イジイジした気持ちが、無意識の中で文章に滲み出ることがあるのですね。
これは意識してかからないと。
堂々と見えるのはみっともないこと
私は若い頃から、内心オドオドドキドキしている時でも、自信満々に見られることが多かった。
過去にはそれでラッキーしたこともたくさんあったのだけれど、
自信がないときに自信満々に見られることは、今となっては少々負担である。
自信がないときに自信満々に見られることは、今となっては少々負担である。
いつの頃からだろうか。
なんとなく堂々と振る舞って見えることが恥ずかしいと感じるところがある。
できもしないくせに堂々と見えるのはみっともない、
脳ある鷹は爪を隠す、というのがカッコいい、
・・・どうもそんな風に思い込んでいる自分がいるのである。
言い訳めいた部分はごそっと削除
だからというわけかどうかはわからないけれど、
このブログの文章をプロに見てもらった時に指摘されたのが、
言い訳めいた部分はごそっと削除しちゃいましょう。
という言葉だった。
え? 言い訳?
最初は意味がよくわからなかった。
具体的に今までのブログ記事から指摘してもらったところ、
出てくる、出てくる・・・!
私自身は無意識なのだけど、
読み手から見ると自虐的に見える表現がしばしば出てくるのだ。
読み手から見ると自虐的に見える表現がしばしば出てくるのだ。
意図して書いているわけではないのだが、なんか言いたくなって自虐的に書く
・・・それが言い訳。
・・・それが言い訳。
たしかにそんなのない方が文章ははるかにスッキリするし、読みやすい。
それは、自分のダメな部分や弱い部分を書かない方がいいという意味ではない。
ダメな部分や弱い部分を書くだけでなく、
それに対して卑屈になったりいじけたりして、さらにわざわざ自分で落とす、
まさに自虐。
それに対して卑屈になったりいじけたりして、さらにわざわざ自分で落とす、
まさに自虐。
これをやめた方がいいという意味だったのだ。
意図的にやるなら別の効果があるのかもしれないけれど、
無意識にやるとウザくなるのだ。
無意識にやるとウザくなるのだ。
文章には「自分」が滲み出てしまう
これを教えてくれたのは、
ブログの文章術レッスンを手がけるライターの宮野真有さん。
ブログの文章術レッスンを手がけるライターの宮野真有さん。
言い訳や謙遜は、自分を守る意味でついついしてしまいがちですが、
時によっては、とっつきにくい印象を与えます。
書き手の視点が、内向きであることを示す表現だからです。
宮野さんの指摘で、
日頃「堂々とふるまうのは恥ずかしい」と思っている自分がいるのに気づいた。
その恥ずかしい気持ちがつい滲み出てくるのだと思った。
そう言えば、人に会っている場面で思いもしない形で褒めていただいときにも
「いえいえ」
「とんでもない」
「滅相もない!」
「そんなこと言わないで」・・・・
どんどん自虐的になるクセがある。
あとになって、その場でありがとうと言えばよかったと後悔するのだ。
文章だけではなさそうだ。
実際、謙虚を美徳として素直に喜べない人は多いと言われる。
この文章術レッスンでは、他にもいろいろ指摘をもらい、
このブログも少し体裁を変えたり、少々意識して書き始めるよう意識している。
日頃「堂々とふるまうのは恥ずかしい」と思っている自分がいるのに気づいた。
その恥ずかしい気持ちがつい滲み出てくるのだと思った。
そう言えば、人に会っている場面で思いもしない形で褒めていただいときにも
「いえいえ」
「とんでもない」
「滅相もない!」
「そんなこと言わないで」・・・・
どんどん自虐的になるクセがある。
あとになって、その場でありがとうと言えばよかったと後悔するのだ。
文章だけではなさそうだ。
実際、謙虚を美徳として素直に喜べない人は多いと言われる。
この文章術レッスンでは、他にもいろいろ指摘をもらい、
このブログも少し体裁を変えたり、少々意識して書き始めるよう意識している。
私はだいぶ前から、
顔には生き方が表れる、滲み出ると主張しているけれど、顔だけじゃなかった。
顔には生き方が表れる、滲み出ると主張しているけれど、顔だけじゃなかった。
文章にも、生き方が滲み出てしまうのだ。
日頃の生き方、姿勢というのは本当に侮れない。
参考
花と緑のフォトライター&文章アドバイザー 宮野真有さん