2015年4月30日

一人旅、一人遊び、得意ですか?

若かった頃、一人旅や一人遊びができるのはオトナの証しだと思っていた。

学生時代には一人旅の経験はなかった。
でも就職してからはあちこち出張に行くようになったことから、
そのまま休暇をつけて一人旅をするようになった。

時代はバブル。
キャピキャピ女子が大流行の中で、
質素な出で立ちでのオンナの1人旅はたぶんまだ珍しくて(苦笑)、
当時はちょっと怪しまれたようだ。
北陸を路線バスで動いた時には、自殺場所探しに誤解されかかったこともある。

そんな私だったが、結婚して以来、なぜか一人旅をほとんどしたことがない。
絶対できない環境というわけではないし、禁じられたわけでもないのに、
なぜかそういう発想が起きないまま20年が過ぎた。

私の周りの同世代を見回すと、そういう人が多い。
中には、1人でカフェにも入らない(入れない)人、1人で映画を見ない人、なども
少なくない。

特に既婚者や子どもがいる母親にはそういう人が多いようだ。
一方でシングルの人は軽快に1人旅をしている人が多いような気がする。
そういう人を見て、最近私はちょっと羨ましくなってきた。
私もまた一人旅をしようかなあ。。。

そんなことを漠然と考えていたら、
25歳の女性が「昨日は“ひとりディズニー”したの!」と言っていた。
ひとりディズニー?!
改めて聞いてみたら、やはり文字通り一人でディズニーランドに行くのだそうだ。

ディズニーランドは旅ではないけど、
ディズニーランドというのは複数で行くものだと私は思っていた。
一人で行って何するんだろう、と。
そもそも私はあまりディズニーランドにはあまり行ったことがなく、
一人で行く気持ちがよくわからないから余計にそう思うのかもしれない。

ディズニーランドに何回も行くディズニーランド好きな人は多い。
その彼女もそういう一人で、
その日は仕事が休みだったのでディズニーランドに出かけたのだと言う。
仕事の関係でなかなか友人と休みが合わないこともあったし、
家族などと行くと志向するアトラクションが違って乗りたいものに自由に乗れない
こともあり、1人で行くのは気楽でいいのだと言う。

私が不思議がるのを見て、彼女は言った。
そういう女の子、たくさんいますよ。
 すごいカメラ持って写真撮りながら遊んでる女の子とかも多いですよ。

ふ~ん、なるほどね。。。
私は、どうも若い女の子は一人では行動しないものと思い込んでいたようだ。

私の場合、結婚してからいつも近くに人がいる生活が当たり前になり、
旅どころか、一人で行動することがめっきり減っていることに今さらながら気づく。
かつては一人でどこにでも遠出運転していた車も、
今では運転する機会がめっきり減り、私はハンドルを握るのも面倒になった。

特に夫がもともと一人遊びができないタイプでもあったから、
休日は夫と遊ぶことが多かったことも関係しているんだろう。
けれど数年前から夫は一人遊びを覚え、
彼は今、一人であちこちにふらっと出かけて行くようになった。
休日はほぼ不在だ。

私の目から見て、夫は一人で遊ぶようになって
風や空気の感じ方、モノの考え方など、いろいろと変わったと思う。
ちょっとうらやましい。

1人ディズニーを訝しく思う私自身が、ちょっと停滞してるのかも。
考えてみれば、複数で賑やかに動くと元気で目立つけれど、
反面、一人では動けなくなっているのかもしれない。

1人ディズニーの話を聞き、私も久しぶりに一人旅に出かけてみようと思う。
ディズニーランドに行くつもりはないけれど、ね。


2015年4月25日

試しにやってみること、行ってみること、聞いてみることが大事な理由

先月、仕事に関係ありそうなテーマの映画を立て続けに2本観た。
1本はかなり期待してた映画で、
もう1本はついでにこっちも観ておくかなと思って観た映画だった。

結果は・・・・・
期待していた映画は意味不明のまま終わってしまい、仕事の役には立たず、
比較的話題になった映画ではあったが私には面白くもなかった。
でもついでに観たもう1本の映画は、そんなに話題にもなっていなかったけど
仕事の上で役立つばかりかとても味わい深く心に沁みたいい映画だった。

映画館で映画を観ると、いろんな予告編を観る。
必然的に全然知らなかった映画の予告編を観ることになるので、
次々とさらに映画を観たくなることが多い。
今回も予告編を観たせいで、新たに観たくてたまらない映画に出会った。

私はその公開を心待ちにし、先日観に行ってきたのだが、
ちょうど割引サービスの日だったので、他の映画とハシゴした。
そうしたら・・・・
またまた心待ちにしていた映画が全然よくなくて、ついでのハシゴ映画は無茶苦茶よかった。

またか・・・

偶々翌日美容院に行ったので美容師さんにその話をしたら、
「洋服を買う時にそういうこと、あります!」と言われた。

今日は○○を買いに行こうと決めて服を買う、
欲しくて欲しくてたまらなかった服を念願かなってやっと買う、
・・・そういう時に、ちょうど横でセールをやっていたからとか、
たまたま目に入ったから、ということでついでに服を買うと、
そのついでに買った服の方が意外に馴染んで、いつのまにかそればかり着るようになる。
特別なお気に入りというわけではなかったはずなのに、
いつのまにか妙に馴染む、と言うのだ。
一方で、あれだけ買おうと決めて買いに行った服なのに、
いざ買ってもほとんど着ない、気に入らないというわけではないのだけど
自分に馴染まない、しっくりこなくて着なくなる服がある、と言うのだ。

わかる。
私にも、ある、ある。

そう言えば、辛口有名ブロガーのかさこさんも、
狙って書いた記事が必ずしもPV数を稼ぐとは限らず、
思わぬところで驚くPV数を稼ぐという話をしていたことがある。

もちろんタイミングもあるのだろうけれど、
目的を持ったからと言って、必ずしもそれがしっくりくるとは限らない。
でも一方で、偶然だけどとても嬉しい出会いになり、
その後に大きく影響を与えることがある。
フタを開けてみると思わぬ展開になることが、意外に多い。

だから、すご~くやりたいわけじゃないけど試しにやってみる。
例えばついでに行ってみる。
とりあえず会ってみる。
一応、聞いてみる。
・・・・そんなことが人生を変えるきっかけになることだってあるんじゃないかと思う。

現に私が今あるのも、そういう偶然がいっぱいあったからだ。
だから、試しにいろいろやってみることは、きっととても大事なことなのである。





 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
 6月 9日 遺影を意識して、今の顔・顔つきを考える
 体験参加募集中

2015年4月23日

「何がわからないか、わからない」ことが苦しい。なぜならモヤモヤに迷い込んでいくから。

わからないことがあれば、今やネットでなんでも調べられる。
まあ、怪しい情報もいっぱいあるけれど、それでも調べればいろんなことがわかる。

昔は本屋さんに行き、図書館に行き、詳しそうな人に電話をして聞いて、
場合によってはその人を訪ねにも行き・・・・
今考えると、嘘のような話だ。

インターネットの登場は産業革命だというのもうなずける。

だけど、問題になるのは何がわからないかがわからないとき。

何がわからないかわかれば、それについて調べればいいんだから。
わからないところを集中的にわかるようにすればいいのだ。

でもそれができない・・・・

肝心のインターネットも、何がわからないのかは教えてくれない。
自分に聞くしかないのだ。
その自分が、何がわからないかわからないから、苦しいのだ。
時にはわからないことにすら気づかないおともある。
なんかモヤモヤとした気持ちってこともある。

それも正解がないことだったりすると、ますます苦しくなる

この何がわからないかを自分で、ちゃんとわかる人、というのが、
今の時代は本当に頭のいい人なんだと思う。
学校の成績とは別の話だ。

だけど、そういう人は、今、あまり多くいない。
わからないことはなんでも簡単に調べられるようになったことで、
何がわからないかを考えたり気づく能力は、昔より劣ってきているようにも思う。

「何がわからないのか」の答えは、実は自分にしか出せないのだけど、
だけど一人ではなかなか見つけられず、トンネルの中に迷い込んでしまう。
モヤモヤと霧の中に迷いこんでしまうのだ。

何がわからないかがわからないことが、自分への自信を奪っていく。
モヤモヤしている不安・・・、
そんなこともわからない自分への情けない気持ち・・・、

ずっと停滞していた頭の中が、人と話している途中でフッと動き出すのを
感じることはないだろうか。

迷い込んでいる時間は大事な時間ではあるけれど、
一人でじっくり考える時間も大事な時間ではあるけれど、
それが長引く時には、一人だけで考えない方がいいと私は思っている。

一人で考えてわからなくて答えが出ないのが続くと、
私の場合は自分への自信をどんどん失い、自己否定ばかりするようになる。
そうなるとすべてがネガティブに変わり、ロクなことにはならないんだから。

例えば先輩に話してみるのも一つ。
先輩、と言っても年齢的な先輩だけではなく、その道の経験者の先輩、
先にやっていた先輩、学んでいた先輩・・・、


思わぬ視点をもらったり、ありえない言葉がきっかけで
「自分は何がわからなかったか」の答えに気づくことがある。

私の場合は、そうやっていろんな人に何度となくトンネルから引きずりだしてもらったなあと、今、思うのである。




あなたは本当に自分の価値に気づいていますか?
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2015年4月22日

ちゃんと育ってきた、と感じさせる人が好き・・・?

「私、ちゃんと育ってきたと感じさせる人が好きなの」。
ある日、その女性はそう言った。

それは経済的に豊かに、と言う意味ではなく、きちんとしつけられてきた人、という意味で、なんとなくそういう風に感じさせる人が好きなのだそうだ。


さらに彼女は続けた。

翻って自分の子どもは大丈夫だろうか?
経済的に苦しい思いもさせたこともあったけど、でもたくさん愛してきた。
ひがんだり、ねたんだり、人を蹴落として自分が上に行こうとするのではなく、人を思いやれる人になっているだろうか。
でも、自分のことを大事にできる人になったと思うの。

彼女が言う「ちゃんと育ってきた人」というのは、
どうやら「たっぷり愛情を受けて育ってきた人」という意味のようだ。


それは生まれた環境に左右されることもあるだろうから、必ずしも本人に選べるものではないし、運不運もあるだろう。
もしかしたら酷なことかもしれない。

それでも彼女がそう思うのは、
ちゃんと育ってきた、すなわち愛情をたっぷり受けて育てば、自分のことを大事にできる人になるから。
自分のことを大事にできなければ、まわりの人を大事にできないから、ということだった。

私はふだん、そんなこと思ったことはなかったけれど
それを聞いて私が顔つきに感じるものにつながると感じた。
つまり、長い時間をかけて作られていく顔つきには、そういう育ち方みたいなものが反映されるのかもしてないと。

顔つきには今までの生き方が自然に滲み出て来ると私は思っている。
目鼻立ちを超える何かが、じわじわと表れてくるのだ。
それはそれまでの長い時間をかけて少しづつ表れて来るものなのだと思う。


人は一朝一夕には出来あがらない。
ある期間だけがんばっても、ずーっと長い期間かけて少しづつ育てられるのだろう。
きちんとしつけられた人、愛情をかけて育てられた人・・・とはいえ、親は選べない、
環境が人を育てる。
子どものときは無理でも、大人になれば少しづつ自分で環境を選ぶことができる。
自発的に学んでいくこともできる。

それが少しづつ少しづつ積み上がっていくとでも言おうか。

今の私は、きっと5年後、10年後の顔に滲み出てくるのだ。




 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
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2015年4月20日

こんな時代に「人」を感じられるサービスに感動した話

夫が趣味関係の何かをネットショップで購入したときのこと。
商品にこんな紙が同封されていた。


梱包を担当した人の名前が、自筆で書いてあったのだ。

自分の名前を書く以上、梱包する人は梱包だけでなく商品そのものにも責任を感じながら、梱包するに違いない。
しかもそれが自筆なのだから。

でも、効果は発送元だけじゃない。
受け手にとっても、これだけですごい信用!信頼感がぐっと高くなる。

その時の納品書の金額欄を見て驚くなかれ!


なんと!
300円に満たない金額なのだ!

この会社、すごい。
とは言え、この売上に対してこれだけのことをしていては、とても合わない。

でも今やネット社会。
私みたいにこうやってネットで発信する人がいるように、
こういう会社がある、すごい、っていう声はきっと広がっているのだろう。
だって、感動ものでしょ、この丁寧さ。

Good Job!って思いませんか?!

この会社は二六製作所
創業70年を超える磁石の会社だ。
サイトを見ると、その丁寧な仕事ぶりがこの会社の文化であることをうかがわせる。
「磁石」というニッチな市場なだけに、限定された顧客の中では、きっと「知る人ぞ知る」存在であるに違いない。


個人の名前を出す・・・ただそれだけで信用はぐっと上がるのだ。
会社側からすれば、個人が責任感を持って働いてもらう上でも、
絶大な効果をもたらすこと、間違いなし。

誰もがコンシェルジュを求め、誰もがコンシェルジュになりうる時代になった。
金太郎飴みたいにマニュアル的な顔の見えないお決まりのサービスではなく、
その人となりが覗けるような、温かみあるサービスを求めるような時代に入ったのだと思う。

会社だって、今や個人を出すことが大事な時代になった。


さて、これ↓は、比較的リーズナブルなアジアンなレストランで、
会計後にいただいたカードだ。


食事をした全員がそれぞれ1枚づついただいたのだが、そのメッセージはすべて手書き。
しかも書いてある内容は、すべて違う内容だった。

個人の名前こそ書いてはいないけれど、まさに個人的な感じ。
書いている人の心持ちが伝わってくる。

デジタル化が進み、効率優先な時代になるほど、
こういう温もりみたいなものを感じられるサービスの価値があがっていくのだ。

私はこういうことにとても心が動く。
嬉しい。
また買おう、また行こうと強く思うのである。

ITが進み、人間臭さを感じにくくなった今でも、やっぱり個人の力というのは、マーケティング的にもとても強いと思う。


2015年4月18日

人生は山登りとは違う。・・・そう言えば長い長い踊り場があった。

人生はしばしば山登りにたとえられる。
少しづつ少しづつ登っていくから。

この登るってどういうことなのか。
私は成長することだと理解していた。
がんばって少しづつ少しづつ登っていく。~そういう風に思っていた。

つまり、一生懸命生きていれば(=がんばれば?)、
人はこういう感じ↓に成長するものだと、どこか思いこんでいる節がある。



だけど、自分の昔をふり返ってみると必ずしもそうではなかった、と思う。

学校時代の勉強や成績は、まあ、意外とこういう感じだったのだが
社会人になってからはまったくこうはならなかった。
仕事面での成長はもちろん、人間的な成長(?)となると、ほとんどこうはならなかったように思い返すのだ。

残念ながら、どんなに一生懸命がんばったとしても、そうそう成長なんかしない時がある。
残酷なくらい、停滞することもしばしばだった。
勘が良くてどんどん成長する人を間近で見るとそれを羨み、
そうならない自分が本当に嫌になる。
そのたびに私の場合は自己嫌悪し、
もう無駄だからがんばらない!とふてくされたりしたものだ。

だけど、ある日ふっとできるようになったり、
これだったか!と憑き物が落ちるようにわかったりすることもあった。

つまり図にするとこんな感じ。


最初のうちはまあ、やればやっただけできるようになるんだけど、
すぐに全く成長しなくなる。
ちっともできるようにはならない。
そのずっと前に比べればできるようになっているんだけど、
自分ではそれに気づかなくて自己嫌悪がどんどん膨らんでいく。

階段だと思っていてもそこは広い広い踊り場で、いつまでたっても
どんなに前に進んでも、なかなか上に登れないのだ。

それでも仕方なく嫌々でも続けていると、ある日突然、

あ、これってこういうこと?

こういう風にやればいいのか!

言っている意味がわかった!

など、急に気づくことがあった。

それをきっかけに今度はどんどん楽しくなって、またがんばろう!と思う。
つまりモチベーションが上がるのだ。

でもまたすぐに停滞に入る。
もうイヤだ! どうせできっこない、と思う。
そしてまたふっと気づく。

今、改めてふり返ると、働いてきた30年間は、こういう繰り返しだった。
それなのに、かつてそうだったことを今、すっかり忘れていた。

新しいことを学ぶとき、新しいことに向かう時、新しい仕事を始めるとき、
うまくいかないと、ああ、もうだめだと思う。
嫌になる。
やる気満々だったのが、だんだんやる気も失せる。
好きなことまで嫌いになったりする。
実際、それでやめてしまったこともいくつかある。

だけど・・・・・、
そうだった、そうだった。
続けていると、いつか気づくことがあるんだった。
なんでこういうこと、忘れちゃうんだろうね~(苦笑)。

働こうが働かなかろうが、それが趣味であったとしても、
続けているとある日突然、ふっと気づく日が来る。
続けなければ、そこで終わり。
できるようになるはずなどないのだ。

いい歳して何やってんだろ?!
今さらがむしゃらにがんばるなんて。
〜〜そんなことを思うのは、今までどうやってできるようになったかを
忘れているからなのだ。

私自身も今までをふり返り、今の自分にヨシヨシしながら励ますのである。
年齢を重ねれば重ねるほど、いろいろな経験をしているから
自分の人生をふりかえる価値は若い頃よりもさらに大きいはずだ。







次回のテーマは、人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
5月18日開催。体験参加募集中。



2015年4月16日

生きることは、自分に「がんばれ」と言い続けること

気分というのは上がったり、下がったり・・・・。
それは自分の問題だったり、実績や結果など事実の反映だったり、
他の人や会社の事情を見たり聞いたりしたせいだったり、
メディアで社会の様子や環境を知ったからだったり、勉強したせいだったり。
たとえ自分が全然変わらなくても、まあいろんな事情で自分の視点が変わって
気分が上がったり下がったりすることがある。

個人的に私は、今週末がんばらなくてはいけない(がんばりたい)状況を迎えるので気分を上げたくて、映画を見に行った。

普段そんなに映画を観る方ではないのだが、今の映画館は昔よりもずっと快適。
私は気分を上げたい時、どっぷり泣きたい時、などに一人で映画を観に行くのだ。

観たのは「風に立つライオン」。

これを選んだ理由は、予告編で見たこのセリフ。

「僕は9人も殺してきた」
「それならば一生をかけて10人の命を救うんだ。」
「未来はそのためにあるんだよ。」

そして、そこに流れる音楽、さだまさしのきれいな声。
よく見たら、原作もさだまさしさんだった。

ヨシ!これは上がりそうだ!(笑)
そう思って、この映画を観に行ったのだ。

映画の中で、主役の大沢たかおさんが叫んでいた。

がんばれー! がんばれー! がんばれー!

「がんばれ!」と言うのは人に言う言葉じゃない。
あれは自分に言う言葉なんだ。

・・・・そっか。
ヨシ、ヨシ。気分が上がってきた(笑)。

私も今週末のために自分に言おうと思う。

がんばれー!

生きていれば嬉しいこと、楽しいコト、いいことはたくさんあるけど
反面、つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、やるせないことなどから
逃げ切ることはできない。
考えてみれば、
生きることは自分に「がんばれ!」を言い続けることなのかもしれない。

日頃から人の顔つきに興味がある私だが、
「がんばれ!」と言った分だけ、人の顔つきは変わってくるのかもしれないと気づいた。


今回映画を観たのは、個人的に気分を上げたくなったことに加え、
ちょうどポッカリ時間が空いたから。
しかも女性だけの申し訳ないくらいの割引日でもあったので、即決行したのだ。
こういう自由は、私がフリーランスになって嬉しいことの一つでもある(^^;;。



次回のテーマは、人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
5月18日開催。体験参加募集中。


2015年4月15日

生きているから悩みは尽きず、悩む人はいっぱい。だからお悩み相談

悩みがない人なんかいない。
今の時代だから悩みが多いのではなく、昔から人は悩む生き物だ。
人が悩むことはいっぱい・・・・
昔の新聞や雑誌には人生相談コーナーがよくあって、それは人気コーナーだった(と思う)。

今、主流なのはネット上のお悩み相談だろうか。
いろんな人がいろんな立場で回答してくれる。

そして次はリアル。
4月4日に、こんなイベントがあった。

おなやみ相談フェスティバル
http://onayamisoudanfes.wix.com/nayafes



恋愛・結婚・家族問題、仕事、お金、自分自身の生き方や方向性、健康、美容などなど、さまざまなお悩みにお応えするイベントだ。

お応えする方も、占い師、カウンセラー、コンサルタント、コーチ、セラピスト、
各種専門家やアドバイザー等々、
これまたさまざまな立場の人が65人も出展するイベントになった。
会場は大人の文化祭というか、コミケット(コミックマーケット)のような
ごちゃごちゃ混沌とした賑わいだった。
今回は第1回めで、2回めの開催も計画中だ。

すご〜く深刻な悩みはなかなか難しいだろうが、ちょっと相談したい、
違う視点のアドバイスがほしい、という大きな悩みになる前の
モヤモヤした気持ちで悩んでいる時に、リアルな対面は、
何を悩んでいるのかが整理されたり、
悩みが大きくなる前に解決の糸口が見つかったり。
あまりに多くの情報があふれているからこそ、今、
こういう形は喜ばれるかもしれないと感じた。

私もこのイベントの出展者の一人だったのだが、
あまりに多岐にわたる出展者やセミナー登壇者が面白く、
じっとしていられなくなってしまった。
その結果、相談を受けるのではなく自ら相談する側になって
いろんなブースをハシゴし、肝心の自分のブースはほとんど留守にしてしまい、
時にはお客様をブースでお待たせしてしまう始末。
・・・・・私を訪ねて来てくれたお客さま、大変失礼しました。


ひと昔前には人生相談の回答者はいわゆる有名人や文化人が普通だった。
カウンセラーやセラピスト、コーチ、コンサルタント、アドバイザー、スピリチュアルな人・・・・というのはあまり出てこなかったし、そもそもかなり胡散臭い存在だった。
今でも胡散臭い人はいっぱいいるけど、
反面かなり頼りになりそうな人は多いし、人気者で相談料もなかなかの高額等、
信用できそうな人も多くなったような気がする。

昔よりも悩みを気楽に相談できるようになったのか、
昔なら家族や親しい人に相談していたところを、いきなりそういう相談対応専門家に相談するようになったのか。

いずれにしろ、今回のイベントはネット上の相談ではなく、
リアルに相談したい、というニーズに応えたものだ。

一堂に集まる双方向コミュニケーションの形をさらに進め、
そういう相談対応専門家とクローズに1対1で、しかも秘密が守られる電話相談を
受け付けるポータルサイトというのもある。
ボイスマルシェ、キャッチフレーズは「55分で人生を変える。大人のための電話相談」だ。

生きている限り悩みは尽きない。
悩む人はいっぱいいる。
だからお悩み相談と言う場ができるわけだが、この電話相談ポータルサイトで扱う範囲は広い。
恋愛・結婚、夫婦問題、仕事・キャリア、家族問題、メンタルヘルス、美容・健康、お金・・・・、しかもそれぞれワケありの話など、なかなかややっこしい問題まで扱いそうだ。

こういうイベントやポータルサイトができるのは、
悩み相談をしたい人が多いこともあるだろうけれど、
それ以上に悩み相談に対応する専門家が増えてきたからなんだと思う。

昔から悩む人はいっぱいいた。
でもそうそう専門家に相談などしなかったはずだ。

だけど今ではそういう相談対応ができるいろいろな専門家が増えた。
そういうスキルが体系化され、そのスキルを習得するための講座が増え、
スキルを身に付けた人が普及し、誰もが気楽に専門家に相談できるような
世の中になったとも言える。

これが今後もっといろいろなものが次々と出てくるのか、
それとも玉石混合から淘汰されていくようになるのか、
それとも今が過渡期でまた減っていくのか。

あと5年経つとどんなふうになっているだろうか。

しばらくはいろいろなものが出てくるけど、
いずれ早い時期に怪しいものが淘汰され、
本当に望まれているものだけが残り、
それはさらに増えていくのではないか、と私は思っている。

いずれにしろ、面倒なことになる前に手を打てるのはいいことだ。
何がわからないのかをプロに整理してもらったり、自分の方向性を考えるきっかけをもらったりすることもあるだろう。
自分のことは意外によくわからないものだ。

相談をし、答えをもらうつもりであっても、結果的には自分と向き合うことになることもあるだろう。相談なんかしなくても自分でちゃんと考え、成長できる人はそれでいいけれど、
相談することで、精神的に成長できるチャンスがある。
いつだって、何歳になっても。

成熟し、物質的に満たされるようになった反面、
精神的には満たされず、悩みが増え、ストレスが増えた。
寿命が延びたせいか成長スピードが遅くなったようで、なかなか大人になりきれない。
だから、相談する機会が求められるような気がする。
そういうスキルを学ぼうとする人たちの中には、自分自身の成長のために学ぶ人も、きっと多い。




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2015年4月14日

自分が成長するには、「いい先輩」が必要だし、「いい先輩」になることも大事

求職中の20代女性の前職は、なんせ仕事量が多かったと言う。

聞いたところ、彼女は夢と希望に燃えて就職した。
次々と興味深いことに接する機会があり、
仕事は面白かったのだけれど、やってもやっても終わらない。
残業も休日出勤も多い。
周りも忙しいから相談もできない。

肝心の直属の上司は40歳前後の育休明け女性で時短勤務だった。
教えてもらうどころか、本人がイッパイイッパイで声もかけられない。
ちょっと声をかけると、邪魔しないでと言わんばかりだったと言う。

さらにその上の上司は50代。
その人の仕事は書類の承認印を押すだけで、毎日定時にサッと帰る。
相談しても、彼女の直属上司に任せているからと関知しなかったと言う。

結局、彼女は身も心もヘトヘトに疲れはてて、・・・退職した。

こういう話を聞くと、本当に心が痛い。


私と同年代の人たちが、若者世代の夢を奪おうとしている。
なぜそうなってしまうのだろう。

彼女というのは、知人の娘さんだ。
私と同じ分野を学び、その専門を生かす形で、
私と似たような仕事をしてきたことから、
私と話がしてみたいと言いだしたそうで、私が会って話を聞くことになったのだ。



私が若かった頃、上司は仕事を任せてくれたのに
当の私は全然できなくて、期待にはちっとも応えられなかった。
悔しくて情けなくて仕方がなかった。
必死にやるしかないんだけど、できないし、終わらない。

仕事をしながら私はメソメソ泣いてばかりいたが、
泣いてもいいような場、許される時があったように思う。
私の仕事場には厳しく叱る人、怒る人だけでなく、温かく包んでくれる人が必ずいた。
上司ではないけど仕事を教えてくれる人、慰めてくれる人、
事情はよくわからないけど、まあヨシヨシ、と言ってくれる人・・・
夜になれば、仕事が終わらなくてもまあ飲みに行こうよ!と、
あちこちに連れて行ってくれる人もいた。
そういう人は、みんな先輩だ。

私はそういう先輩たちに助けられながら、だんだん強くなっていったように思う。

そういう先輩たちに感謝するたびに、
「次は自分が後輩にそうするんだよ。」
と、いつも言われたものだ。

今、私が若者の夢を応援しよう、応援せねば、と思えるのは、
そういう先輩がいたからだと思う。

だけど、そういう先輩に恵まれなくて
自分だけの力で孤独に必死に頑張ってきた人には、
そういう思いが持てないのではないか。

連鎖するのだ、きっと。

先輩に見守ってもらった経験がないから、
育ててもらったと実感できていないから、
職場の同僚や後輩に目が行かない、気づけないのではないだろうか。

しかも個の時代になり、成果主義が続いたせいで、
チームの力が軽視されるようになってきた。
グローバル化が進み、ITの発達でいつでもどこでも連絡がつくようになり、
いつも追われている。
いつも忙しい。

だからますます人を育てる余裕がなくなったり、
人の顔色、顔つきに気づかなくなる。
ヘトヘトになっている同僚や後輩にも気づかなくなってしまうのではないだろうか。

10年後、20年後、その職場の20代が、30代40代になると、
今よりさらに若者をヘトヘトに追い込んでしまうのかもしれない、と
彼女の話を聞きながら思った。

本人ががんばるかどうか、
本人ががんばれるかどうか、は
確かに大事なことではあるだろうけど、私はそれだけじゃないと思うのだ。

人ががんばれるかどうかは、当人の問題、個人の問題だけではないと思う。
若者ががんばれるかどうかは、年長者の責任でもある。

今、いい先輩に恵まれない環境にいる人は、いい先輩探しをした方がいい。
それは必ずしも会社の中でなくてもいいのかもしれない。
今はいろんな働き方、生き方がある。
人生の先輩として、自分がいいと思える先輩だ。

いい先輩に恵まれないと、10年後、20年後、
自分自身がいい先輩になりにくく、
それは社会にとってあまりいいことじゃない。

なぜなら、素敵な先輩がたくさんいる社会であれば
若者にとってのロールモデルがたくさんあることにつながるから。

年長者がイキイキ生きていくことは、若者に対する責任でもある。

いつまでも夢や希望に溢れた年長者が一人でも多い社会。
そういう社会であってほしい。




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2015年4月13日

自分ペースっていけないことですか?

メールを送り、即レスが返ってくると、
すごいな、この人、
って思う。

すごい、というのは、仕事ができそうな人、仕事が早そうな人というイメージを私が抱くからだ。

そのせいか、ついついメールを受け取ると、私は急いで返事を出さないと!って
必要以上に自分が煽られていることに気づく。
翻って考えてみるに、
メールってそんなに急いで返信しなくちゃいけないんだろうか。

私は、メールというのは電話と違って、
いつでも受け手の都合のいい時に見られるのがメリットだとずーっと思ってた。
メールというのは、私の中では思いやりの連絡手段だと位置づけしていたのだ。
だから送る時も、
「あなたの都合のいい時に見てね、返事をくれるなら都合のいい時にくださいね。」
という暗黙の了解を抱いているから、どんな時間に送ってもいい気楽さもあった。

そのため、メールをいただいてさっと目を通しても、
今はちょっと忙しいとか、あとでゆっくり返信を書こうと思うこともあるので、
私が返信を書くのは必ずしもすぐではなかった。

しかし最近は、
メールが来たら一定時間以内に返事をしなくてはいけない、
仕事ができる人は返信が早い、
などという話をよく聞く。
ネット上でもそういう記事をよく目にするようになった。
だから冒頭のように、
私はレスの早い人を「すごいな、この人」と思うわけだ。

実際、私がメールを送ると、早いタイミングで
「確認して連絡します」という、ただそれだけの返信の多いこと、多いこと!

私は即レスを煽っているつもりはないのに・・・
あなたの都合のいい時にゆっくり返信をくれればいいんですよ・・・。

私だって、自分が都合のいい時間にメールを送っているわけだし、
私がその人を煽ってしまっているとしたら本当に申し訳ない。

でも私はそういう返信をくれる人に対しては、私も
「確認して連絡します」と即レスするように心がけたりすることもある。

そのせいでメールの件数ばかりがどんどん増え、
大事な内容のメールが埋もれていってしまう。

私の感覚は、今の時代には少し古いのかもしれないけど、
この煽る感じって、ちょっと疲れるなあ。

正直言って、
メールはすぐに返さなくちゃいけないということが、私には納得できないのだ。
時間泥棒だった電話がメールに変わってきたことは、画期的な文明の利だと思うからだ。

でもそう思う自分が時代遅れの人みたいにも思われて、
内心モジモジ(苦笑)、この件については黙っていたのだが、
こちらのブログを読んで、私だけじゃなかった、とわかり、ちょっと安心した。

メールって、見たらすぐに返さなくちゃいけないですか?
http://blog.tinect.jp/?p=10057

だけど、この方によれば、企業内研修でメールでの即レスを教えているようで驚いた。
即レスを強要している、ってことだ。

協調性とか、マナーとか、もちろん大事なことではあるけれど
ネットの世界は24時間365日。
メールはいつもいつも、どんな時でも入って来る可能性がある。

即レスを求められるということは、自分のペースが守れないことにつながる。
自分の時間に横入りして来るようなものだ。
すぐ返事をしたい人、あとでゆっくり返事をしたい人、・・・
受け手の自由じゃいけないのかな。

私はたぶん、自分の時間、自分の場所について、
他の人よりわがままなのかもしれない。
でも、オトナなんだから。
子どもじゃあるまいし・・・
そういう自由、だめでしょうか。
自分のペースを守れないことは、生きづらさにつながると私は思うんです。
生き方ってみんな人それぞれ。
誰もが煽られずに自分ペースで。
自分らしく生きていくって、そういうことだと思う。
私はそうありたいと思うのだけど、これって、失礼なのかな。



 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       体験参加募集中


2015年4月12日

治療を卒業する人のために・・・・身体の閉じ方 

今や3人に1人どころか、2人に1人がガンになる、とまで言われる時代。
ガンはすっかり身近な病気になり、治療ができる病気にもなった。
治療の選択肢もたくさんある。

だけど、中には治療をしないという選択をする人もいるし、
どんなに苦しい治療を頑張ってきたとしても、残念ながらその治療を卒業するという選択をする人もある。


余命宣告を受けた今でも、歩みを止めようとせず、
カラダが動く限り働きたい
最後の仕事として「体の閉じ方」を伝える本を作りたい、
という友人女性の声を聴き、
ご本人を含めて「身体の閉じ方」製作委員会が立ち上がった。

癌の治療から卒業した後、死までのプロセスで
身体がどう変化していくのかを
患者や家族にわかり易い本を、と。

仮題「身体の閉じ方」治療を卒業したあなたのために


 再発して、もう治療から卒業するの。
 でもね、これからの身体の変化をわかり易く教えてくれる本が無いのよ
 娘に伝えてくれる本がないの。
 みんな困ってるはず
 だから、身体の閉じ方を伝える本を作りたい。
 これを最後の仕事にしたい」

これが、ご本人の言葉だ。


このお話をうかがい、いかにもその人らしい生き方だと思い、私は背筋が伸びた。

知り合いであるからという枠を超え、一人の生き方として、感銘を受けた。
しかも、こういう本ができたら、きっと多くの方の役に立つであろうことが十分想像できる。

この本は販売を目的とせず、会社や組織の枠を超え、
志を同じくする人、賛同してくれる人々とからの基金を設立して作り上げることを目指している。
作り上げた本は、全国の癌拠点病院400箇所に寄贈することに加え、
希望する方々にもお分けしていけたらということだ。

この志への賛同者を募っています。

残された時間に限りがあります。

こちらが「身体の閉じ方」製作委員会のフェイスブックページ。
https://www.facebook.com/karada.book?fref=nf

どうかフェイスブックページのシェア、情報拡散をお願いします。
また、このフェイスブックページへの「いいね!」をよろしくお願いします。

皆さまのご協力を、どうぞよろしくお願いします。


2015年4月11日

ほんのりピンク、あせたピンク

 今年の桜のシーズンは一斉に花が咲いた。狂い咲きみたいに。
私は桜が大好きで、今年は暖かい日が多かったこともあり、
近隣の桜を見に歩き回った。

自宅から数キロ先に自転車で出かけた時のこと。
大きな公園の入り口に、ほんのりピンクの桜を見つけた。
見ればその先にたくさん桜がありそうだ。
とてもきれいだったので自転車を停め、私は公園の中に向って歩き始めた。
すばらしい桜だった。


少し進むと、桜の先には鮮やかな花壇が広がっていた。


すごいキレイ!
うわあ!

たった一人で歩いているのに思わず声が出る。
さらにその先には真っ赤なチューリップや色とりどりのパンジーが広がっていた。

ずっと歩いていたら、あまりに色とりどり、色鮮やかなたくさんの花にお腹いっぱいな気持ちになり、戻ってきたら、さっきあれほどきれいだなぁと思った桜が妙に色あせて見えた。
同じ桜なのに。

こういうことが、普段の中でもよくある。
それまで感動していたことなのに、さらにすごいと思うことがあると感動していたはずのことが色あせて見えてしまうのだ。

今、感動しても、もっともっととばかりに自分の欲求は強くなっていく。
そうやってどんどんそれ以上の感動に出会っていくうちに、
それまで嬉しくてたまらなかったことや、楽しくてたまらなかったことが、そうでもなくなったりするのだ。

だけどそのこと自体は、実は何も変わってない。
それなのに感動が小さくなってしまうのはもったいないことだ。

結果的に幸せが小さくなるようなものだ。

ほんのりピンクの桜のあとにぐっと鮮やかな他の花を見て、大好きだったはずの桜が色あせて見える。
それによって、いっぱいの桜を愛でる気持ちまでが萎んでしまう。

自分の見方一つで、同じものが違って見える。
それで幸せの大きさまでがを自分で小さくしてるとしたら・・・
それはあまりにもったいない。

小さいことに感動できたことを記録しておけばそのことを思い出せる。

私が取り組んでいるエンディングノートというものは、
自分の感動ヒストリーの記録という側面もある。
エンディングノートを書くという行為は、自分がどんなことに感動していたかを
きっと思い出す効果があるに違いない。





エンディングノートで生きることを考えていく講座開催中
 
 4月 8日 生きる上で仏教が果たす役割(お坊さんに話を聞く) 終了

 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
       体験参加募集中

2015年4月10日

ふだんなかなか考えないことを考えてみる

2013年12月に、「失敗しないエンディングノートの書き方」という本

を書いたことをきっかけに、
原則毎月第2水曜日にエンディングノート講座を開催している。 

私はエンディングノートの書き方について書いたり話したりしてはいるけれど、
正直言って、書かなきゃいけないとは、実は思っていない。
実際、「エンディングノート」という言葉を知っていても書いている人はわずか2%。
エンディングノートを見たことがある人ですら、現実はとても少ない。

ただ、どんな人でもエンディングノートを見てみると、
たぶんエンディングノートのイメージが変わるのではないだろうか。
私は、誰もがエンディングノートを書かなくてはいけないとは思わないけれど、
エンディングノートを見ること、エンディングノートにある項目を考えてみること、
エンディングノートにある項目について人と話してみることは
とても大事なことだと思っている。

エンディングノート講座というと、
その書き方を教えてくれる1回完結講座が一般的だ。
だけど私が開催している講座は少し違う。
エンディングノートを使って自分の生き方、家のこと、家族(親・子ども)のことなどをじっくり考えてみよう、という継続講座だ。
だから参加者の年代も30代からと幅広い。
いわば自分らしく生きることについて考えるための時間でもある。

普段なかなか考えないけど、生きていく上でいつか考えたいこと、
考えなくちゃいけないこと、考えた方がいいこと、などを考える。
エンディングノートを使って毎回いろんなテーマを設定し、
テーマによっては専門家をお招きして深掘りしていく。
しかもクローズな継続講座で超少人数で行っているため
裏事情や個人的な事情まで聴くこともできて、
講座ではあるけど茶話会的な雰囲気で行っている。

この講座は毎月第2水曜日、
去年の4月から開催してちょうど1年がたった。
今月は「宗教について~仏教が生きる上で果たす役割~」をテーマに
4月8日に開催した。

一般に日本人は一般に宗教に馴染みが薄い。
だけどお葬式になるとお経を聞く仏式が多い。

私の場合、子供の頃から家には神棚と仏壇があった。
仏教の幼稚園だったが宗教的な記憶はない。
中学高校はキリスト教(プロテスタント)だったが、
卒業したら宗教との関わりは、葬儀と法要でお経を聞くくらいになった。

今の日本では、仏教がお葬式のためのもののようにすら見えるので、
お坊さんを招いてお話を聞くことにした。

お話してくれたのは、浄土真宗の僧侶、浦上哲也さん
ワークショップ「死の体験旅行」のファシリテーターもされているお坊さんだ。

倶生山なごみ庵
http://753an.blog.so-net.ne.jp/


ワークショップ「死の体験旅行」紹介 読売新聞夕刊(3月19日)


偶然にも開催日はお釈迦様の誕生日だった。
浦上さんから、「だから仏教をテーマにしたのかと思いました。」と言われ、
主催者がそれを知らなかったくらい、恥ずかしながら私は仏教になじみが薄い。

そう言えば、先月はテーマが「供養」だったけど、
この日も3月11日。
偶然にも東日本大震災の日と重なり、日本中が被災者の供養を思う日になった。


ちなみに基本的にはクローズの継続講座ですが、
様子を見たいという声にお応えするため、体験参加も受付中。

今回体験参加した人からは、翌日こんな感想をいただきました。

 講師の浦上さんとも他の参加者の方ともざっくばらんに話ができ、
 また、私も皆さんのお話を素直に聞くことができ、本当に良い一時でした。
 心が最初から解けていく感じで非常に嬉しい時間を持つことができました。







 
 4月 8日 生きる上で仏教が果たす役割(お坊さんに話を聞く)
   終了

 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
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2015年4月8日

花見って何が楽しいの? 若い頃の気持ち、大人になってからの気持ち。感覚の違い。

急に寒くなり、雨とともに桜がどんどん散ってしまったけれど、
桜が満開だった時、桜が見たくて、仕事するのなんかやめて外に出かけた日のことである。

平日なのに公園は高齢者と小さい子ども連れでごった返していた。
シートを広げてお弁当を食べる人、写真を撮る人。

帰り道、少し疲れてカフェに入ったら、
高校生らしき女の子たちのおしゃべりが聞こえてきた。

 ねぇねぇ、花見って何が楽しいの〜?
 さあ・・・。 

 食べ物じゃない?
 あ、そうなん?

 ほら、いろいろみんなで食べるから。
 そっかあ〜。

今、私はこの時期になると桜を見たくてたまらなくなり、そわそわする。
普段あまり歩かないくせに、桜を見るなら4キロ5キロと歩くのが平気になる。



だけど改めて考えてみると、それはここ数年の今だからこそで、
若い頃はそんなことなかった。
もちろん桜はキレイだなと思っていたけれど、
そわそわワクワクするようなほどではなかったのだ。

それこそ、お花見は仲間で集まるのが楽しかった。
そこで何を食べようかと考えるのや食べることが楽しかった。
桜の花はついでに楽しんでいたようなものだ。

でも今は違う。
仲間がいなくても、何も食べなくても、
桜の花を見ること、そのものが楽しい。
まさに「桜の花を愛でる」のだ。

子どもの時、見えなかったものが見えるようになる。
子どもの時、あまり感じなかったけど今とても愛おしく感じることがある。

これはいったいどういうことなんだろう。

私の母の趣味は茶道で、80歳を超えた今でも嗜んでいる。
季節の入れ替えや茶室の掃除など、
もうできないと言いながらも妹たちの手助けを得ながら続けている。

若い頃私は、母の趣味には全く興味が持てなかった。
何が楽しいのかわからなかった。
反抗期も手伝い、若い頃には日本文化に親しむこと自体を
毛嫌いしていたところがあったようだ。

妹たちは私とは違い、当時から母の趣味に理解を示していた。
当時からの流れで、今、妹たちは
年老いた母が季節に合わせて茶道具の入れ替えをする際に手伝っている。
それを横目に、今、私はちょっと羨ましく思う。
一つ一つじっくり学ぶタイミングやチャンスを逸してしまい、
今からはハードルが高くて、その場には入れない。
でも日本文化を嗜むことには、秘かに大きな憧れを感じるのだ。
若い頃には想像もしなかったことだった。

人の気持ちや興味の対象、感覚、考え方は年齢とともに変わっていく。

例えばエンディングノートの場合も、一度書いたら終わりと思う人が多い。
まだ決めてないから書けない、と思う人も多い。

だけど、人の気持ちは変わることがあるんだから!
一度書いたからと言って終わりじゃない。
今は○○と思ったとしても、でも先のことはわからない。

だけど書いておけば、その時の気持ちがわかる。
仮に変わったとしても、自分の気持ちの変化そのものを確認することができる。

そういう変化を自覚できることは愛おしさを増幅させることがある。
一方でマイナスな気持ちは、変化を確認することでなぜか緩和されるように思う。

人が生きていると言うことは、気持ちや考え方が変わっていくことでもあるのだ。



エンディングノートで生きることを考えていく講座開催中
 
 4月 8日 生きる上で仏教が果たす役割(お坊さんに話を聞く) 終了

 5月18日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)
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2015年4月7日

誰でもいろんな顔を持つ。その顔は、「怖そうな人!」「面白そうな人!」・・・ 顔は勝手に語る。

年間8万枚の撮影、年間90万字の執筆をこなすカメライター(カメラマン&ライター)、トラベルライターで、ブロガーとしても絶大な人気を博すかさこさん。

http://kasakoblog.exblog.jp/


かさこさんのブログは、私の興味領域とも一致する「生き方」や「働き方」
についてもしばしば書かれているが、その記事はかなりの辛口。
例えば下記のような感じで、読んでいる方まで冷や汗ものだ(苦笑)。







これが実際に会ってみると、
かさこさんは時々くすっと笑い、どこかはにかんだ表情すら見せる。
話をしてみると実に穏やかな語り口調、虫も殺さないような感じで、
優しさで包みこむような雰囲気を醸し出している。
いろいろなものに好意的な関心を示す。
美しい女性を前にすると、さらにニコニコになる(笑)。

現在、そのかさこさんのプロフィール写真は、
プライベートの旅先で娘さん(3歳?)が撮影した写真らしい。
(そういう話をSNSで読んだことがある。)

けれど、私がもらったかさこさんの名刺の写真をはじめ、
かさこさんがそれまで外に出していた写真や、通常公開されている写真と
いうのは、証明書写真のような真顔でいらっしゃる。

例えば、このブログ記事
http://kasakoblog.exblog.jp/22929329/

に出ているのは「好きを仕事に」の講座終了時の記念写真だが、
まさにこういう顔をしばしば公開されている。


かさこさんは去年から「好きを仕事に」をテーマにかさこ塾を開講している。
この4月からは6期生が始まり、
今は6月2日スタートの7期生募集が始まったばかりだ。
http://www.sanctuarybooks.jp/eventblog/index.php?e=960


かさこさんのブログだけしか知らず、会ったことがない人は
これまでのかさこさんの顔写真を見て
きっとかさこさんを怖い人だと思っているのではないだろうか。

先日、イベント会場で久しぶりにかさこさんと会った。

そのかさこさんがカウンセラーコンサルタント@Rinさんとお二人でいた際に、
私は、カウンセラーコンサルタント@Rinさんからスマホのシャッターを押すのを
頼まれた。
その時の写真がこちら。

(写真提供は、カウンセラーコンサルタント@Rinさん


正確に言うと、この写真を撮る前に、もう1枚の写真がある。
実はそちらの方がまず頼まれてシャッターを押した写真だった。
そのかさこさんはいつもの真顔のかさこさんだったのだ。
だけど、これじゃ本来のかさこさんらしさが出ていないなあ、と思って
私がもう一度シャッターを押したのがこれ。

女性とのツーショットにちょっとにやけていて(失礼!)、
まるで学校の同級生のようにかさこさんと仲良くなれそうな雰囲気や
気安さが伝わるのではないかと思うのだがいかがだろうか。

よく見ればかさこさんのピントがちゃんと合っているわけではない。
写真として技術的にうまいかどうかは疑問ではある。

でも、どんな人なのかを伝える上で必要な「顔」は、
撮影技術よりもどんな顔を見せるかどうかだと私は思うのだが、いかがだろうか。
どんな人にもいろんな顔があるから。

かさこ塾を知りながらかさこさんが怖いかもと思っている人も、
この顔を見れば親近感がぐっと増すのではないだろうか。

これが顔の持つ力であると、私は思っている。

ちなみに、カウンセラーコンサルタント@Rinさんに聞いたところ、
この前にシャッターを押した真顔のかさこさんが写った写真は既に削除されたそうな。

ところで、普段私が撮影プロデュースをするとき、
私はカメラマンではないので、撮影するのはもちろんプロのカメラマンだ。
その写真を出す場面にふさわしいその人の顔を探し、
その顔を引き出すのが私の役目である。




ときどき開催中 その人らしいいい顔撮影会
http://www.travessia-endingnote.biz/past_seminar/index.html#ad04

ご興味のある方はお問い合わせくださいね。

2015年4月6日

「春の雪 エンディングノートはまだ白し」 ですって。

定年が近づく世代、
定年延長でややゆったりと働く世代、
リタイアして悠々自適に働く世代、
・・・そういう人たちがよりアクティブに生きよう、賢い生き方を考えよう、
という趣旨の団体がある。

講座を催したり、学びの分科会を運営している
講座講師は、主に各々の専門知識やこれまでの経験を生かしすメンバーで、
運営はすべてボランティアである。
最近は似たような内容の講座は巷によくあるようだが、
受講者からは、この値段でここまでの内容?としばしば驚かれる。

私はその団体の理事として講師ではなく運営面でのお手伝いをしているのだが、
年度末にメンバーの集まりがあった。
その際に、俳句好きのメンバーから聞いたのが、タイトルで紹介したこの一句。

春の雪 エンディングノートはまだ白し

お仲間の句だそうで、表彰されたものだそうだ。

お仲間の俳句でもこのように詠まれるように、
エンディングノートというと、高齢者のためのものと思う人が多い。
実際はそんなことないのだが、
そういうイメージが定着しているのは、本当に残念だ。

私が初めてエンディングノートに出会った時、これはいいものだと思った。

これを書こうとする(書かなくても)ことで、いろんなことを考えられる。
考えるきっかけがもらえる。
今までの整理ができる。
これからのことが考えられる。

エンディングノートというと、家族のために書くものと思う人が多い。

たしかに家族のためにもなるけれど、それ以上に自分のためにもなるノートだ。
エンディングノートとは、まさに人生ノートだと思った。
今までの人生をふり返り、これからの人生を考えるためのノート。
今もそう思っている。

「『ライフエンディング・ステージ』に向けた研究会報告書」(2012年 経産省)に
よれば、エンディングノートの記入率はわじか1.3%。
エンディングノートを知っている、と答えた人に限っても、記入している人は
たかだか2%しかいないのだ。
あれから3年。もう少し増えているかもしれないけれど・・・

よくよく聞いてみると、書く気がないのではない。
いずれは書こうとは思っているけど、書いていないのだと言う。
なぜ今書いていないのか? 
「まだいいかなと思って」

そう、みんな「その時」が近づいたら書こうと思ってるのだ。
さて、「その時」っていつでしょう・・・?!

しかも、その中身は結構難しいものも多い。
耳慣れない言葉もたくさん出てくる。
高齢になっていざ書こうと思っても、なかなか書けるものじゃない。

私がエンディングノートについてお話させていただく機会でお会いする方々は、
エンディングノートと言う言葉はもちろん知っている。
けれど、エンディングノートを書いていないどころか、
どんなものなのか見たこともないと言う人がとても多いことに驚く。
エンディングノートの話を聞きに来ている人が、だ。

エンディングノートを開いてみると、
人生を始めから終りまでの1本の道として意識しやすくなる。
そう考えると、「今」この瞬間を意識し、「今」をより大事に思うようになる。
これからのことを考える姿勢が、少し変わってくる。
なんとなく時間が過ぎていく、惰性で生きる、というのではなく
やりたいことや、やるべきことをちゃんと考えたくなるのだ。

老若男女、世代も立場も関係なく、
エンディングノートはいつ書き始めてもいいものだと私は思っている。
早くから取り組めば、より多くその後の生き方に生かせる。

それでも、高齢者じゃなくたって書くのはなかなか難しい。

だからエンディングノートを書けないなら書かなくても、見るだけでもいい。
一気に書くのは難しいから、少しづつ書けばいい。
少しづつ書き足していけばいい。
気持ちや考えなんてどんどん変わるものなのだから、
書き加えたり、書き変えたりすればいい。

私がエンディングノートを書く上での一つのタイミングとしてオススメするのは、
「人生折り返し地点を超えたかも」・・・自分でそう意識する時。

それは過去と未来を意識するタイミングであり、
エンディングノートに出会うのに、いいタイミングだと思う。





エンディングノートで生きることを考えていく講座開催中
 
 4月 8日 生きる上で仏教が果たす役割(お坊さんの話を聞く)

 5月13日 人生の地図を描く(マンダラエンディングノートを使って)

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2015年4月3日

自分の顔写真が年齢と共にどんどん減っていく

風景や景色ではなく、自分の写真となると、
家族や親せきの集まり、旅行など、何か特別な機会がないと撮らなくなりがち。
ライフスタイルや人にもよるけれど、年齢を重ねるとだんだん自分が写っている写真の枚数が減っていく人が多いようだ。

子どもが小さい頃は家族イベントも多いし、あちこち旅行したりもするので、そのたびに撮影してどんどん写真が増えるのだけれど、子どもが大きくなると一緒に出かける機会も減り、家族で写真を撮る機会が減ってくるからだ。

そうすると自分が写っている写真も激減していく。
あとはせいぜい、親戚の結婚式くらいだろうか。

さらに女性の場合は、カメラを向けると「写真は嫌い」と言って逃げ出す人も多くなる。
シミやしわが増え、否応なく加齢を突きつけられる。
鏡の中の自分の顔と、
自分の記憶にあるかつてのイメージとの違いにうんざりするからだ。

だけど、そのうんざりは、来年、再来年になればもっとうんざりする。
だって、どんどん年はとるんだし、シミや皺はどんどん増えるはずだから。

逃げ回っている今のうちに撮っておけばいいのに。
後々、きっとそう後悔するはずだ。

そう言う私も、人のカメラにデータが残る場合には、逃げ回ることが多い。
だから人に見せるかどうかは、また別の話だ。

それでも顔はどんどん変わるのだから、今の顔を記録しておくといい。
いつ、誰と、何をしている、どんな時の顔か。
できればオスマシ顔だけでなく、日常の顔を。
周りの人が見ているのはそういう顔なのだから。
そういう顔には、その時の心がけや思いも写るように思う。

だから私がオススメするのは、定期的に自分撮影をすること。
自分で自分を確認する。

 やだ、私、こんな風にしてる・・・。

 思ったよりも私、悪くないかも・・・。

いろいろ思うことがあるはずだ。

確認することで少し自信を取り戻せることもあるし、
もう少し穏やかに暮らそうとか、きりっとしなくちゃとか、気持ちが変わってくることもある。

人間ドックみたいな、言わば、心がけの定期検診だ。
カラダはの定期検診はちゃんとやるのに、心の定期検診ってなぜやらないだろう。
自己採点、自分で確認するのに、自分の普段の顔写真を見るっていう方法は、
簡単だし、有効だと思う。




2015年4月1日

「自分に自信が持てない」と思ったことがない人なんて、あんまりいないようだ。

言われてびっくりしたのだけれど、どうやら私は自信満々に見えるようだ。
たまにはそういう時もあるかもしれないが、そんな時はめったにない。
意外と人が私を自信満々に見ている時ほど、内心はそんなことはないような気がする。

 自分に自信を持ちなさい。
 もっと自分に自信を持って。

そう言う人が多い。
本人にとってはそんなことは百も承知だけど
そうなりたいと思うけれど、そうなれないから困るのだ。

巷には自信をもつためのハウツー本があふれ、ベストセラーも多い。





そういう本に惹かれて読んでみたりすることもあるけれど、
読んだから自信がつく、なんて特効薬はない。
でもいろいろあるんだから、それだけもっと自分に自信を持ちたいと思う人が多い証でもある。

私自身、
「自信満々に見えるんだから、そのイメージをうまく使うといいのに。」と
言われたことがあるが、冗談じゃない!
決して自信満々じゃないのに自信満々に見られることが、
私としては困ったものだと感じるのだ。

どうして私はこんなに自信がないのだろう。
もっと自信が持てればいいのに。
・・・私がそう思う時は、自分だけがダメ人間のように感じている時だ。
しかし、実際にいろんな人と話していると、
そういう思いを感じたことがない人、というのはそうそういないということに気づく。

「え?あなたでもそういう風に思うことがあるんですか?!」
と、改めて驚いてしまうことがある。
私から見れば、そんなことを感じていたなんて到底思えないような
心が強そうな人さえも、だ。

強気に語っているように見えるホリエモンだって、ユニクロの柳井会長だって、
お会いしたことはないけど、きっとそういう思いを抱いたこともあるんじゃないかな・・・
などと想像して、うふふ、と思う。

まあ冷静に考えれば、そりゃあいろんなことがあるから、
誰だってそういうことがあるのだろうが、
自信がないのは自分(のようなダメな人間)だから自信が持てないのだ、と
どこか無意識に思い込んでいるところがある。

大体、「自信がない」とは言いながら、
どんな人でもずっと自信がなかった、というわけではないだろう。
今までの人生で、生涯を通じて(子どもの頃からずっと)
いつもいつも、24時間365日、何年もずっと自信がなく悶々とし続けてきた、という
わけではないのではないか。

私の場合は、ひどく自信を無くしている時期と、
自信があるとかないとかそういうことを全く気にしていない時期とが
繰り返して訪れてくるような気がする。
そのふり幅が、小さかったり大きかったり、
インターバルが短かったり、長かったりしながら、繰り返し訪れてくる。

改めて考えてみると、その自信を無くしている時期というのは、私の場合、
人からどう見られているかが気になる時期、気にしている時期のように思う。
人からの見られ方、人の評価、周りの評判・・・
その「人」というのも、漠然と周りの人だったり、
自分が尊敬する人のように特定の人だったり・・・。

あとは、どこか人を羨ましく思って自分と比べているときだ。

私がそうであるように、堂々としているように見える人であっても、
意外とそういう繰り返しををしていて、
そういう人も、周りからの見られ方を気にしたり、周りと比較したり、
ということがあるようだ。
話をしてみると、そういうことが覗ける。

だけど、つまるところ、人の物差しじゃなくて自分の物差しで考えられるかどうか。
~結局は、どうもそこに尽きるように思う。

結局、自分が自分らしくあること。
自分らしく生きられるかどうか、ということなのだ。
自分で納得しているかどうか・・・

そういうことは、きっとじわじわと顔にも表れていくに違いない。
いくらその瞬間自信満々に見えても、内心オドオドしていたら
その数年後の顔には、どこか違う雰囲気が漂うようになるんじゃないか。
そんな気がしてならない。

だから時々立て直さないと、ね。





第13回になる4月のテーマは、
「宗教のはなし ~生きる上で仏教が果たせる役割~」。
お坊さんにお話を聞きます。
開催は4月8日。体験参加受付中。



おなやみ相談フェスティバルで名刺に出した顔写真診断を行います。
4月4日、東京・水道橋(御茶ノ水)の「YMCAアジア青少年センター」で。