依頼済みのことでキャンセルをするのは好ましくない。そんなことは当たり前のことだが、諸般の事情でやむなくキャンセルせざるを得ないことがある。
今回、既に発注済みであるにもかかわらず、キャンセルせざるを得ない事情が発生した。それもかなり直前のドタキャンだ。直前であればある程、キャンセルと言うのは、発注相手だけでなく、さまざまなその周辺にまで迷惑をかけることになる。できることならキャンセルは早めに、直前の場合はキャンセルは本来避けるべきだ。しかし急な事情でどうにもならなくて、キャンセルすることになってしまった。
まず、発注先にキャンセルする旨を連絡。ここでスムーズに話が済めばいいのだが、なかなかそうはいかない。感情的な不満や、その弊害の大きさなど、想定範囲内とは言え、実に心苦しいものだ。そういうことを一件落着させるほど、私には有効なノウハウなどない。
それでも、やはり大事なのは、本当にキャンセルせざるを得ないほどの事情なのか、相手から見てもやむなしと思ってもらえる内容なのか、がまず大前提だと思う。そのための熟慮なしに、迷惑をかけるような直前キャンセルなど、絶対にしてはならないのだ。そして、迷惑をかけて申し訳ないと心から思っているか、そしてそれがきちんと伝わるか、ということが次のステップだろう。
それが満たされたとしても、相手やその周囲に損害を与えるのは間違いないわけで、そこでどのようなお詫び(補償等)をするか、というのが次の段階になる。丸く収めるのは難しいことではあるが、最後は補償で納めるしかないケースもあるだろう。それでも、将来のことを考えれば、感情的な不満は最小限にしておきたいところである。
通常は電話とメールで連絡する相手ではあったが、今回、私はまず経緯の説明をしに訪問した。かなり険悪な状況ではあったが、相手の懐の大きさにも助けられてご理解をいただいた。さらに、改めてお詫びと補償の話をしに再訪問の形で出かけた。私自身、迷惑をかけた相手とその周囲には、心の底からから申し訳なく思っている。必ずしも100%ハッピーな解決をみたわけではないが、次回機会があればぜひまた・・・ということで決着ができた。結局のところ、ビジネス上でもそこに心がなければ、解決などできないと思い知った。
とは言うものの。今回の私の相手は、長いお付き合いがあったこと、相手の損害は大きかったがその方自身がいい人であったこと、などが今回は大きな助けになったのも、間違いない。
2010年10月21日
Twitterで奏効すること、しないこと
今週の週刊ダイヤモンドの特集は、「頑張らない介護&安心の老人ホーム」。
週刊ダイヤモンド編集部は、以前Twitter特集をやった時にその前から編集部がつぶやきまくり、本誌発売で一気にフォロワーを増やし、しかもTwitter上でも編集内容に関連してかなり盛り上がったことがある。今回の、介護特集については、編集部が発売前からつぶやきまくっていたものの、意外と反応は鈍かった。私自身は個人的に特集内容にとても興味を持っていたので、やや意外感があった。
と思っていたら、この介護特集の週刊ダイヤモンド、2万部の重版が発売日翌日の火曜日に決定していた。これで書店着は土曜日。もはや次の号の発売直前だ。この号の売れ行きのスピードがとても速かったことがわかるし、例え次号の直前であったとしてもまだまだ行けるという自負もあったのだろう。
週刊ダイヤモンドは、「FREE」や「電子書籍」の特集の時にも、編集部発の情報からスタートし、その後Twitter上では、掲載内容に関連して、一般の人たちでかなり盛り上がっていた。Twutterが販促に大きく貢献していく様子が、リアルタイムでわかったものだ。Twitterは、販促ツールとしてとてもおもしろいツールの一つだと、その時改めて私は感じたのだが、それはついこの前のことだ。
しかし今回の介護特集の場合で考えると、やはり今までの層とは明らかに違う層が反応(購入)したことがよくわかる。特集が大きな個性になっている週刊ダイヤモンドだからこそ、このように号によって大きな違いが出てくるのだろう。それにしても今回の週刊ダイヤモンドを購入した人たちは、どこで情報を得たのだろう。重版と言うことだから、定期購読等の恒常的読者ではない、スポット読者がかなり多くいたはずで、それは本屋さんの平積みを見て衝動買いが多かった、ということになるのだろうか。
本屋さんに来る人(ネット書店ではなく)にとって、介護や老人ホームというテーマが、身近で関心の高いテーマだとも言えるのかもしれない。
週刊ダイヤモンド編集部は、以前Twitter特集をやった時にその前から編集部がつぶやきまくり、本誌発売で一気にフォロワーを増やし、しかもTwitter上でも編集内容に関連してかなり盛り上がったことがある。今回の、介護特集については、編集部が発売前からつぶやきまくっていたものの、意外と反応は鈍かった。私自身は個人的に特集内容にとても興味を持っていたので、やや意外感があった。
と思っていたら、この介護特集の週刊ダイヤモンド、2万部の重版が発売日翌日の火曜日に決定していた。これで書店着は土曜日。もはや次の号の発売直前だ。この号の売れ行きのスピードがとても速かったことがわかるし、例え次号の直前であったとしてもまだまだ行けるという自負もあったのだろう。
週刊ダイヤモンドは、「FREE」や「電子書籍」の特集の時にも、編集部発の情報からスタートし、その後Twitter上では、掲載内容に関連して、一般の人たちでかなり盛り上がっていた。Twutterが販促に大きく貢献していく様子が、リアルタイムでわかったものだ。Twitterは、販促ツールとしてとてもおもしろいツールの一つだと、その時改めて私は感じたのだが、それはついこの前のことだ。
しかし今回の介護特集の場合で考えると、やはり今までの層とは明らかに違う層が反応(購入)したことがよくわかる。特集が大きな個性になっている週刊ダイヤモンドだからこそ、このように号によって大きな違いが出てくるのだろう。それにしても今回の週刊ダイヤモンドを購入した人たちは、どこで情報を得たのだろう。重版と言うことだから、定期購読等の恒常的読者ではない、スポット読者がかなり多くいたはずで、それは本屋さんの平積みを見て衝動買いが多かった、ということになるのだろうか。
本屋さんに来る人(ネット書店ではなく)にとって、介護や老人ホームというテーマが、身近で関心の高いテーマだとも言えるのかもしれない。
2010年10月14日
普通の人の「死」の捉え方
私事の話題で恐縮だが、今月、身内に不幸があった。
余命が限られた病気の宣告から亡くなるまでの間、今の医療の在り方、「死」の意味、死の捉え方と迎え方、家族としての送り方等々、考えさせられることが多い1年だった。中でも、気になったのは人生哲学や倫理観をたびたび問われたことである。
今の世の中、完治の見込みがない病気になった場合、医療機関は、おそらく患者本人にその事実をごく普通に伝える。今や、患者以外の家族だけに伝える、というケースは稀のようだ。インフォームドコンセントの重要性が言われて久しい今、病名についても「事実を伝える」ことが当たり前になっている。そのため、患者本人が例え知りたくなかったと後で思うかもしれなくても、事実は正しく伝えられるので、「知らずにいる権利」を守られることはないのだ。さらに、治療法に関しても、医師からいくつかの治療法が提示されるが、選ぶのは患者本人である。基本的には医師は選択肢を提示するまでである。その時に「患者さんの人生哲学や倫理感によって、どのような選択をするかが決まりますよ」と言われるのである。
本来、これは正しいことなのだろうが、それにきちんと対応できる患者は、果たしてどれくらいいるのだろうか?
日々自らの「人生」や「死」について考え、自分の倫理観を確立できている人は、どの程度いるのだろうか?
まず、患者にとっては、完治の望みが薄い病気にかかったという事実を受け入れること自体が、大変な作業であるのは間違いない。そしてそれを受け入れがたい人も数多く存在するであろうし、告知が原因で、もっと大変な問題が出てくることだってあるだろう。治療法の選択肢についても、確かに医師は細かく説明してくれはするが、そもそもベースの医学的知識が希薄な者にとっては、正しく理解することは容易ではない。
私の身内は、治療法を選択する段階では、いみじくも「先生の言う通りにしたい」と言った。
“自分のことは自分で決める”という考え方は、私自身は共感する。けれども、誰もがそう思うわけではない。日々そういうことなど考えずに生きている人は、少なくないはずだ。それに自分で決めずに済むことは、精神的に楽な面もあるし、“知らぬが仏”も事実だ。
人の権利とはなんだろうか? 人によって守りたい権利は千差万別なはずだ。
だから、一様にインフォームドコンセントの重要性を説き、事実を包み隠さず伝える今の医療の世界の正義は、必ずしも正しいとは、私には思えない。
身内のことながら、いい家族に恵まれ、お世話になった医療者の皆さまの説明やご厚意のおかげで、いい選択ができ、安らかな最期を迎えることができたと、今私は思うことができるが、なかなかそう思えないままに終わってしまうケースも多々あるだろうと思う。世の中には「死」を目前にしながらも生き抜く素晴らしさを伝える著書などは多く発行されているが、「普通の人」の死に方について、もう少し考えていければいいような気がする。
余命が限られた病気の宣告から亡くなるまでの間、今の医療の在り方、「死」の意味、死の捉え方と迎え方、家族としての送り方等々、考えさせられることが多い1年だった。中でも、気になったのは人生哲学や倫理観をたびたび問われたことである。
今の世の中、完治の見込みがない病気になった場合、医療機関は、おそらく患者本人にその事実をごく普通に伝える。今や、患者以外の家族だけに伝える、というケースは稀のようだ。インフォームドコンセントの重要性が言われて久しい今、病名についても「事実を伝える」ことが当たり前になっている。そのため、患者本人が例え知りたくなかったと後で思うかもしれなくても、事実は正しく伝えられるので、「知らずにいる権利」を守られることはないのだ。さらに、治療法に関しても、医師からいくつかの治療法が提示されるが、選ぶのは患者本人である。基本的には医師は選択肢を提示するまでである。その時に「患者さんの人生哲学や倫理感によって、どのような選択をするかが決まりますよ」と言われるのである。
本来、これは正しいことなのだろうが、それにきちんと対応できる患者は、果たしてどれくらいいるのだろうか?
日々自らの「人生」や「死」について考え、自分の倫理観を確立できている人は、どの程度いるのだろうか?
まず、患者にとっては、完治の望みが薄い病気にかかったという事実を受け入れること自体が、大変な作業であるのは間違いない。そしてそれを受け入れがたい人も数多く存在するであろうし、告知が原因で、もっと大変な問題が出てくることだってあるだろう。治療法の選択肢についても、確かに医師は細かく説明してくれはするが、そもそもベースの医学的知識が希薄な者にとっては、正しく理解することは容易ではない。
私の身内は、治療法を選択する段階では、いみじくも「先生の言う通りにしたい」と言った。
“自分のことは自分で決める”という考え方は、私自身は共感する。けれども、誰もがそう思うわけではない。日々そういうことなど考えずに生きている人は、少なくないはずだ。それに自分で決めずに済むことは、精神的に楽な面もあるし、“知らぬが仏”も事実だ。
人の権利とはなんだろうか? 人によって守りたい権利は千差万別なはずだ。
だから、一様にインフォームドコンセントの重要性を説き、事実を包み隠さず伝える今の医療の世界の正義は、必ずしも正しいとは、私には思えない。
身内のことながら、いい家族に恵まれ、お世話になった医療者の皆さまの説明やご厚意のおかげで、いい選択ができ、安らかな最期を迎えることができたと、今私は思うことができるが、なかなかそう思えないままに終わってしまうケースも多々あるだろうと思う。世の中には「死」を目前にしながらも生き抜く素晴らしさを伝える著書などは多く発行されているが、「普通の人」の死に方について、もう少し考えていければいいような気がする。
2010年10月8日
哀しいニュースと素敵なニュース
さて、先週末、業歴50年以上にもなる老舗広告代理店、中央宣興が事業停止し破産申請の準備に入ったというニュースが飛び込んできた。中央宣興は、ある時期、その仕事内容では高い評価を受けていたし、多くの社員を抱え、社員はクライアントのコミュニケーション活動を担っていたことを思うと、同じ業界にいた私には悲しいニュースである。
とは言え、景気低迷とともに、広告代理店の倒産は後を絶たない。「中央宣興が危ない」という噂はかなり前からたびたび耳にしていたし、特に驚くべき内容ではないのかもしれない。
ここで私が注目するのは、破産の事実よりも、その後のネット上での暴露情報である。業界内やその周辺にいる人たちから見れば、それら情報はある程度予測できることとは言え、経営陣への不信感や不満がネット上に一気に噴き出したのには驚いた。破産のニュースとともに、「中央宣興」で検索される数は大変なものになるはずだが、その検索結果に出てくるのは、大変な数の暴露情報が満載だからだ。
確かに中央宣興の経営陣は、暴露情報にあるように社員を大事にしていなかっただろうし、そのツケとしてこういうことになるのはやむを得ないことかもしれない。けれども、あっという間にここまでの情報がネット上に溢れてくるとは、つくづくネットは恐ろしいものだと感じる。そして、そういう情報が溢れてくることに哀しみを感じてしまう。こういう形で破産後に暴露される前に、もう少し早い段階でなんとかならなかったのだろうか?もう少し前に、マイナスのエネルギーをプラスに変えて、社員が路頭に迷うことなく破産に至らずに済ませることはできなかったのだろうか、と考えると哀しい。
一方で、嬉しいニュースは、ノーベル賞受賞のニュースだ。
さらにその事実以上に私が感動したのは、ノーベル賞を受賞した鈴木章さんのコメントだ。
「研究をやっていくと、人生においてもそうだと思いますが、何か機会に恵まれ、それを進めるとよい仕事ができるケースがある。こういうチャンスを神様は平等に与えて下さっていると思うんです。」「努力とか、注意深さとか、熱心さがないと幸運をキャッチできない。幸運をつかむ機会を大事にしなければいけないと私は考えています」「一生懸命やれば面白くなる。興味を持てば負担は感じないもの」「神が与える幸運もあるが、手を抜いては決して幸運はやってこない」「一生懸命やっていれば幸運にも恵まれる。」などなど。
そう、一生懸命の継続が幸運を呼ぶ、というその考え方は、とても素敵だ。私自身の信条に大いに重なるところだが、このコメントを知って、ますます私も日々そういう思いを抱いて仕事をしていきたいという思いを強くしたのである。
とは言え、景気低迷とともに、広告代理店の倒産は後を絶たない。「中央宣興が危ない」という噂はかなり前からたびたび耳にしていたし、特に驚くべき内容ではないのかもしれない。
ここで私が注目するのは、破産の事実よりも、その後のネット上での暴露情報である。業界内やその周辺にいる人たちから見れば、それら情報はある程度予測できることとは言え、経営陣への不信感や不満がネット上に一気に噴き出したのには驚いた。破産のニュースとともに、「中央宣興」で検索される数は大変なものになるはずだが、その検索結果に出てくるのは、大変な数の暴露情報が満載だからだ。
確かに中央宣興の経営陣は、暴露情報にあるように社員を大事にしていなかっただろうし、そのツケとしてこういうことになるのはやむを得ないことかもしれない。けれども、あっという間にここまでの情報がネット上に溢れてくるとは、つくづくネットは恐ろしいものだと感じる。そして、そういう情報が溢れてくることに哀しみを感じてしまう。こういう形で破産後に暴露される前に、もう少し早い段階でなんとかならなかったのだろうか?もう少し前に、マイナスのエネルギーをプラスに変えて、社員が路頭に迷うことなく破産に至らずに済ませることはできなかったのだろうか、と考えると哀しい。
一方で、嬉しいニュースは、ノーベル賞受賞のニュースだ。
さらにその事実以上に私が感動したのは、ノーベル賞を受賞した鈴木章さんのコメントだ。
「研究をやっていくと、人生においてもそうだと思いますが、何か機会に恵まれ、それを進めるとよい仕事ができるケースがある。こういうチャンスを神様は平等に与えて下さっていると思うんです。」「努力とか、注意深さとか、熱心さがないと幸運をキャッチできない。幸運をつかむ機会を大事にしなければいけないと私は考えています」「一生懸命やれば面白くなる。興味を持てば負担は感じないもの」「神が与える幸運もあるが、手を抜いては決して幸運はやってこない」「一生懸命やっていれば幸運にも恵まれる。」などなど。
そう、一生懸命の継続が幸運を呼ぶ、というその考え方は、とても素敵だ。私自身の信条に大いに重なるところだが、このコメントを知って、ますます私も日々そういう思いを抱いて仕事をしていきたいという思いを強くしたのである。
2010年10月1日
考える力とコミュニケーション力
9月1日にアップした「言葉の意味」からさらに1歩前に進めて考えてみたい。
難しい言葉で言うのは簡単だが、平易な言葉で言うのは難しい。本質まで理解していないと、平易な言葉にはできないからだ。だから難しい言葉でもっともらしく説明するのは、物事を理解していない証拠でもある。言葉をちゃんと理解しているかどうかは、そこに至るまでに自分の中できちんと考えているかどうかによるところが大きい。だから、難しい言葉の意味を理解しないまま使うと、思考停止にはまっていきかねない。
「コミュニケーション」とは、そういうことに裏打ちされた言葉を使って初めて成立するものだと私は考えている。だから、俗に言う「コミュニケーション能力」とは、物事の本質を理解できるかどうかの能力でもあるわけだ。その理解がなければ、相手に本質が伝わり分けなどあり得ないのだから。話し方や文章が上手かどうかなど、二の次、三の次だ。
インターネット環境やマニュアル文化が浸透し、仕事環境はとても便利になった。しかしそのせいで近視眼的にしか物事を見ない(=本質を理解しない)ままに仕事を進める人が、若い層で増えてきた感がある。“作業”が早いことが、“仕事”ができることであると勘違いするムードがあるのも一因かもしれない。ベテランが若い世代を便利使いし、「考える」「理解する」ことを重視しないために、「考える」ことを育む環境が減っている側面もあるのだろう。
しかし、例え今の“作業”が遅くとも、「考える」「理解する」ことを続けているかどうかは、数年後に大きな差が出てくるはずだ。それを放棄して“作業”ばかり早くなっても、いざ困難に直面した時に課題の発見も解決もできなくなるのは間違いないと、私は確信している。
今私が接している若手営業マンたちには、キャリアが浅い分、砂漠に水がしみ込むように少しづつステップアップしていくのを感じる。だからこそ、本当の意味でのコミュンケーション能力を、今の時期しっかり磨いてほしいと思うし、「考える」ことの重要性を感じ続けてほしいという思いを胸に、日々接している。
難しい言葉で言うのは簡単だが、平易な言葉で言うのは難しい。本質まで理解していないと、平易な言葉にはできないからだ。だから難しい言葉でもっともらしく説明するのは、物事を理解していない証拠でもある。言葉をちゃんと理解しているかどうかは、そこに至るまでに自分の中できちんと考えているかどうかによるところが大きい。だから、難しい言葉の意味を理解しないまま使うと、思考停止にはまっていきかねない。
「コミュニケーション」とは、そういうことに裏打ちされた言葉を使って初めて成立するものだと私は考えている。だから、俗に言う「コミュニケーション能力」とは、物事の本質を理解できるかどうかの能力でもあるわけだ。その理解がなければ、相手に本質が伝わり分けなどあり得ないのだから。話し方や文章が上手かどうかなど、二の次、三の次だ。
インターネット環境やマニュアル文化が浸透し、仕事環境はとても便利になった。しかしそのせいで近視眼的にしか物事を見ない(=本質を理解しない)ままに仕事を進める人が、若い層で増えてきた感がある。“作業”が早いことが、“仕事”ができることであると勘違いするムードがあるのも一因かもしれない。ベテランが若い世代を便利使いし、「考える」「理解する」ことを重視しないために、「考える」ことを育む環境が減っている側面もあるのだろう。
しかし、例え今の“作業”が遅くとも、「考える」「理解する」ことを続けているかどうかは、数年後に大きな差が出てくるはずだ。それを放棄して“作業”ばかり早くなっても、いざ困難に直面した時に課題の発見も解決もできなくなるのは間違いないと、私は確信している。
今私が接している若手営業マンたちには、キャリアが浅い分、砂漠に水がしみ込むように少しづつステップアップしていくのを感じる。だからこそ、本当の意味でのコミュンケーション能力を、今の時期しっかり磨いてほしいと思うし、「考える」ことの重要性を感じ続けてほしいという思いを胸に、日々接している。
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