2012年11月19日

やりたいことなら、おもしろがれる

前回の記事で、元東京都知事だった石原さんの言葉を紹介したが、今日はさらにずっと昔の東京都知事だった方の言葉を紹介したい。

「仕事って、面白がってやっているやつにはかなわないんだよ」

これは、だいぶ前の東京都知事、青島幸雄さんの言葉だそうだ。
私が注目している、地域活性化のためのポータルサイト、Lactivatorの記事で紹介しているのをみつけた。

Lactivatorは地域活性化活動をする人たちの為に作成されたポータルサイトで、地域の名産品開発、イベント等を応援するために、ノウハウやアドバイスなど、わかりやすい記事が充実している。

その中で地域活性化活動がうまく行っているところとなかなかうまく行かないところと何が違うのか?について書かれている記事をみつけた。
・・・明らかな違いとして、「楽しんでいるかどうか」を、挙げているのが面白かった。
だから、青島さんの言葉につながるのだ。

でもこれは、地域活性化に限ることではない。

私は、ちょうど昨日、
「自分らしい働き方・生き方」を考える勉強会を開催したばかりで、
そのテーマは、「できること、やりたいこと、求められること」。

私は、誰もが自分に合った形で気持ちよく働くこと、気持ちよく生きて行くことを目指していこう、と強く思っているので、そのために「キャリア」というものを根っこから考え直し、各々が自分の自分らしさを今一度考えるため勉強会だった。
自分が本当にやりたいこと、自分の志向する方向に向かっているかを考えるときに、やりたいことにフォーカスしながら、今のスキルや求められていることを考えて行く、ことを提案している。

やりたいことであれば、面白がれる。
面白がっている人は、夢中になるし、ワクワクする。
そして、どんな人でもワクワクしている時の顔は、輝いている。
周りの人にも、そのワクワク感は伝染するものだし、例え一緒に面白がれなくても、周囲がつい応援したくなるのではないだろうか。

だから、働き方を考える上で、生きることを考える上で、まずやりたいことにフォーカスしていくのがいいと思うのだ。
もちろん、やりたいことだけをできるわけじゃない。
でもやりたい要素を探しながら、面白がれる要素を探しながら進んでいくことが、本人にとって心地よいはずだし、結果的に高パフォーマンスにつながって行くと、私は確信している。

2012年11月1日

石原さん「心ワクワクドキドキだよ」

石原都知事が、辞職した。
晴々とした顔で、楽団の演奏するロッキーのテーマに見送られていく映像がニュースになった。

私が新卒で会社に入った頃、会社の平均年齢は27歳。最高齢の社長も40代だったと思う。
部長も、課長も、今思えば若かった。
新米のヒヨッコだった私も、会社に長くいることで年を重ね、部長も課長も平社員もそれぞれ少しづつ昇格しながらも、社員は少しづつ高齢化していった。
入社2~3年の頃、アグレッシブで尊敬していた先輩社員が、10~20年という時の経過とともに、どんどん精彩を欠いていった。
そればかりか、後ろ向きな発言が少しづつ増えたように感じたし、打ち合わせをしていても、なかなか議論がかみ合わなかったり、陳腐なアイデアが出てきたように感じたこともあった。
それが、元々とても尊敬していた人、優秀だった人、アグレッシブだった人でも、そうなっていくのがときどき目についたのだ。

人は年を重ねると、そうなってしまうのだろうか・・・。
漠然と感じる、年を重ねることへの不安。
なぜそうなるのか。どうしたら、そうならないのか。
私にとっては、自分自身が年齢を重ねることへの恐怖にも近い感覚だった。

「勉強しないからだよ。」
年の近い先輩がそう言ったことがある。
時代を感じようと学ばないから、力が失せて行くのだろう、と。

サラリーマンの場合、ある程度の年齢を超えると、自分自身のポジション等、将来が見えてくる。
会社の中での自分自身の夢を抱けなくなってくることも影響してくるのかもしれない。
会社の先輩の中でも、力が失せない人だって存在したのだから、要は本人次第ということなのだろう。

石原都知事が辞任の時に、「寂しくないですか?」と聞かれたインタビューで、
「全然! 次の仕事に向けて、心ワクワクドキドキだよ。」と答えた。
今、80歳だ。

将来に向けて、心ワクワクドキドキ。
石原さんの好き嫌いは別にして、この感覚は素晴らしいと思う。
そして、今、80歳の石原さんがこう語ることは、それより年若の者に対する叱咤激励にも写る。

天皇陛下の心臓手術を執刀した天野篤さんは、
「心臓外科医はいつも新しいことに挑戦し、常に前進していなければならない。」と語っている(朝日新聞 10月27日)。

さあ、私は今、ちゃんと前進するか。
将来に向けてワクワクドキドキが続いているか。

いつの時代も、本来、年長者は年若の目標であってほしい。
年長者の生き方を見ることで、○年後の自分をイメージしやすいから。
80歳の石原さんの言葉は、70代はもちろん、それ以下の人の力になる。


私自身も、できることなら私より年下の人から、「目標だ」と言われるように生きて行きたいものだと思う。
もちろん、私よりもはるかに優秀な人は年下にいくらだっているのは百も承知の事実だけれども、それが仕事とは限らず何かの部分で、例えば暮らし方、遊び方、どんなことであっていい。
そうありたいものである。

2012年10月22日

コミュニケーションの土台、「らしさ」を明確にするために

私のそもそもの専門は広告・PRで、実際に仕事をしているのは、広告やPRのアドバイスやコーディネートである。
その私が通常持ち歩いている名刺の肩書きは、「コミュニケーション・スペシャリスト」。
でもほとんどの人に、その中身をご理解いただくことはない。
私自身も、もう少しわかりやすくお伝えした方がいいなあとは思うのだが、そのままになっている。

一般の方にはわかりにくいかもしれないが、広告やPRの活動をまとめて、「コミュニケーション」という。
日本で「コミュニケーション」というと、お話の仕方という狭い分野で理解されがちだ。
しかし本来、メッセージを伝える、メッセージを受け取る、これが「コミュニケーション」なので、広告はまさしく企業や商品についてのメッセージを送ること、すなわちコミュニケーションである。


でも私は、広告・PR活動と並行して、個人のコミュニケーションについても注目している。
特に、コミュニケーションの土台になるはずのその人らしさに注目しているのだ。
なぜなら、「その人らしさ」が、働き方や生き方に大きく影響し、それが結果的にパフォーマンス発揮にも大きく影響するからだ。
この「らしさ」というものが確立されていないと、本来、コミュニケーションがきちんととれないはずだと、私は考えている。

これは個人も企業も同じ。
うわべだけ整えたところで、土台(企業なら理念、個人なら生き方)がしっかりしていなければ、場当たり的なコミュニケーションになり、周りに影響力を与えることなどできないだろうと思う。
そんな背景から昨年から不定期で開催しているのが、個人の生き方・働き方を共に考える「自分らしさ」発見勉強会シリーズ。
今年8月には、男女不問の勉強会と、女子限定勉強会とを、集中的に開催した。
好評だったものの平日夜開催だったため、女性の方から休日昼間の追加開催の要望が寄せられていた。

そこで、このたび、休日昼間開催を行います。

8月に開催した勉強会卒業生、ノマド料理人・今野翔子さんとの初コラボ開催です。


自分の将来が不安な人集まれ!
「自分らしさ発見 女の仕事や人生を考えるための勉強会」
~冬の寒さから体を守るための薬膳ランチつき~

 【日 時】 11月18日(日)11:00~15:00
 【場 所】 東京都千代田区内の調理設備付き会議室(詳細の場所は、お申込み者に直接連絡します) 
 【講 師】 ナビゲーター 石崎公子
        薬膳料理   今野翔子
 【参加費】 ¥3,500。
 【お問合せ・お申込み】 こちらからお願いします。  
 ※資料のご用意があるので、事前にお申込みがないと参加できません。
 ※勉強会のみの参加、食事会のみの参加をご希望の方は、ご相談に応じます(参加費は変わりません)。

2012年10月18日

仕事上のコミュニケーションも、情報整理に加えて自分らしさが。


仕事上のコミュニケーションに関する悩みで、最も多いのが「思っていることをうまく伝えられないこと」(55%)だという記事をフェイスブック(以下FB)で目にした。

上司に報告をすると、「で、結局何がいいたいの?」と言われてしまう、という事例が挙がったと言う。
この記事を読んだ時、私はとてもわかる気がした。
なぜなら、自分自身が若い世代にそれに類することをしばしば言っていたからである。

この8月、私は自分らしい働き方をしているかを考える勉強会を集中的に開催した。
この勉強会は、昨年からスタートしたものだったが、その最初のきっかけは、「上司に自分の提案や考え方をうまく伝えられない。説得できない。」という悩みから、自分自身の働き方を改めて考える必要性がある、と考え始めた友人の存在だった。
この友人は当時、「上司に提案をしているつもりが、話しているうちに自分自身が何を言っているかわからなくなり、上司に意図が伝えられないことがよくある。」と言っていた。自分の考えをちゃんと伝えられず、本人から見れば上司の理不尽な要求に常時疑問を抱いているものだから、相互の意思疎通がうまくいかず、結果的に自分の評価が著しく下げられてしまう。この現実に悶々とした日々を過ごしていたのだ。

この調査自体はまったく新しいものではなかったが、果たして今はどうなっているのだろうか?
デジタル化やSNSの普及などで、リアルなコミュニケーションが薄くなっていく今の時代、おそらくもっともっと、そう感じている人が増えているのではないかと気になるところだ。
さらに、思っていることをうまく伝えるためにも、あふれる情報をどう整理するか、という訓練が不足している面はないだろうか。気持ちや思いが先行するあまり、他者に理解しやすいように順序立てて整理できていないことはないか。コピペ文化が一般化し、いろいろ情報を並べる中で、取捨選択をしないままアウトプットしてきたツケとも言える。

まず自分自身が何を言いたいのか、情報を整理すること。
その上で、カッコよく話そうとか、理路整然と話そう、とか思わず、自分の言葉で話すこと。
私はこれに尽きると思っている。
世の中にはプレゼンテーションテクニックの情報が溢れ、カッコよく話そうとして変な無理が生じているように思う。その結果、結局何が言いたいのかが見えず、何も伝わらなくなるのだ。
口下手でも誠意が伝われば、ちゃんと意思は伝わる。
提案もできるし、説得もできる。
口のうまい人ほど、信用を得にくい場合もある。

本人の中で情報整理ができていれば、という前提つきだが、結局のところ、コミュニケーションは人間関係、信頼関係。
相互で信頼関係ができていなければ、「聞く耳」にフタをして(されて)しまう。
つまり、人間同士のつきあいという、とても生臭いところに行きついてしまうように思うのだ。
だからこそ、自分の日々の生き方・姿勢など人間性に関わる根源的な部分が、問われているように思う。
その上で、自分の強みや個性を生かしたコミュニケーションの取り方が、重要になってくると思う。

2012年10月1日

「お年寄りの顔を輝かせたい」 高齢者アートの発表会

右側のサイドバーでも下の方でも紹介しているが、私が提供している新サービスの一つに、「大人の発表会」がある。

「大人の発表会」とは、自分の趣味などを披露する(=人に見てもらう)こと。
子どもの頃にワクワクドキドキした学芸会やピアノの発表会。
学生時代の文化祭。
誰もがきっと経験したことがあるだろう。
その準備と当日は、充実感たっぷりで夢中になったに違いない。
大人になって、家族ができたり、仕事が忙しくなったりして、そういうことは忘れがちになり、遠くに置き去りにしてきた人も、“いい大人”になった今こそ、大人ならではの披露する場や自慢する場を作り上げてみよう!と提案し、その会場探しやプロデュースを行っているのだ。

「大人の発表会」のネタは、大人になってから始めた趣味、若い頃からずっと続けてきていること、ひたすら集め続けてきたコレクションなど、なんでもありだ。
発表会自体が面白いことはもちろんだが、人に見てもらう場を作ることで、旧交を温めながら楽しいお酒が飲めたり、疎遠な人との再会が実現したり、家族や親戚などを集めてファミリーの絆を再確認できたり、と副次効果も捨てがたいものがある。
これは個人個人の幸せにつながるものと思い、私はこれを普及させたいと考えて始めたのだ。

この「大人の発表会」で、9月10日~11日、東京・池袋でアートの作品展を開催した。
とは言うものの、この作品展は趣味の披露ではない。
発表者がライフワークとして開発に取り組んできたアートの披露。
趣味を披露する、という元々の「大人の発表会」主旨からは少しはずれるものだったが、お年寄りの幸せにつながる作品展だったので、やはり「大人の発表会」だ。

高齢化社会は今に始まったことではなく、社会問題としてどんどん深刻化している。
この作品展開催に当たっての背景は、考えさせられることが多いので、少し紹介したい。

発表者は、看護職として介護現場での15年の経験がある長瀬教子さん。
デイサービスや老人ホームなど、要支援・要介護のお年寄りが通う(または居住する)施設に働く職員にとって、お年寄りにどのように時間を過ごしてもらうかは大きなテーマだという。
子どものようなぬり絵や工作、脳トレと称した簡単な計算問題などが提供されることで、お年寄りの尊厳を損なうこともしばしばだそうだ。

お年寄りの「子どもじみていてイヤだ」「こんなことはやりたくない」という声。
一ついいことを取り入れたとしても、同じことの繰り返しはできず、さて次はどうしよう?と、職員にとっては常に精神的に追われている。
限られたコストの中で、いかに気持ちよく過ごしてもらうか。介護に関するスキルはあっても、お年寄りにイキイキ過ごしてもらうためのスキルは、職員個人にゆだねられがちで、現実は厳しい。
誰にでもできるような均一な手作業への不満が、意欲低下や認知症につながっていく様子を、間近で見ている職員の苦悩は大きいそうだ。

そういう中で長瀬さんが注目したのは、不用品を活用するアート。
それも出来栄えが上質で実用的なもので、種類が無限大なのでネタ切れせず、お年寄りも職員も飽きることがないもの。
しかも要支援や要介護のお年寄りでもできるようなものを、オリジナルアクティビティとして長瀬さんが開発し、自ら勤務する施設で取り入れたのだ。
その結果、そのアートにイキイキと取り組むお年寄りが増え、お年寄りの顔が輝くようになり、それ自体がハリとなっていくようになったことから、少しづつ近隣施設(埼玉県内)にも導入されるようになった。



そこで、自らが開発したアートの多様性や、種類の豊富さを一堂に見せる場を設け、より多くの人に見てもらいたいが、どうやって進めようか?と考えていた時に「大人の発表会」と出会った。それから都内での作品展開催を考え始め、「大人の発表会」として協力させていただくことになったのだ。

開催直前には、新聞にも記事が掲載された。

作品展を開催したところ、おいでになった方は、とても熱心だった。
説明を聞いたり、作り方や材料セットを買い求めたり、さらに学びたいという人も出てきた。
現場の職員が抱える悩みを、施設の経営層はどこまで知っているだろうか?

この作品展の様子は、「大人の発表会」サイトでも写真とともに掲載しているので、介護関係に関わる方々にはぜひ知っていただければと思う。


付記1)
10月16日、日本経済新聞(夕刊)で、掲載されました。



付記2)
11月10日、日本シルバー産業新聞にてカラーで掲載されました。



2012年8月16日

今月は、「自分らしさ 発見」勉強会 開催月間

私が今、目指していることは、「大人のイキイキワクワクをプロデュースすること」。
もっとイキイキ、もっとワクワク。
元気な大人増殖を目指したい。
大人の元気をプロデュースしたい。


そのために核となるのは、誰もが自分らしく生きて行くことだと、私は考えている。
私自身、20年以上も勤務してきた大好きだった会社を辞めてからの時間は、私にとって「自分らしい生き方」とはどういうものなのかを探す時間でもあった。
仕事が好きな私は、「自分らしい生き方」を考えることは、自分らしい働き方を考えることを抜きには語れないことでもあった。

どういう風に働きたいかは、どういう風に生きたいかに通じることでもある。
そういう観点から、キャリアを考える勉強会を初めて私が主催したのは去年の12月で、その後、何回か開催するようになった。
参加者の方から喜ばれることも多く、新たに私が気づいたこと、学んだことも多かった。

そこで、世の中が少しのんびりお休みモードに入る8月のこの時期、
以前のコンテンツをさらにブラッシュアップさせ、「自分らしさ 発見」のための勉強会を、現在集中的に開催している。

この勉強会開催は、
「もっとイキイキ、もっとワクワク。
 元気な大人増殖を目指したい。」
という、私の思いを具現化している一つの形でもある。

今回初めて、参加者を女子限定にした勉強会も合わせて開催することにした。
幼少の頃から「男の子でしょ」「女の子でしょ」と言われながら育つ中で、人は無意識に価値観を植え付けられて成長してくるからだ。
その価値観は十人十色。
特に女性は、人によって価値観の幅が広いように思う。
その価値観が仕事面でも大きく影響してくると思うし、人生の節目節目で、女ならではの課題との狭間で悩む女性は少なくないので、敢えて女子限定クラスを設けて開催中なのだ。

暴力的なまでの暑さが続くこの時期だが、毎回参加者からの温かい言葉に支えながら、
勉強会もそろそろ中盤である。
自分のことをきちんと理解できれば、人はもっとイキイキ生きて行きけるはずだ。


自分らしさ発見 勉強会 
~働き方や起業ネタを発見するために~ 

●セクション-1 テーマ「できることと求められること」 
 8月2日(木)19:30~21:30 (※受付は19:00~) 

●セクション-2 テーマ「スキルの棚卸しと他人から見た自分」 
 8月16日(木)19:30~21:30 (※受付は19:00~) 

●セクション-3 テーマ「キャリアラインと目標設定」 
 8月24日(金)19:30~21:30 (※受付は19:00~) 


<女子限定>
オンナのための自分らしさ発見 
女の仕事や人生を考える勉強会 
~もっと気持ちよく、もっと楽しく生きるために~

●セクション-1 テーマ「可能性を広げる三つの視点」 
 8月9日(木)19:30~21:30(受付は19:00~) 

●セクション-2 テーマ「自分から見た自分、他人から見た自分」 
 8月20日(月)19:30~21:30 (※受付は19:00~) 

●セクション-3 テーマ「ライフラインと目指す方向」 
 8月31日(金)19:30~21:30 (※受付は19:00~) 


2012年8月1日

想続塾でお話ししました

「遺影」についてお話させていただく機会を得た。
相続には財産の相続と心の相続がある、という考え方を提唱している一般社団法人日本想続協会が毎月開催している勉強会、想続塾でのことだ。


塾長は相続を専門にする税理士、内田麻由子さん。


想続塾では、通常は争続にならないようにするための相続ノウハウを中心に、
保険の専門家、遺言の専門家、葬祭の専門家を講師に招いて勉強している。
今回担当する私は、「遺影」についてはあれこれとブログで書いてきたが、
相続はもちろん、終末の見識は浅いし、異色な存在だ。
ありがたい機会ではあるものの、お話をするまでは参加者に満足してもらえるかどうかは、内心不安でもあった。

でもお話してみて、改めていい機会をいただいたと感謝している。


「遺影」は、相続や遺言と同じように、なかなか前もって用意する人は多くない。
むしろ圧倒的に少数派だ。
相続や遺言は、必要性を感じながらも用意しない人が多いのに対して、「遺影」はそもそも必要性に気づかない人が多い。
だからますます用意しないことになるのだ。
いざ遺影が必要になる時は、時間的にも気持ちの上でも余裕がない時である。
家族の負担は大きい。
なんでこんな写真を遺影にしたのだろう?と思ってしまうような葬儀に出席することもある。
だから事前に~というのはもちろんなのだが、それ以上に私が思うのは、遺影は残された人たちへのメッセージになること。
さらに顔には生き様が表れるから、自分の顔を写真という形で客観的に見ることで自分の生き様を確認できる。----これが私のお伝えしたかったことだ。
塾終了後には、いい遺影を用意したいという感想を多くいただいたので、改めてお話できてよかったと思った。


今、手がけていることの一つに、i-face というサービスがある。
私は、「遺影」をきっかけに、人の「いい顔」にこだわり、ブログ「遺影について思うこと~自分らしく生きるために~」を書いてきた。その流れで、その人らしい「いい顔」を撮影するサービス、i-faceを始めたのだ。
i-faceとは、私らしい顔、いい顔、愛のある顔、目(eye)ヂカラのある顔。
私が理想と考える遺影は、そういう顔だ。
そういう遺影なら、遺された人の悲しみを、少しだけ和らげるかもしれないと
私は思う。
そして、今の自分はどういう顔かを確認することは、生き方の定期検診にもなると
思うのだ。
だから、年齢に関係なく定期的に、「遺影にしてもいいくらいの自分の顔」を撮影することをオススメしたい。そういう提案を、折りに触れてしていきたいと考えている。

2012年6月26日

ワクワクできる国


6月20日の朝日新聞に「リオのスラム 民宿次々」という記事が掲載されていた。

私が大好きな都市、リオ・デジャネイロ。
なぜリオが好きかと言えば、まず音楽。サンバ、ボサノバ、ショーロ、MPB・・・などのブラジル音楽と出会って以来、その心地よさに飽きることはない。それにダンス。ブラジルのダンス、サンバ・ジ・ガフィエイラをはじめとしペアダンスに出逢ったのは、5年少し前のことで、その楽しさにハマり、今でも週に1~2回は踊っている。

今から5年前に一度だけリオに行ったことがある。
既に退社を決めていた会社員時代の最後の夏休みだった。

リオを旅行中、海岸で80歳前後と思しき女性が散歩しているのを見かけた。
オシャレして綺麗にお化粧をして車いすに乗って、60歳前後の人に押してもらっていた。
突然、その女性が大きな声を上げて遠くを見ながら手を振った。
視線の先には、同年輩と思われる女性がその声に答えて大きく手を振り返し、ゆっくりこちらに向かって歩いてきた。
そして二人が出会った時に、大きな声で笑いあって何かを喋りながらハグをしたのを目にしたのだ。
それはリオの日常のようで、特に誰が注目する風景というわけではなさそうだった。

こんな風景、日本で見られるだろうか?
どんなに年を重ねても、オシャレして出かけて、こうして大きな声で手を振り合い、大声で笑いあい・・・。
それを見て、私はすっかりリオの町が好きになったのだ。
私も数十年後に、こんな老婆になりたい、と思った。

町を歩いていて、他にも嬉しくなるような人の光景をいくつも見てきた。
路線バスの中では運転手が自分の好みの音楽をかけ、乗客がそれに合わせてみんなで大合唱したり、
町のあちこちでストリートミュージシャンが音楽を演奏するのに合わせて、通りすがりの人が踊ったり、
街じゅうが知らない人同士でもサッカーに狂喜したり・・・。
なんて楽しい街だろうと思った。

そんな素敵な場所ではあったものの、当時ブラジルの治安の悪さは評判で、特にリオは悪いと言われていた。
脅されたら抵抗せずに持ち金を差し出すようにと注意を受けていたが、その最も危ないエリアがファベーラだと言われていた。
ファベーラ・・・いわゆるスラム街だ。山の斜面に張り付くように家が建ち並び、電気は盗電。麻薬などの密売に関わる人も多く、
貧しさゆえの犯罪が多いと聞いていた。
「ファベーラには立ち入らないこと」---ブラジル観光の鉄則だったように記憶している。
そのファベーラに、今、民宿が続々とできているという記事だったのだ。
そう言えば、そのファベーラの脇を、巨大キリスト像のあるコルコバードの丘に向かうモノレールが通っていて、観光客はそこからファベーラを眺めることができた。
予想に反して、そこから見えるファベーラの家の中は豪華そうに見えた。
BRICSが言われ始めた頃だったが、経済発展の影響は、もうその頃から出始めていたのかもしれない。

私が憧れた老婆のような人たちは、今もリオを散歩していることだろう。
陽気な人たちは、今も踊っているだろうか。

そういう国民性・文化がそのままで、ファベーラなど闇の部分が今、経済発展のおかげで綺麗になって行っているのだとしたら、本当にすばらしいことだと思う。
日本も、もっと楽しくてワクワクできる国になればいいのに、と思う。
日本人の国民性は、思慮深く謙虚でシャイだけれど、そういうワクワクするようなことに寄与できるような新しい産業が、新たに生まれることで経済が発展していけば、日本はもっと明るく元気になれるのに。私はそういう仕事がしたいと思う。

2012年6月13日

機会ロス

私は、日常的にどうもバタバタしていることが多い。
仕事も忙しいし、趣味も楽しみたいし、遊びたいし、友達とのおしゃべりも楽しみたい。
家庭のこともあまりおろそかにしたくない。
現実はそんなことは不可能でどれも中途半端になってしまうのだが・・・

そんなこともあって、目的のないショッピングに出かけることは稀だ。
普段からショッピングに時間をかけることもあまりなく、結果的に衝動買いが多くなる。

そんな私でもショッピングは楽しい。
ウインドウショッピングであったとしても、だ。
仕事の途中などでも、ちょっと時間が空くとファッションビルやデパートにフラッと立ち寄ることがある。
先日、仕事中にデパートに立ち寄った際に、気になる商品をみつけた。

特設コーナーで展示されていた商品だった。
安価な素材のものだったので価格的にも買いやすい価格、そこで初めて見たブランドで色や形をもう少しじっくり見たいと思ったが、時間があまりなかったことに加えて、店員さんが声をかけてきたので、結局それ以上見ることなくその場を離れることになった。
帰宅後、その商品について気になってきた。
ネットで調べ、やはりあの場ですぐに買えばよかったと後悔し始めた。ネットでも買えそうではあったが、実物を見ながら選びたいと思った。
その商品が身につけるものだったので、実際に身につけた感じ、色や大きさなどのバランスや重量感など、確認したかったのだ。
3日後、実物を再確認した上で買おうと決めて、時間をやりくりしてデパートに出かけた。
すぐその場で買わない場合は、そのままになることが多い私としては、とても珍しいことだ。
ところが、その商品があったはずの売場には、全く別の商品が並んでいた。
聞いてみたら、「昨日までの期間限定商品でした。」と言う。
残念だった。力が抜けるほどがっかりした。
ネットで探せば買えないこともないけど、身につけた感じや感覚的なことはなかなかつかめないだろうと思った。
今後、実物を見られる売場があるのかもわからない。

機会ロスというのは、こういうことを言うのだ。
デパート側から見たら、これこそが機会ロスだ。
言葉は丁寧に説明してはくれたものの、要は販売していないわけで、メーカーにとっても機会ロスだ。

どんなに丁寧に説明されたとしても、 客にとっては、ほしかったものが手に入らない・・・これが結果だ。
その店で販売終了は仕方がない。例えば売り切れも仕方がない。
でも、「ではどうしたらいいのか?」という道筋が何かしら示されればよかったのかもしれない。
例えば、そのメーカーの名前や連絡先の案内、よく似た商品の売り場案内、など。

いやいや、その場で手に入らなければ、そんな案内をされても残念な気持ちがおさまることはないだろうか・・・。
消費者心理としては、どうだろう。
私は、紙1枚でもいいから、その商品のメーカー連絡先(URLなど)がわかるような資料を手渡すことができれば、その商品はもちろん、期間限定販売していたデパートへの信頼感も向上したのではないかと、残念に思った。


2012年6月6日

視点、受け止め方、考え方を変える

人生は山あり谷あり。
誰だって、いい時もあれば悪い時もある。 

電車中吊り広告で、5月21日発売のAERAの「“「第1志望」落ちたから今がある」の見出しを見た時、私はとてもそそられた。
振り返ってみると、私も第一志には進めなかった経験が多く、その昔、母は私のことを「あなたは運が悪い」と同情していた。 中学受験で第一志望がかなず、大学受験で第一志望がかなわず、就職で第一志望がかなわず・・・。
実際には運ではなく実力の要因が大きくかなわなかったのだが、結果的にはそれがかえってうまく転んでいることが多いような気がする。つまり第一志望に落ちた運のよさとでも言えるかもしれない。 そのおかげで今がある、と今、しみじみ思っている。
特に受験や就職などは、まだ自分の志向や方向性がわかりもしないのに、間違った思い込みで設定した第一志望を設定するケースもあるのだろう。
私自身のその後の人生から見れば、第一志望ではなかった環境に身をおくことで得られたことは、とても大きかったように思う。
第一志望失敗経験者としてAERAに掲載されている人は、ノーベル化学賞受賞者の田中耕一さんや、ベンチャー企業育成や投資を行うKlab Venturesの長野社長など、私などとは比較するのも恐れ多いことではあるが、ちょっとした考え方や受け止め方と、その後の意識で変わって行くことがあることを教えてくれた。

時期を同じくして、ブランドコンサルタントの水野与志朗さんのメルマガ記事でも、ハッとすることが書かれていた。
美大出身でプロダクト・デザイナーとして活躍していたご友人が事故で怪我をし、絵も描けなくなったご友人が、その事故を契機に、経営や、安全に働ける環境、労使関係に関心を持ち、今、労使協調をしながら経営について話す場でイキイキと活躍されているという。 
悪いこと、悲しいこと、残念なことが、人生にしばしば訪れるのは、なかなか避けようはない。 けれど、それを生かすも殺すも本人の視点次第だと、改めて気づかせてくれた。 
6月2日の朝日新聞土曜版beでは、アメリカで成功したソース王、吉田潤喜さんの言葉「運命っておもろな。視力を失わなければ米国に来ることも、必死になってがんばることもなかった。後から考えると全部ラッキー、全部感謝や。」を掲載していた。
つい先日、還暦直前の女性と、打ち合わせの機会があった。
彼女は、去年念願の起業を果たし、社会のために自身が開発したアクティビティを、これから広めていこうと考えている。
いよいよこれからというこの時期に、彼女自身に健康的な不安要素がいくつか出てきて、これから検査だというが、近々に講演依頼も入っている。
まずはせっかくの仕事のチャンスだから講演はきちんと対応し、検査はその後になるよう予約したという。そして、
「検査前の不安を経験することができた。イメージと経験は大違い。これがきっと何かに生きるでしょう。検査の結果はどうなるかわからないけど、もし病気がみつかれば病気の人の気持ちがわかる。」
と語り、私は心底驚かされた。 

本人の視点、受け止め方、考え方・・・ そして、それをどう未来に生かしていくか。 簡単なことではないが、これができると、仕事も人生も、ぐっと輝いていくに違いない。常にこうありたいものである。

2012年5月24日

中高年の起業意識、アメリカの調査から考えた日本人の意識

前回、60歳以上の人の本音は、実は仕事をしたいが環境的に難しい、という人が多数派だと私は思い込んでいたのだが、実際は、仕事をしていない人の半分以上は、仕事をしたくないという調査結果があり、私としては、小さな驚きを覚えたことを書いた

でも、アメリカの事情は少し違うようだ。 アメリカでは、55歳以上の起業活動が活発だという。
2010年の新しい起業家の23%は55歳から64歳の年齢層だ。1996年には15%であったことから、 高齢の起業家が増加しているのがわかる。
その記事によれば、年齢を重ねてきたことで、間違いを含めて多くの経験をしてきたこと、 専門知識が蓄積されていること、そして資金があること、等が、 高齢者の起業メリットとして上げられているのだ。 多くの人は新しいことに挑戦することに対して意欲が高いと伝えている。 
日本の60歳以上がそこまで積極的だとはイメージしてはいなかったものの、 私は、日本も多少はそういう傾向があるのかな、と思いこんでいたのだ。
 今まで日本経済を引っ張ってきた人たちは、内心、それまでの仕事がつまらなかったのか。 仕事を卒業した60歳以上には、仕事なんかよりも、他にやりたい明確なことがあるのか。 
私だって、多少はくたびれているし、仕事以外にやりたいこともある。 でも、それだけではなく仕事だってしたい。 仕事を通じて、多少は世の中や人の役に立てることもありそうだし、 仕事で充実感を得られることもある。 
多くの日本人は、すっかりくたびれてしまったのではないだろうか。。。。 私にはなんとなくそう思えて、ちょっと寂しい。ほどほどでいいと言う若い人が増え、中高年もくたびれている人がもしも多いのだとしたら、今のグローバル時代と言われる世の中、なかなか厳しいのでは?と思ってしまう。

データで見る限り、働きたくないから仕事をしない、というのは、全体から見れば2~3割程度なので、そう憂慮するほどのことではないのかもしれない。 実際、私の周りの中高年女性は意外と元気だ。多数派ではないものの、起業熱の高い女性は少なくない。 日本の60歳以上だって結構すごいよ・・・そんな姿を確認したいのは、誰よりもこの私なのかもしれない。 素敵な先輩諸姉を目指したいと願うから。

2012年5月14日

中高年の「働きたい」「働きたくない」、私のイメージとは少し違う

厚生労働省の中高年齢者に対する継続的な調査「中高年者縦断調査(中高年者の生活に関する継続調査)」の第6回調査結果(2012年2月発表)によれば、60~64歳の高齢者のうち、仕事をしていない人は4割近く。
その理由としては「仕事をしたくない」がもっとも多く、半分以上を占める。
そして、「仕事をしたい・準備中」は、1割強。
そんなものか・・・が、私の感想だった。
私自身のことを考えてみると、後進に道を譲ってだんだんとフェイドアウトしていく定年という会社のルールは、どうも自分に馴染まない気がしていた。
後進にはどんどん道を譲りたいが、それは新しい道をどんどん開拓したいからに他ならない。
ルールというフェイドアウトではなく、終わり方や終わる時期は自分で決めたいと思っていた。
だから、定年よりもずっと早くに、「退職」という道を選び、いろいろなことを始めたいと思ったのだ。
そんなわけで、60歳以上の人の本音は、実は仕事をしたいが環境的に難しい、という人が多数派だと、私は思い込んでいたのだ。

もう少し読み進めると、
女性は「仕事をしていない人」の7割が「したくないからしていない」。
男性とは13.6ポイントもの差がある。
そもそも60代の女性は、男性より仕事をしている率は低く、
「仕事をしたくないが、(仕方ないので)仕事をしている」人の比率も低いという。
ここで言う「仕事」には家事は含まれないので、彼女たちは「家事に専念したい」、もしくは「もう十分家事も含めて働いたから、これからはゆっくりしたい。」ということのようだ。

考えてみれば、この世代はクロワッサン症候群の直前、少し先輩の女性たちだ。
女性の仕事と言えば、勤め人の場合は、まだ公務員と教師以外はなかなか自己実現しにくく厳しい時代だったのかもしれない。
元々そういう経験者でもない限りは、自己実現的な仕事のイメージが描きにくいことも想像できる。
環境問題などで、ボランティアや社会貢献意識が高い女性は少なくないが、
ペイを得るものではないので仕事ではなく、仕事イメージが膨らみにくいのだろう。

特に女性の仕事の場合は、その人の生きた時代によって環境が大きく変わるため、意識やイメージはぐっと変わるのかもしれない。

60代の仕事、「働くこと」について、次回も書いてみようと思う。

2012年5月7日

PRを改めて考える

PRは、広告とは明らかに違う効果や価値がある。
ネタによって、タイミングによって、広告のようなコストをかけずに、予想以上の大きな効果を上げることがある。
だから、広告やPRを生業としてきた私としては、PRを仕掛ける場合はPRの反響後の受け皿の準備の必要性を同時に説いてきた。
PRがうまくいった場合の反響は、とてつもなく大きいことがあるからだ。
そうでないと、機会ロスになるばかりか、信用は信頼を一瞬にして失う可能性すらあるからだ。

大企業であれば、人員も豊富だし関係部署も関係各社も多いので、反響が大きかった時にはすぐに手を打つことができるため、反響を心配するよりもいかに大きな反響を獲得することが何よりも重要なことになるだろう。
けれども、信用第一の小さな企業にとっては、大きな反響は命取りになりかねない。
大きな反響が出て体制整備が間に合わずに信用を失ったり、機会ロスを回避するために体制整備の投資をした後に反響が落ちたり、対応が悪くなったことでそれまでの大事な得意先が逃げたり・・・・、さまざまなリスクがあるからだ。
ネタやタイミングによっては、PR効果は瞬間風速的な作用にしかなり得ないことがあるのだ。
事前にしっかり体制整備を、受け皿作りを、と言うのは簡単だが、PRは広告と違って必ず露出されるものではなく予想以上に反響が低いこともあるわけで、小さな企業にとっては難しいところだ。
その企業にとって、そのPRが将来的にも効果的であるかどうか、そのPRによって価値を得るであろうお客様(ユーザー)に今も将来も不満を与えてしまうことがないかどうか、というところが大事な視点になると思う。

だからPRは、身の丈にあったやり方でやらなくてはいけないと思う。
どうも、爆発的にマスメディアに紹介されることが最良とされる傾向があるが、それが必ずしも正解とは言えないと思うのだ。
特に中小企業は、PR活動を始めると大々的に露出されることを望む声が強いが、瞬間風速的なPR効果の場合は要注意だ。
知名度アップは期待できるが、それ以外の大事なものを失っては元も子もない。
PRを活動をするのならば、企業にとっても、顧客にとっても、満足度の高いPR活動であってほしい。
PR関係や広告業界側から見れば、露出が多ければ成功、露出が多すぎるPRを心配するなんてあり得ない、笑われるような話かもしれないが、やはりPR効果はうまく使わなければならないと私は思うのだ。
小さな企業は、身の丈に合ったPR活動をじわじわと行いながら、少しづつ話題性を高め、企業側は並行して足腰を強くしながら体制強化を図り、信頼を高めていく。

・・・そういう地道な成長を、私自身もしたいと思うし、クライアントにもそうあってほしいと私は思うのだが、スピードが重視される今の時代、そんなのんきなことを言っていては時代に取り残されてしまうのだろうか。

2012年4月20日

この人と仕事がしたい

5年近く前に辞めた会社員時代にお世話になったお取引先の方(女性)から、仕事の相談でメールをいただいた。
実際に仕事で懇意にしていたのは、退職する2年前だったが、退職時にご挨拶をしていてそれ以来のことだ。だからお目にかかるのも、ほぼ5年ぶりになる。
久しぶりにこうして思い出してもらい、ご連絡をいただくというのはありがたく嬉しいことだ。
彼女は当初から多忙な立場であるにも関わらず、いつも物腰が柔らかく丁寧な応対で、しかも優秀だったので、私の方も嬉しさ倍増で、ご相談いただいたことのお答えを兼ねてお会いすることになった。

彼女は、当時ベンチャーからどんどん急成長中だった企業の広報に所属していたのだが、今では大企業となった企業ブランドを管理推進する仕事をしていた。
入れ替わりの激しい業界でご苦労も多そうに見受けられたが、「今までの自分の周りの人はいい人ばかりで、人間関係にとても恵まれてきた。」とニコニコしながら話す様子は魅力的だった。

その彼女との話で、印象的だったことがある。
「この人と仕事をしたい」と思って仕事が始まることが多いというのだ。
特に女性はそういうことが多いのでは?とおっしゃった。
「この人と仕事がしたい」と思って、新しい仕事をつくったり、考えたりすることは、現実社会によくあることかもしれない。

「この人と仕事がしたい」
そんな気持ちで仕事が始まれば、お互いに気持ちよく仕事ができる。仕事の質も上がることだろう。
仕事人は、そう言われるようになりたいものである。
「この会社が好き、好きな会社のものが欲しい」これを世の中ではブランドというのだが、人も同じだ。
企業ブランドを管理推進立場の彼女から、そういうパーソナルブランドを構築し続けることの重要性を、改めて教えられた再会だった。

2012年4月14日

言葉を知らなければ意思疎通は図れない

私が関わる小さな会社でのことだ。
外回りをする営業マン、24歳。東京の有名私大を卒業し、新卒で入社した2年め男子で、素直で前向き、スポーツマンでもある。
その彼が、一人で大事な取引先のトップとの商談に臨むところまでにこぎつけた。
今までなかなか営業がうまくいかなかった彼にとってはそれだけでも快挙だが、せっかくのチャンスなので、価値ある商談にするための念入りな準備を進めた。
私も、彼の相談に乗ったり、商談リハーサルとも言えるロープレにつきあうなど協力し、当日を迎えたのである。
商談に臨んだのは彼一人なので、その場がどんな雰囲気で、どんな風に話が展開されたのかは彼にしかわからない。
後日聞いた彼の話によれば、商談後に取引銀行の話題が出たようで、商談相手はその銀行の頭取と所縁があることからそれに関連した話題になったという。
その話を聞いていたところ、彼は「頭取」の意味をわかっていなかったことに気づいた。彼は、「トウドリさん」という名前の人の話をしているものだと思い込んで会話が進んだのである。特につっこんだ話でもなかったようなので、会話に不自然なところはなかったはずだという話ではあったが、「頭取」を知らなかったことに、私は驚愕してしまった。今はこれは普通のことなのか。彼は特別な稀有な例にすぎないのだろうか。
その後、気になって周囲に聞いてみたところ、若者で「頭取」を知っていたのは、半分強にとどまった。私たちの世代にとって、おそらく「頭取」を知らない人はいないだろう。「社長」と同類の一般名詞のようなものだ。けれども若者にとって「頭取」は、誰もが知っている言葉ではないようだ。
伝わると思っていると伝わらない言葉がある。言葉の意味や解釈は、時代や世代で異なる場合がある。
難しい言葉は使わずに易しい言葉で---そんなことは当たり前だが、易しい言葉であっても知らなかったり、意味を勘違いされたりすることがある。今回の営業先での話は仕方がないにしても、コミュニケーションをとっているつもりが、実は全くとれていないということが十分にあり得るのだ。
少人数だったり、face to faceであれば、表情でコミュニケーションがとれているかどうか気づく可能性もあるが、人数が多かったり、直接会っていない場合は、気づかないまま通り過ぎてしまう。組織が大きくなるほど、トップの言葉も届きにくくなることだろう。
確実な意思疎通と情報共有がしやすい少人数組織は、企業理念やビジョンが重視され、スピードが求められる今の時代だからこそ大企業や大きな組織よりも強くなるチャンスなのかもしれない。社員一人一人の顔が見え、一人一人の個性までが把握できる小さな組織だからこそ伝わること、感じることが、たくさんあるに違いないと思う。

2012年4月5日

働き方の新しいカタチ

ICという働き方をご存知だろうか?
Independent Contractorの略だ。all aboutでは、かつて「独立業務請負人」という訳で紹介していたことがある。
企業と雇用契約ではなく、業務単位の契約を結んで仕事をする、インディペンデント・コントラクター(IC)。独立・起業ではない、組織から自律したその働き方だ。

今から4年半前に私が勤務先を退職して独立した際、私はその勤務先を退社はしたが、ある部分のみ継続して仕事をする契約を結んだ。今になって考えてみれば、これはまさにICという働き方だったようだ。
私自身の契約は、それ1本だけでというほどの仕事量ではなかったし、他のこともやりたかったので他の仕事もやっているため、純粋なICとは言えないが、IC自体は、当時新しい働き方として少しだけ騒がれたことがある。
当時はあまりそういうことを意識していなかった。今になって考えてみたらそうだったなと思ったので調べてみたところ、今はほとんど言われていないようである。

all aboutで取り上げられたのも、2006年と2008年。
他の記事でも2005年から2009年までがほとんどだ。
アメリカではかなり一般的な働き方と言うことだが、今の日本ではどうなんだろう?

ちなみに、私は今でもICとしての業務は多少継続して行っているが、いろいろな意味で余裕があるので、今、ICとしての仕事は1業務にすぎない、というのが実態である。

そして、今の時代、新しい働き方として脚光を浴びているのはノマドワーキングだろうか。
決まった場所(オフィス)ではなく、カフェや公園など好きな場所でノートPCやスマホ片手に仕事するスタイルだ。

この5年の大きな違いはITの進化だろう。クラウドサービスのハードルは低くなった。各種のサービスが、しかも無料で利用できることが増えてきた。
実際、カフェに行って周りを見回せば、仕事をしている様子の人は少なくない。
私自身も、無料のクラウドサービスを多数利用するようになった。
打ち合わせやアポイントで外出する際に、ちょっとした時間があけばカフェで仕事ができるので、外出先からいったん戻ってまた外出、ということはあまりしなくなった。
それでも私自身はまだオフィスはいらないとは思わないが、外出先でクラウドサービスを利用して仕事をすることができるので、時間の無駄がない。
 
ICとノマド、どちらもそれぞれの時代の新しい働き方と言われたカタチではあるが、社会の中の立ち位置や向かい方が少し違うように思う。
ICは、企業と個人が契約する働き方。終身雇用が崩れ、企業がリストラを進める中で、企業にとっても個人にとっても都合のいい働き方とも言える。個人は自分自身の能力部分だけを企業に買ってもらうのだ。
これに対してノマドは、契約の仕方や雇用主についてはあまり問われていない。個人事業主、自営業の人、一般的なサラリーマン、契約社員や派遣社員等々、いろいろな形態があり得るだろう。それよりもどこでどんな風に仕事をするか、ということが、問題なのだ。
ICに比べて、ノマドは、より自分らしく、 より心地よい働き方のカタチであり、自由度も高いように私には思われ、今の時代の流れを感じる。
これからの時代の新しい働き方は、どんなふうに変わって行くのだろうか。

2012年3月26日

古くて新しい「手間をかける戦略」

ここのところ、私の中で気になっている言葉がある。
「惜しむなよ。やりすぎるくらいがちょうどいい、人間関係ってやつは。」
という言葉だ。

放映中のドラマ「最高の人生の終わり方~エンディングプランナー」(TBS)
の中の山崎努のセリフだ(苦笑)。

私は遺影に興味があり、ブログ「遺影について思うこと~自分らしく生きるために」を書いていることもあって、このドラマを放映前からチェックしていた。
そのブログの発展型新サービス、i-faceを2月に立ち上げたこともあり、関連情報として欠かさず見ていたドラマだった。

このセリフがずっと心に残っていて、仕事でも、そうでない時も、
いろんな時に私の心の声が、私にささやくのだ。
「惜しむなよ。やりすぎるくらいがちょうどいい。」

毎日の仕事をきっかけに、新たに出会う人は数多い。
直接仕事には関係なくても、いつどこでどんなふうにお世話になるかも知れず、そのたびにご縁を大事にしたいと思う。せっかく出会った方なので、できることならメールだけでも Thank you letterを出したいところだ。
それでも、日々の仕事の中で時間に追われていると、なかなか手が回らないことが多い。
面倒だと思うこともあるし、流れ作業のように流したり、場合によってはスルーして(何もせずに通り過ぎて)しまうこともある。
そこに心の声が「惜しむなよ」とささやき、でも忙しくてできないから仕方がないと言い訳してみたり、後ろめたさを感じたりして、それも私のストレスになるのだ。

そんなことを思っていたら、ブランド経営コンサルタントのメルマガ記事のタイトルが
手間をかける戦略」だった。

手間をかける、丁寧にコミュニケーションするということは、
今、古くて新しい「手間をかける戦略」・・・。
いかに効率的に進めるかを長いこと考えてやってきたから、私は過去の思考で、つい効率的でないことにストレスを覚えるのかもしれない。
しかし手間をかけるコミュニケーションは、今の時代だからこそ希少な戦略とも言えるのだ。
一般的な効率優先のスタンスでは、そんなことは誰もができることではなくなっているから。

さて私も、そういう視点に立てば、私自身のストレスも軽減できるかもしれない。


このコンサルタント、水野与志朗さんは、パーソナルブランディングのセッションを行うこともあり、私にとっては迷った時の羅針盤的な存在で、時々お世話になっている方である。
ちょうど上記のようなストレスを感じていた時に届いたメルマガのテーマだっただけに、やられた!と思ったというのが本音だ。

ちなみにドラマ「最高の人生の終わり方からエンディングプランナー」(TBS)は、既に3月15日に最終回を終えた。

私にささやく心の声のもと、ドラマのTBSに感謝することにしよう。

2012年3月13日

ストレスと向き合う意味

株式会社ビジネス・ブレークスルーが公開した「ビジネスパーソンのストレス意識調査」の結果が、フェイスブック上で多くの人にシェアされている。

この調査は、大前研一さんが主宰するビジネス・ブレークスルー大学で実施されている「問題解決力トレーニングプログラム」を受講するビジネスパーソンを対象に実施したものであるが、注目を集めたのは、Yahooニュースのタイトル「年収1000万円を超えると、仕事のストレスが減少」の影響も大きいのだろうと思う。

そもそも年収が増えるとストレスが減るというのではなく、高年収のビジネスパーソンは主体的に仕事する人が多く、仕事内容やスケジュールを自分でコントロールできるケースが多いから、結果的にストレスが低いと解釈する方が自然だ。
ストレスの主な原因が
「仕事内容を自分でコントロールできない」(49%)、
「会社の業績が思わしくない」(34%)、
「社内の人間関係がうまくいかない」(27%)
ということをふまえても、そう思う。

また別の側面からは、ストレスの耐性の強さもあるのではないかと思う。
というのは、年収が高くなるにはそれなりの努力や苦労があるわけで、そういう努力や苦労を繰り返していく中でストレスに強くなっていくことがあるのではないか、と思うのだ。

誰もが同じ指標を持たず(持てず)、成長が約束されるわけもない今の時代。
価値観は人それぞれだし、正解があるのかどうかもわからず、仮にあったとしても正しいことは一つとは限らない。どこに向かって進むのかの答えは自分でみつけるしか方法はなく、それを考えられないことは、結果的にストレスにつながっていく。

ストレスは心だけの問題ではなく、体にも危険サインを出していく。
いろいろな病気の遠い原因として、ストレスが挙げられることは珍しくない。
腰や首が痛かった人が、ストレスと向き合うことで痛みが緩和することもよく聞く話になりつつある。

先行きは確かに不安ではあるけれど、自分の人生を自分でどう切り開くのか、それを考え続けることが、ストレスを減らす(鈍感になれる)ことにつながって行くように思う。

2012年3月6日

「働く」という意味

「会社は何のためにあり、社員は何のために働くのか? それは仕事を通じて世の中に役に立つためだ。」
これは、資生堂副社長の岩田喜美枝さんの言葉である(2012.1.5読売「日本あれから 幸せの座標1回目)。

昨年12月から、私は知人からの依頼がきっかけで、「自分のキャリアを考える勉強会」を数回主催した。
私自身は、元々は本来キャリア形成の専門家ではないが、長年働いてきた中で、結局のところ自分自身の働く意味を曖昧にしていると、どんなに働くことが好きであったとしても、働くことが苦しくなる時期にぶつかる、という実感があった。もちろん、その「働く意味」というのは人によって百人百色。
誰もが自分自身の意味を考えることで、イキイキと働けるはず、そうすればイキイキと生きていけるはず。
私はそう考えて、各々が自分で納得できる回答を探したりみつけたりするための勉強会のプログラムを考えたのだ。
構成してみたら、それは、「働く」ことには限らず、「生きる」ことを考えることに近くなった。
自分が「働く」という意味は、自分がどんな時に満足感を得るのか、幸福感を得るのか、ひいてはやりがいや生きがいを感じるのか、ということに大きく関わってくるからだ。

その勉強会では、「キャリア」を必ずしも「報酬を得る仕事」とはとらえず、「あらゆる活動」と定義づけた。ボランティア活動も家事も含むいろいろな活動だ。
自分に何ができるか、周囲は自分に何を求めるか、
それまでの自分の人生を振り返り、自分の価値観を改めて確認する、
他の人とどこが違うのかを認識する・・・
勉強会では、各自がそんな作業を、いろいろなきっかけを与えるワークを通じて繰り返す中で、自分が働く意味や、これからどういう働き方をすることが自分にとって心地よいかを探す、どう生きて行くかをみつける。
漠然と思ってはいても、なかなか深く考えることのないテーマだ。

勉強会のスタート時には先が見えない不安を持っていた人が、その不安の本質を発見し、自分の目標を設定していく様子が、まさに目の前で展開されていった。
おかげさまで、毎回終了するたびに参加者からはご好評をいただいたが、私自身も得るものが大きかった。
とは言うものの、私はこれが本来の専門ではないのでいったん終了するが、自分自身のためにも、この勉強会は年に1度くらいは開催していこうかと考えている。

価値観の多様化、自分らしさを大事に、などは世間でよく言われることではあるが、それを自分の問題にして具体的にどう対応するのかが実に難しい。
今の時代は、これをつかめないとなんとなく幸せじゃない気持ちがずっと続いてしまうのだと思う。
この状態は、個人にとって不幸なことはもちろんだが、その個人がやりがいをもって働けない状態であることは産業界にとっても不幸である。
さらに、そういう状態を解決したり、道筋を見つけるきっかけにできるような、研修事業ではない「何か」がこれからの時代の新たな商品として生まれないだろうか?と、私は考えてみたりする。
より多くの人がイキイキと生きていけることにつながるようなことが商品化されれば、世の中の幸福度も上がるのに・・・・
今回スタートした「アイ・フェイス i-face 」も、私の思いはそこにつながっている。

最後にその新聞記事にあった、印象的な言葉をいくつか紹介する。
「最近のキャリア教育のせいか、今の若者は、自分が役立っていることを確認できないと不安になる。上の世代に甘えと受け取られてしまう。」「働く意味を考える若者は、仕事への意識が高いとみることもできる。意欲を引き出し、若手がチャレンジできる機会を増やして行ければと思う。」(関西学院准教授、鈴木謙介さん)
「後に何かが残り、誰かが元気にする仕事がしたい」(元IT関連会社勤務38歳女)
「社会や人から感謝される仕事がしたい」(日本生産性本部・客員研究員の仕事に対する考えを聞いた質問で、96.4%とトップ)
「この3~4年で、出世よりも社会に役立つ仕事を望む学生が増え、震災でその傾向が加速。日常的な仕事も社会に貢献していることをなかなか理解できない面もある」(立教大キャリアセンター部長)

2012年2月28日

「アイ・フェイス i-face」への思い

前回書いたように、新サービス「アイ・フェイス i-face」 をスタートした。

このサービスのベースになったのは、もう一つのブログ、「遺影について思うこと~自分らしく生きるために~」(以下「遺影ブログ」)である。
きっかけは遺影だった。

遺影は人生最後の晴れ舞台に飾るものだ。
だから最後をきちんと締めくくるためには、いい遺影の方がいい。
遺族の悲しみを少しでも和らげるようなもの、その人らしさが表現されたものを。
そして何より、本人が納得し、満足できるものにしたいものだ。
遺影ブログを書き始めた時、私はそう考えていた。

大震災を契機に天災の恐ろしさを再認識したこともあり、いい遺影のための撮影をしておこうと思い、実際に私自身も撮影してもらった
昨年夏のことだ。
そこでの発見が、自分の知らない顔に出会えるということだった。

遺影を意識して自分を撮影することで、当の本人は、自分の知らない自分、気づかなかった自分をみつけることができるのだ。
自分が気づかなかった自分のよさや価値を、カメラマンが探して引き出してくれる。
いい遺影を残すための作業は、「死」とはまったく別の効果ももたらす、ということを教えられたのだ。

「遺影」は人生の最期=エンディングの象徴的なもの、「死」を意識するものではある。
けれども、「遺影」を自分で用意する作業は、自分の「生き方」を考えることにつながる。
それなのに、写真を撮られることが嫌いでカメラから逃げ回る人は少なくない
人生最後の晴れ舞台のはずの遺影が残念なもものになりかねないだけでなく、
プロに撮ってもらうことで、自分に自信が持てるかもしれないのに、と思うと、本当に残念なことだ。

そんな私の体験と思いから生まれたのが、「アイ・フェイスi-face」です。
どうぞ、よろしくお願いします。

2012年2月19日

新サービス i-face スタート

2月20日、新たなサービスを開始する。



アイ・フェイス。
大人のための、青空出張写真館です。

2月14日に愛をこめてホームページを公開した。
語りたいことは山ほどあるのだが、細部まで公開しきれていないので、これから徐々に説明しつつ、公開して行きたいと思う。

2012年2月15日

「仕事が生活のすべて」を見習う?

昨年12月に東証マザースに上場した株式会社リブセンス
社長が25歳と上場会社史上最年少ということで、1月にはNHKのニュース生出演もあり、大きな話題になった。
話題の村上太一社長は、結果的に大金持ちになったわけだが、特に生活が変わることもなく、小さなワンルームの自宅には冷蔵庫もない。
仕事環境がそのまま自宅にもあり、会社のデスクと自宅はなんら変わらない。
村上社長は、「仕事が生活のすべてである」と、出演したテレビでさらりと語っている。

が、私が注目するのは、彼の業績や言動ではなく、
このニュースを見て「私も見習わないと行けないな…。」と
ブログで書いたいた人がいたことだ。

もちろん、リブセンスの村上社長はすごいな!と、私も思う。
羽振りがよくなることもなく、生活に変わりもなく、謙虚で気負うところがない。
この若さでこれからが楽しみだと思うし、こういう人たちがこれからの日本を引っ張って行くことに大いに期待したいと思う。

けれども、「『仕事が生活のすべて』であることを見習う」ことについては、私は少々疑問を抱いてしまうのだ。

下山の思想」(五木寛之著・幻冬舎新書)が話題になっているように、今、仕事のしかたも新しい局面に入ってきたと思う。
「下山の思想」は、下山はあきらめるのではなく、再び上るためのプロセスであって、実りある下山をと提案している。「生きる」ための真理、幸せとは何かを書いているのであって、仕事の話が書いてあるわけではない。

私は、10年くらい前から、上昇や成長を追いかけない仕事・働き方があるはずではないかと悶々としてきた。4年半前に会社を辞めた理由の一つと言えるかもしれない。
私自身は仕事が大好きだし、生活の中で仕事の占める位置は実際大きいのだが、それでも売上・利益至上主義にはどこか疑問を感じてきた。
4年前に某大学で経営戦略を学んだことがある。自分の会社時代の経験が学問的に体系立てられ、その講座自体はとても有意義だったのだが、成長が大前提であることから始まっていることが引っかかった。成長ありきではない経営戦略はどう考えたらいいのか、何を指標にしていけばいいのか、を質問して、講師を困らせたことを思い出す。

私は、やはり今の時代だからこそ、成長や売上拡大ではない仕事の目的、働く意味、そういうものを探し続けたいと思う。「仕事が生活のすべて」ではなく、「○○のために仕事も××もある生活をする」という生き方を目指したいと思う。

2012年2月8日

正しく「あきらめる」ことはポジティブ

「がんばる」ことを重視していくと、「あきらめる」ということは、どこか後ろめたく敗北感に近いものがある。
けれども、仏教講師の菊谷隆太さんによれば、そのうつむく感覚が少し異なり、上に向ける気がする。
そもそも「あきらめる」は仏教由来で「諦観」、「アキラカニ真理ヲミル」ことだそうな。
だから元々の「諦める」は、【なぜそんな結果になったのかの原因を明らかに見なさい】ということで、だいぶニュアンスが違うと菊谷さんご自身もfacebookの個人ページで書いておられる。たしかにぐっと上向きな感じになる。

夢をあきらめる、目標達成をあきらめる、などの言葉は敗北感がある。
けれども、そう至るには必ず原因があったわけで、なぜ夢をあきらめるのか、なぜ目標達成をあきらめるのか、その原因を分析してそに対策を考えたち、克服に努めたりすれば、結果も変わるというのだ。
そこで原因を見なかったりごまかしたりしないこと。
仏教講師の菊谷隆太さんの言葉には沁みるものがある。
あきらめる原因に向き合う方が、あきらめないよりも却って苦しいこともあるだろう。
けれど、あきらめることもポジティブであることを認識できるのは嬉しい。

昨年11月に発売になった、女子サッカー澤穂希選手の著書『負けない自分になるための32のリーダーの習慣』と『夢をかなえる。思いを実現させるための64のアプローチ』は、いずれも売行好調だったそうだ。
そのプロモーションでもしばしば使われる「諦めなければ夢はかなう」。
あまりの明言で、諦めないことだけが正しいように語られる風潮に行きすぎはないだろうか? 
たしかに彼女は素晴らしいけど、「あきらめない」姿こそポジティブであり、強くて、正しくて、あきらめる人はダメなように言われる今の風潮に、私は少々違和感がある。
All or nothingではなく、いろいろながんばりがあっていいと思うのだ。

菊谷さんの言葉は、そんな行き過ぎた風潮に、少し歯止めをかけてくれそうに私には思え、温かい気持ちになった。

2012年1月31日

もらう側と与える側

ツイッターで、20代の女性が
「どう見積もっても与えられることの方が多い人生を送っている。残りの人生で、与える側として頂いた以上のものを返して行けるだろか?」とついぶやいていた。
彼女は、私の取引先の人でもあるので、ツイッター上でのつぶやきとは言え、私自身はリアルな彼女をよく知っている。いつも明るく笑顔を絶やさず、仕事にも前向きで熱心な女性だ。

もらう側と与える側。
ふ~ん、今の20代はこんなふうに思うんだ・・・。
私自身は、このような発想をしたことがなかったので、新鮮だった。

さて私は、自分自身が、今までもらった以上のものを、与える側として返していけるだろうか?
無理だ!
本当に多くのものをもらってきた。今ももらっている。
それだけのもの(こと)を人に与えるのは無理だとしても、できるだけ与える側になって、返していきたいものである。

そう言えば、私が後輩に奢った時に、御礼を言ってくる後輩たちに向かって、
私は「いずれ、あなたが後輩に奢ってあげなさい」とよく言っていた。
「与える側」として自分自身が返すことができなくても、循環が生まれて結果的に与えることになるのなら、それでもいいのかもしれない。
これなら、自分自身で返すよりも多くを与えることができそうだ。

2012年1月24日

大御所の訃報

料理写真家の大御所、佐伯義勝先生が亡くなりました
享年、84歳。

私が仕事を始めたばかりの頃、雑誌で美しいシズルを出す料理写真と言えば、佐伯先生だった。
「家庭画報」など、目を見張るほどのきれいな料理写真は、たいてい佐伯先生の撮影。
大学で栄養学を専攻した私は、卒業後、広告代理店に就職し、テレビの料理番組や食物関係の企画制作の仕事を担当した。
食物の栄養のことは勉強して知っていても、料理を美しく見せたり、盛り付けたり、ましてや写真のことなど何も知らなかった。企画制作どころか、その前の資料集め等準備が中心で、撮影現場に連れて行ってもらった時は見学しつつ雑用のお手伝いを少々。ほとんど役に立ってなどいなかった。
当時、料理関係の撮影となると、佐伯先生のお弟子さんのカメラマンさんがやってくる、というのが通例で、カメラマンは自ら「自分は佐伯先生の何番弟子だ」などとおっしゃっておられるほど。まだヒヨッコだった私にとって、佐伯先生は雲の上の方だった。

その佐伯先生のお料理の撮り方は、おいしいものをそのまま。
「湯気も照りも、おいしいものは一番おいしそうなところをそのまま。余計な手は加えない。」と。
熱いものはアツアツのうちに。少しでも冷めたらすぐに作り直しで、いくつも作ったものだった。

一方で、写真撮影の技術と環境は、この数十年で劇的に変わった。
フィルムからデジタルに変わり、撮影する前の食材に手を加えることどころか、撮影後の写真にデジタル加工するなど当たりまえの世の中だ。

最近の私は、料理に関わる仕事をしていないので、最近の佐伯先生が、どのようなお仕事をされていたかは存じ上げないが、近しい人のお話によれば、前日まで、撮影のお仕事をされていたそうだ。
「佐伯先生らしい最期だと思います。」とのこと。


昨今どんな業界でも、例え大御所といえども一線を退かざるを得ない世の中ですが、最後の最期まで現役で仕事に携わっていられるというのは、本当に輝かしいことであり、理想の逝き方だと思います、と、かつての仕事仲間から、連絡をもらったのだった。
前回「元気な大人増殖を目指したい」でも書いたように、後進に道を譲ることを絶賛する風潮の中、その佐伯先生のお話には、なんだか嬉しくなった。
どんなに年を重ねても、若いものに負けない腕があるのならば、譲らない美学があってもいい。

佐伯先生の訃報連絡をくれた友人からのメールには、
「こうやって昭和を代表する巨匠がいなくなることは、淋しいことでもあります・・・」
と書いてあった。
本当にそうだ。
だからこそ余計に、いくつになっても頑張っているいろいろな方を見ると感動するし、勇気がわくのかもしれない。

2012年1月17日

元気な大人増加を目指したい

年末の掃除をしていたら、1999年頃の新聞記事スクラップが出てきた。
10年以上も前の記事だが、見返していて気になるコラムをみつけた。
1997年から朝日新聞でスタートした吉沢久子さんの「老いじたく考」。
当時から、高齢者向けの市場拡大や介護市場の有望性などはよく語られていた頃だった。
そういう中で、吉沢久子さんが介護の話題を老人の立場で聞くと、長生きしては申し訳ない気分になる、と書いていたのだ。
吉沢久子さんご自身が、介護の社会化が必要とかつて考えていた当人であったが、それは介護者の立場であって、老人の立場に立ってみると申し訳ない気分になる、と。「これでは元気に生きる気持ちも萎えてしまう」と書いていた。
吉沢久子さんご自身は、現在93歳。
20年以上前、既に家事評論家として大変ご活躍だったが、今現在も明晰に暮らし、執筆や講演をこなすようで、現役そのものだ。

私の関係する広告会社の営業マン。
今の時代、ただの広告営業でだけでは仕事などとれないからと、次々新しいことを仕掛け、まったく異なる業種の人に多種多様な相談をし、「いやぁ、勉強になる!」と言いながら営業活動を続けている方がいる。既存取引先への積極的な新提案だけでなく、新規取引先へも次々と飛び込み営業も行うその営業マンは、現在80歳を超えているが、お洒落な着こなしで背筋がピンとしたカッコよさだ。

こういう大先輩がいる、ということ自体が、私に勇気を与える。
そういう大先輩に、私は頭が下がる。心から尊敬するし、ワクワクする。
自分も少しでもそういう風になれればいい、と思う。
日々がんばろう!という気持ちになる。
凹んでなどいられないと思う。

それは、20代から見た40代や50代や60代・・・
40代から見た60代や70代や80代・・・
素敵な大先輩がいることは、自分自身の目指す将来をイメージしやすいし、それをめざしてがんばろうと思うのではないだろうか?


だから私は、ちゃんとした大人、元気な大人がいる、ということは社会を元気にすると思うのだ。

中小企業白書のデータによれば、2002年の起業希望者141万人に対して、2007年は101万人。この間には、ライブドア事件があった。ベンチャーの星、ホリエモン(堀江貴文氏)が逮捕されているのだ。彼は、起業を目指す人にとってわかりやすい目標であったはずで、彼の逮捕によって目標が分かりにくくなったのだと思う。

だから、多種多様な元気な大人が増えれば増えるほど、その下の世代にとって多種多様な目標が描きやすくなるはずだ。
けれども、現実はどうだろう?
年を重ねることで、しょぼくれたり、夢や希望をなくしたり、人生を諦め、どうでもいいと思ったり、何事も先送りにしようとしたり・・・そんな人も多く存在することも否めない。

でもそれは、就職難だから、若者に仕事がないから~と、後進に道を譲らざるを得ないことも影響しているだろう。
若者が活躍することが評価され、世代交代していくことが是とされる今の時代。

もちろん一理あるとは思うけれど、私は道を譲っても現役から退かない先輩が好きだ。

今、10年以上前の吉沢久子さんの新聞記事「長生きしては申し訳ない」というフレーズに触れ、介護問題に限らず、仕事を含めた生き方において、もっとワクワクしたり使命感を持つなど、熱い思いで前を向いて生きていくのをそいでしまうような論調が行きすぎてはいないだろうか?と気になった。それこそ「これでは元気に生きる気持ちも萎えてしまう」。
もちろん、そんな論調に負けないくらいの強さがあればいいのだが。

やはり、私自身は前述のような大先輩のように生きていきたい。
一方で世代など関係なく、大先輩も若い人も関係なく交流し続けたいと思う。
できれば自分が作った道は、どんどん後進に譲り、そしてまた新しいことに挑戦する、という形を目指したいと思っている。

2012年1月12日

家庭ありきの仕事

当たり前のことだが、自分の年齢が上がってきたことで、親の年齢が上がってきた。

最近、私の周りでは、親が弱ってきたことでさまざまな問題を抱える人が増えてきた。
親の病気、親の介護を抱えながら仕事をしている人たちだ。
かく言う私も、昨年、夫の父を看送ったばかりだ。義父が亡くなる前の1年間は、病気とのおつきあいでもあった。今、義母は一人で暮らしており、義妹が頻繁に様子を見に行ってくれていて、うちは週に1度くらいのペースで行っている。
一方、私自身の両親は、二人で暮らしているが、近年急速に老いが目立つようになってきた。体のあちこちに故障を抱えるものの、緊急性が高いわけでもなく、二人揃っていることもあるので、私が行くのは月に1度くらいのペースだ。

今、まさに親の介護問題に直面しながら仕事をしている友人が、「家庭がざわざわすると、仕事どころじゃない。」としみじみと言う。
家庭がざわざわするというのは、家庭が落ち着かないということだ。
介護を抱えこんではいけない、というのはよく言われることだ。
しかしそのために各種サポートを受けようとしても、まず親本人がそれを嫌がることがあり、それをクリアしなくてはサポートを受けることができない。
親を説得してクリアしたとしても、親が入院する、入院先の医師と面談する、親に介護が必要になりケアマネージャーとの度重なる打ち合わせが入る、などなど、次々と時間が拘束される案件が発生する。仕事中でも連絡が入る。コントロール不能なので、自分のスケジュール管理にも支障が出る。・・・こういう状態で、今、仕事をしている人は世の中にどのくらいいるのだろう。

そういう中で大事になるのは、兄弟姉妹など家族の協力体制に他ならない。
家庭がざわざわしても、できるだけ仕事には支障が出ないようなローテーションを組むなどの家族の協力体制は、経済的な生活基盤を守るだけでなく、個々人の精神的負担を軽くする上でもとても大事なことだ。社会にとっても望ましい形であるのは間違いない。
震災以降、家族や絆の重要性が叫ばれるようになった。
こういうところで、その「絆」が生かされればと思う。
ちなみに私自身は三人姉妹。夫には妹がいる。
私の親の場合も夫の親の場合も、それぞれ妹たちに大いに助けられており、感謝している。
その点、兄弟姉妹のいない一人っ子は大変なことだろう。
最近は一人っ子が増えてきたことだし、少子高齢化問題はいずれ、深刻な老人(介護)問題へとつながっていくにちがいない。

2012年1月5日

欲しいものがない

2012年がスタートした。
昨年は東日本大震災、原発事故、世界経済不安と、次々と大変なことが続き、考えることや思い悩むことが多い年になった。価値観も大きく変わってきた。本当の幸せとは何だろうと、私自身もそうだが、誰もが考えるようになったことだろう。
そういう年を受けて明けた今年は、どんな年になるのだろう。

我が家の場合、東京を離れない限り、お正月は夫婦双方の実家でそれぞれ集まるのが恒例だ。そこでは必ず、子どもたちへのお年玉を配る、という行事がある。
我が家には子どもがいないのでお年玉は配るばかりで、もらったり使ったりするのを身近で見ないため、私は現代のお年玉事情をよく知らない。

今の子どもは、なぜお年玉が楽しみなのか?
お年玉で何を買おうとしているのか?

先日、同世代の男性が「今、欲しいものがない。」と言った。
欲しいものがないのはつまらないことだ。
何かが欲しいからそれを買うためにお金が欲しいし、そのために人はがんばって働くし、欲しいものを考えるのは楽しいし、欲しいとなったら手に入れるまでの気持ちは必死だたりワクワクしたりするものである。楽しみな気持ちは幸せのひとつのように思う。
でも、それがないと言うのだ。
考えてみれば、私もそうかもしれない。
モノとなると、今、私は欲しいものが浮かばない。
私が若かったころは、欲しいものをリストにして一つ一つ手に入れるためにがんばっていた。
親にねだるのではなく、自分で手に入れたいと思った。親に買ってもらう人を羨ましながらもどこかで見下していたように思う。そのためにアルバイトもしたし、やりくりもした。手に入るまではあれこれ悩んだものだ。
でも今は、欲しいものは手に入れてしまったので、もういらない、という状態なのかもしれない。
モノがいっぱいありすぎてしまう場所がない。
所有するモノに自分がとらわれたくない。
だから欲しくないという側面もある。

そう考えると、モノを作っている企業は大変だ。
買ってもらわないことには経済活動が回らない。
だからいろいろな付加価値をつけてくる。
こんな機能がついている、こんな役にも立つ、と言う風に。
けれどもそれはあまり使わない機能だったり、欲しくもない価値だったりする。
へぇ、すごいね。でも私は別に必要ない、ワクワクしない・・・という風に。

その話をした彼が言うには、「何もなかった昔は、ないから、欲しかった。」。
今はあるから必要ないのだ。

いつもお腹がいっぱいで、飢餓感がない。
だから、「欲しい」という欲求を感じなくなってしまったのだ。

今の子どもはどうだろう? 「欲しい」と感じているだろうか?
最近の子どものお年玉の使い道のトップは「貯金」だとか。
「欲しい」気持ちを我慢しての「貯金」ならまだしも、「欲しい」気持ちがわかないのだとしたら、それは大変なことだ。

モノで気持ちがワクワクする時代など、もうとっくに終わってしまったのかもしれない。