東日本大震災の時には、多くのメーカー工場が被災した。工場自体が破壊され、なかなか復旧がままならなかったところはもちろんだが、それ以外にも、工場は被災していなくても原材料が入手できずに製品化できなかった企業、物流が滞って工場稼働ができなかった企業、など、産業界では大きな影響があった。
今日お目にかかった方は全国に工場がある大手企業の営業さん。震災で自社工場が被災したことに加え、原材料も入手できず、素材仕入れにあたっては、海外からの供給ルート確保に奔走し大変だった会社の一つだ。たまたま見積依頼があってお目にかかったのだが、一部の原材料確保はまだまだ不安定であることがわかった。
震災から3カ月以上がたつが、震災前と同じ状況にはまだ戻ってはいない。原発の事故が、その状況をさらに深刻にさせている。原発事故さえなければ、今秋中にはかなり元通りまで行ったはずなのに・・・という話は実際あちこちで聞く。節電の影響で工場をどこまで動かせるのか。効率をどう確保するのか。今日お目にかかった方も同様で「産業界への影響は大変なものだ。」とおっしゃった。
今日、埼玉県熊谷市の気温は39度を超えた。6月にこの気温は観測史上初めてだと言う。今年の夏は暑そうだという長期予報も出ている。今の状況を考えると、社会はさらなる節電が求められるのは間違いない。企業にとっては、確かに節電の影響は大変なことだろう。私たちは今まで、そのエネルギーの重要性をあまり意識してはこなかった。原発事故が起きたらどうなるか?電力が足りなくなったらどうするか?など、想像もしないままジャブジャブと電気を使い続けてきたのだ。経済の発展、豊かさ(モノ・ココロ)、安心・安全、などいろいろなものをクリアして初めて「幸せ」がある。「幸せ」の定義は人によって多少違うけれど、誰でも人は常に「幸せ」を求めて生きているはずだ。
私の存在は、もしくは私の仕事は、「幸せ」のためのものになっているか、社会の「幸せ」のために役立っているか、企業も個人も、これからはそんなことが共通の物差しになって行くような気がする。
2011年6月17日
新規開発~初めての接触
私の場合、初めてのお取引で仕事を受ける場合は、通常、どなたかのご紹介であるケースが多い。私としばしばお仕事をしている方の知り合いであったり、少なくとも一度はお仕事でご一緒した方からのご紹介、そうでなければ、過去に仕事の話をしたことがあるがお取引に至らなかった方など。Webサイトで情報公開しているとは言え、紹介もなくなんの所縁もない方からお仕事を受ける、というケースはほとんどない。
先日、紹介を介さない方からお問い合わせを受け、お目にかかることになった。その人は一度だけあるセミナーの受講者同士という立場で軽く名刺交換をした相手ではあるが、ほとんどお話はしなかった人だ。名刺にあったWebサイトをご覧になったそうで、お問い合わせをしてきてくださった。
とてもありがたいお話なのだが、それでも私の今までの経験から、少し身構えてしまった。その方がどんな方かがまるでわからないし、情報収集のしようがないからだ。お目にかかるのをやめようかとすら考えた。
けれども、実際にお目にかかったところ、その方はとてもいい方だった。建設的な話、今後の仕事の可能性を含めて話をし、今後定期的に情報交換していこうということで、話が前に進んだ。ご本人は知る由もないことではあったが、私はお目にかかる前に少々身構えてしまったことを告白し、改めてお詫びして失礼することになった。
仕事を発注する側、受注する側、どちらの立場であったとしても、初めての接触というのは難しいと改めて思う。仕事の場面でなくても、初めて会う人とすぐに親しくなるのは難しいのだから、なおさらだ。世の中には、新規獲得のための飛び込み営業、電話セールス、テレアポ獲得などがしばしば行われているが、それがいかに厳しいものであるかを改めて感じる。
人は初めての接触の場合は、どうも警戒心があって、なかなか心を開くことができないのは仕方がないことではあるが、今回私は、警戒のあまり大事な出会いを失うかもしれないことも知った。要は、自分の判断力。人の紹介や人の情報だけに頼るのではなく、自分自身で判断すること。これが何よりも優先することなのだろう。
先日、紹介を介さない方からお問い合わせを受け、お目にかかることになった。その人は一度だけあるセミナーの受講者同士という立場で軽く名刺交換をした相手ではあるが、ほとんどお話はしなかった人だ。名刺にあったWebサイトをご覧になったそうで、お問い合わせをしてきてくださった。
とてもありがたいお話なのだが、それでも私の今までの経験から、少し身構えてしまった。その方がどんな方かがまるでわからないし、情報収集のしようがないからだ。お目にかかるのをやめようかとすら考えた。
けれども、実際にお目にかかったところ、その方はとてもいい方だった。建設的な話、今後の仕事の可能性を含めて話をし、今後定期的に情報交換していこうということで、話が前に進んだ。ご本人は知る由もないことではあったが、私はお目にかかる前に少々身構えてしまったことを告白し、改めてお詫びして失礼することになった。
仕事を発注する側、受注する側、どちらの立場であったとしても、初めての接触というのは難しいと改めて思う。仕事の場面でなくても、初めて会う人とすぐに親しくなるのは難しいのだから、なおさらだ。世の中には、新規獲得のための飛び込み営業、電話セールス、テレアポ獲得などがしばしば行われているが、それがいかに厳しいものであるかを改めて感じる。
人は初めての接触の場合は、どうも警戒心があって、なかなか心を開くことができないのは仕方がないことではあるが、今回私は、警戒のあまり大事な出会いを失うかもしれないことも知った。要は、自分の判断力。人の紹介や人の情報だけに頼るのではなく、自分自身で判断すること。これが何よりも優先することなのだろう。
2011年6月10日
労働時間
Twitterを見ていたら、「60歳定年だとすると【8万時間】働くことになるんだそうだ。そして、引退後の時間も【8万時間】あるんだそうだ。」というつぶやきをみつけた。
ん?!そんな馬鹿な、と思って計算してみた。
仮に8時間労働だとして、大卒後から60歳定年までは、確かに労働時間は大体8万時間だ。仮に60歳から80歳までのすべての時間から、睡眠時間(8時間)を引くと、12万時間時弱! 60歳定年までの労働時間である8万時間に達するのは、74歳の時だ。今後定年がどんどん延長されていくとは言え、定年から先の時間がいかに長いかがわかり、今さらながら驚いてしまう。
どれだけの人が、定年以後にそれだけの時間があることをわかった上で、定年を迎えているのだろう。定年後の時間がそれだけの時間になるなら、なんとなく過ごすにはあまりにもったいない。「好きな本を読んでゆっくり時間を楽しむ」「今さら趣味をみつけるなんて無理」など、特に男の人からはいろいろな声が聞こえてはくるが、やっぱり、定年後をどう過ごすか?は大事なことであるのは間違いなさそうだ。
例えば、社会人になって定年までの間に手がけた仕事、達成した事柄はいったいどれだけあるだろう? 定年後にそれと同じだけの時間があるなら、いろんなことがたくさんできるはずではないだろうか。実際、定年後の生活の中で、日々どう過ごそうか悶々としている人は相当数いるはずだ。
そういう時間を有効に活用できるような市場は、必ずあるはずだし、そういう市場を作って拡大することは、きっと明るい社会へとつながっていくことだろう。未来への希望につながっていくのだから。
震災や原発事故の影響で、あらゆるところで市場の縮小や経済停滞への懸念はつきない。けれど、新たな市場はいろいろなところに必ずあるだし、それを創出していくことが、今、求められていることだと思う。
ん?!そんな馬鹿な、と思って計算してみた。
仮に8時間労働だとして、大卒後から60歳定年までは、確かに労働時間は大体8万時間だ。仮に60歳から80歳までのすべての時間から、睡眠時間(8時間)を引くと、12万時間時弱! 60歳定年までの労働時間である8万時間に達するのは、74歳の時だ。今後定年がどんどん延長されていくとは言え、定年から先の時間がいかに長いかがわかり、今さらながら驚いてしまう。
どれだけの人が、定年以後にそれだけの時間があることをわかった上で、定年を迎えているのだろう。定年後の時間がそれだけの時間になるなら、なんとなく過ごすにはあまりにもったいない。「好きな本を読んでゆっくり時間を楽しむ」「今さら趣味をみつけるなんて無理」など、特に男の人からはいろいろな声が聞こえてはくるが、やっぱり、定年後をどう過ごすか?は大事なことであるのは間違いなさそうだ。
例えば、社会人になって定年までの間に手がけた仕事、達成した事柄はいったいどれだけあるだろう? 定年後にそれと同じだけの時間があるなら、いろんなことがたくさんできるはずではないだろうか。実際、定年後の生活の中で、日々どう過ごそうか悶々としている人は相当数いるはずだ。
そういう時間を有効に活用できるような市場は、必ずあるはずだし、そういう市場を作って拡大することは、きっと明るい社会へとつながっていくことだろう。未来への希望につながっていくのだから。
震災や原発事故の影響で、あらゆるところで市場の縮小や経済停滞への懸念はつきない。けれど、新たな市場はいろいろなところに必ずあるだし、それを創出していくことが、今、求められていることだと思う。
2011年6月6日
大地震が教えてくれたこと
東北から帰ってきて、1週間が経過した。
不思議なことに、今、私は仕事に対する意欲が上がっていることに気づいた。ルーティンワークではなく、新しいことを手がけよう、という気持ちが特に上がっていた。東北に行き、見たことや感じたこと、そして東北の人たちの言葉を聞いたことが、私の気分を少し変えたのだと思う。
パワーをもらうとか、パワーを上げる、とか言う言葉はもはや言い古された感じがしてあまり使いたくないのだが、それでも私は、東北からパワーをもらってきたのは間違いないようだ。
さて、私は東京に戻ってきてからは、ここのところあまり会っていなかった人と、会うようにしてきた。私自身の仕事が少し落ち着いたこともあり、意識的に情報交換がてら会うようにしているのだ。
あくまでも仕事のつながりがある人との情報交換ではあるが、震災や原発事故の話題に触れる中で、自然と家族の話が出てくることが多くなったように思う。特に子どもの話や、出産の話などがちらちらと出てくる。
震災や原発事故をきっかけに、私たちはいろいろなことに気づいてしまったからだと思う。人は一人では生きていくのは大変だということ、誰でも絆を大事にしたいという気持ちがあること、実は今までの歴史がいろいろなことを教えてくれていたこと、私たちは今の現実からの教訓を次の世代に伝えていく必要があること、効率優先のあまりに心を無視してはいけないこと、などなど。
今の時代、両親と子供二人、というような「普通の家庭」は今や普通ではないくらい少なくなったけれど、それでも社会を構成する最小単位は、やはり家族だ。その家族の重要性を再認識させられ、自然と家族の話題が多くなっていくのだろう。東北では現実に結婚が増えているという。
さらに、原発事故の影響から来る放射性物質の問題。長い時間がたった後で放射性物質の悪影響が出る可能性が高いから、特に子どもへの心配が大きくなる。目に見えないから不安や恐怖は益々大きくなり、疑心暗鬼になり、周りの人に話したくなっていく。
だから、仕事に関わる話であったとしても家族の話題が前よりも増えてくるのだろう。
震災は本当に大変なことであったのは間違いなけれど、いろいろなことを教えてくれたし、私にチカラも与えてくれた。これを本当に無駄にしてはいけない、と今、私は何度も自分に言い聞かせている。
さあ、私も前に向かって進みます。これからの仕事を、見ていてください。
不思議なことに、今、私は仕事に対する意欲が上がっていることに気づいた。ルーティンワークではなく、新しいことを手がけよう、という気持ちが特に上がっていた。東北に行き、見たことや感じたこと、そして東北の人たちの言葉を聞いたことが、私の気分を少し変えたのだと思う。
パワーをもらうとか、パワーを上げる、とか言う言葉はもはや言い古された感じがしてあまり使いたくないのだが、それでも私は、東北からパワーをもらってきたのは間違いないようだ。
さて、私は東京に戻ってきてからは、ここのところあまり会っていなかった人と、会うようにしてきた。私自身の仕事が少し落ち着いたこともあり、意識的に情報交換がてら会うようにしているのだ。
あくまでも仕事のつながりがある人との情報交換ではあるが、震災や原発事故の話題に触れる中で、自然と家族の話が出てくることが多くなったように思う。特に子どもの話や、出産の話などがちらちらと出てくる。
震災や原発事故をきっかけに、私たちはいろいろなことに気づいてしまったからだと思う。人は一人では生きていくのは大変だということ、誰でも絆を大事にしたいという気持ちがあること、実は今までの歴史がいろいろなことを教えてくれていたこと、私たちは今の現実からの教訓を次の世代に伝えていく必要があること、効率優先のあまりに心を無視してはいけないこと、などなど。
今の時代、両親と子供二人、というような「普通の家庭」は今や普通ではないくらい少なくなったけれど、それでも社会を構成する最小単位は、やはり家族だ。その家族の重要性を再認識させられ、自然と家族の話題が多くなっていくのだろう。東北では現実に結婚が増えているという。
さらに、原発事故の影響から来る放射性物質の問題。長い時間がたった後で放射性物質の悪影響が出る可能性が高いから、特に子どもへの心配が大きくなる。目に見えないから不安や恐怖は益々大きくなり、疑心暗鬼になり、周りの人に話したくなっていく。
だから、仕事に関わる話であったとしても家族の話題が前よりも増えてくるのだろう。
震災は本当に大変なことであったのは間違いなけれど、いろいろなことを教えてくれたし、私にチカラも与えてくれた。これを本当に無駄にしてはいけない、と今、私は何度も自分に言い聞かせている。
さあ、私も前に向かって進みます。これからの仕事を、見ていてください。
2011年5月26日
東北に行ってきました
前回のブログでも予告したように、5月17日~20日までの4日間、東北三陸地方の水産関係の自治体や各社に行ってきたので、少し報告したい。
行く前に大変だったのは宿の確保だった。
営業している宿自体が減っていることに加え、営業している宿はどこも復興関連の人たちで6月末まではどこもほぼ満室だったからだ。宿がとれなければ中止せざるを得ないし、地元に却って迷惑になるようならやはり遠慮した方がいいので、ぎりぎりまで行くことが決まらなかった。一方で、地元の復旧復興は日々動いており、2ヶ月たったこともあって、さまざまな業種が次々と営業再開している段階でもあった。私の計画は、4月末に再開した東北新幹線で仙台まで行き、そこからはレンタカーで海沿いを八戸まで移動するルートだ。一人だったので、運転するのも一人だし、海沿いの一般道の道路事情や距離感に若干不安はあったが、宿泊先については、地元の観光協会が、逐次営業再開情報をリアルタイムで把握していたことにも助けれ、うまく宿が確保できた段階で、急遽出発を決めたのだ。可能なら約20件ほどを回ろうと考えていた。
朝7時半に出発する新幹線が、ビジネスマンでほぼ満席だったのには驚いた。仙台から車で走り出すと、自衛隊の装甲車がやたらに目についた。日本にはこんなにたくさん装甲車があったんだ、と驚いてしまう。
2カ月たったせいか、一見、大変な被害を受けたように見えなくても、休業中のロードサイドの店舗をよく見ると、窓の上の方まで泥の跡が残っているのに気づく。それで、ここまで片付いたんだ、ということがわかるのだ。また、被害の様子は移動とともにだんだんと大きくなって行く~というわけではなく、ここまでは普通の風景がある地点からいきなり大変な状況に変わる、ということがしばしばあり、驚かされた。
私は、石巻の水産関係の方々とは接点が多かったので訪ねてみたところ、そこにはわずかに残った建物の外枠や看板以外は何も残っていなかった。それがそこだけ、とかある方向だけ、というのではなく、360度方向、見渡す限り何もなく人の姿もない。たくさんの鳥が空を飛んでいた。遠くに海が見えて周りには建物の跡が残っていて道路もあるのに人は誰もいない、という風景は、何とも言えないものがある。周辺を少し車で動いていたら、片づけをする自衛隊の人が見えてきた。これだけの片づけをするのにどれだけの時間がかかるのだろう?!と思ってしまう。
そういう場所にかつて本社や工場があった水産会社の方が、電話で話した時に「商品(水産加工品)は、3年かかっても5年かかっても必ず再開するから見ていてほしい」と、4月の段階で私におっしゃったのだ。私は、その工場があった場所に立ってみて、改めてその方の意志の強さに感銘し、これからずっと見続けていきたいと思った。仙台を出発してから、3時間後のことだ。
石巻から気仙沼に移動して市役所の方と面会。家を流され、何もなくなくなったというのに、「自分など全然いい方だ。家族は無事だし、自分は恵まれているから頑張らないと。」と言うのには、返す言葉がなかった。その気仙沼で1泊。コンビニや外食産業が少しづつ営業を再開しており、夕食に出かけると店は賑わっていた。来ているのは全国から応援で来ていると思われる自治体や復興関係者のようだった。
翌18日朝、さらに国道45線を北上する。とてもいいい天気で、空は真っ青。道は少し山の方に迂回したりトンネルがあったりして、とてもきれいな深緑と青い空のコントラストに感動しながらアップダウンを繰り返すのだが、そうするとしばしば「ここより先、津波浸水警戒区域」という標識が出てくる。その標識を超えると、風景は突然、3月下旬に新聞に出ていたような悲惨な風景に一変するのだ。この風景の物凄いギャップ。運転していくと、これを何度も繰り返すのだ。
駅よりも海側に市街地があった釜石は、街中が壊滅的な被害を受けていた。飲み屋さん、携帯ショップ、衣料品店などが破壊されている様子は、あまり報道には出てこないし、他の被災地とはまた違った印象だ。いくつかに分かれている市の庁舎のある部屋では、泥をかぶった資料を一つづつ片づけている職員さんの様子が見え、お訪ねする予定だったのだがそのまま失礼してきた。それでも、釜石の水産会社の方には元気な方が多かった。既に営業再開しているところ、年内再開目指して準備中のところなど各社事情はさまざまだが、全国のお客様から心配やお見舞いの連絡が入っていて、それを励みに、早速「私たちは元気です」とDMを出しているところもあった。
「決算で不良在庫の心配をする必要がなくなった。いいこともある。」と私を笑わそうとしてくれる人もいらした。震災直後の3日間、ほとんど食べるものがなかったそうで、食べもののありがたさを再認識し、今では外食して注文したライスをほんの少し残す時でも、必ずラップに包んでもらって持ち帰るようになったと言う。
さらに北上して宮古へ。出発から30時間ほどたって、初日以上の規模の瓦礫の山を見ても、「がんばろう」のノボリを見ても、破壊した建物に張り紙やOKマーク(撤去してもいいという意味)を見ても、目が慣れてきたせいか、私は驚かなくなっていた。私の感覚はどうやら麻痺してきていたようだ(東京に戻ってから麻痺していたことに気づいたのだが)。宮古市内はライフラインはかなり復旧しているものの、どこも信号は不通で、少々危なかったが、地元の人は慣れている様子だった。18日は宮古宿泊し、さらに北上。
久慈市に行った時は、「漁師は、なんとか船を守らないと!と言う思いで津波の時は沖に出て、命を賭けて船を守った。さぁ、これから復興だ!と、魚を獲ってきたら、放射能の風評被害で買ってもらえないものがある。ここまで頑張ってきたのに、あんまりだ。」という話を聞いた。久慈ではコウナゴが獲れるのだ。久慈市内の魚屋さんでも店頭のコウナゴが激減したという。
現在、三陸は漁港近くの市場が壊滅的被害を受けているし、冷凍庫や冷蔵庫は海沿いにあったからそれもなくなったこともあって、水揚げしても水産物を保管できない。水揚げ量自体はまだ少ないけれど、それでも水揚げした魚は水氷の状態で少しでも早く流通させなくてはならない。それも地元で。まるで昔のやりかたそのものだ。改めて昔のよさを再認識することもある、という地域の方の言葉が心に残った。
今回、状況や時間によって、通過するだけのところも含めて、訪ねてのは、
仙台、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石、山田、宮古、田老、普代、久慈、洋野、種市、階上、八戸、そして盛岡。
文章で書くにはなかなか表現しつくせないことがたくさんあるが、今回の訪問で何回「がんばろう」という言葉を聞いたかわからない。どこに行ってもあちことに「がんばろう」と書いてあるし、話をすれば誰もがそう言う。私はそれを何度も目にするうちに苦しくなってくるのだが、地元の人は違っていた。もっと「がんばろう」と言うのだから。遠くに離れている者は、東北の人以上にがんばって、継続的支援をできるようにならなくては、と逆に言われているような気持ちになった。今後、私は東北の復興をずっと見続けていきたいと思う。
行く前に大変だったのは宿の確保だった。
営業している宿自体が減っていることに加え、営業している宿はどこも復興関連の人たちで6月末まではどこもほぼ満室だったからだ。宿がとれなければ中止せざるを得ないし、地元に却って迷惑になるようならやはり遠慮した方がいいので、ぎりぎりまで行くことが決まらなかった。一方で、地元の復旧復興は日々動いており、2ヶ月たったこともあって、さまざまな業種が次々と営業再開している段階でもあった。私の計画は、4月末に再開した東北新幹線で仙台まで行き、そこからはレンタカーで海沿いを八戸まで移動するルートだ。一人だったので、運転するのも一人だし、海沿いの一般道の道路事情や距離感に若干不安はあったが、宿泊先については、地元の観光協会が、逐次営業再開情報をリアルタイムで把握していたことにも助けれ、うまく宿が確保できた段階で、急遽出発を決めたのだ。可能なら約20件ほどを回ろうと考えていた。
朝7時半に出発する新幹線が、ビジネスマンでほぼ満席だったのには驚いた。仙台から車で走り出すと、自衛隊の装甲車がやたらに目についた。日本にはこんなにたくさん装甲車があったんだ、と驚いてしまう。
2カ月たったせいか、一見、大変な被害を受けたように見えなくても、休業中のロードサイドの店舗をよく見ると、窓の上の方まで泥の跡が残っているのに気づく。それで、ここまで片付いたんだ、ということがわかるのだ。また、被害の様子は移動とともにだんだんと大きくなって行く~というわけではなく、ここまでは普通の風景がある地点からいきなり大変な状況に変わる、ということがしばしばあり、驚かされた。
私は、石巻の水産関係の方々とは接点が多かったので訪ねてみたところ、そこにはわずかに残った建物の外枠や看板以外は何も残っていなかった。それがそこだけ、とかある方向だけ、というのではなく、360度方向、見渡す限り何もなく人の姿もない。たくさんの鳥が空を飛んでいた。遠くに海が見えて周りには建物の跡が残っていて道路もあるのに人は誰もいない、という風景は、何とも言えないものがある。周辺を少し車で動いていたら、片づけをする自衛隊の人が見えてきた。これだけの片づけをするのにどれだけの時間がかかるのだろう?!と思ってしまう。
そういう場所にかつて本社や工場があった水産会社の方が、電話で話した時に「商品(水産加工品)は、3年かかっても5年かかっても必ず再開するから見ていてほしい」と、4月の段階で私におっしゃったのだ。私は、その工場があった場所に立ってみて、改めてその方の意志の強さに感銘し、これからずっと見続けていきたいと思った。仙台を出発してから、3時間後のことだ。
石巻から気仙沼に移動して市役所の方と面会。家を流され、何もなくなくなったというのに、「自分など全然いい方だ。家族は無事だし、自分は恵まれているから頑張らないと。」と言うのには、返す言葉がなかった。その気仙沼で1泊。コンビニや外食産業が少しづつ営業を再開しており、夕食に出かけると店は賑わっていた。来ているのは全国から応援で来ていると思われる自治体や復興関係者のようだった。
翌18日朝、さらに国道45線を北上する。とてもいいい天気で、空は真っ青。道は少し山の方に迂回したりトンネルがあったりして、とてもきれいな深緑と青い空のコントラストに感動しながらアップダウンを繰り返すのだが、そうするとしばしば「ここより先、津波浸水警戒区域」という標識が出てくる。その標識を超えると、風景は突然、3月下旬に新聞に出ていたような悲惨な風景に一変するのだ。この風景の物凄いギャップ。運転していくと、これを何度も繰り返すのだ。
駅よりも海側に市街地があった釜石は、街中が壊滅的な被害を受けていた。飲み屋さん、携帯ショップ、衣料品店などが破壊されている様子は、あまり報道には出てこないし、他の被災地とはまた違った印象だ。いくつかに分かれている市の庁舎のある部屋では、泥をかぶった資料を一つづつ片づけている職員さんの様子が見え、お訪ねする予定だったのだがそのまま失礼してきた。それでも、釜石の水産会社の方には元気な方が多かった。既に営業再開しているところ、年内再開目指して準備中のところなど各社事情はさまざまだが、全国のお客様から心配やお見舞いの連絡が入っていて、それを励みに、早速「私たちは元気です」とDMを出しているところもあった。
「決算で不良在庫の心配をする必要がなくなった。いいこともある。」と私を笑わそうとしてくれる人もいらした。震災直後の3日間、ほとんど食べるものがなかったそうで、食べもののありがたさを再認識し、今では外食して注文したライスをほんの少し残す時でも、必ずラップに包んでもらって持ち帰るようになったと言う。
さらに北上して宮古へ。出発から30時間ほどたって、初日以上の規模の瓦礫の山を見ても、「がんばろう」のノボリを見ても、破壊した建物に張り紙やOKマーク(撤去してもいいという意味)を見ても、目が慣れてきたせいか、私は驚かなくなっていた。私の感覚はどうやら麻痺してきていたようだ(東京に戻ってから麻痺していたことに気づいたのだが)。宮古市内はライフラインはかなり復旧しているものの、どこも信号は不通で、少々危なかったが、地元の人は慣れている様子だった。18日は宮古宿泊し、さらに北上。
久慈市に行った時は、「漁師は、なんとか船を守らないと!と言う思いで津波の時は沖に出て、命を賭けて船を守った。さぁ、これから復興だ!と、魚を獲ってきたら、放射能の風評被害で買ってもらえないものがある。ここまで頑張ってきたのに、あんまりだ。」という話を聞いた。久慈ではコウナゴが獲れるのだ。久慈市内の魚屋さんでも店頭のコウナゴが激減したという。
現在、三陸は漁港近くの市場が壊滅的被害を受けているし、冷凍庫や冷蔵庫は海沿いにあったからそれもなくなったこともあって、水揚げしても水産物を保管できない。水揚げ量自体はまだ少ないけれど、それでも水揚げした魚は水氷の状態で少しでも早く流通させなくてはならない。それも地元で。まるで昔のやりかたそのものだ。改めて昔のよさを再認識することもある、という地域の方の言葉が心に残った。
今回、状況や時間によって、通過するだけのところも含めて、訪ねてのは、
仙台、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石、山田、宮古、田老、普代、久慈、洋野、種市、階上、八戸、そして盛岡。
文章で書くにはなかなか表現しつくせないことがたくさんあるが、今回の訪問で何回「がんばろう」という言葉を聞いたかわからない。どこに行ってもあちことに「がんばろう」と書いてあるし、話をすれば誰もがそう言う。私はそれを何度も目にするうちに苦しくなってくるのだが、地元の人は違っていた。もっと「がんばろう」と言うのだから。遠くに離れている者は、東北の人以上にがんばって、継続的支援をできるようにならなくては、と逆に言われているような気持ちになった。今後、私は東北の復興をずっと見続けていきたいと思う。
登録:
投稿 (Atom)