2015年2月28日

自分の顔に関心がない人なんていない

「私、ナルシストじゃないし、顔になんか興味ありませんから・・・」
そうおっしゃる方がいますが、本当にそうでしょうか?

自分の顔に関心がない人なんていない。
~私はそう思っています。

だって、子供の頃の集合写真、例えば遠足、例えば入学式の写真で、一番最初に目が行くのは、やっぱり自分じゃないですか?!

人の結婚式の集合写真。
主役は新郎新婦なのに、自分がどこにいるか探していませんか?
自分の写り方を気にしていませんか?

朝、鏡を見て、あ~今日は顔がむくんでいる、と思う・・・。
でも、一番気にしているのは、たぶん自分。
周りの人はほとんど気づかない。もし気づいても気になんかしていません。

ちょっとブツブツができた。
肌荒れがひどい。
目が腫れぼったい。
・・・そういうことは、自分だから気になるんです。

それはもう、美しい人であろうと、少々残念な人であろうと、あまり関係ないのでは?


そして、人が一番最後まで覚えている顔って、自分の顔なんですって。
連れ合いの顔、子どもの顔がわからなくなっても、自分の顔はわかるのだそうだ。

どんな人だって、自分の顔には関心があるのだ。

だから私は、終活を始めるなら顔から考えてみよう、と提案している。
なかなか書けないエンディングノートも、遺影から考えてみようと。

例えイヤだ、嫌いだと言っている人だって、自分の顔には関心があるのだから、考えやすい。
なんせ、ずっと毎日見てきたのが自分の顔なのだから。
自分のどんな顔を遺したいか。覚えていてもらいたいのか。

死生観など考えられない(考えたくない)ような人だって、自分の顔のことを考えるのはわかりやすいし、イメージしやすい。


2015年2月27日

ワクワクしよう

またまた「好きなことで生きていく」ネタ。

私はスポーツにはあまり興味ないし全く詳しくはないけれど、スポーツ選手のメンタル管理やインタビューコメントなら、興味深く見入ってしまう。

少々古いですが、お正月早々の新聞で見た、日本ハムのピッチャーでバッターの大谷選手のインタビュー記事。

単純に練習が好き。やりたいと思ってやるだけ。



好きなことで生きていく・・・その典型を見た。


今年の駅伝優勝は青学大だった。
失礼ながら、まさかの優勝だ。
選手の、走っていて楽しかったという言葉が印象的だった。
まさか、まさかと思っているうちに、実力以上のような力がでる。

そんなのは、きっとスポーツだけではないはずだ。
従業員が会社の中で「好きなことで生きて」いける会社になればいいと思うのも、そういうことがあるからだ。


集中は疲れるけど、夢中は疲れない」と言ったのは、
サラダ記念日で一世を風靡した歌人の俵万智さん(って私と同世代じゃないとわからなかしら?)の息子くん。
さすが、俵万智さんのお子様だと、FacebookやTwitterでは、すごい数の拡散だが、その通り!と思う人がきっと多いからだろう。

夢中なことをしたい。
何に夢中なのかは人それぞれだけど、私も、今年はもっともっと夢中なことをしよう。
そう思いながら、もう2ヶ月が過ぎていく。
やりたい、と思うことはすぐやらなくっちゃ、ね。


蛇足だが、駅伝の青学大の駅伝チームのテーマは、名づけて「ワクワク大作戦」だという。
今から10年以上前、私は「ワクワクタウン大作戦」という仕事に夢中になったことを思い出し、ネットで探したら、まだ情報が残っていた
さらにその10年以上前から夢チャレンジという企業の社会貢献活動として提案・推進し、時代の流れとともに形を変えていく中で「ワクワクタウン大作戦」があった。
応募者の熱い思いに直に触れ続けた経験は、今の私に大きく影響していることを、駅伝の青学優勝が思い出させてくれた。

ワクワクすることを大事にしたい。
いい歳をしてワクワク?・・・・なんて、最近少し思い始めていたけれど、
いやいや、いい歳だからこそ、もっともっとワクワクしたい。
オトナはもっとワクワク。
今年は、私も今まで以上にワクワクしよう。



2015年2月26日

周りのイメージが行動を制限するのはもったいない。

学生時代の恩師を訪ねた。

60歳になる前にご主人と暮らしやすい老人ホームに入られ、そこから私の母校に通勤していた。
先生は生物の先生で、山歩き好き。
現役時代から退任後も、変わらず丹沢や秩父、山梨、長野の山を歩き、山の植物を愛で、スケッチをし、それを本にまとめて出版するほど。

80代半ばを超えた今も、近くの公園まで歩く毎朝の散歩を欠かさない。
1人でふらりと、海外旅行にもしばしば出かけている。
誰かと一緒に行こうとすると、日程調整とかでなかなか行けなくなるでしょう?と先生は笑う。

そんな先生は、立ち居振る舞いはしなやかで、おっとり。
話す口調は、私が高校生の頃から今も変わらずとても穏やかだ。

肩に全然力が入らない、先生のそういうお姿が私は大好きで、
ときどき先生のそういう生き方を間近で見たくなり、お訪ねしている。

先生の一人息子さんは、東京から少し距離があるところに住まわれていて。
その息子さんが、ときどき訪ねてくるそうだが、
自分をとても心配しているのがわかると言う。
「もう年なんだから。」と思われているのだろう、と。

だから、海外旅行に行くのを、もうやめたのだそうだ。
考えてみれば、いつどうなるかわからない年になった。
海外で万一のことがあったら、息子に迷惑をかけるから。
・・・そうおっしゃるのだ。

聞きながら、少し残念に思った。
高齢者だから、と心配されるから動けなくなる。

心配されることはたしかに心やさしいのだけど・・・・
他人の私は何も言うことはないけれど、それで本当にいいのかな。

場合によっては、やさしさが自由を奪う。
やさしいことが悲しませてしまうことがある。
そのやさしさによって、
私の好きな先生のカッコよさまでが奪われていくようで、少し寂しく思った。
もちろん、これは私の勝手な思い込みかもしれないが・・・。

高齢者はこういうもの、
高齢者だから○○があたりまえ、
そういうイメージだけが先行し、そのイメージを前提にした思いやり。
周りのイメージが、行動を制限してしまうのは寂しい。

高齢者だから、ではなく、
○○さんだから、という考え方になればいいのに、と思う。

高齢者というひとくくりにしないで。
人は十人十色、百人百色だ。
その人にとって、いい形であればいい。

要は、その人が大事なことを大事にする生き方、暮らし方だ。
私自身もそうありたいと思うから。

大事にすることを諦めたり、我慢したくない。
だけど、意外に日々に追われたり、なんとなく時間を過ごしていると
やらなければいけないこと、周りが求めていることに向かいがちで、
自分が大事なことを忘れていたり、気づかなかったりもする。

エンディングノートには、自分が本当に大事にしたいことを気づかせてくれるものがある。
そういうことを確認するためにエンディングノートを使う、というのもよいと思う。
自分が大事にしたいことのための能力は、
たとえ年をとっても、いくら親切にされても、衰えないようにしたいものだ。

私という人間も、
何歳の女性、というイメージではなく、
ずっと働いてきた女性、というイメージではなく
私という個人である。

周りが作るイメージにとらわれてしまうと、自分自身も苦しくなるような気がする。







2015年2月25日

アホらしいけど、思い込みで恐怖感が膨らんでしまうことがある。


学生時代、数名の友達との楽しいお泊りのとき、
突然一人の友人がしくしく泣き出した。
「私、白血病だと思う。死んじゃうの・・・・・。」

昔々、山口百恵が主演した大人気ドラマの赤いシリーズを
覚えている人はいるだろうか。
それは誰もが見ている不治の病いに侵されるドラマで、
高視聴率を稼いでいた。
しくしく泣き出した友人は、知らないうちに足に痣ができたそうで、
自分の状況がそのドラマと同じだと言うのだ。
それを聞いた私たちは大笑いだったが、本人は大まじめ。
その後、知らないうちに痣も消え、何事もなく終わった。


日頃の運動不足解消のために私が通うスポーツクラブには、
私よりもはるかに元気で筋力も強い
60代、70代の先輩諸氏がたくさん来ている。

クラブのトレーナー(サーキットコーチ)は、
私たちメンバーの名前を呼び「○○さん、こんにちは」と声をかける。
インカムをつけたまま声をかけると、その声はスピーカーを通して流れる。
かけられる声は、スピーカーから聞こえるのだ。
そうすると、声をかけてくれても声をかけた人がどこにいるのか、
一瞬わからなくなることもある。

その日、特に元気な70歳前後と思しき女性が、
トレーナー(サーキットコーチ)から、「○○さん、こんにちは」と名前を呼ばれて声をかけられたときのことだ。

「どこ?どこ?」
その女性は、挨拶を返そうとしたのだが、
その声がどこからかけられたのかがわからず、しばらくキョロキョロした。

スピーカーから声が聞こえるから、どこにいるのかわからなくなりますね~
・・・近くにいた私がそう答えたら、
「あ~、びっくりした!認知症の予兆かと思った。」
と、険しい顔をした。

いえいえ、大丈夫。
私もわからなくなりますよ。
スピーカーがあそこにあるから。
・・・そう言って、スピーカの位置を指さしたら、
「あ、そういうことね。」と言って、やっと笑った。


ドラマや映画、報道で、病気の恐ろしさばかりがどんどんクローズアップされる。
そうすると、恐怖ばかりが募っていく。

私も、年齢と共に忘れ物が増えたり、人の名前をたびたび忘れたりすると、
若年性認知症になったんじゃないかと妙に心配になることがある。
心配はどんどん大きくなる。
自分の思い込みで、知らず知らずのうちに恐怖感が膨らんでいくのだ。

知識がないと、その恐怖感はますます膨らんでいく。
イメージだけに振り回されるのはアホらしい。
心配してもそれだけだとよくなることはない。
病気が心配なら検査すればいいだけ。

無駄な心配を減らすのは、正しい知識と情報。
それにもう1つ、行動だ。

それはきっと病気だけじゃない。


2015年2月24日

過去をふり返ると、背景は意外に今につながっている

大学受験を目の前にした高校3年の頃のことだ。

当時、劣等生だった私は迫り来る大学受験に絶望していた。
どうせ・・・、今さら・・・
努力もしないくせに、成績がいい同級生を羨んでいた。
かと言って、自分が興味のないことはやる気にもなれず、進路に悶々としていた。

その中で、私が興味を持っていたのは生物だった。
ニホンザルが好きだったのだ。
ボスがいて群れ社会があるニホンザルの世界。
さらに食う食われるの生態系、野生動物の世界。
ニホンザルを学ぶなら京都大学だけど、そんな力はなかった。

進路は、動物学か動物学に近い線で
・・・そう考えていた私に、生物の先生だった担任が勧めたのは
栄養学の単科大学だった。
その大学には、動物学ではちょっと有名な個性的な教授がいたのだ。

しかも栄養学だったら、卒業後に仕事をする時にオトコに負けにくいと言う。
動物学や獣医学の場合、仕事では体力が求められるからいい就職先は男性にとられてしまいがちで競争は厳しい、と。
例えオトコ社会でも独自性を生かしやすいと言う。
今の言葉で言えば、ブルーオーシャンだ。
さらに、もし仕事をしなくても、学んだことをいろんな形で生かしやすいだろうと。

私は食いしん坊ではあったけれど、栄養学なんて興味なかった。
花嫁修行のように思えて、気が進まなかった。
だけど、結果的には他の大学とのご縁がなく、
担任の先生が勧めた大学に行くことになった。

行ってみたら、担任の先生が教えてくれた動物学教授の授業はとても面白かった。
興味がなかった栄養学もだんだん面白くなってきた。
そして、卒業後は料理番組の企画制作担当として、広告代理店に就職することに。
かつての劣等生も、オトコ社会の職場では栄養学を学んだ専門家として見られ、
私もそれに応えようと一生懸命働いた。

女子大生がもてはやされながらも良妻賢母を求められていた時代に、
その先生は、女性のキャリアという視点を加味して進路指導してくれたことになる。
今ならそう珍しくないだろうが、
そのおかげでうじうじした劣等生の私が前を向けるようになったのだと思う。

若い頃は、自分がどんな仕事をしたいかなど、わからない。
まだ適性も定まっていない。
でも、興味があることを追いかけ、人の声に耳を傾けていくと、
なんとなく収まるところに収まっていくのかもしれない。
たまたま担任は生物の先生だったので、
私の思考(志向)がより理解しやすかったという幸運にも恵まれたのだろう。

昔のことをふり返ってみると、
今、私が人の生き方や生きざまに興味を持っていることが、
当時ニホンザルに興味を持った時の気持ちの背景に通じるものがあるように感じている。

それは、周囲との関係性とか関わりとか。

私が今、エンディングノートに注目するのは、
エンディングノートが周りとの関係性を確認するツールとして有効だから。
一般によく言われる相続とか、葬儀を考えるために
エンディングノートと言っているのとは少し違う。

例えば、自分にとって大事なこと、大事な人・・・。

やりたいこと、伝えたいことというのは、
死ぬまでにやっておきたいこと、伝えておきたいこと。
それらはベースに人間関係があり、その関係性を自分はどうしたいのか
ということに深くつながる。

エンディングノートを使うと、
軽視しがちな人間関係、周りとの関係性を確認しやすい。
気づかされる。