2010年7月21日

年齢観

かつて国民的なファミリーだったサザエさんの磯野家の人の年齢について話題になった。
テレビでもやっていたそうだが、その年齢は、サザエさんは27歳(アニメ版は24歳)、お母さんの磯野フネは48歳(アニメ版は52歳)、お父さんの磯野波平は54歳だという。女優の黒木瞳が、磯野フネとほぼ同じ年ということになる。調べてみるとこの年齢は1949年を想定している年齢だそうだ。今から60年以上前の想定だ。
私の感覚では、あの磯野波平&フネ夫婦は、どうみても70歳以上。自分自身をフネと同じくらいの年齢だと自覚している50歳女性など、日本全国探してもおそらく一人もいないだろうし、見た目の雰囲気がフネのような女性も、なかなかお目にかかれないのではないだろうか? 今の感覚とは大きく異なる。
俗に、最近の○○歳代は若いなどと言われるが、そもそも年齢観が大きく変化しているのである。10年以上前から有望と言われるシルバーマーケットの商品開発をしている人が考える50代、60代、70代は、ちょっと前にイメージしていた50代、60代、70代とは明らかに変化しているのである。そんなことはとっくの前からわかっていたことではあったのだが、改めて磯野夫妻の年齢を知り、その思いを強くするのだ。
時代が刻々と変わっている。それも予想以上のスピードで。簡便化とかIT化とかはよく言われることだが、目に見えない感覚の変化は、目に見えるものよりも早いし、影響が大きい気がする。

2010年7月14日

「うまく言えないけれど」

動的平衡で有名な科学者、福岡博士は「うまく言えないけれど」を使わない、と自分に課しているそうだ。
それを知って、正直なところ私はハッとした。というのは、私は「うまく言えないけれど」を口癖のように使っていると改めて感じたからだ。「うまく言えないけれど」は、本当はいろいろ考えているけれど(実は考えていなくても相手にはどう思ってほしい)、適当な言葉が見つからないことを理由にして話をするときに、私は使っている気がする。考えてみれば「うまく言えないけれど」はかなりずるい表現だ。本当はちゃんと考えているのなら、伝わる言葉を探せばいいわけだし、ただフリをしているごまかし以外の何物でもないと思ったのだ。イタイ。
それにしても、自分が言葉を大事に選んでいるだろうか?と改めて思う。コミュニケーションに関わる仕事をする者として、今一度福岡博士の言葉を胸に刻みたいと思った。

2010年7月7日

権利は与えられるもの?勝ち取るもの?

前回は香港女性の意識について書いてみたが、もう少しオンナ問題について続けて書いてみたい。
とは言っても私が仕事を始めた頃の日本の話だ。当時はまだ男女雇用機会均等法前だった。お茶くみは普通だったし、お客さんと飲みに行けばデュエットとチークダンス。私はセクハラなんて言葉も知らなかったし、仕事の接待とはそういうものなのだと思っていた。それでも当時私が勤務していた会社は、男女関係なくいろいろな仕事のチャンスを与えくれたし、能力がなければ先輩が育ててくれた。そして私は少しづつ仕事を覚えながら、それとともに会社にいろいろな要求もできるようになっていったのだ。
男女雇用機会均等法が施行され、「セクハラ」という言葉を知らない人もいなくなり、いつのまにか仕事の上での「女性の権利」は勝ち取るものではなく、当然のようになってきた。オンナの私が言うのも変な話だが、そういう女性の与えられて当たり前の姿勢や意識に、私はやや違和感を感じている。何事も与えられて当たり前という風土・環境は、結局のところ、人の成長を止めるような気がする。勝ち取っていくための努力や智恵を積むからこそ、その価値が大きくなるし、勝ち取る者にとってはそのありがたみや充実感が増すのだと思う。勝ち取っていく作業は苦しい半面、男性にはできない作業だし、自分と格闘する絶好のチャンスでもある。
企業として女性を戦力化すべきと考えているファーストリテイリングの柳井社長は、女性が活躍するための制度を会社として用意するのは当然としながらも、その仕組み作りには女性が声を上げ、それを形にしていくことが望ましいと、朝日新聞のコラムで書いていたことがある。
その通りだと思う。私自身はあまり女性問題を考えることはないが、それでも女性が頑張る姿勢に接すると、つい自分自身の若かりし頃と重ねて応援したくなってしまうことがある。しかしその女性が長続きしなかったり、簡単に物事をあきらめたりするのに接して、残念に思うことが少なくない。
今や日本では、専業主婦志向の大学生(女子)が増え、私のような考えはもはや前時代的なのかもしれない。でも仕事を通じて、そしてひとつづつ働く上での仕組みやチャンスを手に入れていきながら、自分にとって心地よい環境を手に入れていくことは、必ず自分自身の成長につながるのではないかと私は思う。

2010年7月2日

香港の女性たち

前回、スピード時代について書いたにもかかわらず、全く更新ができないまま2週間が過ぎてしまった。スピード時代と逆行したBlogになってしまった。日々の業務や雑事に追われる中で、ついつい遅れがちになってしまうのだが、「スピード時代」について前回書いていただけに、お恥ずかしい限りだ。
さて、今回は香港の女性について書こうと思う。
仕事の関係で、香港や中国の人と接する機会がある。仕事の話だけでなく、それぞれのお国柄や価値観、意識の話を聞けることが私にとっては興味深い。特に仕事関係の資料などではなかなか見えてこない“気持ち”に関わるテーマはおもしろい。
先日聞いた香港の女性の話によれば、香港の女性は仕事場に化粧をしていくことはないという。日ごろ化粧をしない、というわけではなく、仕事の場に「女」を持ち込まないということだそうだ。仕事はスキルを提供する場であるのだから、そういう場でお洒落をしたり化粧をしたりといった“チャラチャラしたこと”を持ち込む女性は、ちゃんとした女性から見ると軽蔑に値する、と言うのだ。だからと言って香港の女性がきれいにしないのかと言ったらそうではなく、香港の女性は恋人の前ではお洒落をし、きれいに化粧をする。「女」であることは彼の前だけでいいのだから、彼女はとさらりと言ってのけた。
香港の女性は、しばしば「強い」と言われる。実際、男を立てることもなく、カップルを見ていても、どちらかと言うと男が女の後をついているような感じだ。共働きは当たり前だし、仕事の上司やボスは女性のケースが多い。どうやら、その背景には環境的なものが大きいようだ。
香港では、かなり前から大体どこの家庭でもお手伝いさんがいるのが一般的で、妻(母)は家事をしないと言う。朝食からお粥などの外食も一般的だし、食事の宅配のようなケータリングも充実しているので、食事作りの必要がない。洗濯や掃除などの家事はお手伝いさんがやってくれるので、主婦(妻、母)の仕事として家事が必要ないのだ。子どもが小さい時は子育てもお手伝いさんが熱心にやってくれるので、母親は普通に仕事を続け、子育てというよりはスキンシップやコミュニケーションなどの愛情を注ぐことに集中すればよいのだ。
そう言えば、かつて私が香港に遊びに行ったとき、日曜日の公園がフィリピン人であふれかえっているのを見たことがある。フィリピンの人たちは皆、香港の人に雇われているお手伝いさんだそうで、日曜日はお休みなので、公園に集まるのだという話を聞いたことがある。
香港の共働き夫婦にとっては、お手伝いさんの費用は世帯収入の15%程度なのでそう負担もなく、女性にとってはストレスなく働くことができるのだという。そういう話をいろいろしてくれた彼女(香港女性)はまだ20代の独身で、今、日本と香港を頻繁に往復している。日本企業と仕事をする中で日本人の価値観や女性観、仕事意識をよく理解しているので、彼女は日本で仕事をするときはスーツを着て化粧をし、仕事場の男性をきちんと立てて仕事をしている。
国が変わると意識や価値観が変わる。円滑に仕事を進めていく上では、そういった価値観を踏まえてコミュニケーションをとらなければならないことを、彼女を見ていて改めて感じる。あらゆる場面で国境の壁がどんどん低くなる今、そういう意識を磨くことも見過ごすことができないはずだ。