2015年8月13日

自分で自分を壊していないか?! 愛猫のなめこわしから。


自分で自分を追い込んで、どんどん自分をいじめてしまう。
それが高じてやがて自分のいいところまでを壊してしまうことはないでしょうか。
それはとてももったいないことですね。

猫の毛が抜け出した

私事だが、我が家の愛猫の毛が先月抜け始めた。
カラダの毛が部分的に禿げて皮膚が見えるようになり、
家の中にはあちこちに、猫の毛がごそっと塊になって転がり始めたのだから、尋常じゃない。
どうしたんだろ、皮膚病かな。
ちなみに彼女は家猫で、外には一切出ない。

心配になって行きつけの病院に連れて行ったところ、「なめこわし」の可能性が高いことがわかった。

右脇腹が禿げている愛猫。舐めないように、顔の周りは透明のエリザベスカラーを。

なめこわしとは、
自分で自分のカラダを舐めて舐めて舐め尽くし、毛がなくなってしまう、
つまり「舐め壊し」だ。


ストレスが原因で自分を追いつめる

舐め壊しの原因として考えられるのは、ストレスだそうな・・・・。
彼女(猫)と暮らし始めて15年。
彼女が生まれて間もないころから一緒に暮らしているが、
この1ヶ月くらいで私たち家族の暮らし方、猫への接し方など
思い当たるような変化はなかった。

考えてみると、私たち人間にも似たようなことがある。
イライラして爪を噛み、手指の先がボロボロになる人、
髪の毛をいじって引っぱって抜いてしまう人・・・

当の本人は、何がストレスかあまり気づいていないこともある。
だけど何かが解決すると、
いつの間にかその癖をしなくなってることに気づくのである。
自分でも気づかないうちに自分をいじめているのだ。


自分観察で自分をいたわろう

愛猫は雑種の駄猫だけど、毛並みのいい猫だ(と思う)。
せっかくのいい毛並みが、なめこわしのせいでボロボロ・・・
もったいないことだ。

自分をいじめるあまり、自分のいいところまでダメにしててはもったいない。
「どうせ私なんて・・・」
そんな風に思うあまりに、持ち味やいい特性までを押し殺してはもったいない。
爪や髪の毛など、カラダの一部だけの話ではない。

自分のストレスに気づくこと、
自分で自分をいたわること、
自分のよさは大事にすること、
そしてストレス耐性を高めていくこと、
それが改めて大事だなと、愛猫に教わる思いだ。

そのためにも、ときどきはもう一人の自分が自分観察をしたほうがいい。
ふだん自分のことを見ることがないと、
自分のストレスにもいいところにも気づかなくなり、知らず知らずに自分で自分を壊してしまいかねないのではないだろうか。

ちなみに愛猫のストレスの原因はいまだ不明だが、
もしかしたら近隣の家の解体工事の音かもしれないと、今思っているところである。





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2015年8月11日

「おしゃべり」の正体と、困った「おしゃべり」 

一般に「おしゃべり」というと2種類の意味合いがあるのではないでしょうか。
一つは、人のこと、秘密や言わない方がいいと思われることを、
他の人にペラペラしゃべるような「おしゃべり」。
もう一つは物理的に黙っていること、静かにしていることが少なく、
まさに口数が多い「おしゃべり」。
「おしゃべり」と言っても、今日は後者の方の「おしゃべり」について考えてみます。

子どもの頃から「おしゃべり」だった

私は子どもの頃から「おしゃべり」だった。
まず言葉をしゃべり始めるのがとても早かったらしい。

他の子が単語しかしゃべらないような幼稚園に入る前から
「今日はいいお天気でお洗濯ものがよく乾くね~」とご近所さんに話しかけるような
オシャマな子どもだったと言われた。
大人の話に入りたがって嫌がられた記憶があるくらいだ。

小学校に上がれば、
毎回通知表に「授業中のおしゃべりをやめましょう。」と書かれた。

「おしゃべり」なくせに「おしゃべり」だと思われたくない

自分が少なくとももの静かなタイプではないことは自覚しているのだが、
それでも人からよくしゃべると言われると、凹んでしまうところがある。
相手は特に悪い意味で言ったわけではないにしても。

それは、もの静かで優秀な人こそが本当に優秀で、
よくしゃべる人は口先だけで実は中身は薄っぺらなものだ、と
ずっと思っているからだ。

小学校に入る前の子どもの頃、もの静かでゆっくり話す友だちがいた。
清潔感あふれ、
ょっとお嬢様風でどことなく品がある彼女に、私はひそかに憧れていた。
こういう人は素敵だな、と。
彼女と仲良くしていると、私まで彼女のように“高貴に”見られるような気がした。
そんなに小さい子どもがどう見えるかをすでに気にしていたこと自体がおかしな話だが、私は人に「おしゃべり」と言われて思い出すのがそれなのだ。

私の両親は、父も母も明るくてよくしゃべる人だ。
結婚して家を出てみると、実家の家族(両親・姉妹)は賑やかなことに気づく。
家族が集まると、次々と話題を移しながら会話が途切れることがない。
要はみんなおしゃべりなのだ。

けれど、私の母は昔から、もの静かで頭のよい人を高く評価することを
子ども心に感じていた。
よくしゃべる人は落ち着きがなく、不言実行がいいことなのだ、と。
父からも「女の子はもの静かでゆっくり話すのがいい。時にははらはらと涙を流すのが女らしい。それなのに・・・」とよく言われたものだ。
今でもしばしばそう言われるくらいだ。

どう見てももの静かとは言えない私の両親は、もの静かで寡黙な雰囲気に憧れ、
自分の子どもにそうなってほしいと思っていたのだろう。
子どもの私はそれを感じ、もの静かな友達にあこがれ、
そうなれない自分の「おしゃべり」にうんざりするようになった。
「おしゃべり」なくせに「おしゃべり」だと言われると、
無能だと言われているように感じてしまうのだ。

おしゃべりは自己防衛の表われかも。

でも今あらためて考えてみると、口数が多くなるのにも理由があるような気がする。

言い訳がしたい。
沈黙が怖い。
自分の話を聞いてほしい。
思いを伝えたい。

特になんとなく言い訳がしたくて口数が増えるときというのは、
自分に自信がないときなのだと気づくのである。
自分を守りたくて一生懸命しゃべっているときがある。
それは、自己防衛の結果なのだと思う。

自分を守らなくていいと思ったとき、
私はそんなに「おしゃべり」ではなくなっていることに気づくのだ。

つらいおしゃべり、楽しいおしゃべり

先日あるご縁で、ほとんど知り合いがいないパーティに出席することになった。
私はパーティが苦手だ。
できれば知り合いや知り合いが紹介してくれる人とだけしゃべっていたい。
でもそこで紹介された初対面の人と名刺交換をし、二人だけになってしまった。
そうしたら、そのままその人はずっとしゃべっていた。
私が相づちを打つ以外は、口をはさむ隙もなく、ずっと。

その人は伝えたいことがいっぱいあったのかもしれない。
自信がなかったのかもしれない。
だけど、聞いていた私は最初はよかったけれど、そのうち話なんかどうでもよくなってしまった。
パーティが苦手な私なのに、早くその場から逃げたいとそればかりを考えていた。
今ふり返っても、何の話を聞いたのか、ほとんど思い出せない。

こういうおしゃべりは、つらい。

私も含めて、自己防衛でついおしゃべりになる人はきっといっぱいいるだろうけど、
一方通行はとても残念なことだ。
饒舌で苦痛を与えてしまったとしたら残念だ。
会話はキャッチボールでないと。。。
よくしゃべるにしても、そのおしゃべりの感想や反応をもらい、
次は相手の話題を聞いて・・・
そんな会話が進んでいくようでないと、おしゃべりの価値がない。

おしゃべりを自認する私は、子どもの頃からずっとおしゃべりではあるけれど、
できれば私も相手も楽しいおしゃべりをしたい。
おもしろい「おしゃべり」でありたいものである。

2015年8月10日

文章から覗ける心の中、変な思い込み

ブログのように、持論を展開したり、自己開示して発信するような文章を書く場合、誰でもついつい言い訳しがちなのだそうです。
イジイジした気持ちが、無意識の中で文章に滲み出ることがあるのですね。
これは意識してかからないと。

堂々と見えるのはみっともないこと

私は若い頃から、内心オドオドドキドキしている時でも、自信満々に見られることが多かった。
過去にはそれでラッキーしたこともたくさんあったのだけれど、
自信がないときに自信満々に見られることは、今となっては少々負担である。

いつの頃からだろうか。
なんとなく堂々と振る舞って見えることが恥ずかしいと感じるところがある。

できもしないくせに堂々と見えるのはみっともない、
脳ある鷹は爪を隠す、というのがカッコいい、
・・・どうもそんな風に思い込んでいる自分がいるのである。

言い訳めいた部分はごそっと削除

だからというわけかどうかはわからないけれど、
このブログの文章をプロに見てもらった時に指摘されたのが、

言い訳めいた部分はごそっと削除しちゃいましょう。

という言葉だった。

え? 言い訳?
最初は意味がよくわからなかった。

具体的に今までのブログ記事から指摘してもらったところ、
出てくる、出てくる・・・!
私自身は無意識なのだけど、
読み手から見ると自虐的に見える表現がしばしば出てくるのだ。
意図して書いているわけではないのだが、なんか言いたくなって自虐的に書く
・・・それが言い訳。 
たしかにそんなのない方が文章ははるかにスッキリするし、読みやすい。

それは、自分のダメな部分や弱い部分を書かない方がいいという意味ではない。
メな部分や弱い部分を書くだけでなく、
それに対して卑屈になったりいじけたりして、さらにわざわざ自分で落とす、
まさに自虐。
これをやめた方がいいという意味だったのだ。

意図的にやるなら別の効果があるのかもしれないけれど、
無意識にやるとウザくなるのだ。

文章には「自分」が滲み出てしまう


言い訳や謙遜は、自分を守る意味でついついしてしまいがちですが、
時によっては、とっつきにくい印象を与えます。
書き手の視点が、内向きであることを示す表現だからです。



宮野さんの指摘で、
日頃「堂々とふるまうのは恥ずかしい」と思っている自分がいるのに気づいた。
その恥ずかしい気持ちがつい滲み出てくるのだと思った。

そう言えば、人に会っている場面で思いもしない形で褒めていただいときにも
「いえいえ」
「とんでもない」
「滅相もない!」
「そんなこと言わないで」・・・・
どんどん自虐的になるクセがある。
あとになって、その場でありがとうと言えばよかったと後悔するのだ。
文章だけではなさそうだ。
実際、謙虚を美徳として素直に喜べない人は多いと言われる。

この文章術レッスンでは、他にもいろいろ指摘をもらい、
このブログも少し体裁を変えたり、少々意識して書き始めるよう意識している。

私はだいぶ前から、
顔には生き方が表れる、滲み出ると主張しているけれど、顔だけじゃなかった。
文章にも、生き方が滲み出てしまうのだ。
日頃の生き方、姿勢というのは本当に侮れない。


参考
花と緑のフォトライター&文章アドバイザー 宮野真有さん


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2015年8月5日

会社の評価の仕方、今の時代に公平である必要があるのか?

働く者にとって、評価は気になるところ。
だって、給料にそのまま跳ね返るんだから当然のことです。
そこで問題になるのは、公平に評価されているかどうかということ。
少なくとも、私が会社員の時はそうでした。



どうしても気になる評価、公平でなくては・・・?!

やっぱり評価は気になる。
自分自身はもちろんのこと、高評価の人の評価を私自身が納得できるか、
部下に対してちゃんと説明できるか。
・・・・とても気になるところだった。

でもそれは、大前提として評価は公平でなくてはならない、と思っていたからだ。

だけど、テレビで語ってたサイボウズ社長の言葉には、驚かされた。
それは、

評価が、公平である必要なんてあるの?

ということを意味していたから 。

ダイバーシティ社会では、比較することがナンセンス

多種多様な人がいるから世の中はおもしろい。
いろんな人がいるからこそ、いろんな発想が出る。
年令、性別、国籍はもちろん、あらゆる多様性を受け入れる職場が、今、求められている。
その通りだと思うし、私もそうあればいいと心から望む。
だって今の時代、ダイバーシティがこれだけ叫ばれているのだもの。
でも・・・・

終身雇用があたりまえだった時代は、
みんな同じようなスーパーサラリーマンだった。
彼らは朝早くから働き、残業もし、家庭などそっちのけで働いた。
その時のお給料はほぼ横並び。年令に応じて上がっていく。

終身雇用が危うくなると、
能力評価、すなわち能力に応じたお給料が当たり前になっていった。
成果報酬と言われるけれど、その評価とは比較である。
どっちの方がよく働くか、優秀か、成績を上げるか・・・

比較できたのは、同じような人たちが同じような働き方をするからできたのだ。
それが今、多種多様な人たちが多種多様な働き方をしている。
比較するのが難しい。

労働市場における市場性を考える

そこで出てくるのが、「市場性」なのだという。
その人が、労働市場においていくらの価値があるのか、という考え方だ。
自分をいくらで売りたいのか?
会社はその人にいくら払うのか?

従業員は、会社の支払う金額に納得できなければ退社する。
従業員を納得させることができなければ、会社は大事な人材を失うことに
なるのだ。

そこには公平かどうかという視点はない。
あくまでも、個人対会社。
相対評価ではなく絶対評価だ。
給与テーブルなんかない。
人それぞれにいろいろな事情があり、いろいろな働き方があるので、
それを互いに理解し、納得できるよう、徹底的に話し合うのだと言う。
問題があれば、それについて対処していく。
会社も従業員もそこにはパワーが必要だろう。
でもそうしなければ、
その人に応じた働き方とお給料は実現しにくいのかもしれない。

考えてみれば、同じ一人の人間であっても、家族の状態やライフイベント、
その時その時で事情が変わり、いつも同じように働くのは難しい。
目いっぱい働く時期があったり、多少セーブしながら働く時期があったりしていい。
それに伴ってお給料が上下するのは、
「労働市場」という視点から見れば、当然と言えば当然の話だ。

だから必ずしもお給料が年齢に応じて、とは限らないのだ。

そう言えば、とても忙しくなって好きな仕事が嫌いになったと気がある。
会社が給与テーブルに基づいた成果報酬型の給与になったばかりの頃で、半期に一度上司ときっちり話をする目標管理の面接があった。
給与テーブルの下の方を希望して仕事量を減らしたいともし希望したら、それは叶うのかと聞いたら、「それはない。」と言われたことがあった。
成果報酬とはあくまでも一生懸命働くための制度で、その人なりに働き方をセーブするための成果報酬ではなかった。
なんかおかしいなあ、将来もしも親の介護とかでいまみたいに働けなくなったらどうなるのかなあ、と思ったことがある。

働き方が変われば評価の仕方も変わって当然

社員どうしを比較させるというのが相当難しくなってきます。
私たちが行き着いた答えとしては、公平じゃなくてもいいやと。
社員どうしを比較して給与テーブルに位置づけるみたいなことをやめようと。

・・・これは、「在宅勤務」が広がろうとする中で「評価」の難しさが挙げられ
出てきた話だった。
語ったのは、サイボウズの社長、青野慶久さん。

大事な人材を失わないためにも、働き方の選択肢の一つとして必要な「在宅勤務」。
どれだけちゃんと働いているのか。その働きぶりは非常に見えにくくなる。
その時、どうやって評価するのか?

その流れで出てきた言葉だったのだ。

でもそれを実現するためには、
1個1個個別に対応し、問題を一つづつクリアしていくことが大事で、
そこには青野慶久さんの丁寧な姿勢がうかがえる。
そして、雇用する側とされる側と、どちらももたれ合うことのない「大人な関係」であることが前提になっている。

公平に評価するなんて、そもそも無理がある。
なぜ評価が公平である必要があるのか?
そう考えれば、なるほど納得である。


私はどこか、固定観念に囚われていた。
それは、

評価は公平でなくてはならない。
不公平じゃないようにと、評価する側は努力しなくてはならない。

ということ。
かつての常識は今、必ずしも常識ではない。

時代が大きく変わっていく。
それに応じて、人の生き方・働き方も大きく変わっている。
固定観念に囚われていると、大きな誤りを犯しそうだと改めて感じる。
パラダイムシフトだ。


<参考>



2015年8月3日

進化するためには、「妬み」は大事な感情の一つだった。

自分では認めたくない、見たくない。イヤなイヤな感情・・・ね・た・み。
それが、大事な感情の一つだと言うのは、私にとってはホッとする新説です。

人のことを羨ましく思う気持ち

人のことを羨ましく思う。
なんで私はそうならないんだろう、そうできないんだろう、
あの人みたいに・・・とイジイジする。
そういうのってすごくみっともない。醜い。恥ずかしい。
ずっとそう思ってた。

だからそう思わないように思わないようにと、私は今まで意識してきたし、
努力もしてきた。
だけど、それでもどうにもならずにそういう気持ちがむくむく起き上がってきてしまうことがある。
妬みってヤツだ。
そうなると私は、なんで私だけこうなんだろう、イヤになっちゃうと思いながら、
人のことなんか気にしない、自分は自分なんだから!と
自分に言い聞かせながらも、それを人には悟られまいとする。
それでも、妬みなんかと無縁そうに見える人を羨み、やっぱりイジイジする。
最悪だ。


その気持ちは「妬み」。でも悪い事じゃないらしい。

だけどこの妬み、実は大事な感情の一つなのだという。
そして、妬みは誰もが抱く普通の感情で、
そういう感情を抱かない人などいないのだそうだ。

な〜んだ、みんなそうなのか。
なんで私ってこうなんだろう・・・と世紀も生きてきちゃったよ。

それを知っただけでも価値がある。

でも話はそれだけじゃない。
妬みは人を進化させる上で喜怒哀楽と同じように大事な感情だというのだから、
ちょっと嬉しくすらなる。

それを教えてくれたのは、7月29日の「あさイチ」(NHK)
なんと「妬み」が特集だったのだ。

それによると、今まで人は妬んで進化してきた。
もしも妬みがないと、人はよくなろうとするモチベーションが生まれない、
向上心が湧いてこない、というのだ。

最近の研究によれば、妬みを感じるとき脳の前部帯状回が反応するそうで、
その部分というのは、苦痛を感じそこから逃れようとする時に反応するらしい。
今、脳科学的にもいろいろなことがわかってきたという。


妬みと嫉妬、似ているけど違うもの

妬みと嫉妬、混同されやすいけど、実はちょっと違う。
妬みは、自分が持ってないけど欲しいと思うものがあるときに、それを持っている人を羨ましいと思うもの。
だけど嫉妬は自分が持っているものを奪われそうで取られたくないという気持ち。
嫉妬の方が欲深い(笑)。

どちらも敵意や被害者意識につながるというのだが、
それについて知人に話したら、「ひがみは?」と聞かれた。ムムム?!

ひがみって、妬みって同じ?別?

番組では「ひがみ」については触れられていなかったけれど、
そう聞いてきた知人とあれこれ考えてみた。

「妬み」は

あの人は○○なのに・・・

と他人に目が行くことに対して、
「ひがみ」は

どうせ私は・・・私なんて・・・

と自分に目が行くことと結論付けたが、さて、どうだろうか。


妬みには良性と悪性がある。


さてその妬みにも種類がある。
良性の妬みなら、羨ましく思う人についてそれがその人にふさわしいと思える。
でも悪性なら、その人がそうであること(それを持っていること)が 納得できない。
良性も悪性も本人の思い込みに変わりはないのだけれど、
どこに焦点を当てるかが違う。

悪性を良性にするための方法としては、

妬みの内容を自覚して自分は違うと思うこと、
真似をしないこと、
自分なりの目標を設定すること、

なのだそうで。

なるほど・・・
でもそう簡単にできれば世話ないんだけどね・・・

「妬み」を力に変える

番組の中では、
自分が羨ましく思う人を見に行って自分に火をつけた尾上松也さん(歌舞伎俳優)や、
羨ましく思う人を観察し自分と何が違うかを見て、それをそのまま自らの目標にしたわたなべぽんさん(漫画家)が紹介されていた。

あれ?!
それって、心が元気な時に無意識の中でやっていることがあるかも。
それを今度は意識してやってみると、イヤな「妬み」がパワーに変わる可能性がありそうだ。

人はどうしても怠け者。
自ら目標を設定しても、忙しくなると忘れがちだったり、先延ばししたり・・・・
仕事の〆切のように他人に設定された期限がないと、自分を鼓舞し続けることは大変だ。
妬む気持ちがあるからこそ、忘れない、やり続ける。
たしかに「妬み」は目標を持続させる力があるというのも、なるほど、うなづける。



<参考>
国立研究開発法人 放射線医学総合研究所
妬みや他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムが明らかに
―妬みに関する脳活動が強い人ほど“他人の不幸は蜜の味”と感じやすいことが脳科学的に証明された―
http://www.nirs.go.jp/information/press/2008/index.php?02_12.shtml