2013年1月30日

たかが年齢、されど年齢。でも年を重ねるのは素敵だ。


自分が年を重ねれば重ねるほど、
年齢なんてどうでもいいじゃん!と思うようになってきた。
一方で、悲しいかな、いかにして若くあり続けるかを、
無意識の中で気にしていることにハッと気づくこともある。

今月、芥川賞を受賞した黒田夏子さんは、最年長75歳ということが大きくクローズアップされた。

筆歴70年、中学の国語教師や校正者を経て、地道な努力の結果という報道には、
勇気をもらえる。

ベストセラー詩集で注目を浴びた柴田トヨさん。
1月20日に亡くなったことがニュースになったが、享年101歳、という年齢が
クローズアップされた。
詩集「くじけないで」で、どれだけ勇気をもらった人がいることだろう。
刊行されたのは、98歳の時だったという。
改めて、力をもらえる。

先週、私は、かつて会社員時代の大先輩に15年ぶりくらいに会う機会があった。
私が入社間もない頃、その方は取締役寸前の偉い方だったので、
本来、私にとっては雲の上のような人だったのだが、
休日にスキー場でばったり会った偶然のおかげで、
若い女の子だった私を覚えてくれ、年賀状のやりとりに発展したおかげで、
再会となったのだ。
その人は、当時の勤務先を早々と去り、いくつかの会社の上層部を経た後、
自分でビジネスを起こして数年がたっていた。
現在70代なかば。
年に何回か、一人で山登りをすると言う。
人に振り回されることなく、苦しくても黙々と自分のペースで登ることがいいそうで、
何よりも達成感がたまらないそうだ。
それも、60歳を超えてから、ハイキングから少しづつ始めたと言う。

こういう話に、私はとても大きな力をもらえる。
誰しも、自分よりも年長の人の頑張る姿に救われ、しなやかな姿に惚れ惚れし、
力をもらえることがあると思う。

私にとっては、50代・60代・それ以上の世代の人たちのそういう話から
大きな力を得られるように、
私よりも若い世代にとっては、きっと、私のような世代の行動が、
多少の応援歌になることもあるに違いないと思う。
そう、ありたいと思う。

間違っても、
「ああはなりたくない。希望がない。」などと、思わせてはいけないのだ。

今の若い世代は、社会に希望が持てない、持ちにくい、とよく言われるが、
それは、彼らが「年をとるのも悪くない」と思えるような先輩が
少ないからに他ならない。

ステキな大人、それもいろいろな形の「素敵」な大人が増えることで、

10代は10代なりに、30代は30代なりに、60代は60代なりに、
「年をとるのも悪くないね~」と思えるような先輩を、
一人でも多く持てるとよいと思う。
そういう循環が、結果的に社会をよくしていくはずなのだから。

人が生きる価値と言うのは、そのあたりにあるのではないかと思う。

2013年1月20日

老いも若きも、「○活」万歳!


就活、ソー活、婚活、保活、朝活・・・・○活は、今や花ざかり。
言葉を短くして軽々しいなどという批判もあろうが、私はそう否定的ではない。なぜなら、私にとって、いくつかの○活は、意外と身近な言葉だから。

年齢を重ねた顔に興味があった私は、遺影に注目したことで「終活」という言葉に出会い、エンディング周辺の方々とのつながりが広がっていった。
そのご縁のおかげで、「終活」が単に終末に向けての活動ではなく、よりよく生きるための活動であることを学び、私が提案するアイ・フェイスi-faceに込めた思いとの共通項を知るようになったのだ。
かつては「縁起でもない」と言われタブー視されがちだったテーマだった「終活」は、突き詰めれば、自分の人生をしっかり受け止め、どんな思いをこの世に遺すか、あるいは遺さないかを考えることである。
それは、自分らしく生きるということはどういうことなのかを追及することそのものの活動に通じる。
生き方は十人十色。これから先をどのように生きていくかのお手本などなく、自らの人生観や倫理観が問われることになるのだ。当初はほとんど知られていない「終活」という言葉だったが、あっという間に誰もが知る言葉になって行った。

妊娠するための活動「妊活」は、私が不妊治療業界の情報産業に多少関わっていたことから、私にとって身近な言葉だ。
今でこそ一般的な言葉になり、少子化が深刻化する現代社会において、妊活は期待される活動の一つではあるが、かつては公言にしにくいテーマであり、職場では不妊治療中であることなど言える空気はなかった。
子どもを望んでもなかなかできない夫婦の苦悩は、子どもに恵まれた夫婦には理解しがたいものがある。私もこの仕事に関わるまで、その現実をよく知らずにいた。「お子さんは?」~この言葉に彼らがどれだけ傷つけられ、自らを追い込んでいるか・・・。「赤ちゃんが欲しい」=その一念で、毎月の結果に一喜一憂しながら、さまざまなトライを続けている。中には子どもができないことで自分を卑下したり、すべての自信を失ったりして精神的に追い詰められていくケースもある。
それが狭い意味での「妊活」だ。もう少し広い意味では、そこまで真剣・深刻ではなく、出産を視野に入れた人生設計を考えることを「妊活」と呼び、その特集を行う雑誌は少なくない。

例えそうだったとしても、終活も、妊活も、かつてはタブー視されがちな、普通の話題としては、なかなか公な場で語るには憚られるようなテーマだった。それが、○活という言葉になったことで、「ただいま○活中です」と語りやすくなったわけでもあり、それ自体は、いいことだと私は捉えている。
さらに、「○活」という言葉には、積極的な姿勢が感じられはしないだろうか。
コトによっては、オープンにしにくかったテーマについて、自発的に積極的に取り組んでいる姿勢だ。受け身ではなく自発的に活動しよう、というトーンだ。
努力をし、頑張っている姿勢を、○活という言葉から私は感じるのだ。

それは、就活(就職活動)も、ソー活(SNSを使った就活)も、朝活(学習会や交流会などの朝の活動)、転活(転職活動)、離活(離婚に向けた活動)、保活(保育所に入れるための活動)も、みんなそうだ。
待ちの姿勢ではなく、自らの積極的な活動。
頑張っている姿勢が、そこにはある。

私が学生時代は、○活と言えばクラブ活動の「部活」くらいしか知られてはいなかった。
就活も、婚活も、妊活も、そんなに一生懸命頑張らなくてもなんとかなったような気がするし、そこまでがんばってなんとかしなくてもいいという気持ちもあったような気がする。
それが今は、みんなガンバっている。そのガンバっている活動が○活と評される所以だろうと思う。

だから、私は○活と聞くと、つい応援したくなる。
人は、頑張っている人を応援したいものだから。
それがどんな活動であろうと、自分の人生を切り開こうと言う勢いを感じるからだ。
○活、大いに結構だ。
老いも若きも、○活万歳!
そして私は、これからワクワクするための活動、「ワク活」を目指し続けていきたいものである。