2015年8月31日

娘から見た親(高齢)の病院通い。その理想と現実


病院に行きたがらない高齢者、病院に行きすぎる高齢者・・・
高齢の親を持つ子どもとしては、どちらも悩ましいものです。
理想とされるお医者さんとのおつきあい、病院の通い方はあるでしょうが、
現実はなかなかそうはいきません。

病院は高齢者だけのものじゃない、と言うけれど

病院は高齢者のたまり場だと言われるようになって、30年くらいになろうか。
元気な高齢者は、おしゃべりをしに病院に行き、
病気になった高齢者は体がつらくて病院に行けない。
・・・かつてはそんな笑い話もあった。

そのせいで重篤な病気の患者さんが見られなくなるといけないからと、
今はできるだけ大病院ではなく近所のかかりつけ医に行きましょう、と言うのが常識。
国の方針でもある。
でも現実としては、やっぱりそんなのは理想だと思う。

理屈はわかる。
そりゃあ、そうでしょう。そうしたいですよ。
だけど、そのつもりでいても、若い人なら比較的簡単にそうできるかもしれないが、
高齢者の場合は、結果的になかなかそうはならないのが現実。

かかりつけ医のお医者さんに行きましょう、と言うけれど

かかりつけのお医者さんと言えば、
風邪をひいたら行くような、気軽に診てもらえるような、そういうイメージだ。
私にも、家の近所にそういうお医者さんがいる。

高齢の父の場合も、
元気で滅多にお医者さんにかかることがなかったときにはそういうお医者さんがいた。
でも元気だからほとんどお世話にならなかった。

しかし加齢とともに次々具合が悪くなってきた。
あちこちが悪くなり、その度に大きな検査が必要になり、大病院に行く。
さらに精密検査が必要だったり、違う科に診てもらうことになったり、
なかには先生と相性のよくなくて二度と行きたくないと言いだして
全く別の大病院に行ってもう一度最初から検査したり・・・。

気づくと、複数の大病院の複数の診療科に通うようになっていた。
足腰が元気ならいいけれど、だんだん足元がおぼつかなくなり、
付き添いなしには病院までは行けない。
若かった頃だったら、いずれ治るし、治ればもう行かなくなる。
だけど年をとるとなかなかよくならない。
多少はよくなってもまたすぐ悪くなるし、
悪くなれば、記録が残っている大病院に行く方が無駄がない。

父の場合、
 前立腺肥大で泌尿器科、帯状疱疹で皮膚科、
 腰が痛い脊柱管狭窄症で整形外科、
 高齢者特有の極度の便秘で胃腸科、
どれも症状が強く出たり落ち着いたりの繰り返しなので専門医に
診てもらうことになり、大病院に行く。
これだけの種類の持病を抱えるのだから、毎週どこかの病院の予約が入る。
風邪を引いたりといった日常的な症状が、それに加わるのだ。

病気の種類は別にしても、高齢者というのは、概ねそんなものじゃないか。


かかりつけ医に行けなくなる

そうなると、地域のかかりつけ医に行く機会がなくなってしまう。
それではマズイかなと思って、無理やりかかりつけ医に行ってもみるのだが、
これだけの診療科で診療を受け、その経緯を説明するだけでも大変なことだ。
ましてや高齢者の説明はゆっくりなのに話があちこち飛ぶ。
ちっとも来なかった患者が、来なかった間の要領を得ない話を延々と繰り返し、
どこがどのように悪いのか不明のまま薬の処方を書いてほしい、
と言い出すわけで、お医者さんから見れば、さぞかしイライラすることだろう。

こちらの言い方にも問題があるのかもしれない。
なんとなく関係性が悪くなり、いつの間にかかかりつけ医との関係は疎遠になってしまった。
もう今や、かかりつけ医に行ける雰囲気はない。

困るのは家族である。
なんせ、本人は一人で病院には行けないのだから。
しかもその病院は、かかりつけ医に比べて遠いのである。

病院に行くために

今のところ、家族が付き添って病院に行っている。
家族と言っても、我が家の場合は子どもたちはみな離れて暮らしているので、
老いた母が中心になって付き添うのだ。
そのため、母のプライベートな時間はほとんどなくなってしまう。

母の精神的負担を軽くするために、子どもである私たちも同行したり、
交代することもあるが、頻繁になるとなかなか難しい。
介護保険では病院付き添い(~院内介助)は適用されないので、
介護サービスプランに組み込んでもらうこともできない。

国の方針通り、かかりつけ医との関係を大事にして、
すべてをかかりつけ医に診てもらえていれば、
家族の負担はきっともう少し軽かったのだろう。
しかし、もはや戻ることはできない。
それに、そもそもそんなことは現実的にありえなかった。

今、老親だけの二人暮らしは心配も多いけれど、
本人たちが自分らしく暮らすためには第1優先なことだった。
たとえ負担が大きくても、両親のその気持ちは今もこれからも変わらなそうだ。
これも現実。

状況を見ながら、今後は
介護タクシー等、介護保険外のサービスの利用や、
訪問医療の活用等々、次の対策を少しづつ検討することになるのだろう。
子どもとして何ができるのか、それもお互いにできるだけ無理の少ない形で。

私たち世代にとって、老親の問題は大問題だ。
だけど、犠牲を払う気持ちが強くなると、どこかで歪みが生じてしまう。
その対策・解決方法は、
親によって、子どもによって、
家庭によって、人によって、たぶんみんな違う。

世間の理想通りにはいかなくても、
自分たちにとっての理想にどうやって近づけるのか、
・・・それを今、私たち家族も問われている。





 9月9日(水)のテーマは、
   もしも今・・・?!
    命にかかわる医療について、もう少し考えてみる




       

2015年8月27日

カラダも頭も気持ちも、野菜栽培のような「連作障害」、起きてませんか?

野菜栽培で、連作障害ということがあります。
毎年同じ場所に同じ野菜を繰り返し作ることで、
次第に生育不良になっていくことを言います。
それは野菜だけじゃない・・・
人のカラダも、頭も、気持ちも、似たようなことがあると思いませんか。

自分の肌で感じる連作障害?

私は化粧品にはあまりこだわりを持つ方ではないけれど、
それなりの年齢になってきたせいか、
基礎化粧品は特にいい加減なものは使いたくない、と思うようになってきた。
何をつけても荒れることなく元気だった肌が、敏感肌になってきたからだ。
それで、素性がわかるもの、自然なものを愛用する傾向になった。

10年近く前にあるきっかけで、いいものだからと使い始めた美容オイルがある。
使い始めた当初に劇的に肌の状態がよくなり、
すっかり虜(とりこ)になって、即、私の愛用品になった。
それから5年くらい使い続けたが、当初の劇的な喜び(?)を感じたことも忘れ、
愛用しながらも普通の日常になっていった。

ところが、あるきっかけで別の基礎化粧品を使う場面が訪れ、
新しいものを使ってみたら、あら不思議。
・・・そこでまた劇的に肌の状態が変わったのを実感したのである。

それは、10年前によくなって、さらに5年前によくなって、と言うんじゃない。
10年前によくなったけど、それがだんだん元に戻っていって、そしてまた新しい刺激でよくなったのだと思う。
同じものを使い続けていくうちに、その効果がなくなって行くのではないか。
まあ連作障害ほどひどいもんじゃないけど。

愛用品が連作障害を起こしていたのかどうかはわからないけれど、
感動的なモノも、毎日になれば日常になり、
私の肌にとっては「特別なもの」ではなくなっていったのだろう。

いろんなところで、実は慣れによる弊害がある

似たようなことは日々の日常にもたくさんあるのではないか。

たとえば運動。
面倒くさくてカラダを動かさないと、それが日常になり、どんどんカラダが動かなくなっていく。
ちょっとした運動を始めたとき、カラダはしんどいけどスッキリする。
でもそれが日常になると、しんどくないけどスッキリもしない。
だんだんとカラダに負荷がかからなくなってるから、
鍛えられる効果はどんどんと落ちていってしまうのだ。

たとえば頭。
今までの得意分野、慣れているフィールドは、わかりやすいし楽ちんだ。
そこでだけ頭を使っていると、自分が錆びていくのを感じてハッとすることがある。
普段あまり考えないことや知らない分野の情報に触れると、
難しくてわからないことも多いけど、嫌になったりもするけれど、
新しい世界が開けることがある。
ちょっとしんどいんだけど、自分の中で新しいスイッチが入るのを感じる。

怖いのは、無自覚な気持ちの「連作障害」

同じことを繰り返すことは楽ちんだ。
手間も楽だし、気も楽だし、
時間やお金もかからなかったり、効率的でもあるだろう。
だけどそれが柔軟性を奪って行ったり、頑固に向かわせたりするような気がする。
言わば、気持ちの「連作障害」だ。

特に年をとってくると面倒くさがりになるから、それに拍車がかかっていくのだ。
でも意外にそういうことに自分では気づかない。

誰よりも好奇心が強くて、誰よりも冒険心満載の猪突猛進だったはずの私は
いつのまにか慎重で細かい人間になっていた。
慎重だったり細かかったりすることは悪いことじゃないけれど、
知らないうちに新しいものを受け入れにくい体質になっている可能性大だ。
いけない、いけない。
私の中で「連作障害」が起きようとしているのかも?!

新しいことを始めること、知ること、やってみることは、
意識しないと始まらない。
継続は大きな力ではあるし、否定をする気はないけれど、
新しいスタートの面白味に、もっともっとワクワクしていきたい。
モノにも、コトにも、人にだって、気持ちだって。







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2015年8月24日

「終わっちゃった人」とはどういう人か? どういうことか?

「あの人、もう終わっちゃてるよね・・・」
ときどきそんな話題でおしゃべりをすることがありました。

「終わっちゃった」とは、どういうことなのでしょうか。
それは、一般的な表現ではなく、私固有の表現だったのかもしれません。

「終わっちゃった人」とはマイナスか?!

いつぐらいからだろうか。
ガツガツ活躍していた人が、落ち着くようになると、
「あの人、もう終わっちゃった・・・・」
と思うようになった。
それは、テレビの中の芸人さんや著名人だったり、
自分の身近な人、仕事関係の人だったり・・・。

私が「終わっちゃった」というのは、
かつてのアグレッシブな感じが落ち着いてきた感じに変わったときだ。
「脂がのった」状態から「脂がぬけた状態」に変わったとでも言おうか。
旬な時期ではなくなった、とも言える。

それは誰から見てもマイナス、というわけではないだろうが、
私から見るとマイナスな表現だった。
でもそれは、
いつもいつもアグレッシブでなくてはならない、
旬であり続けなければならない、ということの裏返しでもあった。

そんなことは無理に決まっているのに・・・

人はみんな違う、同じ人でもいろんな時がある

「アグレッシブ」と言っても、人によってその形は違う。
「終わっちゃった」と思うのは本人ではなく周りの人であって、
そう思っている周りの人がどこまで本質を捉えているかなんてわからない。

同じ人であったとしても、
 全速力で走るとき、
 軽く走るとき、
 キョロキョロ周りを見ながらゆっくり歩くとき、
 ちょっとお休みするとき、・・・・・
いろんな時がある。
「終わっちゃった」かどうかなんて、実はわからない。

でも、私はそんなことには気づかず、勝手にいろんな人を見ながら
「この人、終わっちゃったな・・・」なんて思っていたのだ。

思うことは自分に返ってくる

そうやって思っていたから、そのままブーメランのように自分に戻ってくる。

いずれ「終わっちゃった人」って思われるんじゃないか?
「終わっちゃった人」って思われたらどうしよう。
今の私、「終わっちゃった」かしら?!

 年齢と共に少しづつ体力が衰える、
 すぐ眠くなって徹夜なんてもうできない、
 覚えられないこと、思い出せないことが増える、
 以前のような食欲がなく、食べる量が減る、

等々、ちょっとした変化がきっかけで、
私は自分が「終わり」が近づいているのではないか、
「終わっちゃった」んじゃないかとビクビクするようになった。

でもそう思うのは、
きっと私自身が人のことを「あの人、もう終わっちゃった。」と思っていたから。
そのまま自分に返ってくるのだ。

自分がそう思っていたから、自分に対してもそう思う、
・・・そんなことに、私はずっと気づかなかった。

「終わっちゃった」ことについて
いろんな人といろんな話をする機会があったおかげで、
その考え方が「旬であり続けなければならない」という私固有の概念、
私独特な観念であることに、最近ようやく気づき始めた。

アグレッシブであること、がんばること、目標に向かって一目散に走ること
・・・どれも素敵なことだけれど、そうでなければいけない、というわけではない。
力が抜けても素敵な人だってたくさんいる。
私は今、ようやくそういう風に考えられるようになった。

終わっちゃうことなんて、きっとない。
だからいくつになっても、何をしていても「終わっちゃった人」なんてきっといない。

そう思うと、人のことも自分のことも、
以前よりもずっと優しく見られるようになるから不思議だ。





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2015年8月21日

醸し出される雰囲気とは何か? コミュニケーションの要素にヒントがあった。

いくら目鼻立ちが整っているからと言って、見た目がいいとは限らない。
目鼻立ちがパッとしなくても、とても魅力的に見える人がいる。
・・・・私はずっとそう思っています。
私が「人の顔」をおもしろがり、注目するところはそこなのですが、

そこには、コミュニケーションと大きな関係があるようです。


コミュニケーションの3要素

コミュニケーションにもいろいろあるが、
直接会う対面のコミュニケーションの場合の要素は三つ。
一つは話の内容 二つ目が話し方、三つ目が態度・表情。

この要素が相手に与える影響度合いは以下の通りだという法則がある。

 話の内容が、7%
 話し方が、38%
 態度・表情が、55%


これを初めて知った時、衝撃を受けた。
なに〜?!
話の内容はたった7%だって?!

態度や表情が全体の半分以上を占め、次に重要なのが話し方。
話の内容など1割にも満たないというのか。。。。
営業として対面で提案をする機会が多かった私にとっては、
初めてこれを知ったとき、自分を否定されたような気がしたものである。

これは「メラビアンのコミュニケーションの3要素」と言われるもので、

 話の内容とは、言語、
 話し方とは、声のトーン (聴覚)
 態度・表情とは、身体言語(ボディーランゲージ) (視覚)

と、そこでは整理される。
参考)アルバート・メラビアン Wikipedia

内容だけで勝負しようとしても、実はなかなかそうなれない

私はどこか、話の内容にこだわっていたところがあった。
コミュニケーション力で大事なのは話の内容。
内容が面白くなければしょうがない、と。

でも考えてみれば、
どんなにスジが通って正しい内容であっても、それを言う人が誰かによって
感動すら覚えたり、すんなり受け入れられたり、受け入れがたかったり
することがある。
それはもう理屈なんかじゃない。

その人のことを好きかどうかということも関係するだろうが
初対面であっても、スーッと入ってくる場合とそうでない場合があるのだから
コミュニケーションというのは、話の内容以上に聴覚とか視覚とか
によって作られるもの、という説があるのも納得できる。

静かな話し方、楽しい話し方、明るい話し方、暗い話し方・・・
エラそうな態度、上から目線、卑屈な態度、斜に構えた態度、いつもニコニコ、暗い表情・・・
それらは、醸し出す雰囲気そのものである。

会話だけじゃなく、講演なんかでもそうだ。

コミュニケーションの要素である「話し方」や「態度・表情」とは、
まさに醸し出す雰囲気の要素でもあるのだ。

雰囲気は蓄積し、にじみ出てくる

メラビアンの法則では、言語、聴覚、視覚と言われることから、

 要は見た目でしょ?!
 やっぱり見た目が大事!

と言う人も多いけれど、私はそこはちょっと違うと思う。
視覚というのは見た目の良し悪しではなくて、雰囲気が映し出される見た目だと思っている。

私がこだわってきたお葬式に飾る遺影をはじめ、人の「顔」「顔つき」も同じで、
要は見た目、視覚ではあるのだけど、
それが、目鼻立ちの美醜以上に感じさせるムード、オーラ、雰囲気というのが
顔つきに表われてきて、その影響が大きいから人の「顔」にこだわってきたのだ。
顔、顔つきは見た目だけじゃない、
それ以上に雰囲気が語るものがある、と。

だから、遺影だって、企業なら社長の顔写真だって、
個人ブランドを重視する人はプロフィール写真だって、
実は綺麗かどうか以上に、その人の雰囲気が伝わるかどうかを大事に
したほうがいい、と訴えて続けてきた。
それは今でも変わらずそう思う。

ではその雰囲気はどうやって作られていくのか?
それは、それまでの生き方が滲み出てくる結果なのだと私は考えている。
だから雰囲気と言うのは、時間と共にその人に蓄積していくのだ、と。
知らず知らずのうちに時間と共にじわじわと変わっていく。
あるコトがきっかけでガラッと変わる。
当の本人は、それにほぼ気がつかない。

 石崎さんって「顔」「顔つき」にこだわっているくせに、
 ご自分は怖そうに見えるよね。
 ふとした瞬間に口角が下がってつまらなそうにしてるように見える。
 話をしているときに眉間にシワを寄せていて、険しい感じがする。

私自身も、親しい人に言われることがある。
そんな風に思っていないのに、そんなつもりもないのに、
自分が思いもしない雰囲気を醸し出していることがあるようだ。
それは私がそれまでに無理をしていたから?
我慢をしていたから?
自分をいじめていたから?

日々の蓄積でじわじわと・・・・
毎日を自分らしく生きていくことが、きっと未来の雰囲気につながっていく。





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2015年8月15日

都会で感じるお盆

お盆とお正月は一斉にお休み、というのは今は昔。
今ではお盆など関係なく、夏休みは交代で取得するのが普通と言われますが、
13日に車で出かけたら、道はガラガラでした。
だって、お盆。
13日はご先祖様をお迎えする日ですものね。

私のお盆、今むかし

子どもの頃、お盆になると同居している祖母と一緒に迎え火を焚いた。
祖母がナスとキュウリを選んで割り箸を差すのを横で見ていた。
こうやって馬を作るのだという祖母の言葉を聞きながら、
こんなの馬になんか見えないよなあなどと思いながら、
意味もわからず火を焚いた。

それから何年か経ち、就職し、実家を出てからは
私にとってお盆と言えば夏休み。
取引先の休みが増え、仕事が暇になり、通勤電車が空き、
都内の道がガラガラになるイメージが濃くなった。

私にとってのお盆などそんなものだった今から20年くらい前。
勤務先の社長が、得意先の中でも新盆にあたる人に提灯を贈ろうと
言い出したことがあった。
それも、直接ご自宅にお届けしよう、と。
え~?! 提灯? 自宅に届ける~?

当時、その得意先の担当営業はそれをいやがった。
「提灯なんかもらっても迷惑だろう」と。
若かった私は、随分前時代的な古臭いことを社長は思いついたもんだな・・・
と思ったのをよく覚えている。
結果として提灯を贈ったのかどうか、どうやって贈ったのかは
忘れてしまったが。

お盆を意識するようになって・・・

若かった頃は、お盆などあまり意識することもなかった。
それが、数年前に義理の父が亡くなったことに加え、
それからほどなくして終活や供養の周辺の人とのつながりや仕事の機会が増え、
少しづつ私の意識が変わっていった。
単なる夏休みではなく、少し気にするようになったのだ。
それでも東京での暮らしの中でお盆を感じることはあまりなかった。

昨年のお盆のとき、スポーツクラブで気になる会話が耳に入った。
20代の女性トレーナーが顧客の中高年女性に、
「明日はご先祖様をお迎えに、提灯持ってお墓に行かないと・・・」
と話していたのだ。

我が家では迎え火を焚いてご先祖様をお迎えする、とは聞かされていたけど
実際に迎えに行くことはなかった。
うちのお墓は北陸なので迎えに行くには遠すぎたということはあるかもしれないが、
そんなことは聞いたこともなかった。

気になってあとでその女性トレーナーに聞いてみると、
離れた地方の実家の話ではなく自宅の話で、場所は東京と埼玉の県境だった。
お墓も地元、古くからその地域に住んでいる家だそうで、
家族や親せきみんなで提灯を持ってお墓にお迎えに行くのだと言う。

今でもやってるお盆の風習

一昨日、車で出かけた際にその話を思い出し、その地域の方に回ってみた。
そうしたら・・・

灯を入れた提灯を持ってお墓から帰る人たち

子どもからお年寄りまでの大家族の人、夫婦二人だけの人、
次から次へと提灯を持ってお墓にやってくる。
お墓参りに来た人同士で声をかけ、挨拶をし合い・・・、
そして、灯を入れた提灯を持って家族揃って帰るのである。
あたりはお線香の匂いでいっぱいだ。

聞いた話は本当だった。

最近になって、東京周辺でも昔からそこに住んでいる人たちが多い地域では
お盆でそのようなことをしている場所がいくつかある、
ということを知った。

今、改めてお盆を眺める

このような風習は地域独自の文化らしく、地域によって違うようだ。

東京に暮らす人たちは、地方から来た人たちの寄せ集まりで、
かつてはきっと長男が本家を守るから地域に残り、
分家になる人たちが都会にやってくるケースが多かったのだろう。
祖父母から親へ、親ら子どもへと代々伝えられるのは、
東京の風習ではなく故郷の風習であったりする。

だけど今、私の家の近所のスーパーでは、
お盆の時期になるとお盆飾りのナスとキュウリの詰め合わせがパックになって店頭に並ぶ。

青森の新興住宅街に住んでいた友人に聞けば、
お盆になると、家の前の道に出てナスとキュウリで馬を作り、迎え火を焚いていたと言う。
それも、彼女の家だけでなく、道にはそういうことをする家が点在していたそうだ。

私にナスとキュウリの馬を教えた祖母の家は北陸で、お墓も北陸だが、
東京に住む長男の父が両親(私にとっては祖父母)を東京に呼び寄せたのだ。
その習慣は北陸でやっていたものだったのだろうか。
それとも、遠く離れたから本来の習慣とは違ってやっていたのだろうか。
祖母が亡くなった今となっては、わからない。

SNSでタイムラインを眺めると、いろんなお盆の迎え方があることを知る。
家族親戚が集まってご先祖様をお迎えし、みんなでご馳走を食べる人たち、
仏壇周りにお盆飾りをする家・・・、
今も変わらず続けていることを知り、
約20年前に、もうそんな時代じゃないよ、時代はすっかり変わったんだから、
などと思っていた若かりし頃を思い浮かべ、そんな自分に苦笑いする。

確かに時代は変わったけれど、変わらないことや変わらない人たちがいる。
そこに私は憧れや羨ましさを抱き、そういう風習に込められた意味に
大きな興味を感じる。
それでも、私の周りにはお盆なんか関係なく仕事をする人もたくさんいる。

世の中はお盆真っ最中。
今の時代、東京の人はどんな風にお盆を過ごすのだろうか。




自分らしく生きることや親との関係を考えていく講座
麻布十番にて。入会及び、体験参加受付中 
 ※エンディングノートを使って進めます

 8月19日 モノの整理と心の関係~自分のモノ整理、親のモノ整理~
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 <直近の開催>
 7月 8日  もし親(配偶者)が認知症と診断されたら?
 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。

2015年8月13日

自分で自分を壊していないか?! 愛猫のなめこわしから。


自分で自分を追い込んで、どんどん自分をいじめてしまう。
それが高じてやがて自分のいいところまでを壊してしまうことはないでしょうか。
それはとてももったいないことですね。

猫の毛が抜け出した

私事だが、我が家の愛猫の毛が先月抜け始めた。
カラダの毛が部分的に禿げて皮膚が見えるようになり、
家の中にはあちこちに、猫の毛がごそっと塊になって転がり始めたのだから、尋常じゃない。
どうしたんだろ、皮膚病かな。
ちなみに彼女は家猫で、外には一切出ない。

心配になって行きつけの病院に連れて行ったところ、「なめこわし」の可能性が高いことがわかった。

右脇腹が禿げている愛猫。舐めないように、顔の周りは透明のエリザベスカラーを。

なめこわしとは、
自分で自分のカラダを舐めて舐めて舐め尽くし、毛がなくなってしまう、
つまり「舐め壊し」だ。


ストレスが原因で自分を追いつめる

舐め壊しの原因として考えられるのは、ストレスだそうな・・・・。
彼女(猫)と暮らし始めて15年。
彼女が生まれて間もないころから一緒に暮らしているが、
この1ヶ月くらいで私たち家族の暮らし方、猫への接し方など
思い当たるような変化はなかった。

考えてみると、私たち人間にも似たようなことがある。
イライラして爪を噛み、手指の先がボロボロになる人、
髪の毛をいじって引っぱって抜いてしまう人・・・

当の本人は、何がストレスかあまり気づいていないこともある。
だけど何かが解決すると、
いつの間にかその癖をしなくなってることに気づくのである。
自分でも気づかないうちに自分をいじめているのだ。


自分観察で自分をいたわろう

愛猫は雑種の駄猫だけど、毛並みのいい猫だ(と思う)。
せっかくのいい毛並みが、なめこわしのせいでボロボロ・・・
もったいないことだ。

自分をいじめるあまり、自分のいいところまでダメにしててはもったいない。
「どうせ私なんて・・・」
そんな風に思うあまりに、持ち味やいい特性までを押し殺してはもったいない。
爪や髪の毛など、カラダの一部だけの話ではない。

自分のストレスに気づくこと、
自分で自分をいたわること、
自分のよさは大事にすること、
そしてストレス耐性を高めていくこと、
それが改めて大事だなと、愛猫に教わる思いだ。

そのためにも、ときどきはもう一人の自分が自分観察をしたほうがいい。
ふだん自分のことを見ることがないと、
自分のストレスにもいいところにも気づかなくなり、知らず知らずに自分で自分を壊してしまいかねないのではないだろうか。

ちなみに愛猫のストレスの原因はいまだ不明だが、
もしかしたら近隣の家の解体工事の音かもしれないと、今思っているところである。





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 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。



2015年8月11日

「おしゃべり」の正体と、困った「おしゃべり」 

一般に「おしゃべり」というと2種類の意味合いがあるのではないでしょうか。
一つは、人のこと、秘密や言わない方がいいと思われることを、
他の人にペラペラしゃべるような「おしゃべり」。
もう一つは物理的に黙っていること、静かにしていることが少なく、
まさに口数が多い「おしゃべり」。
「おしゃべり」と言っても、今日は後者の方の「おしゃべり」について考えてみます。

子どもの頃から「おしゃべり」だった

私は子どもの頃から「おしゃべり」だった。
まず言葉をしゃべり始めるのがとても早かったらしい。

他の子が単語しかしゃべらないような幼稚園に入る前から
「今日はいいお天気でお洗濯ものがよく乾くね~」とご近所さんに話しかけるような
オシャマな子どもだったと言われた。
大人の話に入りたがって嫌がられた記憶があるくらいだ。

小学校に上がれば、
毎回通知表に「授業中のおしゃべりをやめましょう。」と書かれた。

「おしゃべり」なくせに「おしゃべり」だと思われたくない

自分が少なくとももの静かなタイプではないことは自覚しているのだが、
それでも人からよくしゃべると言われると、凹んでしまうところがある。
相手は特に悪い意味で言ったわけではないにしても。

それは、もの静かで優秀な人こそが本当に優秀で、
よくしゃべる人は口先だけで実は中身は薄っぺらなものだ、と
ずっと思っているからだ。

小学校に入る前の子どもの頃、もの静かでゆっくり話す友だちがいた。
清潔感あふれ、
ょっとお嬢様風でどことなく品がある彼女に、私はひそかに憧れていた。
こういう人は素敵だな、と。
彼女と仲良くしていると、私まで彼女のように“高貴に”見られるような気がした。
そんなに小さい子どもがどう見えるかをすでに気にしていたこと自体がおかしな話だが、私は人に「おしゃべり」と言われて思い出すのがそれなのだ。

私の両親は、父も母も明るくてよくしゃべる人だ。
結婚して家を出てみると、実家の家族(両親・姉妹)は賑やかなことに気づく。
家族が集まると、次々と話題を移しながら会話が途切れることがない。
要はみんなおしゃべりなのだ。

けれど、私の母は昔から、もの静かで頭のよい人を高く評価することを
子ども心に感じていた。
よくしゃべる人は落ち着きがなく、不言実行がいいことなのだ、と。
父からも「女の子はもの静かでゆっくり話すのがいい。時にははらはらと涙を流すのが女らしい。それなのに・・・」とよく言われたものだ。
今でもしばしばそう言われるくらいだ。

どう見てももの静かとは言えない私の両親は、もの静かで寡黙な雰囲気に憧れ、
自分の子どもにそうなってほしいと思っていたのだろう。
子どもの私はそれを感じ、もの静かな友達にあこがれ、
そうなれない自分の「おしゃべり」にうんざりするようになった。
「おしゃべり」なくせに「おしゃべり」だと言われると、
無能だと言われているように感じてしまうのだ。

おしゃべりは自己防衛の表われかも。

でも今あらためて考えてみると、口数が多くなるのにも理由があるような気がする。

言い訳がしたい。
沈黙が怖い。
自分の話を聞いてほしい。
思いを伝えたい。

特になんとなく言い訳がしたくて口数が増えるときというのは、
自分に自信がないときなのだと気づくのである。
自分を守りたくて一生懸命しゃべっているときがある。
それは、自己防衛の結果なのだと思う。

自分を守らなくていいと思ったとき、
私はそんなに「おしゃべり」ではなくなっていることに気づくのだ。

つらいおしゃべり、楽しいおしゃべり

先日あるご縁で、ほとんど知り合いがいないパーティに出席することになった。
私はパーティが苦手だ。
できれば知り合いや知り合いが紹介してくれる人とだけしゃべっていたい。
でもそこで紹介された初対面の人と名刺交換をし、二人だけになってしまった。
そうしたら、そのままその人はずっとしゃべっていた。
私が相づちを打つ以外は、口をはさむ隙もなく、ずっと。

その人は伝えたいことがいっぱいあったのかもしれない。
自信がなかったのかもしれない。
だけど、聞いていた私は最初はよかったけれど、そのうち話なんかどうでもよくなってしまった。
パーティが苦手な私なのに、早くその場から逃げたいとそればかりを考えていた。
今ふり返っても、何の話を聞いたのか、ほとんど思い出せない。

こういうおしゃべりは、つらい。

私も含めて、自己防衛でついおしゃべりになる人はきっといっぱいいるだろうけど、
一方通行はとても残念なことだ。
饒舌で苦痛を与えてしまったとしたら残念だ。
会話はキャッチボールでないと。。。
よくしゃべるにしても、そのおしゃべりの感想や反応をもらい、
次は相手の話題を聞いて・・・
そんな会話が進んでいくようでないと、おしゃべりの価値がない。

おしゃべりを自認する私は、子どもの頃からずっとおしゃべりではあるけれど、
できれば私も相手も楽しいおしゃべりをしたい。
おもしろい「おしゃべり」でありたいものである。

2015年8月10日

文章から覗ける心の中、変な思い込み

ブログのように、持論を展開したり、自己開示して発信するような文章を書く場合、誰でもついつい言い訳しがちなのだそうです。
イジイジした気持ちが、無意識の中で文章に滲み出ることがあるのですね。
これは意識してかからないと。

堂々と見えるのはみっともないこと

私は若い頃から、内心オドオドドキドキしている時でも、自信満々に見られることが多かった。
過去にはそれでラッキーしたこともたくさんあったのだけれど、
自信がないときに自信満々に見られることは、今となっては少々負担である。

いつの頃からだろうか。
なんとなく堂々と振る舞って見えることが恥ずかしいと感じるところがある。

できもしないくせに堂々と見えるのはみっともない、
脳ある鷹は爪を隠す、というのがカッコいい、
・・・どうもそんな風に思い込んでいる自分がいるのである。

言い訳めいた部分はごそっと削除

だからというわけかどうかはわからないけれど、
このブログの文章をプロに見てもらった時に指摘されたのが、

言い訳めいた部分はごそっと削除しちゃいましょう。

という言葉だった。

え? 言い訳?
最初は意味がよくわからなかった。

具体的に今までのブログ記事から指摘してもらったところ、
出てくる、出てくる・・・!
私自身は無意識なのだけど、
読み手から見ると自虐的に見える表現がしばしば出てくるのだ。
意図して書いているわけではないのだが、なんか言いたくなって自虐的に書く
・・・それが言い訳。 
たしかにそんなのない方が文章ははるかにスッキリするし、読みやすい。

それは、自分のダメな部分や弱い部分を書かない方がいいという意味ではない。
メな部分や弱い部分を書くだけでなく、
それに対して卑屈になったりいじけたりして、さらにわざわざ自分で落とす、
まさに自虐。
これをやめた方がいいという意味だったのだ。

意図的にやるなら別の効果があるのかもしれないけれど、
無意識にやるとウザくなるのだ。

文章には「自分」が滲み出てしまう


言い訳や謙遜は、自分を守る意味でついついしてしまいがちですが、
時によっては、とっつきにくい印象を与えます。
書き手の視点が、内向きであることを示す表現だからです。



宮野さんの指摘で、
日頃「堂々とふるまうのは恥ずかしい」と思っている自分がいるのに気づいた。
その恥ずかしい気持ちがつい滲み出てくるのだと思った。

そう言えば、人に会っている場面で思いもしない形で褒めていただいときにも
「いえいえ」
「とんでもない」
「滅相もない!」
「そんなこと言わないで」・・・・
どんどん自虐的になるクセがある。
あとになって、その場でありがとうと言えばよかったと後悔するのだ。
文章だけではなさそうだ。
実際、謙虚を美徳として素直に喜べない人は多いと言われる。

この文章術レッスンでは、他にもいろいろ指摘をもらい、
このブログも少し体裁を変えたり、少々意識して書き始めるよう意識している。

私はだいぶ前から、
顔には生き方が表れる、滲み出ると主張しているけれど、顔だけじゃなかった。
文章にも、生き方が滲み出てしまうのだ。
日頃の生き方、姿勢というのは本当に侮れない。


参考
花と緑のフォトライター&文章アドバイザー 宮野真有さん


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2015年8月5日

会社の評価の仕方、今の時代に公平である必要があるのか?

働く者にとって、評価は気になるところ。
だって、給料にそのまま跳ね返るんだから当然のことです。
そこで問題になるのは、公平に評価されているかどうかということ。
少なくとも、私が会社員の時はそうでした。



どうしても気になる評価、公平でなくては・・・?!

やっぱり評価は気になる。
自分自身はもちろんのこと、高評価の人の評価を私自身が納得できるか、
部下に対してちゃんと説明できるか。
・・・・とても気になるところだった。

でもそれは、大前提として評価は公平でなくてはならない、と思っていたからだ。

だけど、テレビで語ってたサイボウズ社長の言葉には、驚かされた。
それは、

評価が、公平である必要なんてあるの?

ということを意味していたから 。

ダイバーシティ社会では、比較することがナンセンス

多種多様な人がいるから世の中はおもしろい。
いろんな人がいるからこそ、いろんな発想が出る。
年令、性別、国籍はもちろん、あらゆる多様性を受け入れる職場が、今、求められている。
その通りだと思うし、私もそうあればいいと心から望む。
だって今の時代、ダイバーシティがこれだけ叫ばれているのだもの。
でも・・・・

終身雇用があたりまえだった時代は、
みんな同じようなスーパーサラリーマンだった。
彼らは朝早くから働き、残業もし、家庭などそっちのけで働いた。
その時のお給料はほぼ横並び。年令に応じて上がっていく。

終身雇用が危うくなると、
能力評価、すなわち能力に応じたお給料が当たり前になっていった。
成果報酬と言われるけれど、その評価とは比較である。
どっちの方がよく働くか、優秀か、成績を上げるか・・・

比較できたのは、同じような人たちが同じような働き方をするからできたのだ。
それが今、多種多様な人たちが多種多様な働き方をしている。
比較するのが難しい。

労働市場における市場性を考える

そこで出てくるのが、「市場性」なのだという。
その人が、労働市場においていくらの価値があるのか、という考え方だ。
自分をいくらで売りたいのか?
会社はその人にいくら払うのか?

従業員は、会社の支払う金額に納得できなければ退社する。
従業員を納得させることができなければ、会社は大事な人材を失うことに
なるのだ。

そこには公平かどうかという視点はない。
あくまでも、個人対会社。
相対評価ではなく絶対評価だ。
給与テーブルなんかない。
人それぞれにいろいろな事情があり、いろいろな働き方があるので、
それを互いに理解し、納得できるよう、徹底的に話し合うのだと言う。
問題があれば、それについて対処していく。
会社も従業員もそこにはパワーが必要だろう。
でもそうしなければ、
その人に応じた働き方とお給料は実現しにくいのかもしれない。

考えてみれば、同じ一人の人間であっても、家族の状態やライフイベント、
その時その時で事情が変わり、いつも同じように働くのは難しい。
目いっぱい働く時期があったり、多少セーブしながら働く時期があったりしていい。
それに伴ってお給料が上下するのは、
「労働市場」という視点から見れば、当然と言えば当然の話だ。

だから必ずしもお給料が年齢に応じて、とは限らないのだ。

そう言えば、とても忙しくなって好きな仕事が嫌いになったと気がある。
会社が給与テーブルに基づいた成果報酬型の給与になったばかりの頃で、半期に一度上司ときっちり話をする目標管理の面接があった。
給与テーブルの下の方を希望して仕事量を減らしたいともし希望したら、それは叶うのかと聞いたら、「それはない。」と言われたことがあった。
成果報酬とはあくまでも一生懸命働くための制度で、その人なりに働き方をセーブするための成果報酬ではなかった。
なんかおかしいなあ、将来もしも親の介護とかでいまみたいに働けなくなったらどうなるのかなあ、と思ったことがある。

働き方が変われば評価の仕方も変わって当然

社員どうしを比較させるというのが相当難しくなってきます。
私たちが行き着いた答えとしては、公平じゃなくてもいいやと。
社員どうしを比較して給与テーブルに位置づけるみたいなことをやめようと。

・・・これは、「在宅勤務」が広がろうとする中で「評価」の難しさが挙げられ
出てきた話だった。
語ったのは、サイボウズの社長、青野慶久さん。

大事な人材を失わないためにも、働き方の選択肢の一つとして必要な「在宅勤務」。
どれだけちゃんと働いているのか。その働きぶりは非常に見えにくくなる。
その時、どうやって評価するのか?

その流れで出てきた言葉だったのだ。

でもそれを実現するためには、
1個1個個別に対応し、問題を一つづつクリアしていくことが大事で、
そこには青野慶久さんの丁寧な姿勢がうかがえる。
そして、雇用する側とされる側と、どちらももたれ合うことのない「大人な関係」であることが前提になっている。

公平に評価するなんて、そもそも無理がある。
なぜ評価が公平である必要があるのか?
そう考えれば、なるほど納得である。


私はどこか、固定観念に囚われていた。
それは、

評価は公平でなくてはならない。
不公平じゃないようにと、評価する側は努力しなくてはならない。

ということ。
かつての常識は今、必ずしも常識ではない。

時代が大きく変わっていく。
それに応じて、人の生き方・働き方も大きく変わっている。
固定観念に囚われていると、大きな誤りを犯しそうだと改めて感じる。
パラダイムシフトだ。


<参考>



2015年8月3日

進化するためには、「妬み」は大事な感情の一つだった。

自分では認めたくない、見たくない。イヤなイヤな感情・・・ね・た・み。
それが、大事な感情の一つだと言うのは、私にとってはホッとする新説です。

人のことを羨ましく思う気持ち

人のことを羨ましく思う。
なんで私はそうならないんだろう、そうできないんだろう、
あの人みたいに・・・とイジイジする。
そういうのってすごくみっともない。醜い。恥ずかしい。
ずっとそう思ってた。

だからそう思わないように思わないようにと、私は今まで意識してきたし、
努力もしてきた。
だけど、それでもどうにもならずにそういう気持ちがむくむく起き上がってきてしまうことがある。
妬みってヤツだ。
そうなると私は、なんで私だけこうなんだろう、イヤになっちゃうと思いながら、
人のことなんか気にしない、自分は自分なんだから!と
自分に言い聞かせながらも、それを人には悟られまいとする。
それでも、妬みなんかと無縁そうに見える人を羨み、やっぱりイジイジする。
最悪だ。


その気持ちは「妬み」。でも悪い事じゃないらしい。

だけどこの妬み、実は大事な感情の一つなのだという。
そして、妬みは誰もが抱く普通の感情で、
そういう感情を抱かない人などいないのだそうだ。

な〜んだ、みんなそうなのか。
なんで私ってこうなんだろう・・・と世紀も生きてきちゃったよ。

それを知っただけでも価値がある。

でも話はそれだけじゃない。
妬みは人を進化させる上で喜怒哀楽と同じように大事な感情だというのだから、
ちょっと嬉しくすらなる。

それを教えてくれたのは、7月29日の「あさイチ」(NHK)
なんと「妬み」が特集だったのだ。

それによると、今まで人は妬んで進化してきた。
もしも妬みがないと、人はよくなろうとするモチベーションが生まれない、
向上心が湧いてこない、というのだ。

最近の研究によれば、妬みを感じるとき脳の前部帯状回が反応するそうで、
その部分というのは、苦痛を感じそこから逃れようとする時に反応するらしい。
今、脳科学的にもいろいろなことがわかってきたという。


妬みと嫉妬、似ているけど違うもの

妬みと嫉妬、混同されやすいけど、実はちょっと違う。
妬みは、自分が持ってないけど欲しいと思うものがあるときに、それを持っている人を羨ましいと思うもの。
だけど嫉妬は自分が持っているものを奪われそうで取られたくないという気持ち。
嫉妬の方が欲深い(笑)。

どちらも敵意や被害者意識につながるというのだが、
それについて知人に話したら、「ひがみは?」と聞かれた。ムムム?!

ひがみって、妬みって同じ?別?

番組では「ひがみ」については触れられていなかったけれど、
そう聞いてきた知人とあれこれ考えてみた。

「妬み」は

あの人は○○なのに・・・

と他人に目が行くことに対して、
「ひがみ」は

どうせ私は・・・私なんて・・・

と自分に目が行くことと結論付けたが、さて、どうだろうか。


妬みには良性と悪性がある。


さてその妬みにも種類がある。
良性の妬みなら、羨ましく思う人についてそれがその人にふさわしいと思える。
でも悪性なら、その人がそうであること(それを持っていること)が 納得できない。
良性も悪性も本人の思い込みに変わりはないのだけれど、
どこに焦点を当てるかが違う。

悪性を良性にするための方法としては、

妬みの内容を自覚して自分は違うと思うこと、
真似をしないこと、
自分なりの目標を設定すること、

なのだそうで。

なるほど・・・
でもそう簡単にできれば世話ないんだけどね・・・

「妬み」を力に変える

番組の中では、
自分が羨ましく思う人を見に行って自分に火をつけた尾上松也さん(歌舞伎俳優)や、
羨ましく思う人を観察し自分と何が違うかを見て、それをそのまま自らの目標にしたわたなべぽんさん(漫画家)が紹介されていた。

あれ?!
それって、心が元気な時に無意識の中でやっていることがあるかも。
それを今度は意識してやってみると、イヤな「妬み」がパワーに変わる可能性がありそうだ。

人はどうしても怠け者。
自ら目標を設定しても、忙しくなると忘れがちだったり、先延ばししたり・・・・
仕事の〆切のように他人に設定された期限がないと、自分を鼓舞し続けることは大変だ。
妬む気持ちがあるからこそ、忘れない、やり続ける。
たしかに「妬み」は目標を持続させる力があるというのも、なるほど、うなづける。



<参考>
国立研究開発法人 放射線医学総合研究所
妬みや他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内のメカニズムが明らかに
―妬みに関する脳活動が強い人ほど“他人の不幸は蜜の味”と感じやすいことが脳科学的に証明された―
http://www.nirs.go.jp/information/press/2008/index.php?02_12.shtml