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2016年4月25日

私の気持ちがこんなに変わるなんて。先のことなんかわからないけれど・・・


私は1人で気楽に生きていく。
それが自分らしく生きる、ということだから・・・・


そう言い続けていた81歳の女性から、
最近不安になってきたという話を聞きました。

ご主人を見送って10年。
それ以来ずっと1人暮らしで、時々離れて暮らす息子さんがやってきますが、
いつも元気であちこち旅行をしていました。

これからもずっとこの家で、誰の指図を受けることなく、好きに生きていきたいの。

ずっとそう思っていたそうですが、
2ヶ月くらい前から急にいろいろ不安になってきたのだそうです。

本当にこれから一人で大丈夫かしら

腰が痛くて腰が痛くて・・・、
歩くのもつらくなってきて・・・
本当にこれから一人で大丈夫かしら。


そう思うと不安が不安を呼び、益々気持ちが落ち込んできたのだそうです。

原因は「年寄り病」と言われるような脊柱管の病気でした。
手術をするかどうするか。
これからお医者さんと相談するとは言え、決めるのは自分。
悩みどころだそうです。

年をとるというのは、こういうことなのね。。。

2か月前の自分は、まさか自分がそんな風に思うようになるなんて
想像もしていなかったのだそうです。

人の気持ちって変わるのよね

これからだんだん年をとり、
年をとることで想像もしないことがいろいろ起きるのかもしれない。
それが起きるたびに、
気持ちも想像もしない形でコロコロ変わっていくのかもしれない。

私とお話している様子はとても明るくお元気そうに見えましたが、
心の中は少し違うようでした。

まさか自分がそんな風に思うようになるなんて!

いつだって前向きに生きてきた人だっただけに、
それが何よりショックだったと言います。
自分で自分にびっくりしているようで、した。

人の気持ちって変わるのよね〜

何度も何度もそう言いました。

若くても年を重ねても、悩む気持ちは変わらない

私はこうありたい、こうしていたい、・・・と思っていた。
それが、自分の思い通りにならない(かもしれないと思う)。
~これが不安のもと、です。

腰が痛い、体調が・・・というのは高齢者特有のことかもしれませんが
想いがあるのに思い通りにならない、という悩みは、
きっとどの世代にも共通のこと。

しかもそこに、
まさか自分がそんな風に思うようになるなんて、という思いが重なったのですね。

日頃明るい方は、無意識のうちにご自分のポジティブ思考に自信があって
そのせいで
私に限ってそんなはずはない、
なぜ私が?!
そう言う思いがフツフツわいてくるのかもしれません。

その女性の悶々としたそういう思いは、わかるような気がしました。

それでも知っておく方が、きっといい

気持ちは変わる。
まさか自分が・・・。

体中のあちこちが痛くなった86歳の父は、しばしば私に言うのです。

 年をとればわかる。
 その時になってみてわかること、というのがある。

はい、たしかにそうでしょう。
私自身も、若い頃に思っていた50歳と、現実の50歳は全然違う気分です。
まさに今、、50歳になって初めてわかったことがたくさんあります。

その時になってみないとわからないことは、きっとたくさんあるでしょう。

それでも私は、
先のことを考えてもしょうがない、
とは思いません。

いくらその時になったら変わるにしても、
考えたことがあるかないかは、きっと大違い。
知っていることと知らないこととは雲泥の差。

情報がありすぎて不安になる、
知らない方が幸せ、
という考え方があるのも、もちろんよく知っています。

だけど、 そういう風に悩むことがある、ということを知っているのは
自分がもしも悩むようになったときにはきっと参考になる。
それがきっと役に立つのです。

それが智恵になって、その時の判断や気持ちの助けになると思うから。

何か困った時に
同じような経験をした人が身近にいる場合と
まったく寝耳に水の場合とで
自分が困った時の心持ちは全然違うと、私は思うのです。

細かいことまで知らなくてもいい。
だけどそう言えばどこかで聞いたことがある。
こんな人がいた。
それだけで、きっと全然違う、と。

そして、仮に自分が将来もそういうことと全然関係なかったとしても、
そういう可能性や状況を知ることはそういう人への理解が進み、
社会に対しても、少しだけ優しくなれるんじゃないかな、と思います。


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100人いれば100通りの人生がある。
生きるってなんだろう?
生き方とは? 命の終わりとは?
2014年4月から毎月1回、そんなことをご一緒に考える講座を開催しています。

エンディングノートを使って、これからの生き方を考える
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トラベシアのエンディングノート講座 毎月開催中。




■5月の開催(第26回)

 5月18日(水)18:30~20:30 麹町にて。

【 テーマ 】

 生きがいとは何か ~アクティブ・シニアからの提案 ~




■6月の開催(第27回

 6月8日(水)18:30~20:30 麻布十番にて。

【 テーマ 】

 ライフプラン崩壊は突然に ~脳卒中経験者から直接聞く話から学ぶ~(仮題)



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体験参加受付中。
詳細はこちら。
参加ご希望の方はこちらまで。
メールは info@travesia.biz まで。

「私がエンディングノートを使って講座をしているわけ」はこちら。


2016年2月12日

50歳を過ぎたら・・・かかりつけ医を探せ!大作戦

高齢者の医療と介護を学び考える場面で、必ず出てくるのが「かかりつけ医」。

本来、かかりつけ医というのは、
ずっとずっと若い頃からの体質や既往症、家庭環境などをひっくるめて
総合的にカラダを診てくれるお医者さん。

そう考えると、
今かかりつけ医がいる人はいいけれど、
いない人はできるだけ早く探した方がよいのです。
さあ、50歳を超えたんだから、かかりつけ医を探せ!大作戦のスタートです。

現代医療は専門化、高度化

看護師で僧侶の玉置妙憂さんから2月9日開催の講座でお聞きした話。

 頭が心配で念のためと思って脳外科に行ってCTを撮る。
 その時、「実は最近お腹も痛くて」と言うと
 「では消化器科に診てもらってください」と言われ、消化器科に回される。
 消化器科でお腹の診察を受けた後に
 「最近目がかすむんですよ~」と言えば眼科に、
 「肌がカサカサして痒くえ」と言えば皮膚科に、と
 次々いろいろな専門科を回ることになる・・・・

参加者の皆さんと「笑い話みたいですね~。」と笑った。


日本の現代医療は、どんどん専門化し、高度化していると言う。
それが医学の進歩にはつながったのは確かだけれど・・・。

さもありなん。


よりよい医療を求めてあちこち通ううちに

私の父は、
内科と整形外科と消化器内科と泌尿器科と心療内科と皮膚科に通っている。
いずれも通院しているのでしばしば予約が入り、高齢なのに意外と忙しい。
病院に行くために、病気にもなれない。

あちこちでいろいろな薬をもらうので、家には大量な薬がある。
全部を飲むのは大変だ。
しかも本人が言うには、ある部分に効く薬を飲むと、別の具合が悪くなることが多々あるらしく、毎朝その日の自分の体調に合わせて、勝手に薬の量を減らしたりもする。
例えば痛み止めの薬を3錠飲むように言われても、
その日の体調によってはそれだけ飲むとお腹の具合が悪くなるので
1錠にしたり、2錠にしたりと、自分で加減しているのだ。
お医者さんからきちんと指示が出ているにもかかわらず・・・

これってどうなのよ?!

カラダの部分の専門家はたくさんいるのだけれど、
父の体全体を診てくれる先生がいないのだ。
そこで大事だと言われるのがかかりつけ医である。

元気な世代に、かかりつけ医?!

しかし元気な世代は、滅多にお医者さんになど行かない。
健康診断でパスすれば終わり。
何か引っかかれば大病院に行って精密検査を受ける。
そこで行くのは、精密検査で引っかかった専門科だ。
ふだん風邪をひいてもお医者さんになんか行かない。
行くとしてら、職場の近くに飛び込んで
「熱を下げるために注射の1本でも打ってください。今、休めないんで…」
とお願いする。
かかりつけ医どころじゃない。

「40代からの終活」をテーマにしたシンポジウムの基調講演で
ノンフィクションライターの中澤まゆみさんが提案した「老後の備え 10ヶ条」の
中にも、かかりつけ医を、という項目があった。

やはり、かかりつけ医である。
私は随分前に意識してかかりつけ医を探し、今お世話になっている先生がいる。
たぶん60代後半の男の先生。
そうそうあることじゃないけど、
精密検査が必要かもしれない時、何か心配なことがある時には
大病院と連絡をとり、予約までとってくれる。


切実にかかりつけ医が必要になる時のために

だけど、10年後、20年後、30年後、
今の私のかかりつけ医の先生は私を診てくれるかしら。
私自身がかかりつけ医を切実に必要とするのは、
きっと70代、80代になったときだ。
そのとき、先生は80代、90代・・・

将来私が年をとった時に、
私が風邪をひくと元々どういう症状になりやすい体なのか、
どういう時に風邪をひきやすいのか、等
かかりつけ医はこの今の状態から私の体質や既往症等を時系列で
知っておいてもらうことに価値があるのだ。

夫は、日常的にかかりつけ医を持たなかった。
何かあれば便利な場所のお医者さんで診察を受け、
便利な場所の調剤薬局で薬を受け取る。
しかし、そろそろかかりつけ医を持った方がいいかも、と話し合っていたら、
ある日かかりつけ医を決めてきた。

話を聞いてくれて、感じが良くて、良心的な対応をしてくれて、
自分より若くて、しかも家から比較的近い場所にある先生、という観点で、
彼は探し当てた。
ネットの評判や待合室で待つ患者さんの様子なども参考にしたようだ。
新たに決めたかかりつけ医の先生に、
彼は仕事の状況なども少しづつ話していそうだ。
仕事のストレスと体調との関係、体質、既往歴等もふまえて、
その時の体の状況を診てもらえることは、心強いに違いない。

私は、今のかかりつけ医には十分感謝してはいるけれど、
これからのことを考えて、私も将来のかかりつけ医をどうするか、考えよう。

今から探すのだから、大前提は私よりも若いお医者さん。
そして、私と相性がいい先生であること。
信頼できる先生であってほしいけれどそれだけじゃなくて、
たまには冗談なんかも言えるような先生だといいかも。
夫と同様に、自宅に近いこともはずせない。
男の先生、女の先生、どっちかなあ。それは私にはあまり関係ないかなあ。

日本の医療制度は、病院から地域医療へと変わろうとしている。
だからこそ、今の私から知っておいてもらえるようなかかりつけ医を探し始めよう。
東京には近所にお医者さんがいっぱいいる。
近隣候補をリストアップし、まずはちょっと具合が悪くなったら行ってみよう。
私の「かかりつけ医を探せ!大作戦」、スタートである。



エンディングノートを使って、これからの生き方を考える
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トラベシアのエンディングノート講座 毎月開催中

2016年1月6日

死生観は意味があるのか、ないのか。

「終活」という言葉が流行語大賞にノミネートされたのは2012年のこと。
葬儀やお墓、相続、看取り等、人生の終末まわりの情報を目にする機会が、
ぐっと増えてきたように思います。
本来、そこで問われるべきことは死生観ではないでしょうか。
私は今までずっとそう思ってきました。
けれども1年くらい前から、本当に死生観は必要なのだろうか、と思うようになったのです。

私が命の終わりについて考えるようになったきっかけ

そもそも私自身はもともと命について考えるタイプではなかった。
ただ、どんな人も年齢を重ねれば重ねるほど
イキイキと生きていける世の中であればいいのに、そういう社会づくりに寄与したい、
・・・と漠然と考えていただけだったのだ。

ところが、数年前に義父が重篤な病気になり、
その際、医師から

 ご本人の人生観、人生哲学に照らし合わせて
 家族でよく相談して治療法を選択するように。

と言われる場面に立ち会ったのだった。

人生観?人生哲学?
そんなもの、どれだけの人が持ち合わせているのだろうか?

死生観なんて考えたことない

篠田桃紅さんは、1913年3月生まれでもうすぐ103歳。
まずは美術家でおられるが、多数のご著書も出している。




当時まだ103歳にはなっていないはずなのに、タイトルに103歳と入るのは、
出版社の陰謀に違いない(苦笑)けれど、
103歳になってわかったことを伝えてくれるなんて、すばらしいことだ。
こういう方がいらっしゃると、未来に希望を抱ける。

美術のことはよくわからないので、
篠田桃紅さんの栄誉ある業績については私は何も語れないけれど、
篠田さんがテレビで語っていた言葉は私にとっては衝撃的だった。

 死生観なんて持ったことはない。
 なるようにしかならない。
 死ぬことを考えるなんてナンセンス。

ナンセンス・・・?!
本当にそうだろうか。

100歳を超えるまでしっかりたっぷり生きてきて、
今なお現役で芸術を追求されている方の言葉だからこそ、説得力がある。
だけど・・・。

死生観ってなんだろう?

人は死んだらどうなるのか? 〜人によっていろいろ考え方があるだろう。

 死んだら終わり

 肉体は滅びても魂は次の肉体に宿る

 星になる、空から見ている

 心の中で生きている

こういう考え方そのものを死生観という人がいる。

そこまで直接的でなくても、
宗教観に近いものと捉えている人もいるかもしれない。
私自身は、命について考えること、どう生きたいかを考えることが
死生観の始まりだと思うようになった。

若い頃はそんなこと考えたこともなかったけれど、
生きているということは、
本来そういうことを考えながら年を重ねていくということだと、今、思っている。

なぜなら年を重ねていくことは、死に向かって進むことでもあるからだ。

それは意識してかどうかは別にしても、
家族や身近な年長者と関わりながら、
あるいは身近な死の経験を通して自分なりに考えていくものなのだと思う。

だけど効率化を優先する今の時代、
時間的にも空間的にも気持ち的にも余裕がなくなってきた。
家族の形が多様化し、年を重ねること、死に向かっていくことを考える機会は
激減している。

だから、私たちはふだん「死生観」など考えもしないのだけど、
それで本当にいいのだろうか。

篠田桃江さんは、長く生きてきて
美術家として今もお元気で活躍しているから、そんな風におっしゃるのではないかしら。

一般の人はそうそういつまでも元気ではないし、
自分自身がそうそう強くないし、
晩年までそうそう活躍し続けることは難しい。
だから・・・

死生観に意味があるかどうかをもう少し考えてみよう

私が生きざまがにじみ出た顔つきに興味を持ち、
その集大成ともいえる遺影に興味を持ち、
エンディングノートや終活に関心を抱くようになって以来、
私は死生観とは何か、親の死生観、自分自身の死生観を考えてきた。
その意義もそれなりに感じてきたが、
篠田桃江さんの言葉で原点に戻されてしまった感があった。

そんなときに

生命の終焉を考える
~ヒトらしく生きるために必要なこと~

を見つけて、昨年から通っている。

命(いのち、生命)に思いを馳せると、自分らしく生きられるはず。
高齢になってからではなく、40代・50代だからこそ余計意味を持つ。
・・・私が漠然と抱えていたその思いに、今、一つ一つYES!をもらっているような感がある。
今週末はその最終回を迎える。

2016年の今年、考えたいこと、お伝えしたいことはさらに広がっていきそうだ。
本年もどうぞよろしくお願いします。


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トラベシアのエンディングノート講座 毎月開催中
~エンディングノートを使って、これからの生き方を考える~ 

 ◎ 1月の開催 ◎

 1月13日(水)18:30~20:30 麻布十番にて。

【 テーマ 】
  家族信託
  ~今だけでなく、これからもずっと円満家族でいるための契約になるか?!~

金融機関に頼らない、家族が家族のために自ら進める、
新しい可能性になるかもしれない家族信託。

相続税改正で相続や遺言が注目されてきましたが、
金融保険業界の商売にならない「家族信託」については、
あまり語られることはありません。
でも、どうやら家族のことを今一度考えるきっかけになりそうです。
今回、「家族信託」のパイオニアを目指す専門家にお話を聞くことにしました。

会員制の継続講座ですが、初回は体験参加できます。 
体験参加費;3,000円(消費税別)
お申し込み、お問い合わせはこちらまで。


2015年10月7日

もしも今・・・?!  命にかかわる医療について、もう一度考えてみる

毎月開催しているエンディングノートのグループ講座。

10月5日、

もしも今・・・?!
 命にかかわる医療について、もう一度考えてみる

をテーマに、第18回を開催しました。

参加しているのは40歳からの現役世代。
実はこのエンディングノート講座は毎月第2水曜開催が原則で、9月9日の開催予定だったのですが、当日大型台風来襲により、10月5日に延期しての開催となりました。

この講座で医療について取り上げるのは、
昨年10月に終末医療の緩和ケア認定看護師をお招きして以来の2回目。
今回は、医療や介護にきちんと活かせる(※)エンディングノートを開発した株式会社健育社の社長で、自ら医療ライターでもある畑川郁江さんをお招きし、命にかかわる医療とはどういうことなのかを参加者ともに考えました。


大切な人が突然倒れたら・・・?!
では、それがもし自分だったら・・・?!

命の終わり方を考えるワーク・・・


世の中に出回るエンディングノートには、しばしば

延命治療を希望しますか?

という項目が出てきます。
でもいったいどれだけお人が「延命治療」とは何かを知っているのでしょう?
延命治療にもいろいろな種類があり、

 希望する、
 希望しない、

なんてそう簡単に答えを出せるものではありません。
種類によって、状態によって、その後の可能性によって、さまざまな人との関係性によって・・・

大体、そんな設問じゃあ、いざという時にどこまで活かせるかどうか。
本人の願いは何だったのか。
家族はそれをどう解釈するのか。

参加者間でそんなことを話しながら、難しく悩ましいテーマに向き合い、自分自身の命、大切な人の命について考える時間になりました。
現実によくあるエンディングノートが、いざという時の医療や介護に活かせるかどうかは、実はまだまだ疑問が残りそうです。
講座では命にかかわる医療、治療の内容の一部についての説明もあり、エンディングノートに向き合うなら、表面的ではなく「本当の意味」を知ることが大事なのだと思い知る時間にもなりました。




その上でどういう形を希望するのかということは、やはり人によっていろいろ。
価値観や関係性などそれまでの人生の歴史に大きく関わるところですね。

誰にでもそれまでの人生の歴史があるからこそ、いろいろ考える。。。


さて、次回は10月14日。
本来の10月開催、第2水曜日になります。

テーマは、

 自分のルーツと家族の関係
  ~家系図から見えてくること~

今やNHKでもすっかり有名になったファミリーヒストリー
・・・家族の歴史。

住んでいる地域や名前によって、ある程度ルーツが推測できるそうです。
10月14日の講座では、家系図やルーツを調べるファミリーヒストリー社代表の吉田富美子さんを講師にお招きしてお届けします。


【テーマ】
 自分のルーツと家族の関係 ~家系図から見えてくること~

 今の自分があるのは、父親と母親がいたからこそ。
 父にも父親・母親が、母にも父親・母親がいて・・・
 自分のルーツを考えるとき、
 良くも悪くも家族の存在は否定できません。
 家族、先祖・・・家系図から自分の何が見えてくるのか、考えます。

【日時】
 10月14日(水)18:30~20:30

【場所】
 麻布十番

私が主催しているエンディングノート講座は、自分らしく生きることを考えていく講座。
それもエンディングノートを使って。
エンディングノートには、ふだんあまり考えることがないけれど考えなくてはいけないこと、考えることでもっと自分らしく生きられることの要素が詰まっています。

でも

 一人で考えるには難しい。
 何がわからないかがよくわからない。
 他の人はどんな風に考えているんだろう。

きっとみんなそんなふうに思っているのではないでしょうか。

このエンディングノート講座は、毎月1回開催の会員制ですが、体験参加を受付中です。
メンバーは40歳からの現役世代の方々が中心。
専門家を招いて超少人数でフランクで和やかな雰囲気の中で開催しています。

これから私はどうなっていくんだろう。
自分らしく生きるってなんだろう。
私が大事にしていることを再確認したい。
老親が弱ってきて、家族のことをどう考えていこうか。

~そんなことを思う方々の体験参加、受付中です。


※参考
入会金 10,000円
月会費  6,000円
★体験参加は、3,000円
(いずれも消費税は別途)

トラベシアのエンディングノート講座は、原則毎月第2水曜日開催、
会員制・月謝制の継続講座ですが、体験参加は随時受付中です。

お問い合わせ、お申し込みはこちら。
Facebookでも体験参加を受付中です。


2015年8月15日

都会で感じるお盆

お盆とお正月は一斉にお休み、というのは今は昔。
今ではお盆など関係なく、夏休みは交代で取得するのが普通と言われますが、
13日に車で出かけたら、道はガラガラでした。
だって、お盆。
13日はご先祖様をお迎えする日ですものね。

私のお盆、今むかし

子どもの頃、お盆になると同居している祖母と一緒に迎え火を焚いた。
祖母がナスとキュウリを選んで割り箸を差すのを横で見ていた。
こうやって馬を作るのだという祖母の言葉を聞きながら、
こんなの馬になんか見えないよなあなどと思いながら、
意味もわからず火を焚いた。

それから何年か経ち、就職し、実家を出てからは
私にとってお盆と言えば夏休み。
取引先の休みが増え、仕事が暇になり、通勤電車が空き、
都内の道がガラガラになるイメージが濃くなった。

私にとってのお盆などそんなものだった今から20年くらい前。
勤務先の社長が、得意先の中でも新盆にあたる人に提灯を贈ろうと
言い出したことがあった。
それも、直接ご自宅にお届けしよう、と。
え~?! 提灯? 自宅に届ける~?

当時、その得意先の担当営業はそれをいやがった。
「提灯なんかもらっても迷惑だろう」と。
若かった私は、随分前時代的な古臭いことを社長は思いついたもんだな・・・
と思ったのをよく覚えている。
結果として提灯を贈ったのかどうか、どうやって贈ったのかは
忘れてしまったが。

お盆を意識するようになって・・・

若かった頃は、お盆などあまり意識することもなかった。
それが、数年前に義理の父が亡くなったことに加え、
それからほどなくして終活や供養の周辺の人とのつながりや仕事の機会が増え、
少しづつ私の意識が変わっていった。
単なる夏休みではなく、少し気にするようになったのだ。
それでも東京での暮らしの中でお盆を感じることはあまりなかった。

昨年のお盆のとき、スポーツクラブで気になる会話が耳に入った。
20代の女性トレーナーが顧客の中高年女性に、
「明日はご先祖様をお迎えに、提灯持ってお墓に行かないと・・・」
と話していたのだ。

我が家では迎え火を焚いてご先祖様をお迎えする、とは聞かされていたけど
実際に迎えに行くことはなかった。
うちのお墓は北陸なので迎えに行くには遠すぎたということはあるかもしれないが、
そんなことは聞いたこともなかった。

気になってあとでその女性トレーナーに聞いてみると、
離れた地方の実家の話ではなく自宅の話で、場所は東京と埼玉の県境だった。
お墓も地元、古くからその地域に住んでいる家だそうで、
家族や親せきみんなで提灯を持ってお墓にお迎えに行くのだと言う。

今でもやってるお盆の風習

一昨日、車で出かけた際にその話を思い出し、その地域の方に回ってみた。
そうしたら・・・

灯を入れた提灯を持ってお墓から帰る人たち

子どもからお年寄りまでの大家族の人、夫婦二人だけの人、
次から次へと提灯を持ってお墓にやってくる。
お墓参りに来た人同士で声をかけ、挨拶をし合い・・・、
そして、灯を入れた提灯を持って家族揃って帰るのである。
あたりはお線香の匂いでいっぱいだ。

聞いた話は本当だった。

最近になって、東京周辺でも昔からそこに住んでいる人たちが多い地域では
お盆でそのようなことをしている場所がいくつかある、
ということを知った。

今、改めてお盆を眺める

このような風習は地域独自の文化らしく、地域によって違うようだ。

東京に暮らす人たちは、地方から来た人たちの寄せ集まりで、
かつてはきっと長男が本家を守るから地域に残り、
分家になる人たちが都会にやってくるケースが多かったのだろう。
祖父母から親へ、親ら子どもへと代々伝えられるのは、
東京の風習ではなく故郷の風習であったりする。

だけど今、私の家の近所のスーパーでは、
お盆の時期になるとお盆飾りのナスとキュウリの詰め合わせがパックになって店頭に並ぶ。

青森の新興住宅街に住んでいた友人に聞けば、
お盆になると、家の前の道に出てナスとキュウリで馬を作り、迎え火を焚いていたと言う。
それも、彼女の家だけでなく、道にはそういうことをする家が点在していたそうだ。

私にナスとキュウリの馬を教えた祖母の家は北陸で、お墓も北陸だが、
東京に住む長男の父が両親(私にとっては祖父母)を東京に呼び寄せたのだ。
その習慣は北陸でやっていたものだったのだろうか。
それとも、遠く離れたから本来の習慣とは違ってやっていたのだろうか。
祖母が亡くなった今となっては、わからない。

SNSでタイムラインを眺めると、いろんなお盆の迎え方があることを知る。
家族親戚が集まってご先祖様をお迎えし、みんなでご馳走を食べる人たち、
仏壇周りにお盆飾りをする家・・・、
今も変わらず続けていることを知り、
約20年前に、もうそんな時代じゃないよ、時代はすっかり変わったんだから、
などと思っていた若かりし頃を思い浮かべ、そんな自分に苦笑いする。

確かに時代は変わったけれど、変わらないことや変わらない人たちがいる。
そこに私は憧れや羨ましさを抱き、そういう風習に込められた意味に
大きな興味を感じる。
それでも、私の周りにはお盆なんか関係なく仕事をする人もたくさんいる。

世の中はお盆真っ最中。
今の時代、東京の人はどんな風にお盆を過ごすのだろうか。




自分らしく生きることや親との関係を考えていく講座
麻布十番にて。入会及び、体験参加受付中 
 ※エンディングノートを使って進めます

 8月19日 モノの整理と心の関係~自分のモノ整理、親のモノ整理~
        体験参加受付中
 
 <直近の開催>
 7月 8日  もし親(配偶者)が認知症と診断されたら?
 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。

2015年5月21日

離れて暮らす年老いた親・・・それは「突然の出来事」だ。

実家を離れて東京で仕事してかなりの時間が経つ。
今まで自分のことだけ考え、好きなようにやってきたけど、
いつのまにか親が随分老いてきた。。。。

私が生き方やエンディングノートに関わるようになって、こういう話を聞く機会が増えてきた。

高齢化社会についての報道が多いから、
親のことは頭の片隅にはあるけれど、まだまだ、もう少し・・・、
いずれは向き合わねば、等々思いながら、
まだ問題にはなっていないから、そこまで真剣には考えていない。

高齢の親がだんだん弱ってくる・・・・。
離れているから心配だけど、まだまだ元気だし、自分も忙しいし、
自分の生活、リズムもあるし・・・

そんな時にある日突然、親の健康状態で事態が動くと、
どうしたらいいかわからなくなるのだ。



何から考えたらいいかわからない。
自分が仕事を辞めなくてはならないだろうか。
自分の今の生活はどうなるのだろうか。

いろんな不安が渦巻いているのがわかる。

特にご自身は都会で仕事をし、老親が離れた郷里で暮らしている場合、
シングルの人は自分がやらねば、という思いを抱える人も多く、
切羽詰まったように見える。

何もできずにいる人たちから直接声をかけられたり、
そういう人を見かねて、知り合いが私に声をかけてきたりする。

どこの家にも、出てきそうな話だ。
私自身も、似たような状況が過去もあったし、今も進行中だ。

これが経験者だったら、ある程度知識もあるし、それをもとにどこから手をつけたらいいかを考えていく。
だけど未経験者だと、どんな支援体制があるのか、どこに聞けば分かるのか、を知らず、問題の本質がどこにあるかもわからないままに、自分自身の将来不安と重なって呆然となってしまうように見受けられる。

私の場合は、似たような経験をしている人をあちこち探してそれぞれに話を聞きながら、一つ一つ新しい知識を仕入れた。
それを自分の問題に照らし合わせながら、解決策を探っていった。
今も進行中だ。

周りを見回すと、経験者と未経験者とでは、事態が起きたときの心構えや対応が全然違うのがよくわかる。
また、情報や知識がある人とない人とでは、対応力や落ち着き度合が全然違う。

老親も、どんな病気なのか、どういう介護が必要なのか等、
状況はいろいろだろうが、ネットではいろいろな情報が溢れていて、
自分にフィットする情報にはなかなか辿り着けないことが多い。

しかも未経験者で知識がない人の場合には、まず気持ちがイッパイイッパイ。
「どうしよう、どうしよう、」が心から溢れているから、
益々、当事者にとって本当に必要な情報、適切な情報に辿り着けないのである。

本来、こういう状況はじわじわとやってくることが多いのだが、
今の時代は、家族(老親)と一緒に暮らしている人が少ないから、
子どもから見ると、「突然の出来事」になりがちだ。

心の準備がない。
情報や知識がない。
しかも最近の親がどんなふうに暮らしているのか、どんなふうに考えているのか、を想像以上に知らないのである。
だから大変なのだ。

お医者さんにはどこにどれくらいの頻度で行っているのか?
朝、何を食べているのか。
誰と仲がよいのか、誰とどこに出かけるのか。
何をしている時間が楽しいのか。
苦痛なのはどういうことなのか。
等々・・・

当たり前にに知り得た情報が、一緒に暮らしていないとわからない。
昔、元気だった頃の記憶やイメージしかない。
意外に変化しているものだけど、今でもそうだと思い込みがちだ。

行政の支援体制、民間の支援体制の情報を知ることは大前提ではあるけれど、
それに加えて、暮らしぶりを知っていると、「突然の出来事」への対応力がさらに上がるように思う。

そういうことまで整理する上で、エンディングノートは便利である。
とは言え、エンディングノートを持っている人でも、
実際に書いている人はわずか2%と言われる。

親に書いてもらうのではなく、一緒に書く。
あるいは、子どもの方がエンディングノートを参考にしながら、親に話を聞く。
~そんな風にエンディングノートを使えるとよいと思う。



 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
   体験参加受付中

 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
   マンダラエンディングノート開発者をお招きしたワークショップ
   終了しました。

2015年5月18日

ブランディングとエンディングが、とても近いと思う理由

私がテーマにしているのは、ブランディングとエンディング(終活)。

いろんな場所で、いろんな人に、しばしば聞かれることがある。

元々広告業界なのに、なぜ関係のない終活に関わるようになったの?

広告の仕事から「人の生き死に」に変わったきっかけは何?



どうやら他の人から見れば全然違うことに見えるようだが、
私にとっては、とても近いテーマだ。

一般的には一見全然違うものと思われているかもしれないが、
今の時代は、人の生き方そのものがブランディングに大きな影響を与えていると思うから。

会社、商品、人、をどうブランディングしていくか、を考えるとときに
会社のトップや会社にいる人たち、商品を作った人、商品を売っている人が
どう生きてきたのか、どう生きたいと思っているのか、が
垣間見えるようなブランドが今、求められる時代だと思う。

一方、エンディング(終活)はどう生きるかと表裏一体である。
どうもメディアでは、葬儀や墓の「無駄」を省くことや相続ばかりがクローズアップ
され、「死に方を考えること」=「終活」と見えがちなのは実に残念。

人生が後半戦に入ったからこそ、これからの生き方をどうするかを考えていく。
それこそが本来の終活だ。
どんなお葬式をしたいかは、あとの話である。
どのように生きたか、という結果の一つの形が葬儀ではないかと私は思うのである。


これまでどんな人生を送ってきたか、これからどんな人生を送りたいか。
ブランドにはそういうものが込められていてこそ、顧客の心に届くものだと思うのである。
そういうブランディングができるのは、
やはりある程度の年齢を超えた人ならでは、と思うのだがいかがだろうか。

そんなわけで、私の目から見ると、ブランディングとエンディング(終活)はとても近いテーマなのである。

エンディングノートは、まさに自分の人生ノートそのものだ。

人生折り返し点を超えたかな、と思ったらエンディングノートを開いてみる。
書かなくてもいいから見てみる。
気が向けば書き始めてみる。
無理に書かなくたっていいから。
眺めてみるだけでいい。

あなたは自分が何歳くらいまで生きていると思っていますか?
あなたは今、その年齢の半分を超えましたか?

もしも超えているのなら、今までの人生でいろいろなことが積み上がっているはず。
だからエンディングノートを見てみることをオススメしたい。
書かなくたっていいから。
見るだけでいいから。

ましてや生きかたを反映したブランディングを考えたい人には、益々オススメだ。






 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
   マンダラエンディングノート開発者をお招きしたワークショップ
   満席でしたがキャンセルが出ました。体験参加ご希望の方はお問い合わせください。

 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。

2015年5月4日

母の日プレゼントで思う・・・私はいったい何が遺せるんだろう

今年の母の日は、5月10日。
私はそんなにまめに母の日プレゼントを贈っているわけではないけれど、
今年はゴールデンウィークの前に実家に帰る用事があったので、
少々早目ではあったけれど、直接渡すことにして持参した。

選んだのは足半ふっくら布ぞうり。
足半は「あしなか」と読む。
この商品は足半屋さんとふっくら布ぞうりの会が共同開発したもの。

このふっくら布ぞうりの会とは、
東北の陸前高田・南三陸・石巻・東松島を拠点として、
仮設住宅や借り上げ住宅に住む女性たちが、布ぞうり職人として活動している会。
独立系FPの相澤由佳さんが関わっていた。

私は相澤さんとのご縁もあって、かねてからふっくら布ぞうりに関心があり、
いつか、いつか、と思っていたのだが、
相澤さんは病いのために4月にこの世を旅立ったのだ。

私は相澤さんとのお別れの席でふっくら布ぞうりの会の方と出会い、
その場で自分用にふっくら布ぞうりを、母へのプレゼントに足半を、
購入させてもらったのだった。

今年、私の母は80歳になり、両親ともに80歳を超えた。
忍び寄る年齢で、父の足元はだいぶおぼつかなくなってきている。
母は比較的しっかりしてはいるものの、娘である私にとってはやはり心配だ。

この足半は、そんな母にぴったりのギフトに思えた。
布ぞうりは一般的にもよく知られているが、
足半は布ぞうりでも足の裏の全部ではなく前方だけを支える。

○足をしっかりさせたい
○軸感を鍛えたい(武道・スポーツ・ダンスなど)
○バランス感覚を鍛えたい
○腰痛・肩こりなどをよくしたい(すぐに戻ってしまう方)。
などと言う人にオススメなのだそうだ。

母に持参した時は、まあ普通に喜んでもらったのだが、
その1週間後、再び実家に行ったところ、母は足半を愛用していた。



最初はちょっと痛かったけど、すぐ慣れたわ。
とにかく気持ちいいの!
脱いだ時の気持ちよさがとても幸せ!

前だけしかないから、このまま正座もできるのよ。
毎日足が攣っていたのに、これを履いてたら足が攣らなくなったんだから。

母は、無邪気に喜んでくれた。

プレゼントをして一番嬉しいのは、こうして贈り物を日常的に使ってもらえること。
そして喜んでもらえること。
しかも足半を履いて毎日家事をすることが、
結果的に母の健康づくりにつながっていることにもなる。






私にとっては、いつかいつか、と思いながら
相澤さんがお元気なうちに購入できなかったことは大きな悔いではある。
けれど、ご自身がこの世から旅立っても、
こういうものをこの世に遺し、さらにそれを作る活動をこの世に遺し、
きっちりとつないでいったことを思うと、生きている意味を考えずにはいられない。

それを目の当たりにし、私はつい考えてしまう。
私はいったい何が遺せるんだろう、と。

ふっくら布ぞうりの会だけでなく、相澤さんは多種多様な活動を関わっていた。
彼女がこの世を旅立った後も、その活動はそれぞれきっとずっと続いていく。
相澤由佳さんのご冥福をお祈りするとともに、彼女の活動に敬意を表したい。




相澤由佳さんの遺志を受けて・・・「身体の閉じ方」製作委員会
企画進行中。
「いいね!」お待ちしています。


 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       体験参加は満員御礼となりました。
 
 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。
       体験参加受付中

2015年4月12日

治療を卒業する人のために・・・・身体の閉じ方 

今や3人に1人どころか、2人に1人がガンになる、とまで言われる時代。
ガンはすっかり身近な病気になり、治療ができる病気にもなった。
治療の選択肢もたくさんある。

だけど、中には治療をしないという選択をする人もいるし、
どんなに苦しい治療を頑張ってきたとしても、残念ながらその治療を卒業するという選択をする人もある。


余命宣告を受けた今でも、歩みを止めようとせず、
カラダが動く限り働きたい
最後の仕事として「体の閉じ方」を伝える本を作りたい、
という友人女性の声を聴き、
ご本人を含めて「身体の閉じ方」製作委員会が立ち上がった。

癌の治療から卒業した後、死までのプロセスで
身体がどう変化していくのかを
患者や家族にわかり易い本を、と。

仮題「身体の閉じ方」治療を卒業したあなたのために


 再発して、もう治療から卒業するの。
 でもね、これからの身体の変化をわかり易く教えてくれる本が無いのよ
 娘に伝えてくれる本がないの。
 みんな困ってるはず
 だから、身体の閉じ方を伝える本を作りたい。
 これを最後の仕事にしたい」

これが、ご本人の言葉だ。


このお話をうかがい、いかにもその人らしい生き方だと思い、私は背筋が伸びた。

知り合いであるからという枠を超え、一人の生き方として、感銘を受けた。
しかも、こういう本ができたら、きっと多くの方の役に立つであろうことが十分想像できる。

この本は販売を目的とせず、会社や組織の枠を超え、
志を同じくする人、賛同してくれる人々とからの基金を設立して作り上げることを目指している。
作り上げた本は、全国の癌拠点病院400箇所に寄贈することに加え、
希望する方々にもお分けしていけたらということだ。

この志への賛同者を募っています。

残された時間に限りがあります。

こちらが「身体の閉じ方」製作委員会のフェイスブックページ。
https://www.facebook.com/karada.book?fref=nf

どうかフェイスブックページのシェア、情報拡散をお願いします。
また、このフェイスブックページへの「いいね!」をよろしくお願いします。

皆さまのご協力を、どうぞよろしくお願いします。


2015年2月26日

周りのイメージが行動を制限するのはもったいない。

学生時代の恩師を訪ねた。

60歳になる前にご主人と暮らしやすい老人ホームに入られ、そこから私の母校に通勤していた。
先生は生物の先生で、山歩き好き。
現役時代から退任後も、変わらず丹沢や秩父、山梨、長野の山を歩き、山の植物を愛で、スケッチをし、それを本にまとめて出版するほど。

80代半ばを超えた今も、近くの公園まで歩く毎朝の散歩を欠かさない。
1人でふらりと、海外旅行にもしばしば出かけている。
誰かと一緒に行こうとすると、日程調整とかでなかなか行けなくなるでしょう?と先生は笑う。

そんな先生は、立ち居振る舞いはしなやかで、おっとり。
話す口調は、私が高校生の頃から今も変わらずとても穏やかだ。

肩に全然力が入らない、先生のそういうお姿が私は大好きで、
ときどき先生のそういう生き方を間近で見たくなり、お訪ねしている。

先生の一人息子さんは、東京から少し距離があるところに住まわれていて。
その息子さんが、ときどき訪ねてくるそうだが、
自分をとても心配しているのがわかると言う。
「もう年なんだから。」と思われているのだろう、と。

だから、海外旅行に行くのを、もうやめたのだそうだ。
考えてみれば、いつどうなるかわからない年になった。
海外で万一のことがあったら、息子に迷惑をかけるから。
・・・そうおっしゃるのだ。

聞きながら、少し残念に思った。
高齢者だから、と心配されるから動けなくなる。

心配されることはたしかに心やさしいのだけど・・・・
他人の私は何も言うことはないけれど、それで本当にいいのかな。

場合によっては、やさしさが自由を奪う。
やさしいことが悲しませてしまうことがある。
そのやさしさによって、
私の好きな先生のカッコよさまでが奪われていくようで、少し寂しく思った。
もちろん、これは私の勝手な思い込みかもしれないが・・・。

高齢者はこういうもの、
高齢者だから○○があたりまえ、
そういうイメージだけが先行し、そのイメージを前提にした思いやり。
周りのイメージが、行動を制限してしまうのは寂しい。

高齢者だから、ではなく、
○○さんだから、という考え方になればいいのに、と思う。

高齢者というひとくくりにしないで。
人は十人十色、百人百色だ。
その人にとって、いい形であればいい。

要は、その人が大事なことを大事にする生き方、暮らし方だ。
私自身もそうありたいと思うから。

大事にすることを諦めたり、我慢したくない。
だけど、意外に日々に追われたり、なんとなく時間を過ごしていると
やらなければいけないこと、周りが求めていることに向かいがちで、
自分が大事なことを忘れていたり、気づかなかったりもする。

エンディングノートには、自分が本当に大事にしたいことを気づかせてくれるものがある。
そういうことを確認するためにエンディングノートを使う、というのもよいと思う。
自分が大事にしたいことのための能力は、
たとえ年をとっても、いくら親切にされても、衰えないようにしたいものだ。

私という人間も、
何歳の女性、というイメージではなく、
ずっと働いてきた女性、というイメージではなく
私という個人である。

周りが作るイメージにとらわれてしまうと、自分自身も苦しくなるような気がする。







2015年2月19日

なぜ50歳がエンディングノートを気にする必要があるのか?

いずれはね・・。まだまだ・・・、そのうち・・・。

私がふだんエンディングノートに関連したお話をする時、
参加する高齢者の方で実際にエンディングノートを書いている方は
ほとんどいない。
80代の男性は、
いずれはエンディングノートを書こうと思うけど、まだまだ・・・・。
そのうち・・・、と言う。
その昔、百歳の双子で有名人になったきんさんとぎんさん。
某企業のCM出演のギャラの使い途を聞かれて、「老後のための貯金」と答えた。


50歳のあなた! 笑うなかれ。

若い頃に仕事がハードで腰を痛め、
一生寝たきりになるかもと恐怖した経験があると言う。
だからきっと、好きなことで生きていこうという気持ちにブレがないのだ。

東日本大震災の時、誰もがいつ何があるかわからないと思ったはず。

それなのに、私も無意識のうちに、今がずっと続くと思いこんでいる。
いずれ・・・、
まだまだ・・・、

80代の男性と同じ。
きんさん、ぎんさんの老後のための貯金と大差はない。
結局後回しだ。


ゴールを意識すると?

でもどんな人でも、生まれたら平等に死に向って進んでいる。
にもかかわらず、それを意識することはほとんどない。

それでも、終わりがあることをちょっと意識すると、
 ガマンしない方がいい
 思いっきりやった方がいい、
と思うことが多々ある。
それまで忘れていたことでも、
 伝えておこう、
 行こう、
 食べたい、
 やってみたい、
と思うことが次々出てくる。

ゴールを意識するかどうかで、今が変わってくるのだ。
私が考えるエンディングノートの価値はそこにある。


エンディングを意識するんだったら、早いほうがいい。

エンディングノートって高齢者のためだけじゃないんですよね。
むしろ、少しでも早くに気にした方が、その恩恵にあずかれる。

せめて、50歳になったら、
書かなくたっていい。見るだけでもいい。
気にするかどうか。アンテナを持つかどうか。

それだけで、きっと人生はずいぶん変わってくると思う。


なぜ50歳かって?

50歳は、人生の折り返しは超えたかも、という自覚だけは持つ年。
体力の急速な衰えを感じる時期でもある。
鏡を見ると急に老け込んだ気になって落ち込んだり・・・・
女性ならホルモンバランスが崩れてきたことも自覚する。
そして、親を見送ったり、親の介護は始まったり、
親が高齢になって急に弱ったりする時期とも重なり、
人の人生には終わりがあることを意識しやすくなるのだ。

だからこの時期に気にしないと、大事なきっかけを通過してしまう。
大事なことを思い出さずに通り過ぎてしまうのは、あまりにもったいない。



毎回少しづつ書いていくエンディングノート講座 毎月1回開講中

2015年2月17日

高齢の親の病院に付き添う、中高年の息子や娘が書くエンディングノート

私の家は長寿家系だ。
親も親戚も、あちこち具合が悪いと言いながらも、比較的大きな病気もせず元気にしてきた。

しかしながら、元気な親も年老いてきて、さすがにそうそう安心してはいられなくなってきた。
あちこちの病院に通う日々で、お世話になることも増えた。

病院で大事な話がありそうなときには、私たち子どもがついていくようにしないと、お医者さんの話が聞きとれなかったり、理解しにくかったり。

先日、私は母と一緒に父の病院の付き添いに行ったところ、
先生から薬の量を少し増やそうという話があった。

診察が終わり、会計をしようとしたところ、
「薬は増えるけど、飲まないつもりだ。」と、患者本人がボソッと言った。
聞けば、その薬のせいで腸の具合が悪いようだと言うのだ。

もちろん、そんな話は私も初耳だし、先生にも話していない。
そのままにしておくわけにはいかないので、私はもう一度先生に診てもらうようにお願いし、先ほどはきちんと話さなかった非礼を詫びた上で薬のことを尋ねたところ、その薬は胃腸にはまったく影響のないものであると説明を受けた。
それを聞いて本人も納得し、安心して病院を終えた。

古い世代は、肝心なことを医者に聞けず、言われるまま何も言えない。
言おうとすると、先生を不快にさせてしまうこともある。
それでも、我慢している高齢者はきっと多いんだろう。

重篤な病気の場合は、人生観をふまえた治療法の選択を迫られることだってある。

医療者と話をするのには、テクニックが必要だ。
多少の知識と交渉術が求められる。
高齢の親だけではなかなか難しい。

高齢になった親を抱える子どもは、そういう時に頼られるのだろうが、遠方の場合はなかなかそれが叶わない。
(「子ども」とは、概ね40歳以上の中年)
会社勤めをしている場合はほぼ難しいだろう。
高齢の親から見れば、頼りたくても頼れない。

わかっていてもできない子どもも多いだろうし、ついて行った方がいいことにすら気づかない子どもも多いに違いない。


親にエンディングノートを書いておいてもらおう・・・という声をよく聞く。

私がエンディングノートについての話をするとき、60歳以下の人はほとんどが「エンディングノート」を知ってはいるけれど、見たことがないと言う。
そういう人が、親にエンディングノートを書いてもらおうとするのには、私は否定的だ。
書くかどうかはあくまでも本人の問題。

むしろ書いておいてもらうのではなく、自らが親のことを考えるきっかけとして、エンディングノートを見てみることを、私はお奨めしたい。
子どもの立場で、親のことを考えながらエンディングノートを見ることには、大いに意味があると思うからだ。

エンディングノートには医療の項目がある。介護の項目がある。
親に書いておいてもらうかどうかではなく、子どもとして親から何を聞いておけばいいか、のチェックリストとして使えるのではないか。
これからどんな知識を仕入れておこうか、というヒントにもなる。

高齢の親を診る医療者と話をする時、
その家族が命や終末についての知識や意識をきちんと持っているかどうかは意外と大事なことだし、それによって医療者側もきちんと対応するようになるのではないかと思う。


蛇足だが、病院の診察室に呼ばれて中に入ったときのこと。
患者本人が椅子に座り、家族は横に立ち、医師は電子カルテ(モニター)を見てキーボードを叩くだけで何も話さない・・・。これが2分40秒。
今の病院は、電子カルテしか見ない「デンカルルドクター」ばかりだ。


毎月少しづつ書き進めるエンディングノート講座開催中



2015年1月17日

阪神大震災・・・20年前の今日を思い、生かされている自分を思う

20年前の今日は阪神大震災があった日。

今日のYahoo!のトップページは、下にスクロールすると・・・。



当時の動画や写真が次々と表われ、あの日の朝、テレビをつけた衝撃が、ありありと思いだされる。

被災し、自宅が損壊した落語家の桂文珍さんは語る。

 モノは壊れる、ということを実感した。
 壊れないモノをいかに大事にするか、を考えるようになった。
 今、生かされている自分を感じる。
 だからこそ、めげない。最後までくじけない。
 そのために必要なのが、
  自助(自分で自分を助ける)
  共助(人を助ける、互いに十に助け合う)
  公助(公的に助ける)

あれから20年。
当時、30代だった私は今、50代になった。
自分自身も年を重ね、あの時感じ、行動したことが、今、できるかどうかすら、あまり自信がない。

この20年の間に東日本大震災があったのだ。
平時の日常が繰り返されるうちに、当時の記憶はどんどん薄くなる。

不特定多数の人が見るYaho!のようなポータルサイトでこのような企画があり、再認識させてもらうことに価値を感じる。

文珍さんの言うように、今、私は生かされている。
壊れないモノは何なのか。それを考え、大切にしなくえは、と改めて思う。
めげない、最後までくじけないで、と弱っている自分に言ってみる。

今日という日。
忘れてはならない。




なかなか聞けない、終末医療現場で働いていた緩和認定看護師さんの話を聞くコラボイベント。
そのお話から自分の今を考え、生き方を考えてみませんか。
生き方を考えるのに便利なエンディングノートと、その中でも特に難しい項目の医療にスポットをあて、明るく考えていきます。





2015年1月7日

ネット上の自分、いつまで生かす? いつまで生き続ける?

今、ネット上に自分で書いた自分情報がある人は、数年前に比べてとても多くなっている。

前々から気になっていたことではあるが、朝日新聞デジタルの「死後もネットに漂う自分の痕跡 消去を託せる相手は…」を読み、改めてネット上の自分情報を考えてみた。

私がこのブログを書き始めたのが6年前。
他にもこんなブログを書いている(いた)し、ずっと前には会社を辞めるまでのカウントダウンブログなんていうのも書いていた。
mixiやtwitter、Facebook等のSNSもある。
さらに、Webサイトを3つ持っている。

上記以外にも、だいぶ前に少しだけ書いたブログもあったが、今ではその名前もパスワードもわからない。
張本人の私が今では書くことはおろか、見ることも探すこともできない。
自分の頭の中では消滅しかけているのに、ネット上にはたぶん・・・・ある。

他の人やメディアが自分のことを書くのは別として、これらの自分で書いた情報を管理しているのは自分だ。
基本的には自分でないと、消したくても消せない。
消すかどうか決めるのは自分だ。

数年前に亡くなった知人は、今でもネット上で笑顔で微笑む。

彼はいち早くGoogleにプロフィールと写真を掲載していた。
まだFacebookの日本語インターフェースがなかった頃で、ネット上に出していることが珍しいくらいだった。
その後、その画面はいつのまにかGoogle+に変わっていた。
無味乾燥だったプロフィールページが、今では彼の写真とともに出身地や学校、当時の勤務先がきれいに表示されている。
彼がネット上に出していたのはたぶんGoogleだけ(今でているのはGoogle+だけ)だろうが、実際のところはわからない。

彼は、我が家にとって大切な兄貴分で、家族のようなつきあいをしていた。
私はネット上で会えてうれしいけど、誰も何もできないからたぶんずっとこのまま。
これからもずっとここにいる・・・。

当時に比べて、ネットの上の情報は今、爆発的に増えた。
何百倍か、何千倍か、それ以上だ。
私自身がそうであるように、一般的に個人一人一人のネット上情報も、おそらくすごく増えているだろう。
たとえば今、私が事故で突然この世から消えたら、現段階では私が書いたネット上情報はたぶん彼と同じようにずっとネット上で生き続けることになる。
もしかしたら永遠に?

有名人が亡くなった場合は、ブログなどそのまま保持していつまでもファンがコメントを投稿し合うこともあるし、Facebookでは、家族がタイムラインに亡くなったお知らせを投稿する場合も見かけるようになってきた。
ネット上でどう生きていくか、ネットをどう利用するかは、いろいろな形が出始めている。

現在、私が書いたネット上情報のほとんどについては、私だけしかID・パスワードを知らない。
記録はあるがきちんと伝えていないので、たぶん私だけしか管理できない。

「終活」の世界では、自分の死後にこのネット上の情報をどうやって消すか、消せるようにどうやってIDやパスワードを記録しておくか、等を考えるようアドバイスするのが基本だ。
ネット上情報を消すことを前提に、消さねばならないという前提に立ったアドバイスが多い。
私が書いたエンディングノートに関する本でもネット上情報の管理についてはほぼ同様の形で少しふれているが、本が出てから1年以上たつ。

日本でFacebookが急速に広まってからまだ4年。
これからさらにいろいろなものが出てくるだろうし、逆に消えていくかもしれない。
新しいルールができるかもしれない。

ネットとのつきあい方や関わり方がどんどん変わっていく今の時代に、ネット上の自分情報を消す必要があるのかどうかさえ、正直なところ今の私にはよくわからない。
個人的には、人によっていろいろな選択肢があっていいように思う。

ネット上にいつまで生きる? 
ネット上にいつまで生かす?

ちょっと前の常識は、すぐに非常識に変わるかもしれない。




生き方を考えるワークショップ、参加受付中。1月21日(水)19時から麹町で。
若者にとっても生き方を考える時に便利なエンディングノートですが、その中でも難しい項目の医療にスポットをあてたワークショップ。
緩和ケア病棟看護師のお話をきっかけに、自分の今を考え、生き方を考えます。



2014年12月2日

人は生きてきたように死んでいく

どんなに目鼻立ちがよかった人でも、年齢を重ねると素敵でなくなる人がいる。
それと逆に、目鼻立ちとは関係なく、年齢を重ねて実にいい顔つきで魅力的な人がいる。

その違いはどこにあるんだろうと思う時、そこにはそれまでの生き方が出てくるのだと思わずにはいられない。

優しい人は優しい顔をしている。
お金に執着する人は卑しい顔をしている。
ふてぶてしい人はふてぶてしい顔をしているし、いつもイラついている人はイライラした顔をしている。

若い頃と違って、年齢を重ねた顔は生き方そのものである、と思う。


初めて、中下大樹さん(僧侶)のお話を聞いたのは何年前だろう。

  平常時は、隠れている人間の本性が、非常時にむき出しになる。
  「死」というのは、人の最大の修羅場であり、誰しも本性がむき出しになる。
  いざという時に、その人の進化・人間力が問われる。

そういう話だった。
それは、中下さんの著書、「死ぬ時に後悔しないために今日から大切にしたいこと」(すばる舎)に書かれている次の言葉につながっている。

  「逝き方」は「生き方」です。
  人は生きてきたようにしか死ねないのです。


年齢を重ねた顔に通じる話だと思った。

私は、昔から哲学や倫理観には疎い人間だ。
そもそも、そういう発想がなかった方だし、そういうことを考えずにいい歳の大人になった。
そんな哲学や倫理観に疎かった私でも、「生き方が表われる顔」に照らして考えてみるとわかりやすかった。


「『死にざま』こそ人生 『ありがとう』と言って逝くための10のヒント 」、「人生の実力―2500人の死をみとってわかったこと」等多数の著書があるターミナルケアの第一人者、柏木哲夫医師も、「人は死を背負って生きている」「人は生きてきたように死んでいく」のだと語る。

  しっかり生きてきた人は、しっかりと亡くなっていく。
  ネチネチ生きてきた人は、ネチネチと亡くなっていく。
  普段から感謝している人は、感謝しながら亡くなっていく。
  不平ばかり言って生きてきた人は、不平ばかり言って亡くなっていく。

  死に際に現れるのは 地位や職業ではなく
  その人の「生き様、人生への態度」だそうです。

上記は、九州のセレモニー司会者、高橋加代子さんが、以前Facebookでご友人が書いた柏木哲夫医師の話をシェアしていたもの。
私の心にずっと残っていた。

日頃、元気に毎日を暮らし、家族も元気で、多少メチャクチャなことをやっても一応日々がまたくりか返されていくと、特に何かを考えることなく日常が過ぎていく。
ましてや、なかなか生きることをちゃんと考えることなどない。
人生への態度、などとてもとても・・・私には難しすぎる。
ありがたいことに、私は心身ともに健康に恵まれていたので、特にそうなのかもしれない。

けれども、数年前に義父(夫の父)が病気になり、その治療に付き添い、段階ごとに治療方法を一緒に選択し、1年後に看送った経験がきっかけで、私は死について向き合い、考えざるを得ない状況になった。
その後、東日本大震災があった。

きっかけがあれば、少し考えることができる。
さすがに、私の人生への態度を考える、態度を変えるのはちょっと難しそうだが、それでも少しだけ考えることができる。

死を意識すると、今をもう少し大事に生きていけるように思う。
意識する機会を作ることは、自分を大事にすることはもちろん、自分の周りの人との関係を大事にすることにつながっているように思う。




■ワークショップを開催します。

 エンディングノートを通して、自分らしく生きるために考える

2014年11月8日

エンディングノートは「終活」で話題だけど、実は年齢不問の人生ノートだ


何度か書いているが、私はずっと人の顔が気になって仕方がなかった。
それも年齢を重ねた顔、 人生が表れている顔に興味があるのだ。
その究極の形が遺影なんじゃないかなと考えていたことがきっかけで、私はエンディングノートに出会った。

遺影にしてもいいくらいの自分の顔ってどんな顔かしら?と考えることと、エンディングノートの項目は、ちょっと似ている。

エンディングノートの中身を見てみると、エンディングノートは終わりのためのノートではなく人生ノート、そしてコミュニケーションノートだと感じた。
なぜなら、エンディングノートは自分の人生を考えて整理するためのノートであり、しかもそれを自分以外の人に伝えることを前提としているノートだから。

人生のゴールである「死」を意識することで、
生きることを再確認できたり、思い込んでいた価値を考え直したり、再発見したりする・・・ということも、エンディングノートを通じて気づいたことだった 。

そして今、「終活」という言葉が市民権を得るようになり、「エンディングノートを書きましょう」というセミナーが高齢者に人気だという。自治体でも、孤立し対策の一環で積極的に行っているようだ。
でも、このセミナーに出て、実際に書き始める人、書き続ける人はどれくらいいるだろうか。

「ふーん、なるほどね・・・。」
「いずれ、そのうち書こうかな・・・。」
これが大多数ではないだろうか。


また、書き始めた人の中には、「なかなか完成しない」と言う人が多い。

そりゃそうでしょう。
生きているんですから(笑)。

人の考えは、情報や知識、社会の流れ、人との関わりによって変わるもの。
状況が変われば判断も変わるし、考え方が変わることだってある。
進化していくこだってあるだろう。
もしも変われば、どんどん修正・加筆していけばいいのだ。
ぜひ加筆・修正しておきたい。

つまり、生きている限りはエンディングノートは完成しないのだ。
だから無理に完成させようなどと思う必要などないと思う。

しかも、実はエンディングノートの中身は人生ノートなので、別に高齢者だけのためのものではないのだ。
どんな世代であっても、人生を考えるならエンディングノートを使えばいいのに、と思う。

特に「顔」にこだわる私としては、生きざまが顔に表れ始める頃(40歳)には書き始めよう!と言いたい。
例え書かなくても、中身を見てみたら? 考えてみたら?

自分に照らし合わせて考えてみるもよし。
親のことで考えてもよし。
自分の最後を少しでもイメージすることで、今の捉え方が、きっと変わってくるはずだ。



エンディングノート講座開催中
http://www.travessia-endingnote.biz/group/index.html


2014年8月25日

自分の命を人に預けない

広島を始め、多くの地域の土砂災害被害は大変なものになっている。
テレビ画面に映るあり得ないような惨状に、言葉もない。
朝になったら、家の状況や周りの状況が一変しているというのは、どれだけ大きなショックだろう。この蒸し暑い中で、土砂と格闘されりうのは想像するだけで気が遠くなる。

被害に合われた方には、心よりお見舞い申し上げます。

この状況を見て、私たちはいったい何を学べるのだろう。

このような災害による被害をどう防いだらいいのか、どのような対策ができるのか、どうしたらいいのか・・・・ ?

それに対して、NHKの防災担当記者がテレビで言っていたのが「自分の命を人に預けない」ということだった。

今や、自然災害の大きさは、想定範囲を大きく超える。
大雨も洪水も、地震も津波も、竜巻も台風も。
少し前ではありえないような異常気象が頻発している。

「自分の命を人に預けない」とは、「自分の命を自分で守る」ということだ。

何が起きるかわからないから、いろいろなことを想定しながら、自分はどうすればいいかを自発的に自律的に考えること。自ら情報を取りに行き、自ら想像力を働かせて、自ら何をしたらいいかを考える。
〜そういうことだ。

これを聞いて思った。
これは、防災だけではない。
人生も、仕事も、何もかも。
そういう時代になったのだな、とつくづく思うのだ。

会社だって、仕事だって、明日はどうなるかわからない。
今日安泰なことが、明日安泰であるかどうか、どんどんわからない時代になってきたと思う。
しかも、何をすれば安心、という「100%」が、今の時代にはないのだ。

自分で自分をどう守るかなど、かつてはそうそう考える必要などなかったのではないか。
それはきっと、会社が、ご近所が、家族が、支えてくれていたのかもしれない。
そこまで急激に変化するようなことが多くなかったこともあるだろうが、変化に対して、廻りが守ってくれたことも大きかったし、会社や地域の人が考えてくれたり、専門家の人が考えてくれたりしていたのだと思う。

今は、かつてよりも情報はたくさんある。情報源も増えた。危険を予知する方法だって以前よりも増えているかもしれない。
しかし、情報がたくさんあったとしても、どの情報を取りに行くかを決めるのは自分。選ぶのも自分だし、情報を取りに行くのも自分。さらに、その情報を元にどう考えるかも自分だ。
医療だって、お医者さんにお任せだったのが、今ではどのお医者さんに診てもらうか、どこで診てもらうかを自分で探し、選ぶことで、より良い医療が受けられるし、治療法だって選ぶ時代だ。
どれを選ぶかを一緒に考える人や教えてもらう人との関係性まで、以前よりも自発的に作ることが求められつつあるように思う。

そういうことを自由自在にできる人はいい。
選択誰もがそういう人ではない。そうはできない。
何をどうしたらいいか迷う人、わからない人には、とても厳しい時代になったと言わざるを得ない。
でも多くの人がそうなのではないだろうか。

命も人生もすべて、人任せにするな。自分が自分で決める、考える、そうしなくてはいけない時代。
自己責任という言葉が話題になってからずいぶん経つが、もはやそれは当たり前で話題にすらならないのかもしれない。
わかるけれど、厳しい。

人生を人に預けない。

防災を考えることで厳しい時代を再確認し、自分自身の人生についてもしっかり自分で考えることが、今、求められているのだと改めて思う。





2014年8月22日

実家にある昔の写真、片付けられない? 片付けたくない?!

「もったいない」が口癖の戦前・戦中世代の親を持つ人たちにとって、実家の片づけは大問題だそうな。
メディアでも度々特集され、NHK「あさイチ」でもスタジオでも視聴者FAXでも大いに盛り上がっていた。今週、ビジネス誌『週刊東洋経済』では「実家の片づけ」が40ページの大型特集を組んでいるくらいだ。

片づけというのは、単にモノを捨てるかどうかという問題ではなく、何が大事で何が不要かを区別する、自分の価値観の確認や棚卸しに通じるので、ココロの問題でもある。
しかも本人が片づけるのではなく、片づけについて人と話したり一緒に片づけたりする場合は、それを理解できる関係かどうかにつながるので、家族のように関係性が近ければ近いほど難しくもある。

私自身もモノがなかなか捨てられないタチで、どんどんものを溜め込むタイプだ。
特に思い出にはめっぽう弱い。
幸いなことに私の親は比較的あっさりしていてあまり溜め込んではいないので、今のところ私には、実家の片づけという悩みはない。
しかし、親が高齢になって体力が衰えた分、モノを片づけたくても片付けられないから手伝って欲しいという話が来ることが増えてきた。

その中の一つに写真がある。

昔、写真は大事な宝物だったと思う。
立派なアルバムに貼ってあったりするものだ。さて、それをどうしようか?
写真の片づけは難しい。私が最も弱い「思い出」の塊だから。

親が保管してある写真は、親の幼少時代や親戚など、自分のルーツに関わる写真も多いし、私自身が親に可愛がられていた証のようなものもあり、処分するのはそう簡単ではない。
写真は、ゴミ屋敷の元になるような溢れかえるものとは違うが、処分したくもなかなかできないものの一つであることは確かだ。


元々は、高齢の親の人生を子どもがまとめ、感謝の気持ちを親に贈る、のという意味合いでスタートし、提供しているものだ。
しかし、贈り物であろうがなかろうが、写真自分史は、写真を整理する上で有効だと思う。

たまっている写真の中で特に大事な写真はどれか。
それを選別し、その説明を一つづつ付けたコンパクトなオリジナル写真集を作るのだ。
ちゃんとした写真集があれば、残りは比較的安心して捨てられる。
できあがった写真集を家族や親戚に配るのも悪くない。

自分史を書くのは自分をふり返るのに有効と言われるが、日頃文章を書き慣れていない人にとってはハードルが高い。
しかも、書く本人にとっては一生懸命な時間をかけた作品には違いないが、読む人にとってどこまで興味深いものかどうかは疑問なのが辛いところだ。

お元気な人が多い自立型老人ホームには、しばしば図書コーナーがあり、入居者さんが書いた自分史が並んでいる。
特に大学教授やお医者さん、経営者や大企業の重役さん等、社会的な地位の高かった人の自分史が目立つ。
ここに並んでいたとしても、どれだけの人が読むのだろう。

でも写真ならちょっと違うのはないか。
読み手への負担が小さいので、 気楽に見られる。
家族や親戚、友人知人なら、さらに興味深くなり、積極的に見たくなるだろう。
写真だけだと何の写真かわからない場合もあるが、一言二言説明が入っていれば読み手にもわかるし、それがきっかけで会話もはずむ。

自分の人生をふり返るのは大事、棚卸しをしようなどとしばしば言われるが、誰もがそうそうできるものではないだろう。
でも写真を整理するならできるという人もいるのではないか。

本人が思い出に浸りながらやるもよし、楽しみながらやるもよし。家族と一緒にやるもよし。
それが結果的に「家族のためにやる片づけ」になり、「自分のためにやる片づけ」にもなって、人生をふり返ることができるのであれば、一石二鳥、三鳥だ。


2014年7月18日

Yahoo! が始めた終活サイト、わかるけど気になる・・・

今や、終活という言葉は完全に市民権を得たように思う。「就活」から転じた「終活」の言葉自体を知らない人はほとんどいなくなったのではなかろうか。

私が生きざまが表れる顔に注目し、その究極が遺影だと考え始めた頃には、まだ終活という言葉はなかった。もちろん、遺影を考えることが終活のひとつであるという発想も、当時の私にはまだなかった。あくまでも私の注目は顔だったからだ。

その後、世の中の高齢化や孤立死が社会問題化し、家族のあり方の変化や相続税が変わることも手伝い、死ぬ準備、死んだあとの始末が注目されるようになったことで、終活という言葉が出てきたのだ。
私が気にする遺影もそのひとつになった。
終活本が多数発行され、終活を掲げるWebサイトが多数出て、あちこちでは終活講座が行われている。私自身も終活カウンセラーの学びをし、そういう話をする機会が増え、エンディングノートについての本を書き、出版している。

死を考えることで、今を丁寧に生きていける。

終わりを意識することで、今の価値、これからをより充実させることができる。

~そう思う。
確かにそう思うのだが、そうしたら、なんとヤフーが終活サイト「Yahoo!エンディング」を始めたのだ。

洒落たサイトになっているのに、今まで私自身が発信してきたテーマであるにもかかわらず、なぜか私は共感ではな、く少しばかり違和感を感じたのだ。
「Yahoo!エンディング」は無料で会員登録できる。
いずれ訪れる死に向けての準備をするためのサイトとして、葬儀の手配、お墓の準備等を扱い、相続にまつわる情報提供を行う。
いざという時に備え、家族に残したいメッセージも保管できる。
葬儀やお墓の専門出版社、鎌倉新書との提携だから、おそらく情報も確かだろう。
あのYahoo!がここまでやる時代になったのだ。
それなのに私が多少の違和感を感じるのは、それはきっと、いきなり「葬儀」「お墓」だからだと思う。
いきなり「死」の直後についての情報提供だからなのだと思う。
それも、その周辺業界ではなく、Yahoo!がやっているからだ。

人生は生まれてから死ぬまでの時間である。
誰もに死は訪れるのだから、死から目を背けることはできない。
けれども今を、そしてこれからをどうするのか。
どう生きて行くのか。
それがあって、最後が死ではないのか。
そこを考えずにいきなり死を考えようとするところに、きっと私は違和感を感じるのだと思う。
目を背けがちだった死を考えようとするなら、そこも考えなければあまりに残念! もったいなくはないだろうか。
これからを考える、生き方を考えるということは、葬儀やお墓、相続のようにお金が介在しにくい。シャワーのように提供される情報は、どうしてもお金が介在するものばかり溢れて行く。
だから私たち自身が意識して生き方を考えていかないと 、どうしても振り回されてしまいがちだ。
汎用性高いポータルサイトを運営するYahoo!がやるからこそ、お金が介在するところばかりの話にしてほしくないと思うのは綺麗ごとだろうか。
もちろん実際には、生き方や家族のあり方までの視点をアドバイスしてくれるような葬儀やお墓を扱う人を私自身は何人も知っているのではあるが。
やはり死を意識するならば、顔の見えないサービスのみに頼ることなく、私は生き方までを考えたいし、葬儀やお墓、相続などは、そのどう生きたいかという考えの結果であると自らが思ってこそ意味があり、幸せにもつながるのではないかと思ってならないのである。


Yahoo!エンディング

2014年6月20日

この年になって、年をとるっていいなあと思えるのよ。

去年から自宅で作業する割合を増やしたせいか、あまりもの運動不足に危機感を感じるようになった。
私の携帯(ガラケー)には万歩計アプリがついている。携帯を持ち歩くだけで1日何歩歩いたか、どれくらいエネルギーを消費したのかが一目瞭然だ。万歩計を携帯する手間もいらず、時々確認する。
かつてはどんなに少なくても5,000歩はクリアしていたのに、この1年は50歩にも満たない日がしばだ。これはさすがにまずいと思い、短時間の筋トレ中心女性専用クラブに入会した。
メンバーはどちらかといえば中高年女性が中心。70代、80代も少なくない。顔見知りになっておしゃべりに興じる人も相当数いるし、きっと仲間作りで来ている人もいるのだろう。
でも私の場合は、まじめに運動不足解消。基礎代謝を上げて筋肉をつけねばと思うので、周りの人ともほとんど喋らず、体を動かしたら即、帰る。
そんな時に、60代と思しきメンバーに声をかけられた。
「来てみてどうですか?変わりましたか?」


「さあ、どうですかね〜。肩こりがへったくらいかしら。」
私は素っ気ない応対をしたところ、彼女は5年以上継続しているという。、
「そう?!それはよかったですね〜。運動すると少しづつ変わりますものね。」
と言い、さらに続けた。

「それに年齢が重ねるとね、だんだん子どものこと、家のこと、親のこと、たくさん抱えていた問題が一つづつクリアになっていくんですよ。
片づいたり、乗り越えられたり、知恵がついたり。
そしてだんだん自分のことを一番に考えられるようになる。
自分の時間も持てるようになる。
これが年をとるってことだなあ、と。
あなたはまだお若いからわからないかもしれないけど、私はこの年になってようやく、年を取るっていいことだなあと、最近しみじみ思うんですよ。」 

若いと言われることなどあまりない私は少し驚いてしまったが、彼女の言葉を聞いて、私も嬉しくなった。
しかもその彼女はとても素敵な顔つきをしていたのだ。

自分より年上の人が活躍するのを見ると元気をもらう、勇気をもらう。
そんなことは前から私が言っていたことでもあるし、わかっていたはずなのに、改めて清々しい思いがした。

それは私がどこか、仕事に偏って考えていたのかもしれない。
特別な人じゃないとそう思えないんじゃないかとどこかで思っていたのかもしれない。
でも普通の主婦として家族のためにずっと生きてきたであろうその人が、そう語ることにこそ、とても価値があるように思えた。
普通に暮らしている普通の人が「年を取るっていいなあ」と思えることはとても幸せなことのはずだ。どんな人からもそういう言葉を聞けるような社会であればいいのに、と改めて思う。