以前私は、Facebookが少し不気味だと書いた。これに対して、すごくわかるという人がいる一方で、とても大事だという人がいる。物事にはオモテとウラ、いいことと悪いことがあるのは、当り前ではあるが、どうやら今は、Facebookはコミュニケーションスキルを補うツールという側面があるようだ。
訪問営業をする人が、営業先で先方に会えずに名刺だけを置いて帰ることはよくあることだ。その際に、名刺にFacebookのアドレスを書いて置くと、その後の営業につながるケースが高くなるという。面会できなくても、あとからFacebook上のプロフィールを見てもらえることがあり、そこで共通項を発見して距離感が縮まるというのである。出身校や出身地は同じだと急速に距離感が縮まることは誰にも経験のあることだろう。
私個人の感覚では、Facebook上の個人情報は、本来互いの距離感を測りながら会話の中からわかっていき、そのプロセスの中でさまざまな共通項を探していくもので、人間関係はそうやって少しづつ距離感を縮めていくはずのものだと考えていた。けれども、今の時代はそうではなさそうだ。コミュニケーションの入口を簡略化することができるツールなのだ。
会社の中では隣りの席の人ともメールで連絡し、挨拶がきちんとできない人が増えている今、最初の挨拶やどういう人なのかを探るのは、Facebookから、ということなのだろうか。
私にとっては不気味だったり気持ちが悪かったりすることは、そういう人たちにとってはコミュニケーションのためのひとつの道具なのだ。
それでも私はやっぱり気になる。そんなふうに進んでいくと、人はコミュニケーション能力がどんどん退化していってしまうのではないだろうか。大昔、ネットもなくメールもなかった時代、コミュニケーションが手紙や電話以外には対面しかなかった頃には、「コミュニケーションスキル」などという言葉はなかったように思う。口下手とか、話し上手聞き上手などと言われることはあっても、日々のコミュニケーションはリアルのみだったから、そんなことを敢えて言うことはなかったのかもしれない。
コミュニケーション能力がどんどん退化していけばいくほど、コミュニケーションの重要性が言われるようになり、その能力を磨くことに価値が出てくるように思え、そう考えると何とも皮肉な話だ。