海外の場合はポートレート。
生きている時にこそ飾られるもので、
亡くなってから飾る、ということがないから遺影がないのですね。
この遺影との向き合い方は、日本人の死生観と大きく関わっているようです。
ご先祖さま、という概念
私たち日本人には、「ご先祖様」という概念があります。
無意識にも、亡くなった人が見守ってくれる、
亡くなった人に見られている、と思っている節があります。
そういう概念があるから、
故人に「力を貸してください」と祈ったり、
故人に対して恥ずかしくないかと自分を戒めたり、
故人に叱られる、故人が褒めてくれる、
と思ったり・・・。
ほら、遺影に向かって話しかける人、あなたの周りにもいませんか。
もしかしたら、あなた自身も無意識に話しかけているかもしれませんね。
甲子園やオリンピックなどでも遺影を抱える姿もよく見かけます。
それは、大事な場面を故人に見せたい、
故人に対して、見ててね、力を貸してね、という
気持ちの表れでしょう。
気持ちの表れでしょう。
もちろん人によって、宗教観によって、その違いはあるとは思いますが、
それでも日本人のこのような遺影に接する様子を見て、私たちはあまり違和感を感じないと思います。
それでも日本人のこのような遺影に接する様子を見て、私たちはあまり違和感を感じないと思います。
この人、ダイジョウブ?
けれども欧米の人から見ると、
仏壇の遺影に語りかける日本人の姿は、ヘンな人にしか見えないようです。
この人、大丈夫かしら?と疑われかねない光景なのだそうです。
「ターミナルケア(終末期医療)」「みとり」をキーワードとした
医療・福祉の文化的背景が研究テーマの郷堀ヨゼフさんは、
1979年、チェコスロバキア(現チェコ)生まれの
上越教育大非常勤講師で淑徳大(千葉市)准教授。
このたび日本人の死生観などに関する考察をまとめた著書
「生者と死者を結ぶネットワーク〜日本的死生観に基づく生き方に関する考察〜」
が出版されたそうですが、そのニュースによれば、
「生者と死者を結ぶネットワーク〜日本的死生観に基づく生き方に関する考察〜」
が出版されたそうですが、そのニュースによれば、
来日後に見た仏壇の遺影に語りかける日本人の姿を見て、
欧米では精神疾患すら疑われかねない光景に驚き、
これが研究の出発点になった
そうです。
私たち日本人にとっては普通の死者との会話、故人との対話で、
たしかに私たちは慰められたり、チカラをもらったり、します。
実は自分との対話でもあるのです。
今、都会に暮らす私の家には仏壇がありません。
供養に関わるものもありません。
でも実家にはあるので、ときどき実家に帰ったときに仏壇に手を合わせ、
そこで故人を思う程度。
死者との対話の機会など、ほとんどありません。
郷堀さんは
新潟県糸魚川市能生地域で研究テーマのフィールド調査を実施したそうです。
地域には亡くなった人を含め、脈々と続く人々のさまざまなつながりがあり、
「決して1人ではなく、何かがあれば、手を差し伸べてくれる」関係性があった。
一方で、田舎の煩わしい人間関係を嫌い、都会に出て行った若者が孤立すると、
地域や死者との「縁」が断ち切られるという。
人との「縁」は故人とのつながりだけじゃない、ということです。
私たちは、日本人にとって日常だったはずの脈々と続くさまざまなつながり、縁
というものを、今、忘れつつある
外国人の目が警鐘を鳴らしている、とも言えます。
仏壇がなくても、供養をしていなくても、
遺影という故人の写真を見るときには、私はふっと故人を思うことができます。
心の中で声をかけることもあります。
それは、実は自分自身に語っていることなのかもしれません。
報告しながらも
がんばれ!
よしよし!
と。
現代人は、この日本独特の「遺影」に対して、
もう少し注目してもよいのではないでしょうか。
人と人とのつながりを大事にする、手を差し伸べる、助けを乞える社会のためにも。
いい遺影を遺そうとすることは、やさしい社会のためにもなるのかもしれません。
たしかに私たちは慰められたり、チカラをもらったり、します。
そこで自分が一人ではないことを再確認します。
でもそれは、自分自身と向き合うきっかけを得ることもあり、実は自分との対話でもあるのです。
大事なことを故人に報告します、よね。
私の父はお墓詣りに行くと、
お墓に向かって大きな声で延々と家族の近況を報告していました。私の父はお墓詣りに行くと、
今の時代、死者との対話の機会は激減
今、都会に暮らす私の家には仏壇がありません。
供養に関わるものもありません。
でも実家にはあるので、ときどき実家に帰ったときに仏壇に手を合わせ、
そこで故人を思う程度。
死者との対話の機会など、ほとんどありません。
郷堀さんは
新潟県糸魚川市能生地域で研究テーマのフィールド調査を実施したそうです。
地域には亡くなった人を含め、脈々と続く人々のさまざまなつながりがあり、
「決して1人ではなく、何かがあれば、手を差し伸べてくれる」関係性があった。
一方で、田舎の煩わしい人間関係を嫌い、都会に出て行った若者が孤立すると、
地域や死者との「縁」が断ち切られるという。
人との「縁」は故人とのつながりだけじゃない、ということです。
私たちは、日本人にとって日常だったはずの脈々と続くさまざまなつながり、縁
というものを、今、忘れつつある
外国人の目が警鐘を鳴らしている、とも言えます。
遺影があれば亡くなった人と対話できる
だけど、遺影だったらどうでしょうか。仏壇がなくても、供養をしていなくても、
遺影という故人の写真を見るときには、私はふっと故人を思うことができます。
心の中で声をかけることもあります。
それは、実は自分自身に語っていることなのかもしれません。
報告しながらも
がんばれ!
よしよし!
と。
現代人は、この日本独特の「遺影」に対して、
もう少し注目してもよいのではないでしょうか。
人と人とのつながりを大事にする、手を差し伸べる、助けを乞える社会のためにも。
いい遺影を遺そうとすることは、やさしい社会のためにもなるのかもしれません。