2010年4月29日

百貨店になっているテレビ

百貨店の不振が続いている。今や百貨店は集客力のあるユニクロや無印などスペースを丸ごと貸しているケースも少なくない。
NHKは別にして、テレビ局のビジネスモデルは時間枠をスポンサーに販売する広告収入で成り立っている。景気が悪くなって広告が落ち込む中で、テレビでモノを売る「テレビショッピング」の形は少なくない。テレビ局にとっても、テレビショッピングによって収入が見込めれば悪くない話だ。キー局ではそう多くないが、BSやCS、地方局ではモノを販売するための番組がとても多くなっている。テレビ局は、放送する時間をクライアントに販売し、クライアントは商品を販売するための番組を持ち込んで、その買った枠で放送するのだ。
この仕組み、果たしてこのまま続くのだろうか?
本来、テレビ局は視聴者にとっておもしろい番組、有益な番組を制作し放送する。そのすきまでそこに接する人たちに対して広告を流す、ということで成立してきたのだ。コンテンツが勝負である。しかし、今やその番組枠自体を商品を販売する番組に差し替え、しかも局制作ではなく持ち込んだものをそのまま流しているのだ。本来勝負すべきコンテンツを手放していることになる。
確かにテレビの影響力は強いし、テレビを通してモノを売りたい会社は多い。私自身もそういう活動に携わってきた。しかし、コンテンツの魅力がなくなり、売らんかな情報が溢れるようになれば、視聴者は確実にテレビから離れていくのだ。目先の金が未来の金を奪っていることになる。テレビでモノを売りたかったはずの企業にとっても、すぐに思うような効果を得られなくなっていく。テレビ局のそれは、百貨店が自らのマーチャンダイジングを捨ててユニクロや無印に丸貸ししていることによく似ている。
クライアントの立場がテレビを使ってモノを売りたいと思うとき、将来を考えるとその活用方法としては、安易にショッピング番組を持ち込んでも決して長くは続かない。新しいテレビの使い方を考えなくてはならない。そのためには視聴者が望むもの、視聴者が楽しみにするものをどう提供するかが、まず大前提にあるべきだと思う。

2010年4月22日

すさまじい競争その2

前回、20社近い参加となるコンペについて書いたが、この智恵の提案競争ということについて、もう少し考えてみたい。
私たちのような、モノではなく智恵を売るサービス業の場合、勝負はその智恵の内容で行うは当然のことだ。けれどその智恵でアウトプットされたものはほぼ使い回しができるものではなく、大量販売も難しく、その智恵のアウトプットはそのお客さんのための、いわばオーダーメイドだ。ということは、コンペで出した智恵の結果(=アウトプット)が採用されなかった場合は、タダ。俗に言う「タダ同然」ではなくく、「タダ」そのものである。
これは今のデフレとか値下げとかではなく、もはや今はやりのFREEである。けれど、そのコンペで採用されなかった智恵は、他のお客さんの目に留まることもないので新たな商機もない。
そういう勝負を繰り返すのは、勝負で勝つことを目標に置くにしても、かなりしんどいことだ。
例のクライアントのコンペのプレゼンテーションの日は、もう目前だ。今、各社は見せ方の工夫など、ツメの作業に入っていることだろう。
しかし今回、私はあえてそのコンペでの勝負ををやめようと代理店に提案し、結果的に辞退を決断した。これは前向きな辞退だと思っている。
機会均等と言えば聞こえはいいが、このようなコンペでここまで多くの会社のプレゼンを受けようというクライアントは、結局のところ、いい智恵を得られなくなっていくのではないだろうか? ビジネスマナーとしてどうなんだろう?とも思ってしまう。
牛丼屋さんの世界では、この経済不況を受けて、価格勝負の値下げ競争が始まっている。最初のうちは消費者も安くなっていいのだろうが、そのうちその価格を維持(またはさらに値下げ)するために、会社によってはきっと品質がキープできなくなる。各社はコスト削減を繰り返すうちに、よほどの体力がないとどんどん疲弊していく。
これとまさしく同じようなことが、コミュニケーション活動のような智恵の勝負をする業界にも起きているのだ。
その渦中にいる者としては、この競争に勝ち続けるか、この競争から撤退して違った土俵で勝負するか、どちらかしかない。負けるかもしれない競争のために日々ボロボロになりながらがんばるなど、私はしたくないし、共に頑張る者たちのためにも、してはいけないと思う。
智恵は、違う土俵を探し、新しい企画のために使わなくてはいけないと思うのだ。

2010年4月14日

すさまじい競争

外注する場合に、業者を1社に絞らず、できるだけ多くの業者さんから見積や提案をもらうことは、もはや世の中の流れとして常識とも言えるかもしれない。
そうは言っても、今回のコンペには驚いた。
そのクライアントは、毎年4月に、出入り業者各社を集めて、12月までに納品してもらうものについてのオリエンテーションを行う。日常的な出入り業者だけでなく、希望があれば新規参入業者も、原則参加は可能だ。そして提案日は、オリエンテーションの約3週間後。
提案するのは、企画、デザインを含めたプロモーションツールだ。
去年は10社がオリエンテーションに参加した。私もそのうちの1社のスタッフとして参加し、高評価をもらいながらも獲得には至らなかった。
そして今年は・・・・・・、なんと19社がオリエンテーションに参加!ほぼ倍増だ。
経済が厳しいとはいえ、仕事獲得のチャンスがほしいとはいえ、これはいったい・・・・?!
仕事を獲得するために知恵を使う。これは当然のことではあるけれど、提案するにあたっての知恵も、本来なら有償のはずである。なぜなら、各社はモノではなくソフト=知恵を売っているわけなので。それがコンペであり、しかも19社から知恵を受けるしたら、金額ベースでどの程度の知恵が集まるのだろう。
クライアントにとってはありがたいし、すごいことではあるけれど、コンペの決定が出る会社以外には1銭も支払われないわけで、どこかで多くの誰かが泣いていることになる。結果的には体力勝負とも言えなくはない。このような競争は厳しい競争ではあるけれど、本当の意味でいい知恵を獲得するための正しい競争と言えるのか、疑問だ。・・・・こんな風に思うのは、昨年獲得できなかった者=私の負け惜しみなのだろうか。

2010年4月7日

同窓会気分

テレビ局や新聞社などが企画・招聘する世界的なイベントは多い。
著名なところでは「シルク・ドゥ・ソレイユ」の「コルテオ」。フジテレビが企画招聘していて、ダイハツが協賛している。
このようなイベントは、実際の運営にあたっては券売だけでは営業的に難しく、協賛をつけなくてはならない。協賛候補の企業にとっては、イベント協賛で直接的な売上アップを望むことはありえないし、協賛企業を募る営業は大変だ。イメージアップや知名度アップ、士気高揚や取引先への感謝などが、その目的にはなるが、今のような時代は特に厳しくなっている。イベントは、メジャーなものからマイナーなものまであるが、ほぼ定期的に日本にやってくるイベントもあるが、協賛企業は必ずしも毎回同じではない。 つまり、毎回協賛企業を募る営業活動がされているわけだ。
結果的には、そのイベントを応援したいという心意気(企業トップがそのイベントや芸術が好きなどを含む)に加え、周年事業など、何か企業にとって協賛するきっかけも、必要になってきたりすることも多い。
数年前に、テレビ局が企画招聘したあるイベントについて協賛プロモートを行い、クライアントが、当時全国10都市での公演に協賛した。そのイベントは、翌年以降は別の企業が協賛し、公演する都市は減ったものの、今でも定期的に公演が行われている、もはや恒例イベントだ。
先日、かつて協賛したクライアント企業の方々とともに、その公演を見に行った。公演内容はリニューアルされながらも、プログラムの基本線は変わらない形で構成されており、固定ファンをつかみ続ける理由が納得できる。お決まりな感じは、私たちにとっては懐かしさを誘い、協賛していた頃を彷彿させるものだった。
鑑賞後には当時のテレビ局イベント担当者、広告会社、協賛していたクライアント企業の方等そろっての軽い会食。今回の公演が当時に比べてどう違うか、当時の苦労や楽しかったことなどを思い思いに語るなど、同窓会気分だ。
イベント協賛というのは、そのイベントへの思い入れなどを育て上げていくプロセスがある。即効性はなく、コストパフォーマンスを問うには厳しい現実など、通常のプロモーションとは比べるには無理がある。企業にとってのイベント協賛の効果、価値は、消費者が主対象というよりはむしろ、インナープロモーションの側面が大きいと思う。関係企業や取引先、その担当窓口になる社員、ひては全社員やその家族。
さらに私たちにとっては、それが協賛後数年たってもこの公演がきっかけで当時の気持ちに戻れるわけで、それはまさに同窓会。そのクライアントとはイベント協賛後も日常の仕事は継続しているのだが、日常とは違う「同窓会」によって、クライアントとのリレーションを再確認できたりもするのだ。

2010年4月2日

入社式

昨日、4月1日は、各社で新入社員の入社式があった。昨夜や今朝のニュースでも、悲喜こもごもの入社式が報道されている。
リーマンショック以来の景気悪化で、就職しようという学生たちは大被害を受けている。4月直前まで就職先が決まらない人、数十~100社にトライしてNGをもらい続けた人・・・。
私の頃は、就職は売り手市場ではなかったが、氷河期でもなかった。10社以上受ける人はそうはいなくて、就職のための準備や勉強などはしないまま、学校や教授の推薦で入社する人も少なくなかった。私自身も、就職前に勉強することもなかったし、入社した頃には社会のことを何もわかっていなかった。
入社後のヒヨコ時代にバブル経済絶頂期を垣間見ていた。当時、上司や先輩は自信に充ち溢れていた。働けば働くほど売上が上がり、それを横目で見ていた私は、一生懸命頑張れば必ず報われるような気がしていた。大した働きもなく、ほとんど会社の役にも立ってなどいないのに、とりあえず頑張った私に対して、先輩は会社帰りに頻繁にご馳走してくれたものだ。
今の若者は、どうなんだろう。ゆとり教育後に訪れる異常な競争。多くの若者は、会社に入る前に何度も何度も各社から「あなたはいりません」とNGをくらい、自己嫌悪の塊のようになってから入社する。一方で一部の若者はいくつもの内定をもらって取捨選択して入社するのだから、自信満々(過信?)でエリート意識に溢れて入社するのだ。
彼ら、彼女らにとっての将来はどう見えるのだろう。社会に出る前に疲れきって、入社したら気が抜けてしまいはしないだろうか。希望を持って働くことができるだろうか。仕事の上で勝負に出ようと思えるようになるだろうか。
意味もわからず希望にあふれていた自分自身の昔を思うと、今の若者はとても気の毒だと思う。
いずれ、そういう人たちが中心となって日本経済を動かす時期がやってくる。そういう10~20年後、日本はどうなっているのだろう。
そんなことをと思うのは、私自身が単に年をとったということなのだろうか。かつて私の大先輩たちも私たちに対してそんなことを思っていただろうか? いや、そんなことはないだろう。やはり、若者が未来に希望を持てるような社会でなければ、若者自身も日本も成長できないはずだ。
だから、やはり今の若者はかわいそうだと思う。