○○の調子が悪い、
どこの医者が○○と言った、
・・・・
それも毎回同じような話ばかり。
娘の私としては、正直なところ心の中では「またか」。
親身になって聞くこと、共感することが何よりも大事なことは百も承知だけど、
頭ではわかっていてもなかなか難しいのが現実です。
忙しいなか、来てるのに。
他の話題はないのかしら。
年をとればあちこちガタが来るんだから。
もう少しおもしろい話はないのかしら。
等々。
これが家族じゃなければ、そんな風にはあまり思わないだろうに、家族だとそう思ってしまうのです。
前はこんな話ばかりじゃなかったのに。
しっかりしてよ。
内心そう思うのですが、
それでもまた親が喜びそうな情報を一生懸命集めてきたり、
話してみたり。
私にとって大きな存在だったはずの親が小さくなってきました。
理屈では理解しているのですが、私の中ではかつての親との関係性の記憶が残っていて、今でも親に褒めてもらいたい〜みたいな厄介な気持ちも少し残っているのです。
だから親のために一生懸命やってやってやって、それなのに思うような反応が得られないと、勝手に不満に感じたり、自分がバカみたいに思えたり、親に文句を言ってみたり。
家族だから期待があるし、甘えもある。
だいたい親に良かれと思って言ったりやったりするのですが、
肝心の親は別にそんなことは望んでなどいない。
おそらく親の方も、娘なんだからこれくらいはわかってほしい、聞いてほしい、愚痴らせてくれ、という気持ちで話しているに違いないのです。
甘えがあるし、遠慮がない(偏ってる?)から、文句を言ってるうちに言わなくてもいいことまで口にしたり、喧嘩になってしまったりまでしてしまうこともあります。
私は、今までコミュニケーションやカウンセリングを勉強してきました。
その私自身が、家族のこととなるとなかなか学んできたことを生かしきれないのは実に残念な限りです。
でも、これが家族というもの。
近い関係性の難しさを感じます。
日常のことになると日々の繰り返し。
不満や愚痴は蓄積していくから、ブレーキが利かなくなっていくことも想像に難くありません。
だから介護というのは、地域やプロの力を借りるのがよいのですね。
家族のことは家族だけ、という形にすることで、澱んでドロドロしたものが見えないまま溜まっていって、勝手に増殖していくような気がします。
友だちやお節介なご近所さんや役所やプロなどなど、他の手を借りることは、そういう増殖へのブレーキに。
だって他の人の目があれば、そうそう喧嘩もできませんから。
不満やストレスの受け皿だけではありません。
とは言うものの、現実はなかなか厳しく、外の方のお世話になろうとすると父は強硬に拒否し続けています。
でもどんなに嫌がったとしても、その価値や意味を私が理解した上で、父の賛同を得る努力を続けることは、私たち家族にとって、そして父本人にとってもいいことに違いないのです。