。なぜなら、人は崖っぷちに立たないとなかなかやらない傾向があるから。
できることで収入を得るか、やりたいことで収入を得るか。~会社を辞めてから、この狭間で揺れていた自分を思い出す。
やりたいことで収入を得るのは難しく、できることの方が収入を得やすい。ましてや、やりたいことをどうやって仕事にするか試行錯誤していれば、ますますそれで収入を得るのは難しい。
そうなると、どうしてもできることで収入を得る方に流れやすくなる。
私の場合はそうだった。できることで収入を得る方が手っ取り早い。慣れているから悩まずにスイスイ進められる。
しかし、起業しよう、新たなビジネスを起こしたい、と思っている身にとっては、これは大きな障害になる場合がある。必死に考えることをついつい後回しにするからだ。
人と言うのはつくづく怠け者だと思う。水が上から下に流れるがごとく、ついつい楽な方へと流れていく。
起業家にとっての生活費は大問題であることに間違いないけれど、それでもそこが保障されないからこそ、必死に頑張れることだってある。退路を断たれるからこそ必死になって、馬鹿力を出せる側面もある。もちろん、その分自信を喪失するなど、とても苦しい思いもする。しかし、それがまた肥やしになって、トンネルを抜け出すことができるように思う。
とは言え、そこには基礎体力があるかどうかも大事であることを、最後につけ加えておきたい。
生活費の不安がなく起業準備ができるのだから。
しかし、意志の弱い人にとっては、ここは良し悪しになる可能性がある。生活費の助成が、起業進展スピードアップの足かせになるかもしれない。なぜなら、人は崖っぷちに立たないとなかなかやらない傾向があるから。
できることで収入を得るか、やりたいことで収入を得るか。~会社を辞めてから、この狭間で揺れていた自分を思い出す。
やりたいことで収入を得るのは難しく、できることの方が収入を得やすい。ましてや、やりたいことをどうやって仕事にするか試行錯誤していれば、ますますそれで収入を得るのは難しい。
そうなると、どうしてもできることで収入を得る方に流れやすくなる。
私の場合はそうだった。できることで収入を得る方が手っ取り早い。慣れているから悩まずにスイスイ進められる。
しかし、起業しよう、新たなビジネスを起こしたい、と思っている身にとっては、これは大きな障害になる場合がある。必死に考えることをついつい後回しにするからだ。
人と言うのはつくづく怠け者だと思う。水が上から下に流れるがごとく、ついつい楽な方へと流れていく。
起業家にとっての生活費は大問題であることに間違いないけれど、それでもそこが保障されないからこそ、必死に頑張れることだってある。退路を断たれるからこそ必死になって、馬鹿力を出せる側面もある。もちろん、その分自信を喪失するなど、とても苦しい思いもする。しかし、それがまた肥やしになって、トンネルを抜け出すことができるように思う。
とは言え、そこには基礎体力があるかどうかも大事であることを、最後につけ加えておきたい。
2014年7月23日
私から年を取らないでください
今や140万部も売れているという大ベストセラー、「置かれた場所で咲きなさい」を書いた、ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんがテレビで話しているのを見た。
「今日より若い日は来ないのだから。」と笑うシスター、渡辺和子さんの穏やかな表情を見て、テレビの前で元気をもらった人は多かったに違いない。
そうは言っても、いくら綺麗事を言っても、
肯定的に年を重ねたいと思う私と、もう年なんかとりたくないと思う私の両方が、残念ながら私の中には同居し、どうしてもあれこれ思う現実があるのも否定はできないのだが、それでも私が私自身を見捨てることなく、財産となるような年を重ねたいと改めて切に思うのである。
実際にお話をするご様子を私自身が見るのは初めて。
「人間ですもの、私だってイライラすることだってありますよ。」と苦笑しながら話されるご様子はなんとチャーミング!
最近のシスターにはチャーミングな方が多いような気がしてならない。あくまでも個人的感想なのだが(笑)。
私自身の中学高校がキリスト教のプロテスタントだったせいか、若い頃からどうもカトリックは厳しい、ちょっと怖い、慎ましやか、なんとなく緊張する、というイメージを抱いていたのだが、ここ数年で私の中のイメージが大きく変わりつつある。
私自身が厳粛で慎ましやかな清楚な女性に近づいてきたとか似てきたとかいうわけはないので、シスターに対する昔のイメージは私の思い込みだったのか、それともチャーミングな部分を私が見ようとしなかったのか、あるいは実際にそういう素敵な人が増えているのか。
さて、今87歳でいらっしゃるという渡辺和子さんへの
「これからの夢は?」という質問に対しての答えが、益々素敵だった。
「これからの夢は?」という質問に対しての答えが、益々素敵だった。
「財産になるような年をとること」
そして、大事なことは自分を見捨てないことだそうだ。
年を重ねることは残酷だ。
自分自身の肉体も、皮膚のハリや艶も、現実には時間の経過は容赦ない。
それだけでなく、環境だって冷たいくなることもある。
それでも、経験や知識、人とのつながりのおかげで、年をとるのも悪くない、楽しいこともあると思えることが、ときどきある。
それを「財産」と表現したところが素敵だと私は思った。
渡辺和子さんのお知り合いで、「私から年を取らないでください。」と言った人がいるそうだ。
一つづつ年を重ねることを肯定的に捉えられているからこそ、の言葉だ。
丁寧に一つづつ、年を重ねていくことの価値を、かみしめたくなるような思いだ。
「今日より若い日は来ないのだから。」と笑うシスター、渡辺和子さんの穏やかな表情を見て、テレビの前で元気をもらった人は多かったに違いない。
そうは言っても、いくら綺麗事を言っても、
肯定的に年を重ねたいと思う私と、もう年なんかとりたくないと思う私の両方が、残念ながら私の中には同居し、どうしてもあれこれ思う現実があるのも否定はできないのだが、それでも私が私自身を見捨てることなく、財産となるような年を重ねたいと改めて切に思うのである。
2014年7月18日
Yahoo! が始めた終活サイト、わかるけど気になる・・・
今や、終活という言葉は完全に市民権を得たように思う。「就活」から転じた「終活」の言葉自体を知らない人はほとんどいなくなったのではなかろうか。
私が生きざまが表れる顔に注目し、その究極が遺影だと考え始めた頃には、まだ終活という言葉はなかった。もちろん、遺影を考えることが終活のひとつであるという発想も、当時の私にはまだなかった。あくまでも私の注目は顔だったからだ。
その後、世の中の高齢化や孤立死が社会問題化し、家族のあり方の変化や相続税が変わることも手伝い、死ぬ準備、死んだあとの始末が注目されるようになったことで、終活という言葉が出てきたのだ。
私が気にする遺影もそのひとつになった。
終活本が多数発行され、終活を掲げるWebサイトが多数出て、あちこちでは終活講座が行われている。私自身も終活カウンセラーの学びをし、そういう話をする機会が増え、エンディングノートについての本を書き、出版している。
死を考えることで、今を丁寧に生きていける。
終わりを意識することで、今の価値、これからをより充実させることができる。
~そう思う。
確かにそう思うのだが、そうしたら、なんとヤフーが終活サイト「Yahoo!エンディング」を始めたのだ。
私が生きざまが表れる顔に注目し、その究極が遺影だと考え始めた頃には、まだ終活という言葉はなかった。もちろん、遺影を考えることが終活のひとつであるという発想も、当時の私にはまだなかった。あくまでも私の注目は顔だったからだ。
その後、世の中の高齢化や孤立死が社会問題化し、家族のあり方の変化や相続税が変わることも手伝い、死ぬ準備、死んだあとの始末が注目されるようになったことで、終活という言葉が出てきたのだ。
私が気にする遺影もそのひとつになった。
終活本が多数発行され、終活を掲げるWebサイトが多数出て、あちこちでは終活講座が行われている。私自身も終活カウンセラーの学びをし、そういう話をする機会が増え、エンディングノートについての本を書き、出版している。
死を考えることで、今を丁寧に生きていける。
終わりを意識することで、今の価値、これからをより充実させることができる。
~そう思う。
確かにそう思うのだが、そうしたら、なんとヤフーが終活サイト「Yahoo!エンディング」を始めたのだ。
洒落たサイトになっているのに、今まで私自身が発信してきたテーマであるにもかかわらず、なぜか私は共感ではな、く少しばかり違和感を感じたのだ。
「Yahoo!エンディング」は無料で会員登録できる。
いずれ訪れる死に向けての準備をするためのサイトとして、葬儀の手配、お墓の準備等を扱い、相続にまつわる情報提供を行う。
いざという時に備え、家族に残したいメッセージも保管できる。
葬儀やお墓の専門出版社、鎌倉新書との提携だから、おそらく情報も確かだろう。
あのYahoo!がここまでやる時代になったのだ。
それなのに私が多少の違和感を感じるのは、それはきっと、いきなり「葬儀」「お墓」だからだと思う。
いきなり「死」の直後についての情報提供だからなのだと思う。
それも、その周辺業界ではなく、Yahoo!がやっているからだ。
人生は生まれてから死ぬまでの時間である。
誰もに死は訪れるのだから、死から目を背けることはできない。
けれども今を、そしてこれからをどうするのか。
どう生きて行くのか。
それがあって、最後が死ではないのか。
そこを考えずにいきなり死を考えようとするところに、きっと私は違和感を感じるのだと思う。
目を背けがちだった死を考えようとするなら、そこも考えなければあまりに残念! もったいなくはないだろうか。
これからを考える、生き方を考えるということは、葬儀やお墓、相続のようにお金が介在しにくい。シャワーのように提供される情報は、どうしてもお金が介在するものばかり溢れて行く。
だから私たち自身が意識して生き方を考えていかないと 、どうしても振り回されてしまいがちだ。
汎用性高いポータルサイトを運営するYahoo!がやるからこそ、お金が介在するところばかりの話にしてほしくないと思うのは綺麗ごとだろうか。
もちろん実際には、生き方や家族のあり方までの視点をアドバイスしてくれるような葬儀やお墓を扱う人を私自身は何人も知っているのではあるが。
やはり死を意識するならば、顔の見えないサービスのみに頼ることなく、私は生き方までを考えたいし、葬儀やお墓、相続などは、そのどう生きたいかという考えの結果であると自らが思ってこそ意味があり、幸せにもつながるのではないかと思ってならないのである。
Yahoo!エンディング
「Yahoo!エンディング」は無料で会員登録できる。
いずれ訪れる死に向けての準備をするためのサイトとして、葬儀の手配、お墓の準備等を扱い、相続にまつわる情報提供を行う。
いざという時に備え、家族に残したいメッセージも保管できる。
葬儀やお墓の専門出版社、鎌倉新書との提携だから、おそらく情報も確かだろう。
あのYahoo!がここまでやる時代になったのだ。
それなのに私が多少の違和感を感じるのは、それはきっと、いきなり「葬儀」「お墓」だからだと思う。
いきなり「死」の直後についての情報提供だからなのだと思う。
それも、その周辺業界ではなく、Yahoo!がやっているからだ。
人生は生まれてから死ぬまでの時間である。
誰もに死は訪れるのだから、死から目を背けることはできない。
けれども今を、そしてこれからをどうするのか。
どう生きて行くのか。
それがあって、最後が死ではないのか。
そこを考えずにいきなり死を考えようとするところに、きっと私は違和感を感じるのだと思う。
目を背けがちだった死を考えようとするなら、そこも考えなければあまりに残念! もったいなくはないだろうか。
これからを考える、生き方を考えるということは、葬儀やお墓、相続のようにお金が介在しにくい。シャワーのように提供される情報は、どうしてもお金が介在するものばかり溢れて行く。
だから私たち自身が意識して生き方を考えていかないと 、どうしても振り回されてしまいがちだ。
汎用性高いポータルサイトを運営するYahoo!がやるからこそ、お金が介在するところばかりの話にしてほしくないと思うのは綺麗ごとだろうか。
もちろん実際には、生き方や家族のあり方までの視点をアドバイスしてくれるような葬儀やお墓を扱う人を私自身は何人も知っているのではあるが。
やはり死を意識するならば、顔の見えないサービスのみに頼ることなく、私は生き方までを考えたいし、葬儀やお墓、相続などは、そのどう生きたいかという考えの結果であると自らが思ってこそ意味があり、幸せにもつながるのではないかと思ってならないのである。
Yahoo!エンディング
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