2015年3月31日

益田由美さん、定年退職「できる仕事を作ったんです」

私たち世代ではほぼお馴染みだったフジテレビの女子アナ、益田由美さん。
このたび定年退職したそうで、新聞の「ひと」欄に紹介されていた。



もともと声が低くゆっくり話すために葬儀中継しかできなかったという。
けれど私のイメージは真逆で、
面白くて明るくて、素のまま飾らない人だった。
「なるほど!ザ・ワールド」リポーターのイメージが強いせいかもしれないが、
その後の彼女は自分がやりたい番組で次々と自声を出していたことは知らなかった。

普通のアナができることができない。だから、出来る仕事を作ったんです。

ゆっくり話す低い声は葬儀中継に向く声、という個性、強みにもなる。
まわりから見ていくら強みに見えたとしても、
それが本人にとってあまり望んでないことならば、望む形を作る。
仕事でも暮らしでも。
やりたいことを探しながら。

やりたいことなんて、そう簡単に見つかりはしないのだけど、
長く生きてれば誰だって、
ワクワクすることや心地よいこと、大変だけどやらずにはおれないことなど、
きっとある。
それを堂々と言えるかどうかは別にして。

フジテレビでは初めて、女子アナのまま定年退職だという。
女子で初定年退職というわけではないけれど、
それでもずっと女子アナでい続けることが難しいであろうことをうかがわせた。
益田由美さんもきっと、今まで相当無理したりがんばったりしながら、
「今」を手に入れたに違いない。

自分自身をふり返ると、
50歳目前で会社を辞めたとき、
「定年までいるのかと思ったのに。」と、多くの人から言われたものだ。

私が退職したのは、家庭の事情があったわけではなく、
会社や仕事が嫌なわけでもなかった。
もちろん、それなりにいろいろ考えた末の結論で後悔などしてはいないけれど
「会社の中で自分の強みを生かしながら、やりたいことを探しながら、できることを作る」
という努力は、しっかりしてはこなかったなあと、この記事で思い返した。

本屋さんに行けば、
好きな仕事をすること、夢を追いかけること、を勧めるものがたくさんある。
それを私は否定はしないけれど、会社の中ではそれができない、とは限らない。
会社員だからこその恩恵や、継続しているからこその力など、
勤務しているとそういういいことをついつい見落としがちだ。

自分がやりたいことを手に入れるのは、そう簡単なことじゃない。
だけど、苦しいことを越えながら手に入れるから、きっと満足できる。
最後にやってよかった、と思えるかどうか・・・だ。

会社にいても(会社を移っても)、会社を辞めても、「できる仕事を作る」。
しかもこの「仕事」とは、例えば家を守るとか、子どもを育てるとか、そういうことも含めて、だ。

益田由美さん、お疲れ様でした。
これからの益田由美さんに期待したい。



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おなやみ相談フェスティバルで名刺に出した顔写真診断を行います。
4月4日、東京・水道橋(御茶ノ水)の「YMCAアジア青少年センター」で。

2015年3月28日

自分の自分らしい「いい顔」は、自分ではなかなか見ることができない。

誰でも、自分の顔は子どもの頃からずっと見ている。
見慣れているけれど、でもそれは鏡に映る自分の顔だ。
人が見ている自分の顔は、実は自分ではなかなか見ることができない。

でも、その人らしい「いい顔」というのは、本来、自分は知らない顔。
・・・私はずっとそう思ってきた。

「この人、なんていい顔するんだろう!」と私が思う人の顔というのは、
だいたい何かに夢中な時の顔だったり、真剣な顔だったり、
楽しそうにおしゃべりしている顔だったり、ゆったりのんびりした顔だったり
するからだ。
きっとそういう顔は、自分では見られない。
鏡の中では絶対に見られない顔だ。

私が「いい顔」の撮影サービスを始めようと思ったのは、
そういう顔をその人に見せてあげたかったから。
ふだんのあなたって、こんなにいい顔してるのよ!〜そう伝えたかった。

私自身がそうやって撮ってもらった顔を見て、意外に感じ、
でもちょっと嬉しかった、という本音もある。
実際、お客さんからも「あれ?!私ってこんな顔してますかね?」と
言われることが多い。
自分の普段の顔って、なかなか知らないものだ。

半年ほど前にこんな動画がSNSで話題になったことがある。
http://feely.jp/426/

カンヌでグランプリを受賞した、「ダヴ」のCM。
私がずっと思っていたことを表現されていた。

日本には、奥ゆかしさや控え目を美徳とする歴史がある。
私たちは子どもの頃から無意識のうちに
ものそれを教え込まれ、
知らないうちに謙遜を身につけてきたのではないか。

「私なんて・・・」「どうせ・・・」
十人十色のありのままのよさを認められなくなり、
そのうち見なくなり、
ワンパターンの美しさに向かっていったような気がする。
今、みんな同じような化粧をし、みんな同じような顔になっている。
若い人は特に、そういうモデルっぽい、モデルに似たような顔をよく見る。
プロに写真を撮ってもらう人には、そういう顔の写真を撮ってもらう人が多い。
たしかにキレイだけど、どこか嘘くさい顔に見える。

この動画の最後の言葉が、私にはしみる。
「気づいてください。あなたは自分が思うよりもずっと美しい。」

ちょっとした表情やにじみ出る雰囲気・・・
それは必ずしも「美しさ」とは言えないかもしれないけれど、
そこには、「美しさ」を超える魅力があり、
人が惹かれるのは、そういうところだと私は思うのだがいかがだろうか。
目鼻立ちの美しさ以上に、そういうところに心を動かされる。
特に年齢を重ねた顔にはそういうものが出てくると思うのである。





あなたらしさを引き出す大人のための撮影、アイ・フェイス i-face
http://www.travessia-i-face.jp/


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2015年3月26日

名刺に顔写真を出すんだったら、考えた方がいいと思うこと

何度となく言ってきていることだが、
私は目鼻立ち・顔立ちではなくて、「顔つき」が気になっている。
「顔つき」にはそれまでの生き方がにじみ出てくると思うから。

私は長く広告業界で仕事をしてきた。
つまりイメージづくりやイメージアップ、売りにつながる広告やPRを
追及してきたわけだが、このイメージを伝える上で、
「顔つき」が果たす役割ってあるんじゃないかと考えている。

商品を開発した人の顔、商品を作った人の顔、サービスを提供する人の顔・・・、
「顔」を見せることは、リアリティにつながる。

この顔の人が提供する、ということはいわば署名のようなもの。
顔がわからなかった時よりも、より信頼できるというか、
決してごまかしてなどいない、と伝えるような雰囲気がある。

例えば10年くらい前からよく目にするようになった、野菜の作り手の「顔」。
同じ野菜でも、農家の人の顔が出た野菜だったら安心できる、という感覚を抱く人は
多いはずだ。

「顔」を出すことは、うやむやなものをはっきりさせる効果があったり、
胡散臭いと見られがちなもの(こと)も、顔を見せることで軽減させる効果もある。

ただ、この顔が嘘くさい顔だと、逆効果になることもある。
いざご対面となった時に、あらかじめ出ていた顔と全然違うために信用がガタ落ちに
なることもある。

ちあみにこのブログで最も読まれている記事はこれ↓

 今の時代のプロフィール写真、その撮り方とは
 http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2014/08/blog-post_19.html

なんだかんだ言って、写真を出そうと思う人なら、どんな顔にしようかと気になるのではないか。

一般的には名刺に顔写真を出す場合は、いい写真を、綺麗な写真を、と
言われている。
けれど、私はもしも名刺やWebサイト、パンフレット等々イメージ発信するツールに
顔写真を出すというのであれば、綺麗な写真かどうかよりも、
その商品を開発・販売する者として、そのサービスを提供する者として、
信用を得られる顔つきになっているか、を重視したほうがよいと思っている。

ただ、自分の顔の目鼻立ちのことは自分でもわかるけれど、
この顔つきというものは、残念ながら自分ではなかなかわからないものなのだ。
もうちょっと**すればもっとよさが出るのに、と思う人は少なくない。
中には勘違いしていると思われる人がいて残念だ。

ツールに顔が出すことに躊躇する人も多いだろう。
既に顔写真を出しているけれど、それが客観的にはどのように見えるのか。
商品・サービスを提供する者として、ツールに出すのにふさわしい顔写真とは
どういうものか、等々、気になる人もいるのではないか。


4月に、いろんなお悩み相談を受ける人が60人勢ぞろいするイベントがある。

おなやみ相談フェスティバル
http://onayamisoudanfes.wix.com/nayafes

相談と言っても、内容はとても多岐にわたる。
お金の相談、介護の相談、アロマセラピーや占い、ハンドマッサージや
筆跡診断などなど、不思議で面白そうな人たちも集まり、
気楽な悩みも、重めの悩みも、会場でいろんな人が格安で聞いてくれる。

縁あって、私もそこに出展することになったので、
私は、名刺に出した顔写真診断を行うことにしました。
診断は無料なので、ご興味のある方は会場にてお待ちしてします。


くどいようですが、自分の顔つきと言うのは自分ではなかなかわかりません。
だから私自身も、顔にこだわると言いながらも、
自分のことを棚に上げないと言えないところがつらい(苦笑)。

「そんなこと言ってる石崎さんが出している顔もちょっと・・・・」
そういう声、ありましたらぜひお聞かせください。
私自身も客観的な声に耳を傾けたいと思います。
ただし、あくまでも「顔つき」で、「目鼻立ち」の顔についてはお受けしておりませんので(汗)。


2015年3月24日

人生案内 悩み100年  広告を見て思ったこと

携帯やスマホで簡単に写真をとれるようになったせいで、
あ!って思うとすぐに「カシャッ」。
今やあちこちで音がする。
あんなにいっぱい写真を撮って、
その撮った写真、みんなどうしているんだろう?!

私は整理下手だから、後で整理しようと思いながら結局何もしない。
だから、特別な写真出ない限りは、スマホ写真はそのままスマホの中。
どうでもいい写真と大事な写真の区別ができず、めったに削除することもなく、
つい何でもかんでもとっておく。
だらしがないことに、放ったらかしだ。

おかげで、いろんな写真がいっぱいあるのだけれど、
いざ見たいと思った写真が、潜り込んでどこにあるのかはっきりせず、
見つけるのが大変なのは困りもの。
コンピュータなんだから、きっとその時々に合ったうまい探し方があるのだろうけど、
それもよくわからない。

携帯の空き容量が減ってもうダメ!となったところで慌てて削除する。
クラウド保管にして同期していても、保管容量に限度があるのは同じだ。

そんなわけで少し整理しなくてはいけない状況になり、
古いデータを確認していたら出てきたのがこの写真だ。

去年の6月、地下鉄の駅のホームで見つけた電飾の広告だ。
広告代理店に25年勤務していた私は、
今でも広告への興味がつきず、時々気になる広告をみつけると、つい写真を撮る。


「悩み100年~嗚呼、人生~」
広告主は読売新聞だった。

悩み・・・・
今も昔も、悩みがなくなることなどない。
悩むのは人間の特権だとか、悩むことこそが人生だとか
言った人がいたように思うが、
この広告は新聞社に寄せられた人生相談をベースにしたものだったようだ。

これで見る限り、悩みは大きく分けると、
①男女の恋愛、②親が子を心配する、③社会の人間関係に分けられる。
この三つは昔も今も変わらないテーマではあろうが、
この広告では、①男女の恋愛は、大正時代にしか出てこない。


大正三年 接吻され汚れた私、結婚の資格あるか

  一一年 親に許されぬ自由結婚


恋愛事情が今と大きく違うのがよくわかる。

そして、②親が子を心配する、ことから悩むのは、今も昔も変わらないけど、
その心配するネタが時代の流れを反映している。


昭和 八年 心中未遂の学生を子に持って悩む母

  三四年 テレビが買えず、子どもに肩身狭い想い

  四四年 大学生なのに結婚、ふしだらな娘に迷った息子

  五九年 宗教にはまる息子、会社辞めアルバイト収入も献上

平成一九年 30代息子が引きこもり、ネットで買い物依存症


広告では昭和の悩みが圧倒的に多いけれど、平成に入って既に四半世紀。
平成の悩みは、それまでの悩みとはちょっと違うように感じるのは
急激な時代変化のスピードのせいだろうか。


平成五年  会社の上司がセクハラ・暴言・同僚は黙認

  二二年 ややこしい家電にキレる夫、家中のものを壊しそう

  二五年 SNSでトラブル、誘われてないと責める友人



時代の変化で、今後、想像もしないような悩みがでてくるのかもしれない。

人生には、そりゃあ悩みはつきものだけど、
きっといつの時代も、相手が誰かは別にしても、
その根源は人との関わり、関係性ゆえに悩むのが、人間なんだろうなあ、
などと、1年近く前の広告を見ながら思う次第・・・。




2015年3月21日

自分の「本当にやりたいこと」に気づく方法は、今日を大事にする方法でもある


大学生のための就活コンサルタントの小寺良二さんが、ブログで
寝る前に布団の中で出来る自分の「本当にやりたいこと」に気づく方法について書いている。

書かれている方法は3つあるのだけど、そのうち二つが、就活ならぬ終活だった。

まず1番が「人生最後の日をイメージする

 今の年齢で自分の人生は終了すると仮定し、
 労いと感謝の気持ちを自分に伝えると、
 残念でブルーな気持ちよりも、温かい感謝の気持ちが湧いてくると言う。


2番めは「人生で価値のあった3つの経験を思い浮かべる

 今までの人生で最も価値があったこと、感謝していることを3つ
 心の中で思い浮かべる。
 この経験が出来たから自分の人生は豊かになったと思えることは
 誰でもあるはずだと言う。


3番めは「やりたかったけど出来なかったことをイメージする

 自分の人生が今日で終わる自分の人生の最後の1日、
 「1つだけ、やりたかったけど出来なかったことを実現できる」としたら
 何をするかを考えてみることだと言う。

これらは、大学生が就活の時に自分がやりたいことに気づくための方法として
紹介されているのだが、どれも終活の講座などでもときどき出てくる話だ。
エンディングノートにもよく登場する。

終活でこういうことを考えるのは、
自分の人生を再確認するためだと私は考えている。
漫然と生きるのではなく、終わりを意識することで今が見えてくる。
自分の今の立ち位置がはっきりすると、今、この時を大事にするようになる。
そこに価値があるのだと思う。

40年50年生きてくれば、そりゃあいろいろあるわけだ。
でもそんなことに構わず走っていく。漫然と暮らしている。

だけど、日々に追われて考えずに走っていくのと、
時々立ち止まって考えてみるのとでは、大違いではないか。

終活はそういう立ち止まりの機会でもある。

終活をきっかけに、
今をもっと大事にするようになったり、
自分を叱咤激励したり、もっといたわってみたりすることもできるのだと思う。

実際、急に大きな病気をすることもあるし、高齢の親の問題にも直面する場合もある。
大切な人との別れが来ることもある。


大学生が本当にやりたいことに気づく方法が、
中高年が今日を大事にする方法と同じというのは、なんともおもしろい。



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2015年3月18日

正しいか間違っているか、だけじゃない。他の声を受け入れるのは大人の余裕かも?

SNSの使い方には、人それぞれにいろんなルールがある。

先日見つけた人のコメント書き込みルールは、次の通りだった。

①賛成・共感・称賛はみんなの前で。
②疑問・反論・否定は一対一で。
③対案・意見は自己発信で。

私は、
別の人が「これはわかりやすいルールだ」とFacebookで投稿した記事を見て
この人のルールを知った。

なるほど。
この投稿記事については、多くの人が賛同し、
Facebook上でも賛成コメントやシェアが盛んに行われていた。

たしかにわかりやすい。


でも、・・・そうかなあ。
ルールは人それぞれだ。

私にとっては・・・全面的に賛成ではなかった。

この人が掲げたルールを読む限りは、私もそんなには違和感がないし、
乗っ取りとかは論外だし、なるほどね~とは思うんだけど、
それを紹介したFacebook上に次々と寄せられた賛成コメントやシェアを
読んでいくうちに、だんだん違和感が出てきた。

賛成コメントを書いた人たちが、
ルールを犯す人を非難し、そうだ!そうだ!とそれに賛同する雰囲気は、
All or  Nothingの空気。
もはや他の考え方をシャットアウトしそうな空気に思われた。

賛成しか見たくない?
賛成しない人はそこでは水を差すな?

私が違和感を感じるのは、正しいかどうかを決めようとするからなのかもしれない。
意見を一つにしようとしていると見えたからかもしれない。


物事を、なんでも○か×で決めようとするのが、私にはあまり馴染まない。
私には私の考えがもちろんあるんだけれど、
人によっていろんな考えがあると思える自分でいるのも、私には大事なことだ。
そういうのをできるだけ認めたいし、
私自身もそういう意見にはできるだけ耳を傾けたい。
そういう余裕のある大人になりたい。
まあ、それで落ち込むことも確かに多いのだけれど。

だから私はFacebookをはじめとしたSNSでは、
私はこう思うけどね・・・って感じで伝えたいし、私にもそう伝えてほしい。
まあ、非難するんではなくて。

さらに人それぞれにとってのルールと言うのは、人それぞれだけでなく、
時代とともにかわってくることもあるようだ。

例えば私自身をふり返ってみても、
数年前と今では、SNSへの感覚がずいぶん変わっている。

2011年夏には、
知り合いがどこで誰とどんなふうに遊んでいるのかが見えてしまうことを
私は気持ち悪いと感じている。

 「Facebookは少し不気味」
 http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2011/08/facebook.html

プライバシーの安全性と、相反する動きに納得できなかった。
今ではあまり何も感じない。

その3か月後には、友達の質よりも量を追いかけることについて疑問を投げ、

 「友達は量?質?」
 http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2011/10/blog-post_19.html

会ったことのない人とはFacebook友達にはならないと、私はマイルールを設けた。

それから3年。
ツイッターを通じて、会ったこともない知らない人から似顔絵イラストのプレゼントを
いただいた。

 「SNSとのおつきあい 知らない人からの嬉しい贈り物
 http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2014/09/sns.html

考えてみれば、不特定多数のメディアの取材を受けることもあるし、
不特定多数にイベント告知をすることもある。
このブログだって名前を写真も出しているけど、知っている方だけが読んでいるわけではない。

だから、それまで3年半守ってきた「会ったことがない人とは友達にならない」
というマイルールを、今年の1月に撤廃した。

 「SNSへの気持ち、つきあい方がどんどん変わる」
 http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2015/01/sns.html

一人の人間でも、感じ方やマイルールが変わる。
ましてや違う人なら、ますますルールが違って当然だ。


私は顔つきへの興味から遺影を考え、エンディングノートに出会い、
いろんな人の人生を聞かせてもらい、いろんな人と人生を一緒に考えていくと、
「自分らしい生き方とは?」というテーマに当たる。
その「自分らしい」形は、人の数だけあることを再確認する。

しかも、同じ人でも時の経過とともに考え方が変わることも少なくなくて、
その変化も含めてその人らしさだと思うのだ。

社会環境の変化や時代の流れもあり、いろんな考え方があるし、
いろんな生き方がある。
それをできるだけ認めていきたい、というのが今の私だ。
たとえ共感できないとしても、だ。

人の人生って同じものはないし、
ある部分で共感できてもある部分では違うなと思うことがあるのは
当たり前のことだ。

そういう風にいろいろ許容できることこそが、
私にはオトナの余裕のように思えて、
自分自身もできればそういう人を目指したいし、そういう社会であればいいのにと思う。

SNSのコメントルールも、人それぞれ。
私には、そうだ!そうだ!と賛成だけというのはちょっとなじまなかったので、
その人のご呈示ルールのように、こちらの自己発信で書かせてもらいました。



3月15日朝日新聞で、コメントをご紹介いただきました。


第13回になる4月のテーマは、
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2015年3月16日

私だけの・・・プライベート○○

私が若かった頃、平均初婚年齢は男性28歳、女性25歳だった。
女性が売れるのは24がピークで、25を過ぎると途端に売れなくなると揶揄され、
クリスマスケーキなどと言われたものだ。

私が結婚したのは34歳のとき。
当時としてはかなり遅い方だった。

結婚式をするのに、私は若いお嫁さんと同じ場所ではイヤだった。
ピチピチと眩しいくらいの若さでキャッキャッしている20代前半のお嫁さんがたくさんいるところだと、花嫁衣装の女性が並んだりすれ違うこともあるかもしれない。
そういうのはちょっとイヤだと思ったからだ。

今考えてみると、若さに大差ないし、つまらないプライドにも思えるのだが、
結果的に私たちは会場を私たちだけで貸し切って結婚式をした。
大事な方々を自分たちの家に来ていただくようなら形を目指した。
もう20年も前のことだが、当時としては珍しい形だった。

私にとっては、大満足だった。
私の家にお招きするような形。
私たちらしい形をとことん追及できた。

こちらはアロマセラピーのプライベートサロン、KYO-ZON
セラピー前のラウンジも、自分だけの空間だ。


吉祥寺駅から徒歩2分、完全予約制。
オーガニックコスメを使用、オールハンド。
季節に合わせたコースが用意されるが、個人に合わせた内容だとか。

プライベートビーチ、
プライベートレッスン、
プライベートジェット・・・

私だけの・・・、自分たちだけの・・・
若い時は気にならないことも、年齢を重ねるにつれてわがままになり、
こだわりも強くなるから、私のためのサービス、私たちのための空間を
求めるようになる。
だからプライベート○○は、満足度は高い。

先ほどのプライベートサロンKYO-ZONも、
聞けば、40代以上のお客様が多いそうだ。
オーナーは、セラピストの栗田奈穂さん。

私の場合、元々わがままではあるとは思うけど、
大人になればなるほど、自分を大事にしたくなってきた。
自分らしくありたいと年々思うようになっている。

我慢が美徳だとは思わない。

プライベ-ト○○は、
「いろいろあったけど頑張ってきたよね、私。」という自分へのご褒美だ。

2015年3月15日

生き方が顔に出てくる。だから声が聞こえてきそうな写真を。・・・ 取材されました

毎週日曜日の朝日新聞のページ、Reライフ。
今日、3月15日のテーマは遺影だった。

巣鴨の百歳王写真館が取り上げられていた。
ここは去年秋にオープンした写真館。
オーナーの小野さんは、百歳(以上)の人を200人以上撮影してきたカメラマンだ。

小野さんが撮影する百歳(以上)を見ると、
思わず「いい顔!」と言いたくなるような顔が次々と・・・!
そこには、目鼻立ち以上に大事な「何か」が確実にある。
年齢を重ねた人の顔と言うのは、生き方そのものだとつくづく思うのだ。

そんなこともあって、先日開催した「いい顔撮影会」は百歳王写真館で、小野さんに撮影をお願いしたのだ。

さて、その小野さんが紹介された記事で、少しだけ私のコメントも掲載されました。


思えば、私が顔に興味を持ち始めてからどれくらいたつだろう。
最初は10代の頃からだったけれど、生きざまが滲み出てくる顔、顔つきに興味を持ち始めたのは30代になってから。
その究極が遺影だと考えるようになったことがきっかけで、私はエンディングノートに出会ったのだった。

顔、顔つき、遺影についてだったら、言いたいことがいっぱいあった。
なかなかそういうことを書くご縁には恵まれず、でもエンディングノートについて書くご縁をいただいて書かせてもらったのがこの本。



エンディングノートというと、
相続関係や葬儀関係、法律関係等の、終活のプロ、専門家と言われる方々が
監修したり、解説したりすることが多いなかで、たぶん私はとても異色。
なんせ、広告業界出身で、終活業界とのご縁も実績もなかったのだから。

だから、あくまでも一般の人目線で
エンディングノートにどんな問題があるのか、どんなメリットがあるのか、
どうやって書けばいいのか、をこの本で書いた。

ただ、正直言って私は顔に興味があり、遺影への関心が強かった。
エンディングノートの入口も、まずは顔だ。
顔には生き方が滲み出てくるから、同時にその人の生きざまにも興味があった。
だから、拙著には遺影に関わる私の思いや、考え方、エンディングノートとの関係などが出てくる。

今回、遺影についての取材を受けた際、担当の記者さんがこの本をよく読んでくださった。
こちらは、記者さんが持参された拙著。



ちなみに朝日新聞「Reライフ」コーナーでは、去年夏のテーマ、エンディングノートの際にも取材を受け、今回は第2回目。

こんなにいっぱい付箋があり、嬉しくなって、思わず写真を撮らせてもらいました。
記者さんによれば、上の付箋は、エンディングノートの書き方、ポイントだそうで、
横の付箋は、遺影に関係する内容なのだとか・・・。

エンディングノートも、遺影も、その人の人生が大きくかかわる。

人の生き方、人の生きざま。
そういうことに興味があるって、誰だってそうじゃないかと思うのだが、いかがだろうか?
人の魅力って、どんな生き方をしてきたか・・・そういうところに、ぎゅっと詰まっているのでは?
そう思うのは、私だけじゃないと思うのだが、いかがでしょう?

みんな、人の生き方に感動したり、腹立たしく思ったりするのではないかしら。
近しい人であれば、どういう人生だったか知りたい、と思うのはごく自然なことではないかしら。

私は、エンディングノートって、そういう生きざまを改めて自分自身で考えたり、
それを誰かに伝えたりするためのものだと思う。




第13回になる4月のテーマは、
「宗教のはなし ~生きる上で仏教が果たせる役割~」。
お坊さんにお話を聞きます。
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ちなみに今日の掲載記事はこちら。



2015年3月13日

その人の「素(す)」に魅力が詰まっている

ふとした時に出る「素(す)」の表情に魅力が詰まっている

これ、直木賞作家、西加奈子さんが、NHK[あさイチ」(3月13日)で語っていた。
私も、まさしくそう思う。

メチャクチャ偉そうな人が、ふとした時に見せるあどけなさや弱さ。
頼りなさげな人が、ある瞬間に見せる力強さ。
・・・

人の魅力って、そういう時にぐっと高まると思うんだけど、どうだろうか。

それが見える表情、顔に、私はとても惹かれる。
ちょっと眉が上がったり、目が力強くなったり、目尻に優しい皺が出たり。

今まで怖そうに思っていたから、直接会うのは避けていた。
悪い人じゃなさそうだけど、仕事を頼む気持ちにはならない。
・・・そういうこと、意外に多いのではないだろうか。

だけど、抱いていたイメージとは違うことがわかると、
一気に距離感が縮まる。
だったら一度会ってみようかな、
仕事をお願いしてみようかな、と思うことはないだろうか。

そういう時に、「顔」のチカラって結構大きいはずだと私は思っている。

西加奈子さんの言葉は、それをうまく表してくれた。

日常の顔、できるだけ自然ないつもの顔を出していくことももちろん大事なんだけど、
そういうふとした時に出るまた別の「素」の顔。

意外に本人は、
日常の顔も、「素」の顔も、あまり気づいていない知らない顔だと思う。
本人が知っている自分の顔というのは、仏は鏡に映っている顔だから。

だから、どうしても証明書写真風のきちんとした写真や、
ちょっと斜めに立ってモデルさんのように綺麗なオスマシ写真が選ばれ、
世の中にはそういう顔がよく出てくるのだろう。

もちろん、ビジネスの写真はちゃんとプロに撮ってもらいましょう、
というコンサルタントが多いのは事実だし、私もその方がいいとは思う。

けれど、人が心を動かされる顔というのは、
必ずしもきれいな写真とは限らないことを知っておきたい。
私が顔、それも顔つきにこだわっている理由の一つに、そういうことがある。

会社の顔として出す経営者の顔写真、
相談業務が多い士業のプロフィール写真、
・・・

仕事ができること、優秀であることはもちろん大事なことではあるけれど、
お客様はそれだけではない「何か」を求めているのも事実。

その人はどんな人で、どんな強みがあって、
仕事をするときにどんな顔をしているのか。
私が顧客だったら、そういう顔が見たい。
そして、できればその顔に、その人のビジョンが垣間見えたり、
ちょっと想像できそうだったりしたらベストだと思う。

誰もがきちんとした写真がいいとは限らない。
本人が気づいていない魅力的な顔がきっとある。

ちなみに、西加奈子さんが直木賞を受賞した作品はこちら。




正直なところ、私は上記作品も今までの西加奈子さんの作品も読んだことがなく、
西加奈子さんがどういう人なのか知らない。
けれど、
ふとした「素」が出る表情に魅力が詰まっている
と言うところに、「そうそう!」と思ったので、改めて作品を読んでみようと思う。



トラベシアの、「その人らしい“いい顔”撮影会報告」

2015年3月12日

その人らしい「いい顔」撮影会 ご報告

1ヶ月以上も前になるけど、「いい顔」にこだわってきた私が主催した撮影会にご報告です。


1月31日(土) 、その人らしい「いい顔」をとらえる「“いい顔”撮影会」を開催しました。


撮影場所は、東京・巣鴨の百歳王写真館で。

 遺影にしてもいいくらいお気に入りの写真を持っていますか?
 あなたのプロフィール写真は、ウソをついていませんか?

・・・そんな呼びかけで、
長年「いい顔」にこだわってきた私が、事前セッションとセットで開催した撮影会。

撮影会の約1週間前に、これまでのご経験や思いを伺う打ち合わせ(=ヒキダシストセッション)を行い、そのお話をもとに、いい顔を引き出す撮影を行いました。

ちなみに撮影会ではありますが、私自身はカメラマンではありません。
私が行う撮影プロデュースも、撮影会も、撮影するのは
もちろんプロのカメラマンの方。
私は、ただお話をお聞きする係です。

と言うのも、その方の本当にいいお顔を引き出すうえで、
どんなお話をしながら撮影するかが大事だと考えているからです。
人によって、それは嬉しい話だったり、苦労話だったり、人それぞれです。

だから撮影の数日前に実際にお会いして、お話をお聞きし、
どんなお話の時にどんな顔をするかを事前に確認してから撮影に臨みました。


数十点の写真を納品するのですが、その際には、
カメラマンチョイスとヒキダシストチョイスをそれぞれ選びます。
ご自身が選ぶお気に入りの顔と同じかどうか?!・・・それもお楽しみの一つ。

撮影会だから、できあがった写真を納品するのはもちろんなのですが、
 
 撮影に当たって(撮影中に)どんなお話をしたか、

 その人はどんなお話をしている時にどんなお顔をされるか、

 どんなお話をした時にその人が魅力的になるか、目が輝くか、


・・・そんなことも、簡単なメモにして添えました。
これまでは口頭でお伝えするのみだったので、
このメモ添えは今回初めての試みでしたが、これが好評でした。

当日の様子はトラベシアの過去の開催ページでもご紹介しています。


いい顔を引き出すプロフィール撮影をご希望の方、承ります。
お申し込み・お問い合わせはこちらから。


2015年3月11日

抗わない。畏怖の念を抱く。

3月11日、忘れもしない、東日本大震災の日。
あらから4年たった復興の様子にスポットを当てたニュースを、
ここ数日はよく目にするようになった。
地域によっていろいろな復興の形がある。

いかに防ぐか。
それを目指す形がもちろんあるのだけど、
それとは少し違う形の方向、「いなしの構造」という言葉があった。

8日のサンデーモーニング(TBS)で 造園家の涌井雅之さんが語っていた言葉だ。

津波を超えさせない壁を作るのではなく、
もし津波が来ても逃げられるような整備をする。
力を分散して被害を最小限にするようにする。
・・・・すなわち「いなす」のだ。

住んでいた人々は海が生活の一部だったのだから、
海が見えないくらいの壁を作るんじゃなくて毎日海を眺められるように。
そのために暮らしの拠点は高台で。
でも万一の時には水が抜けて流れやすい構造にして津波の力が弱まるように。

抗うのではなく、自然への畏怖の念を払う。
自然の暴走をいなすのだ。

いなす。
大事な考え方だと思った。
他にも通じる考え方だと思う。

例えば、今の時代だからこその人の生き方。
いろんな人がいる。
いろんな価値観がある。
合わないからと言って抗う(争う)のではなく、いなす。
人や価値観の存在自体は認めながら、ねじ伏せようとするのではなく、
いなすのだ。

例えば、年齢。
アンチエイジングに注目が集まり、いかに若くあるか、若く見えるようにするかばかりが重視されがちだけど、年を重ねること自体をいなす。
やってくる老化に抗うのではなく、そのまま受け入れてただ老化するのでもなく、いなす。

いろんなことをいなす。
抗うよりも、結果的には継続した強さが発揮される。

たぶん人生というものは、いなしの連続なのかもしれない。




4月8日のテーマは、宗教のはなし~生きる上で仏教の果たせる役割~
お坊さんに招いてお話を聞きます。体験参加受付中。

2015年3月10日

自分の顔のよさって、意外に自分ではわからないものだ

私がブログを始めてからは、もう5年以上経つけれど、
ネット上に自分の顔写真を出すようになってからはまだ3年経つか経たないか、だ。

自分の顔を出す、というのはなかなか勇気が必要だった。

ブログは遊びだけでなく、
仕事をいただくツールの一部としても位置づけていたので、
本来なら顔出しをしっかりするのが当然なのだが、これがなかなかできなかった。

いやいや、顔なんて出さなくていいでしょ?!
ずっとそう思っていた。

顔が出ていないので、私の大体の年齢も不明だ。

しかし、何もないのもちょっと・・・と思い、似顔絵を出していた。
髪型、輪郭、眉、目、鼻・・・それぞれのパーツごとに何種類もあるので、
その中から自分に近いものを一つづつ選んでいく。
そうすると似顔絵が完成するのだ。
絵心がない私でも簡単に作ることができ、それをブログに掲載していた。

しかし、似顔絵は写真とは違う。
似顔絵が出ているということは、写真を出せないと言っているようでもあり、
却って怪しくも見えただろう。

その結果、私を知らない人のためにあるべきはずったブログが、
私を知っている人が私を確認するためのものになっていったように思う。
知らない人に知ってもらうために書いていたのに・・・。

今になって考えてみると、
なぜそんなに顔出しができなかったのかがよくわからない。
自意識過剰も甚だしい(苦笑)。

そんな私が、顔を出すようになったきっかけがあった。

それは、初対面の人(女性)と名刺交換をし、
お互いに簡単な自己紹介をした後のこと。
私が書いていた遺影のブログの話題になり、
その人が私が書いている遺影ブログに興味を示してくれた。

彼女はとても感じの良い女性だったこともあり、帰宅後に私は、
御礼と合わせてブログのURLをメールしたのだ。

後日、彼女からブログを見たと返信をもらったのだが、
そこに書いてあったのが、

石崎さん、ブログの似顔絵、うーん、っていう感じです。
遺影じゃないけれど、実物はもっと素敵なので、
イラストもっと素敵に描いてもらった方がいいのに、と思います。

私は、遺影が残念な形になるともったいない、と言う話をしていて、
遺影ブログでもそういうことをしばしば書いていたのを受けてのことだった。

これには正直とても驚いた。
なぜなら、私は実物(写真)を出すよりもよいと思って、似顔絵を出していたからだ。

彼女に、自分の似顔絵は頼んだイラストではなく、
自分でパーツを選んで書いたお手軽制作であったことを伝えたところ、

自作ですか!なるほどね〜。
だからきっと、謙遜が絵にでちゃってるんですね。

と再び返信が返ってきた。

強みとか、長所とか、魅力とか・・・・
自分自身の棚卸しが必要だといろいろな場面でよく言われるけれど、
自分で自分の肯定的な棚卸しをするのは、意外に難しいものだ。
それどころか、勘違いと言うこともある。

それが目に見えないことならいざ知らず、
目に見える「顔」のようなわかりやすいものでもそうなのだ。

他の人が魅力に感じてくれる顔は、
意外に自分から見たらどうってことない顔なのかもしれない。
自分でいいと思う顔は、
他の人から見るとあまりよくないことがあるのかもしれない。

この人、本当はもっと素敵なのに・・・。
この人、ちょっと勘違いしてる・・・。

私のことはわからないけれど、他の人の顔写真を見るとしばしばそう思うことがある。


他人の方が自分の魅力をよく知っている。
他人がいいと思うことに、自分では意外に気づかないものだ。

私にそう気づかせてくれたのが、その彼女のメールだった。
2011年11月のことだ。

今でも彼女の言葉にはとても感謝している。


2015年3月9日

このブログの歴史・・・いろいろあったけど、今のところはコレ一本

このブログ、今のタイトルは「人生ってなんだ?!」だけれど、
当初は「お仕事ブログ」としてスタートした。
私が会社を辞めてから、さてどんな仕事をしようかしら?と思いながら、
とりあえずはご依頼いただいたことを一つづつありがたく受けていこうと
思っていた頃にスタートしたブログだ。

会社の看板がなくなり、自分が何者かも説明できなかった私は、
当時ホームページもないし、ブログくらい書かなきゃいけないかな、
と思って始めたのが発端だった。

言わば、初めて仕事をする人に向けて私を知ってもらうため、
プロフィールを出すためのものだった。

だから「お仕事ブログ」としたのだが、
お仕事と言いながら、仕事の内容を書くことはあまりなかった。
なぜなら、仕事の内容は基本的には秘密保持。
公開してもいいような仕事の話があまりなかったからだ。

それでも、仕事をする上でどんな人かを知ってもらわねばならないと考えて、
仕事に少しは関係しそうな話題を意識して取り上げた。
だけど、しばしばネタに困り、仕事とは少し遠い内容を書くこともあった。

思い起こしてみると、私は今までにいくつかのブログを書いてきた。
一つのブログでいろんなことを書けばひとつで済むのだが、
テーマによってブログを使い分けていたから、
いつのまにかブログがいくつもできたのだ。

日々の何気ないことだけ書いていたブログ、
会社を辞めようと思ってから退職日までを綴ったカウントダウンブログ、
顔、遺影について思うことを書いたブログ、等々・・・・

このブログ以外にもいろいろ書いていたのである。
1月7日に、ネット上に生き続ける記事について書く際に、そう言えば・・・と、昔私が書いていたブログを思い出した。
中には、PCの代替わりでブックマークもみつからず、ID/パスワードもわからず、もはや探せないブログすらある。

いろいろ書いてはいたけれど、それらはしばしば更新が滞った。



いくつかあるブログの中で、数年前は遺影についてのブログを一番頻繁に更新していた。

アメブロ
遺影について思うこと~自分らしく生きるために~

きっかけは、家族の遺影だ。
元々、私は人の顔に興味があったことがその背景にある。
特に生き方が滲み出る顔に興味があった。
当時、遺影について書いている人なんていなかったし、
書きたいことが尽きることはなかった。

しかしネタに困らなくても、書く時間のやりくりには困ってしまい、つい更新が滞る。
しかもこのブログと遺影のブログ、両方更新するとなるとなかなか更新は頻繁にはいかなくなった。

本来ならブログはテーマ別にして、
それぞれテーマを絞った内容でいくつも書けばいいのだろうが、
二つ三つを同時並行するのは、私にはどうにも無理ムリ。


遺影のこと、顔のこと、
生き方・働き方に関わること、
終活(エンディング)に関わること、
ブランディングのこと・・・

書きたいことは、概ねこういうテーマに分類されるのだが、
そこに明確な線引きも難しくなり、
結局、このブログにすべての内容を統合させることにして今に至っている。

人の生き方に興味がある。働き方に興味がある。
どんな人にも物語があり、そこには魅力が詰まっている。
それが顔ににじみ出てくる。特に年齢を重ねると。

そういうことをもっとブランディングに生かすべきだ。
生きざまが表現された顔を、ブランディングに活用した方がいい。
・・・そういうことを考え、それを私の仕事の中心にしていこうとしているので
このブログでは、
人の生き方(人生)に関わることならなんでも書いていこうと思っている。


ブログは、自分の歴史でもある。



2015年3月8日

残存能力を奪わないで。

高齢者に対して優しいことはたしかに大事なことだ。
だけど、そのせいで高齢者が弱ってしまうこともたくさんあるような気がする。

子どもがいない一人暮らしをしている80代の女性が、
「私は一人だから、誰も頼ってなどいられない!」
と言いながらも元気で暮らしているのを見ると、特にそう思うのだ。

なんだって自分でしなきゃいけない~というのは
大変なことではあるけれど、でもそのおかげでその能力が衰えずにいられる。

心配する、という愛情のせいで、残像能力を奪ってしまうのはあまりにもったいない。
よかれと思う周りの気遣いが弱らせてしまう。

80代の私の恩師は、子どもが心配するからと行動を控えておられた。
それによって自分が弱るかもしれないという自覚などたぶんないと思うし、
もちろん心配する子どもの方も、そんなつもりなどあるはずもない。

心配するあまりに弱らせてしまうのは、意外に親孝行な人が陥りがちなことだと思う。

だけどこれ、実は私自身も、全くもって他人ごとではない!
高齢者の暮らし問題だけではないと思うのだ。

会社員をやっていると、なんでも会社(の人)がやってくれる。
偉くなれば、秘書がなんでもやってくれる。

お茶を煎れてくれる、
コピーをとってくれる、
メールを見て出力してくれる、
スケジュールを管理してくれる、
手土産を用意してくれる、

エラいオジサンの場合、いろんなことを周りがやってくれる。
知らないうちに何もできない人へと育てられていく。
そのため、会社をやめると一人では何もできなくなってしまうことになるのだ。
だから、定年退職した男性は、それも偉ければ偉いほど大変なことになってしまう。

私も会社を辞めてフリーランスで仕事をスタートした時、
別に偉くなんてなかったのに、
さてパソコンの設定をどうしよう?
会社でやっていたような出力やスキャンはどうやってやろうか?
セキュリティは?    等々・・・
当たり前に思っていたことも、実は自分では意外にできなくて、
何でもかんでも自分でやらなきゃいけないことにはほとほと参った。 

考えてみれば、私も会社員時代にはずいぶん後輩たちに世話になっていた。
若手から「石崎さんはPCリテラシーが低いから・・・・」って言われたよな~などと
ふり返って苦笑いしたものだ。

でも見方を変えれば、それは能力が育つ機会が奪われている、とも言える。

面倒でもやった方がいい。
暮らしも、仕事も。

私の周りには優しい人が多いし、私も甘ったれで怠け者だから
ついつい、やって!教えて!とすぐ言ってしまう。
頼ってしまう。
でも、それであとから自分が痛い目に会うのだ。

周りの人がやさしいのはとてもありがたいし、嬉しいことなんだけど、
危ないアブナイ。
自分が何もできなくなる方へと急降下していることでもある。

経験を重ねると目をつぶってもできることが増えてくる分、
そうでないことは丸投げしたり、やってもらうことをあたり前に思ったりする。

でも、なんでも少しづつやってみることに意味がある。
そのおかげで、数年後には
私のPCリテラシーが低いと言っていた若手にもちょっと褒められた。

誰だって年をとるし、年をとることで衰えることもある。
体力とか、記憶力とか、新しい技術を身につける力とか・・・・
だけど、だからと言って人にやってもらうと、
せっかくある自分の能力が急速に錆びてしまう。

残存能力は磨かないと。
キープすらできなくなるのだ。

年老いて弱った親を見ていて、
やってあげることは、必ずしも親切なんかじゃない、と思う。
親とのつきあい方として最近考えることの一つでもある。
多少、親不孝と思われたとしても、わざと助けない。やってあげない。
そんなやさしさもあるのだ。

家の中でも、せっかく親切にしてくれる夫に対して
私は失礼ながら「私の残存応力を奪わないで。」と言うことがある。
そのせいで、最近は夫に高いところに置いてあるものを取ってほしいと頼むと
「自分でやらないとできなくなるよ」と言われる。
そうだった、そうだった・・・・(苦笑)。

今の私も
もし周りが助けてくれない時には、それはラッキーなんだと思うことにしよう。


きっとそれが、オトナの生きる道なんだと思う。


念のため、補足しますが
私はなんでも自分でできなくてはいけないと思っているわけではありません。
苦手なことは誰かにお願いすればいいとも思っています。
ただ、それによってもしかしたら自分ができるようになるかもしれないのに
どんどんそれができなくなる。
しかもそうなっていくことに無自覚であるというのは怖いと思うのです。





2015年3月5日

そう言えば・・・行きたいところ、やりたいことがいろいろ。京都のひとり歩き、街歩き・・・

昨夜から京都に行っていた。
ある勉強会で出会った人に会いに行ったのだ。

お互いの仕事に接点があったのだが、その人に会った時にあまり時間がなく、
改めてゆっくり会いましょう、と言ったら、
なんとその人が京都在住で、独立して約1年の人だった。

4月に東京に来るかも・・・・と言う話だったが、
私も身軽なフリーランスだし、それだったら私が京都に行きます!ってことに
なった次第。

会社員じゃなくなって一番いいのは、こういうふうにフットワークよく動けることだ。
その分、出張費を会社が出してくれない、といデメリットもあるけど。

当初は日帰りの予定だったが、せっかくなので1泊することにしたら、
今度は次々とその人と関係する人にお会いする機会が設定された。
打ち合わせの場所になったカフェも、これまた京都らしい。



生まれてからずっと東京の私から見ると、
京都という街はどこに行っても絵になる街だ。
小さなビジネスホテルの窓の外には五重塔がすぐ見えて、
その向こうには山が広がる絶景で、でも足元に見えるのは普通の民家で、
だけどその民家も街に調和するようなデザインで、
街歩き自体がエンターテイメントだ。


いつもより早起きして、朝食後に近所のお寺まで散歩をした。


そう言えば、私、京都い行きたいたいとずーっと思っていたんだった。
もう20年くらいしてないけど、私、一人でふらっと旅がしたいとも思っていたんだった。

歩きながら、そんなことを思い出していた。

忙しい日々が続いていると、
やりたいこと、行きたいところを後回しにしていくうちに時がどんどん過ぎていく。
そういう忘れ物が、いったいどれくらいあるんだろう・・・?
だけど、一つ思い出すと次々つながって、
やりたかったこと、行きたかったところ・・他にもいろんなことを思い出してくる。

いつのまにか私は、やりたい、行きたいと思いながら、
どこか億劫に感じたり、面倒に感じていたような節がある。
だけど、今回京都での隙間時間を使って少し歩いたことで、
面倒とか億劫とかの鎖が少し外れたような気がした。

そもそもエンディングノートは、
人生をふりかえり、これからの人生を考えるものであるから、
中にはやりたいこと、行きたい場所を書く欄を用意されたものが時々ある。
エンディングノートを語る場合に、
葬儀とか相続とか「死」の周辺ばかりが注目されがちだけど、
それだけでなく、これからの人生でやりたいことにも目を向けたいと私は常々考えている。
エンディングノートは、やりたいこと、行きたいところを思い出したり考えたりする
きっかけとしても、使えると思うのだ。

日々に流されがちな中で、最初のステップは思い出すこと、考えること。
だけど、「思うだけ」ではまだ足りないのだ。
・・・・行動すること。
行動につなげないと。

動くまでは、なぜか面倒。やっぱり億劫。
でも動き出してみると、意外にそうでもない。


動くということは、負の回転を逆回しにしてくれるのかもしれない。


2015年3月3日

40歳以上~50代、60代のオトナがイキイキ生きていける世の中にしたい。

ダイヤモンドの記事によれば、オジサン社員が「お荷物」化して、企業経営を悩ませているのだという。
働かないオジサンは、若手社員の大きなストレスなのだそうだ。

自分がまだ若かったころの会社を思い出した。
終身雇用が当たり前で、年齢とともに給料が上がっていた時代だったが、
バブルが崩壊して少しづつ会社の状況が厳しくなり、以前ほどの賞与が見込めなくなっていた。

仕事をどんどん拡大し、ガンガン働く自分たち世代に比べて、
はるかに高い給料をもらう大先輩たち。
働いた分だけ分配されないのは、割に合わないと思った。
全体から見ればそういう大先輩はわずかなのだが、大先輩たちが呑気に見えた。
仕事帰りの飲み屋では、少し上の先輩たちと一緒にそういう話をよくしていた。

しかも残念だったのは、かつて活躍していた大先輩までもが、
定年が近くなっていくとその傾向が強くなるように私には感じられるようになった。

その後まもなく成果主義が当たり前の時代になり、給与体系もそれに伴って変わっていった。
それに伴って次第に現場から浮いていく大先輩が私は気になるようになり、
精彩を欠いていく様を見ると、せつなくなった。

自分の将来はどうなるんだろう・・・。
私はずっと会社の最年長女子社員だったこともあり、目標がみえづらくなっていた。

ああいう風にはなるまい・・・。
私が会社を辞めようと思ったきっかけは、そこにあったような気がする。

私は幸運にも仕事が好きだったので、忙しいと文句を言いながらも、働くことがイヤだと思ったことはない。
若い頃は末端仕事まで仕事はいろいろあるし、誰もがガンガン働けるけど、
ずっと会社にいると、好きな仕事ができなくなるのかも?
長くいると好きじゃないことをしなくてはいけなくなり、つまらなくなるのかも?

会社に長く居ることで好きな仕事を奪われるくらいなら、
好きな仕事に囲まれている今のうちに、自分で自分の次の仕事を作ろう。
・・・そんな風に思ったのが、私が会社を辞めることを考え始めるきっかけだった。

追われるよりは追っていきたい。
そう思ったのだけど、ちょっとカッコをつけたかったのかもしれない。

私自身、長いこと仕事ばっかりしてきたせいか、
今になって、ときどき自分がかなりオヤジ化しているな、と感じることがある。
下戸だったくせに、
コミュニケーションが大事だからと誘われれば大体飲みに行き、
仕事も若いうちは残業は当たり前と思い、
仕事場にプライベートを持ち込むことを是とせず
・・・長くそういう感覚でいたのだから、まあ典型的なオヤジだ。

ダイヤモンドの記事を読んで、
もしあのまま会社にいたら、若手から迷惑がられていたかもしれないと思った。
まだガンガン働いているうちに辞めたおかげで、そんな風に思われずに済んで本当によかった。

きっかけはそうだったけれど、そもそも私が目指していたのは、
年を重ねた大人がしょぼくれることなく、
イキイキワクワクと生きていける世の中にしたい、
それに貢献できることを何かしたい、
・・・ということだったと、今、改めて再確認する。

日々の仕事に追われ、雑事に追われている中で、
元々掲げていたはずの自分の思いを忘れそうになる。

何のためにこれをやっているのか。
うまくいかなければもう全部やめてしまおうかと思うこともある。

だけど・・・・・、そうだった。
私は、大先輩を見て自分の将来に希望が持てないような社会はおかしいと思っていたのだ。

素敵な先輩がいる社会は希望が持てる社会でもある。
それは、若い世代にとっても大事なことでもあるのだ。

私が自分らしい働き方や生き方を考える勉強会を行うのも、
エンディングノートとか終活にも関わるようになったのも、要はそこにつながっている。
しかもそれはあくまでもイキイキと生きていくために。

そして、その素敵な先輩の「素敵」を一番わかりやすく表現しているのが「顔」だ。
生きざまがにじみ出る顔。顔つき。
顔は説明不要。見てすぐわかる。バレてしまう。

そして今、本当に素敵な大先輩たちの存在が、今私に大きな力を与える。

オジサンとかオヤジという表現は、
どうも小バカにしたような匂いがプンプンしてしまうけれど、
そうではなく、改めて私は素敵なオジサンオバサン増殖計画を掲げていきたい。

2015年3月2日

新しく出会う人たちと、こんなご縁になればいい

数年前に会社を辞めたせいで、いろんな人と出会うようになった。


私が会社員の頃は営業だったから、
出会う人の数から言えば今以上だったのかもしれないのだけれど、
当時新たに出会うの方々の中心は仕事関係。
お客さん、営業先、仕入先・・・。言わば利害関係がある。
アフター5に過ごすのも、会社関係の人が多かった。

それが今、仕事に関係するかどうかはよくわからない人や、
明らかに関係ない人たちと、いろんな場で出会うようになった。

それは、面白そうと思って出かけた先で出会う人、学びの場で出会う人、
知り合いの知り合いで出会う人・・・

たぶん会社を辞めなかったら出会わなかっただろうと思われる面白い人が
たくさんいる。

会社員じゃなくなり、1人で仕事をする上で意外と苦しいのは、
私にとっては孤独だった。

1人ぼっちが寂しいというのではない。
自分だけの思考回路に陥ってしまうこと、
思考が同じところをぐるぐる回るばかりで、思考停止になっていくこと、
刺激が少ないこと、・・・

私にとっては、そういうことがしんどかった。
そこに私の怠け者根性が加わるとどうしようもなくなるので、
意識してときどき新しい出会いを求めた。

だけど、異業種交流会とかはちょっと苦手。
次々と名刺交換して知り合いを増やすというのも、ちょっと苦手。

私の場合は、数は少なくてもいいから、
私にとって面白いと思える人と、それっきりにならないような、
また会える関係になれる出会いが嬉しい。
それも、お金を払わなくては会えないような関係ではなく。
もちろん、お金を払いたくなるような出会いや、
お金をいただけるような出会いも大事なのだけど、それだけではなく、
お金が介在しなくても会えるような関係に発展しそうな出会いだ。

出会うときは発展するかどうかはなかなかわからないのだけれど、
今の私を支えているのは、
ここ数年のそういう出会いだと思う。

そういう出会いで、その人の生き方や考え方に触れ、
刺激をもらったり勇気をもらうことが多い。
新しい出会いに助けられている。

正直なところ、50年以上生きてきて、
今なお、新しく出会う人に支えられるとは思わなかった。



とは言え、怪しい人もいる。
そこは、時にはヤケドすることも授業料ということでヨシとして、
基本的には自分の直感を信じるしかない。

私がエンディングノートを使って生きることを考える提案をしている中で
強く感じるのが、人とのつながりだ。
どんな人とどのようなつながりを持つか
~これは人生を豊かにする上で影響は大きい。

数の大小が関係ないのはもちろんだが、
時間も必ずしも問題ないのかもしれないと思うことがある。
若い頃親しくても、
いろいろな経験を経てみて意外に今は分かり合えない人がいるものだし、
今だからこそ分かり合えたり、力をもらったりする人もいる。

新しい出会いはいろいろだけど、
私のこれからの人生を豊かにしてくれそうな出会いかもしれない・・・
・・・そう思うと、いくつになっても新たな出会いは、毎回楽しみになる。