2015年8月11日

「おしゃべり」の正体と、困った「おしゃべり」 

一般に「おしゃべり」というと2種類の意味合いがあるのではないでしょうか。
一つは、人のこと、秘密や言わない方がいいと思われることを、
他の人にペラペラしゃべるような「おしゃべり」。
もう一つは物理的に黙っていること、静かにしていることが少なく、
まさに口数が多い「おしゃべり」。
「おしゃべり」と言っても、今日は後者の方の「おしゃべり」について考えてみます。

子どもの頃から「おしゃべり」だった

私は子どもの頃から「おしゃべり」だった。
まず言葉をしゃべり始めるのがとても早かったらしい。

他の子が単語しかしゃべらないような幼稚園に入る前から
「今日はいいお天気でお洗濯ものがよく乾くね~」とご近所さんに話しかけるような
オシャマな子どもだったと言われた。
大人の話に入りたがって嫌がられた記憶があるくらいだ。

小学校に上がれば、
毎回通知表に「授業中のおしゃべりをやめましょう。」と書かれた。

「おしゃべり」なくせに「おしゃべり」だと思われたくない

自分が少なくとももの静かなタイプではないことは自覚しているのだが、
それでも人からよくしゃべると言われると、凹んでしまうところがある。
相手は特に悪い意味で言ったわけではないにしても。

それは、もの静かで優秀な人こそが本当に優秀で、
よくしゃべる人は口先だけで実は中身は薄っぺらなものだ、と
ずっと思っているからだ。

小学校に入る前の子どもの頃、もの静かでゆっくり話す友だちがいた。
清潔感あふれ、
ょっとお嬢様風でどことなく品がある彼女に、私はひそかに憧れていた。
こういう人は素敵だな、と。
彼女と仲良くしていると、私まで彼女のように“高貴に”見られるような気がした。
そんなに小さい子どもがどう見えるかをすでに気にしていたこと自体がおかしな話だが、私は人に「おしゃべり」と言われて思い出すのがそれなのだ。

私の両親は、父も母も明るくてよくしゃべる人だ。
結婚して家を出てみると、実家の家族(両親・姉妹)は賑やかなことに気づく。
家族が集まると、次々と話題を移しながら会話が途切れることがない。
要はみんなおしゃべりなのだ。

けれど、私の母は昔から、もの静かで頭のよい人を高く評価することを
子ども心に感じていた。
よくしゃべる人は落ち着きがなく、不言実行がいいことなのだ、と。
父からも「女の子はもの静かでゆっくり話すのがいい。時にははらはらと涙を流すのが女らしい。それなのに・・・」とよく言われたものだ。
今でもしばしばそう言われるくらいだ。

どう見てももの静かとは言えない私の両親は、もの静かで寡黙な雰囲気に憧れ、
自分の子どもにそうなってほしいと思っていたのだろう。
子どもの私はそれを感じ、もの静かな友達にあこがれ、
そうなれない自分の「おしゃべり」にうんざりするようになった。
「おしゃべり」なくせに「おしゃべり」だと言われると、
無能だと言われているように感じてしまうのだ。

おしゃべりは自己防衛の表われかも。

でも今あらためて考えてみると、口数が多くなるのにも理由があるような気がする。

言い訳がしたい。
沈黙が怖い。
自分の話を聞いてほしい。
思いを伝えたい。

特になんとなく言い訳がしたくて口数が増えるときというのは、
自分に自信がないときなのだと気づくのである。
自分を守りたくて一生懸命しゃべっているときがある。
それは、自己防衛の結果なのだと思う。

自分を守らなくていいと思ったとき、
私はそんなに「おしゃべり」ではなくなっていることに気づくのだ。

つらいおしゃべり、楽しいおしゃべり

先日あるご縁で、ほとんど知り合いがいないパーティに出席することになった。
私はパーティが苦手だ。
できれば知り合いや知り合いが紹介してくれる人とだけしゃべっていたい。
でもそこで紹介された初対面の人と名刺交換をし、二人だけになってしまった。
そうしたら、そのままその人はずっとしゃべっていた。
私が相づちを打つ以外は、口をはさむ隙もなく、ずっと。

その人は伝えたいことがいっぱいあったのかもしれない。
自信がなかったのかもしれない。
だけど、聞いていた私は最初はよかったけれど、そのうち話なんかどうでもよくなってしまった。
パーティが苦手な私なのに、早くその場から逃げたいとそればかりを考えていた。
今ふり返っても、何の話を聞いたのか、ほとんど思い出せない。

こういうおしゃべりは、つらい。

私も含めて、自己防衛でついおしゃべりになる人はきっといっぱいいるだろうけど、
一方通行はとても残念なことだ。
饒舌で苦痛を与えてしまったとしたら残念だ。
会話はキャッチボールでないと。。。
よくしゃべるにしても、そのおしゃべりの感想や反応をもらい、
次は相手の話題を聞いて・・・
そんな会話が進んでいくようでないと、おしゃべりの価値がない。

おしゃべりを自認する私は、子どもの頃からずっとおしゃべりではあるけれど、
できれば私も相手も楽しいおしゃべりをしたい。
おもしろい「おしゃべり」でありたいものである。