2015年8月5日

会社の評価の仕方、今の時代に公平である必要があるのか?

働く者にとって、評価は気になるところ。
だって、給料にそのまま跳ね返るんだから当然のことです。
そこで問題になるのは、公平に評価されているかどうかということ。
少なくとも、私が会社員の時はそうでした。



どうしても気になる評価、公平でなくては・・・?!

やっぱり評価は気になる。
自分自身はもちろんのこと、高評価の人の評価を私自身が納得できるか、
部下に対してちゃんと説明できるか。
・・・・とても気になるところだった。

でもそれは、大前提として評価は公平でなくてはならない、と思っていたからだ。

だけど、テレビで語ってたサイボウズ社長の言葉には、驚かされた。
それは、

評価が、公平である必要なんてあるの?

ということを意味していたから 。

ダイバーシティ社会では、比較することがナンセンス

多種多様な人がいるから世の中はおもしろい。
いろんな人がいるからこそ、いろんな発想が出る。
年令、性別、国籍はもちろん、あらゆる多様性を受け入れる職場が、今、求められている。
その通りだと思うし、私もそうあればいいと心から望む。
だって今の時代、ダイバーシティがこれだけ叫ばれているのだもの。
でも・・・・

終身雇用があたりまえだった時代は、
みんな同じようなスーパーサラリーマンだった。
彼らは朝早くから働き、残業もし、家庭などそっちのけで働いた。
その時のお給料はほぼ横並び。年令に応じて上がっていく。

終身雇用が危うくなると、
能力評価、すなわち能力に応じたお給料が当たり前になっていった。
成果報酬と言われるけれど、その評価とは比較である。
どっちの方がよく働くか、優秀か、成績を上げるか・・・

比較できたのは、同じような人たちが同じような働き方をするからできたのだ。
それが今、多種多様な人たちが多種多様な働き方をしている。
比較するのが難しい。

労働市場における市場性を考える

そこで出てくるのが、「市場性」なのだという。
その人が、労働市場においていくらの価値があるのか、という考え方だ。
自分をいくらで売りたいのか?
会社はその人にいくら払うのか?

従業員は、会社の支払う金額に納得できなければ退社する。
従業員を納得させることができなければ、会社は大事な人材を失うことに
なるのだ。

そこには公平かどうかという視点はない。
あくまでも、個人対会社。
相対評価ではなく絶対評価だ。
給与テーブルなんかない。
人それぞれにいろいろな事情があり、いろいろな働き方があるので、
それを互いに理解し、納得できるよう、徹底的に話し合うのだと言う。
問題があれば、それについて対処していく。
会社も従業員もそこにはパワーが必要だろう。
でもそうしなければ、
その人に応じた働き方とお給料は実現しにくいのかもしれない。

考えてみれば、同じ一人の人間であっても、家族の状態やライフイベント、
その時その時で事情が変わり、いつも同じように働くのは難しい。
目いっぱい働く時期があったり、多少セーブしながら働く時期があったりしていい。
それに伴ってお給料が上下するのは、
「労働市場」という視点から見れば、当然と言えば当然の話だ。

だから必ずしもお給料が年齢に応じて、とは限らないのだ。

そう言えば、とても忙しくなって好きな仕事が嫌いになったと気がある。
会社が給与テーブルに基づいた成果報酬型の給与になったばかりの頃で、半期に一度上司ときっちり話をする目標管理の面接があった。
給与テーブルの下の方を希望して仕事量を減らしたいともし希望したら、それは叶うのかと聞いたら、「それはない。」と言われたことがあった。
成果報酬とはあくまでも一生懸命働くための制度で、その人なりに働き方をセーブするための成果報酬ではなかった。
なんかおかしいなあ、将来もしも親の介護とかでいまみたいに働けなくなったらどうなるのかなあ、と思ったことがある。

働き方が変われば評価の仕方も変わって当然

社員どうしを比較させるというのが相当難しくなってきます。
私たちが行き着いた答えとしては、公平じゃなくてもいいやと。
社員どうしを比較して給与テーブルに位置づけるみたいなことをやめようと。

・・・これは、「在宅勤務」が広がろうとする中で「評価」の難しさが挙げられ
出てきた話だった。
語ったのは、サイボウズの社長、青野慶久さん。

大事な人材を失わないためにも、働き方の選択肢の一つとして必要な「在宅勤務」。
どれだけちゃんと働いているのか。その働きぶりは非常に見えにくくなる。
その時、どうやって評価するのか?

その流れで出てきた言葉だったのだ。

でもそれを実現するためには、
1個1個個別に対応し、問題を一つづつクリアしていくことが大事で、
そこには青野慶久さんの丁寧な姿勢がうかがえる。
そして、雇用する側とされる側と、どちらももたれ合うことのない「大人な関係」であることが前提になっている。

公平に評価するなんて、そもそも無理がある。
なぜ評価が公平である必要があるのか?
そう考えれば、なるほど納得である。


私はどこか、固定観念に囚われていた。
それは、

評価は公平でなくてはならない。
不公平じゃないようにと、評価する側は努力しなくてはならない。

ということ。
かつての常識は今、必ずしも常識ではない。

時代が大きく変わっていく。
それに応じて、人の生き方・働き方も大きく変わっている。
固定観念に囚われていると、大きな誤りを犯しそうだと改めて感じる。
パラダイムシフトだ。


<参考>