2015年1月29日

子育てお母さんの顔が、険しくて厳しいわけ

平日の朝9時半過ぎ、私は山手線のある駅から大通りの歩道を歩いていた。
東京の都心の駅だ。
歩道は、駅からは近隣事業所に出勤すると見られる人がたくさん歩いていた。
また、駅周辺の住宅地からはこれからどこかに出かけるために駅に向かう人もたくさん歩いていた。

そこに、前方から歩道を自転車がこちらに向かってきた。
抱っこひもで小さな子どもを前に抱えながら、もう一人の子どもをハンドルについた前座席に乗せて、若い女性が自転車をこいでいた。
彼女は、2人の子どもを自転車に乗せてこちらに向かって走ってきたのだ。

これから保育園に子どもたちを預けに行くのかな、
それともどこかに子どもを連れて行くのかな、と思った瞬間、
自転車がバランスを崩し、歩道の真ん中で大きな音を立ててひっくりかえってしまった。

あーっ!危ない!
前の座席にいた子どもが半分投げ出され、
びっくりした表情をした後に泣き出した。
ひっくり返った自転車まで、私から約5メートルくらい。

すぐ近くにいた40代くらいの女性が駆け寄った。
「大丈夫ですか?!」

子どもの泣き声はますます大きくなる。

そのとき、お母さんはとても厳しい顔をしていた。
子どもに対して。そして駆け寄った女性に対して。
声をかけられても何も答えず、険しく厳しい顔をしていた。
怒っているようにさえ見えた。

そして伏し目がちで小さな声で言った。
「大丈夫ですから!」

彼女はきっと疲れているのだろう。
小さな子どもを育てるのに、周りに頼ることも甘えることもできず、一人で必死に頑張っているように見えた。

今、こういうお母さんがいっぱいいるんじゃないか。

自転車が転んでしまうのは仕方がないかもしれない。
自転車に二人の子どもを乗せるのも仕方がないかもしれない。

でも、例えば誰かが少しの間見ていてくれる環境があったり、
「ちょっと見ててくれる?」と言える人が周りにいたり・・・
そういうことが全然ないんじゃないか、と思わせるような顔だった。
お母さんが一人で、一人だけで頑張っている。

どこにも助けてもらえない。
誰にも頼ることができない。
私のことなんか、放っておいて。
~そんな声が聞こえるような顔をしていた。

少子高齢化が問題になり、働く女性を増やそうというけれど、
こういうお母さんが大量生産されるようであってはならないと思う。
お母さんだけが苦難を背負うようでは、子育ては苦しいだけになってしまう。

私は投げ出された子どもに「びっくりしたね。大丈夫だよ。」と声をかけただけで、
お母さんには、何も言えなかった。
でも、あのお母さんの顔は、SOS!のサインだったのかもしれない。
あのお母さんが、これからずっと
あの険しい顔、厳しい顔をしていくのかと思うとつらい。

2015年1月28日

人はどんな時に「いい顔」になるのか? その6つ+2つのポイント

人はどんな時に「いい顔」をするのだろうか?
このブログでもたびたび顔について書いてきた。

今までずっと、人の生きざまが表われた「いい顔」に注目してきたので、
人はどんな時に「いい顔」になるのか、
経験的に感じているそのポイントを挙げてみよう。


1.嬉しかったときの話をする。思い浮かべる。

2.幸せに思った瞬間の話をしている。その時のことを思い浮かべる。

3.今楽しいことや、楽しかったことを話している。

4.自慢話をしている。

5.何かに夢中になっている時

6.愛する人(子ども、孫、恋人、伴侶等)といる時


上記のどのポイントの時に「いい顔」になるかが、
人によって異なっているというのも面白い。
嬉しかったり楽しかったりする話の真っ最中よりも、
話す前に思い出し笑いのような顔をする時が素敵な方や、
話した後にはにかんだりする顔が妙に愛らしい方がいらっしゃる。
「いい顔」と脳の働きで、きっと何か相関関係があるに違いない。

このように、私は今まで、
「いい顔」とは、その人にとって「いい話」をする時(またはそれを思い浮かべる時)の顔、
と言い続けてきた。
たぶん多くの人も、そう言われれば納得してくれるに違いない。

けれども最近、上記に加えてもう一つ重要なポイントがあったことを私は確信した。
それが次の7番と8番。

7.辛かったり苦しかったりした時をふり返り、
  「今思えばそれも意味があった」と語っている時

8.苦しかったときにどうやってそれを乗り越えたかを話している時。


この7番と8番はとても大事なポイントだった。

男性・女性、年齢や職業などといったことは一切関係なく、
誰もがこの話をしているときには「いい顔」になる。・・・というのが実感だ。
ほぼ間違いない。
ただし、そこに嘘がないこと。
真摯であることが前提だ。

特に、個人(経営者を含む)ごビジネスモードのブランディングで使う顔の場合、
この8番目のポイントはぜひとも押さえたいところだと思う。

そういう顔にはその人の生きざまが表れると思うからだ。

今があるのはかつてあった苦しいことを乗り越えてきたから。
いろいろ辛いことがあったからそういう気持ちも知っている。

そういう顔は必ずしもキレイな顔ではないかもしれないのだが、
人の心を動かす魅力的な顔だ。

そんな苦難や苦悩は誰にもわからないことだけど、
それでもそういう“人となり”や“物語”がチラッとでも覗けることは、
魅力度としては大きいと思うのだ。

「この人、いい顔してるなあ」
思わずそう言ってしまうような顔とは、きっとそういう顔なんじゃないか。

順風満帆な人生の人になど、魅力はない。

例えば仕事を頼む時だって、仕事の内容や質はもちろん大事ではあるけれど、
担当者が気持ちよい人かどうかは、実は大事な要素だ。

なんだか好かない!感じ悪い!・・・そういうことで、ぎりぎりで仕事を頼むのをやめてしまった経験がないだろうか。
一度は仕事しても、二度目はないなと思うのは、たぶん私だけではないだろう。

顔は、そういうことを自然に伝えるように思う。
バレてしまう、とも言う。

苦難があっても、気分が落ち込んでも、それを乗り越えると、きっと顔がよくなっていく。
生きざまがあふれた「いい顔」とは、そういう顔だ。
現実が逃避し、考えることから逃避し、嫌なことやうまくいかないことを、
人のせい、社会のせいにし続けていくと、きっとそれが顔に表れてしまう。
「いい顔」になる機会を失っていくのではないか。
「いい顔」の方々と接することで、そういうことを教えてもらえる。


ちなみに、上記ポイントに入れなかったけれど、
「心身ともに健康であること」も、「いい顔」のポイントとしては大事な要件だと思う。




上記ポイントを押さえた撮影会。現在、1枠、空いています。
 「いい顔」にこだわってきたトラベシアが撮影する撮影会、参加受付中。

2015年1月26日

人と関わっていないと、心だけでなくカラダまで・・・・・人づきあいと健康との関係

まだ世の中に「食育」という言葉がなかった今から30年以上前に、子どもの個食(孤食)が注目され始めた。



なぜひとりで食べるの―食生活が子どもを変える 
日本放送出版協会 (1983/01)

栄養素の働きに目が行く中で、誰と食べる?どこで食べる?という「食べる」行動と健康との関係に着目したのが、当時はとても新しかった。
著者が実施した子どもの朝食調査では、ゼミの学生も多数参加しており、栄養学専攻の大学生だった私もその一人として都心の小学校に出向いた。
学校に行く前に一人で菓子パンをかじる、という朝ごはんの絵を描いた子どものお母さんは、明け方まで働いていてまだ寝ている・・・。
一人で食べる子どもの栄養状態は悪く、貧血や不定愁訴など、健康状態も悪かった。
今のようにコンビニもなかった時代だ。

そこから食教育の重要性が語られ、その後「食育」と呼ばれるようになり、今ではCSRとして食育に取り組む企業が多い。


さて、それから30年。

生活習慣病やメタボが問題とされるとき、まず注目されるのが高血圧。
その高血圧が、
独身の一人暮らしは、既婚者の1.75倍!
同居人がいれば既婚者の1.15倍!

大人の問題だ。
NHKのニュースで報じられたことなので、見た人も多いに違いない。


厚生労働省「国民健康・栄養調査」の結果を基に、滋賀医科大学の三浦克之教授などのグループが分析した結果だという。
これは、実際に一緒に食べるかどうか、食べたかどうかではない。

血圧のデータと、結婚しているかどうかの関連を分析すると
高血圧の人は、既婚者だと48.2%だけど、独身者は68.%。

むしろ、家族関係が多様な時代になった今、
調査でも
同居人がいれば既婚者の1.15倍!
と言っているように、これは既婚か独身かということよりは、同居人がいるかどうかに注目するところだろう。
実際、既婚者でも別居している人や家庭内別居、あるいは結婚していない同居人、シェアハウス・・・・いろいろな形がある。

一人暮らしだとどうしても食生活を気にしなくなりがちだから、言われてみればわからなくもない。
それでも今の時代、世帯人数で最も多いのが一人だ。


報道では、
 食べすぎに注意。
 高血圧防止なら、カリウムを。生野菜、付け合わせの野菜を。
 塩分を控えめに。
 一人暮らしはカップラーメンを食べることが多いから、調味料は全部使わないように。
等々、一人暮らしの人への食べ方アドバイスをしていた。

まあ、栄養学的にはそれはもちろん正しいアドバイスではあるけれど、
私は、ここは人との関わり方に注目したい。

昔食いしん坊で大食いだった私自身も、最近は量も食べられなくなり、食べることやおいしいものへの執着がみるみる減ってきた。
それに伴って、好きだった料理も面倒になり、一人ご飯の時はろくなものを食べていない。

できれば人と暮らす。
例え暮らさなくても、できるだけ人と関わる。人と食事をする。
人との関わりは心の問題として語られることが多いけれど、
「食べる」という行為が心だけでなく、カラダ、健康面にも影響を与える。

オトナだからこそ、人と食べることを意識したい。
外食でなくても、家に定期的に集まって食べる形でもいい。

昔「おいしい顔ってどんな顔?」というコマーシャルがあったのを思い出す。
「おいしい顔」とは、食べる顔、それも人と一緒に食べる顔。

人と一緒に食べよう。



2015年1月23日

「2分の1成人式」するくらいなら、「×2成人式」「×3成人式」を。自分の人生を考えるために。

今、小学校で「2分の1成人式」が大流行とは知らなった。
これから旬の季節を迎えるのだという。

最近は、家族が多様化し、虐待が横行する今の時代に、
この「2分の1成人式」の開催は時代に逆行していると指摘し、イベント開催を見直すようのが促しているのがこちらの記事だ。

最もだと思う。
なぜ「2分の1成人式」なのだろう。
子どもは親への感謝を語り、親子の愛情を確認し合うイベントなのだそうだが、
親子にもいろんな親子がある。
円満な家庭ばかりではない。

そんなお仕着せの「2分の1成人式」よりもむしろ、私は「×2成人式」「×3成人式」をオススメしたい。

企業が終身雇用を前提とした経営ができない時代になり、
個人も一つの会社に働き続ける人がどんどん減り、
どんなに大きな会社でも、勤務先など頼りにならない今の時代、。

「×2成人式」の40歳は、自分の将来、自分の適正、好きなことが何かがまだよくわからなかった20歳の時から、さらに20年後にあたる。
自分を見つめ直すのにはとても良い時期だと思う。
しかも今の時代だからこそ、これからどうやって生きていくのかを考えるのにも、絶好な機会になると思うのだが、いかがだろうか。

日本人の平均寿命はものすごく伸びた。
男も女も80歳を超えた。
「×2成人式」の40歳は、まだ半分なのだ。

40歳は、学校だけでなく社会経験を経ている。
嬉しいことや悲しいことを経験し、充実感を得たり、苦難を立ち向かったり、そういうことをいくつか乗り越えてきたはずだ。
得意なことや自分の志向がはっきりしてきた40歳。

ここでどれだけ自分と向き合うか。
それが60歳、70歳、現役リタイア後の生き方にも大きくかかわっていくような気がするのだ。

その少し上の世代でもある私は、自分が40歳の頃、バブルはとっくに崩壊していたけれど、時代の変化を感じながらも、それが自分の問題とは考えられなかった。
時代の変化も、ここまでの変化であるとは気づかないままに時を過ごしてしまったような気がする。
いや、時代は変わりそうだ、と思いながらも、自分とは向き合ってこなかったのだ。

この世代はちょうど、キャリア教育を受けることなくここまで生きてきてた。
そういう考え方に慣れていない世代とも言える。

そんな私が自分の人生を改めて考えようと思い始めたのは、「×2成人式」をずいぶん超えてから。
もう少し早くから考えればよかった、と思った。
考えれば考えるほど、これからどうしたらいいかわからなくなった。
やっぱりこれが大事だと確信することもあった。
そんなこんなを繰り返しながら、今、自らの10年後、20年後を考える。

私の周りを見回しても、自分の仕事、生き方や働き方について、流されることなくしっかり考えるようになるのに、40歳を超えて、という人が多いように思う。

そう、「×2成人式」は自分の人生を考えるのにいいタイミングなのだ。
考えてみると、もう少ししたら私に「×3成人式」のタイミングがやってくる。

20年の節目というのは、人生を考えるタイミングとして、なかなかいい時ではないだろうか。
ハタチの時と違い、頼っていたはずの親もみるみる弱ってくる。
親の変化を感じ、親の人生に自分の人生を重ね合わせるにもいい節目だ。

「×2成人式」、「×3成人式」・・・。
私のオススメは、このとき、エンディングノートに接すること。

エンディングノートというと、高齢者のためのもの、老いじたく、死ぬ準備、・・・そう思う人が多いけれど、とんでもない。
子どもの頃のことをふり返ってみたり、改めて家系図を書いてみたり、といろいろなページがある。
言わば、人生ノートだ。

結構いろんな種類がある。
例えば下記は、明らかに若年層を意識して作られたものだ。

 あした死んでも後悔しないためのノート
 


 私の家族ノート



 未来に残すエンディングノート



書かなくたっていい。見るだけでもいい。

例えば、「×2成人式」の時は親のことを考えながら。
もし親が書くとしたら、どんなことを書くだろうと。
実は親のことを意外と知らないと思うことも多いのではないか。
戦後の高度経済成長時代のことなど、もっともっと親に聞いてみたくなるに違いない。

そして「×3成人式」の時は自分のことを考えながら。

二十歳の成人式の後にやってくる「×2成人式」、「×3成人式」は、人生を考える絶好のタイミング。
愛情のお仕着せの「2分の1成人式」よりもよっぽど意味があると思うのだが、いかがだろうか。


2015年1月21日

いまの20代女性が「老後が不安」と訴える理由

就職を悩んでいる20代の女性に会う機会があった。

忙しい職場で、身も心もヘトヘトになって辞めて1か月。
これからの就職について大きな不安を抱えていた。

その大きな不安が、「老後」なのだと言う。
まだ20代の女性だ。

そんなことを考えても仕方がないと頭では分かっているのだが、
それでも、介護報酬の引き下げ決定、生活保護の引き下げ検討・・・
新聞ではそういうニュースがどんどん出てくる。

働かないと年金が出ない。
正社員じゃないと厚生年金がない。
私は将来どうなってしまうんだろう?

そういうことが不安でたまらないのだと言う。
私の20代の頃をふり返ると、考えられないことだ。

私が20代の頃、世の中はバブル景気の終わり頃だった。
バブルがはじけた後も、その状況がわからないままだったように思う。
当時の私にとっての将来の不安は、恋愛がうまくいくかどうか、自分が結婚するのかどうかがメインで、あとはせいぜいボーナスの金額や会社の人事くらいのものだったような気がする。
それが私にとっては大問題だった。
当時の私は、自分自身の老後など考えようとしたことすらなかった。

先々を考える、考えない・・・どちらがいいのかはわからないが、
まだ20代の女性が、これからいろんな可能性が広がっているはずの女性が、
その可能性を考えようとするときに、「老後が不安」でたまらない思いで就職先を探そうとしているのを見て、心が痛んだ。

要介護高齢者の厳しい状況や高齢者の貧困、介護難民、孤独死・・・
若年者の就職難民、派遣と正社員の給与格差、ワーキングプア・・・
そういうニュースが夢や希望を奪っていくのだろう。

高齢者の問題は高齢者だけの問題ではないことを感じる。
高齢者が明るい未来が想像できる社会は、40代、30代、若者にとっても明るい社会になる。
明るい未来がイメージできなければ、夢や希望に向かって頑張ろうという活力は出てこない。

それは若者だけではない。
私の世代や団塊の世代にとっても、明るい80代、90代が見えなければ、今があまりに切なくなる。

上の世代は下の世代への責任があるとよく言われるが、
それは、自分自身が自分の子どもへとつなぐだけでなく、ちょっと下の世代へとつなぐためにも。

カッコいい先輩が増えることは、社会の活力になる。
誰もが、下の世代に対してカッコよくありたいものだ。
ずっとそう思い続けてきたが、「老後が不安」な20代の女性の話を聞いて、その思いはますます強くなる。




なかなか聞けない、終末医療現場で働いていた緩和認定看護師さんの話を聞くコラボイベント。
そのお話から自分の今を考え、生き方を考えてみませんか。
生き方を考えるのに便利なエンディングノートと、その中でも特に難しい項目の医療にスポットをあて、明るく考えていきます。








2015年1月20日

セミナーや講座、勉強会にどんな価値を求めるか。

世の中にはセミナーや講座、趣味の会、勉強会等々がたくさんある。
私も、いろいろな会に参加することも多いし、自らが開催することも多い。

自分自身が参加者になったときに行ってよかったと感じるのは、
そういう考え方を知らなかったけれど、知ったことで目の前が開ける、という感じだ。

へえ~!
まさか?! そんなこと! そんな考え方があるなんて!
聞いたことがないことが聞ける!
会ったことがない人に会える!
今までわからなかったけど、そこだったのか!

あるいは、
既に知っていたことではあるのだけれど、それが再確認できて自分の頭が整理される、という感じの時もある。
これは、もやもやがスッキリする、という感覚に近い。。

本で読んだり、ネットで調べたりして情報がたくさんありすぎて、いろいろ見聞きしているうちにわけが分からなくなる。
何かしなきゃと思っても、どこから手をつけたらいいかわからない。
そんな時に、整理されることにはとても価値がある。

また、参加したことでそこで出会う人とのつながりができる価値もある。
私の場合は、これを目的に参加することはあまりなく、あくまでも結果論ではあるのだが、それでも同じアンテナを持っていた者同士なので、このつながりの価値は意外に大きい。

たぶん、こんなようなことで、世の中にはセミナーや講座や勉強会がたくさんあるんだろう。

先日、私が参加した新年会を兼ねた勉強会。
カメライターのかさこさんが主催したものだが、面白かったのは開催場所だった。
東京・本郷にある老舗旅館だったのだが、東京在住の私にとって、東京の老舗旅館に行く機会など、そうそうあるものではない。








さて、私自身が自ら主催してセミナーを開催する時には、この自分が「よかった」と感じる価値を提供できるかどうか、をまず大事にしている。

明日、私が開催するイベントは、医療をきっかけに生き方や人生を考えるものだが、
参加者の年齢は幅広い。
新人の頃からずっと終末医療現場にいた緩和医療認定看護師の話を聞くので、聞いたことがない話や新しい考え方を提供できるのではと思っている。


まだ若干のお席あります。

なかなか聞けない、終末医療現場で働いていた緩和認定看護師さんの話を聞くコラボイベント。
そのお話から自分の今を考え、生き方を考えてみませんか。
生き方を考えるのに便利なエンディングノートと、その中でも特に難しい項目の医療にスポットをあて、明るく考えていきます。








2015年1月17日

阪神大震災・・・20年前の今日を思い、生かされている自分を思う

20年前の今日は阪神大震災があった日。

今日のYahoo!のトップページは、下にスクロールすると・・・。



当時の動画や写真が次々と表われ、あの日の朝、テレビをつけた衝撃が、ありありと思いだされる。

被災し、自宅が損壊した落語家の桂文珍さんは語る。

 モノは壊れる、ということを実感した。
 壊れないモノをいかに大事にするか、を考えるようになった。
 今、生かされている自分を感じる。
 だからこそ、めげない。最後までくじけない。
 そのために必要なのが、
  自助(自分で自分を助ける)
  共助(人を助ける、互いに十に助け合う)
  公助(公的に助ける)

あれから20年。
当時、30代だった私は今、50代になった。
自分自身も年を重ね、あの時感じ、行動したことが、今、できるかどうかすら、あまり自信がない。

この20年の間に東日本大震災があったのだ。
平時の日常が繰り返されるうちに、当時の記憶はどんどん薄くなる。

不特定多数の人が見るYaho!のようなポータルサイトでこのような企画があり、再認識させてもらうことに価値を感じる。

文珍さんの言うように、今、私は生かされている。
壊れないモノは何なのか。それを考え、大切にしなくえは、と改めて思う。
めげない、最後までくじけないで、と弱っている自分に言ってみる。

今日という日。
忘れてはならない。




なかなか聞けない、終末医療現場で働いていた緩和認定看護師さんの話を聞くコラボイベント。
そのお話から自分の今を考え、生き方を考えてみませんか。
生き方を考えるのに便利なエンディングノートと、その中でも特に難しい項目の医療にスポットをあて、明るく考えていきます。





2015年1月16日

「安楽死」で考える。命は誰のものなのか。自分だけのものと言えるのか。

人の顔への興味がきっかけで、私が遺影に興味を持つようになったのは、もう今から何年前になるだろうか。
遺影を見ながら、顔についてさらにあれこれ考えるようになったのだが、そのせいで人生のエンディングに関する情報にたびたび接するようになった。

考える中でしばしばぶち当たる壁が、人の命は一体誰のものなのか?ということ。

去年の11月、アメリカで脳腫瘍を患った29歳の女性が安楽死を選択すると投稿した動画はアメリカで大きな話題になり、日本でもニュースに取り上げられた。

これが、安楽死なのか、尊厳死なのか、・・・

安楽死にも積極的安楽死と消極的安楽死とがあって、安楽死の範疇は難しい。
日本尊厳死協会では、安楽死と尊厳死を明確に区別しているが、いざ現実問題としてはなかなか難しいのではないかと個人的には思っている

私は、自分の命は自分のもの、自分が決めるものだと、かつてはずっと考えていた。
しかし、残された周りの人の大きな悲嘆(グリーフ)を知るにつけ、必ずしも自分だけの命ではないかもしれないと考えるようになりつつある。
また、さまざまなケースを知る中で、自分が決められるとは限らない事情も知るようになってきた。

14日にはテレビ(「報道ステーション」テレビ朝日)でもヨーロッパの「安楽死」事情が取り上げられていたが、そこでは、本人、そして家族を取材していた。
家族に後悔があるようには見られなかったが、満足しているか、100%納得しているかは計り知れない。

スイスやオランダでは合法化されている安楽死だが、日本では安楽死は合法化されてはいない。

日本尊厳死協会では、自分の意志を元気なうちに記しておくリビングウィルを薦めている。

私は、自分が回復の見込みがなく、痛みなど苦痛が大きくなった場合には、苦痛を和らげることに集中し、延命治療はしないでほしいと現時点で考えている。
が、積極的安楽死は望まない。


生き物には寿命というものがあるのだということを受け入れ、できればそれに抗わずにいたい、というのが現時点での私の考え方だ。

でもこれは現時点の考え方だ。
人の気持ちは変わる。

「もういい。こんなに長生きすると思わなかった早く死なせてほしい。」と言う人。
「もっといい治療があるのでは? まだまだ諦めきれない。」と言う人。

人によっても違うし、同じ人であったとしても、時間の経過とともに気持ちは変わるのだ。
そこが、終末医療の難しさでもある。

アメリカの29歳の女性も、途中で心境の変化を動画で語る動画を投稿したという情報もある。

しかし、終末医療現場で働いていた緩和認定看護師から、
「人は死を受け入れてから死までの時間に、魂が成長すると感じる。」
と聞いたことがある。

それはどういうことなのか。

自分がその領域に行けるようになるとはとても思えないけれど、
寿命を受け入れることで、魂の成長につながるのかもしれない、と今の私は考えている。


なかなか聞けない、終末医療現場で働いていた緩和認定看護師さんの話を聞くコラボイベント。
そのお話から自分の今を考え、生き方を考えてみませんか。
生き方を考えるのに便利なエンディングノートと、その中でも特に難しい項目の医療にスポットをあて、明るく考えていきます。


2015年1月13日

両親の名前、父方母方の祖父母の名前・・・どこまで知っていますか?

昨年4月より、エンディングノートを書く継続講座を開催している。

エンディングノートというと、一般的には高齢者のためのものと思われがちで、
老い支度として自分の死後に向けて家族のために書くと思う人が多いが、
うちの講座では30代から60代と幅広い世代が参加している。

たしかに財産、医療、葬儀、供養など、事務的なことを書く項目もあるのだが、エンディングノートには、自分自身の人生をふり返り、これからの生き方ややりたいこと、趣味、思いなどを書く項目がある。
生まれてから死ぬまでの自分の人生の中で、今の自分の立ち位置がわかる道具として、とても有効なものだと私は捉えている。

その講座では、毎回設定されたテーマに基づいて、知識を学んだり、現場の話や裏事情を聞いたりしながら、各自が自分のエンディングノートを少しづつ書き進めながら、家族や自分の人生を考えていくのだ。
テーマに合わせた専門家に来てもらうこともしばしばだ。

その講座の中で、12月に家系図を書いてくる宿題があった。
自分の父と母を記入する。
・・・・続いて父の父と母(祖父母)、母の父と母(祖父母)を記入する。
もちろん、既に亡くなっているケースも多いのだが、記入するのはフルネーム。
下の名前までだ。

その回で来てもらったのは、相続を専門とする行政書士の先生だ。
その先生によれば、今の時代、自分の祖父母、それも父方母方双方の祖父母の名前(フルネーム)を全員書ける人は、大変少ないということだった。

子ども時代の祖父母は、「おじいちゃん」「おばあちゃん」であって、名前までは知らず、そのまま亡くなってしまうと名前まで知らない人が多いという。
仮に健在であったとしても、年賀状や手紙文化が衰退しつつある今の時代、文字にする機会がないので、名前までは知らない人が多いそうだ。
祖父母との関わり、関係性も影響してくるのだろう。

ちなみに私の場合は、子ども時代に父方祖父母と同居していた3世代家族だった。
二世帯住宅がまだ少ない時代で、毎日朝昼晩の食事からお風呂まですべて一緒の昔ながらの家族だったので、祖父母の名前(フルネーム)は当然のように知っている。
母方祖父母は遠くに離れており、年に1~2回夏休みなどに訪ねる程度ではあったが、やはり祖父母とも名前(フルネーム)は知っている。
同居していなくても、年賀状や手紙を書くことがあったからかもしれない。

行政書士の先生の話では、親族との関係性が薄いことが大きく影響しているように思われた。
相続問題に直面すると、この名前もわからないかもしれない人の戸籍を取り寄せねばならないことが起きる場合がある。
たとえはるか昔に亡くなっていたとしても、だ。
名前がわからないというのは、関係性が薄い可能性が高く、話し合いをするにもスムーズに進めにくくなることもあるようだ。

今後、年賀状が減り、文字を書く習慣が減ることで、益々名前まではわからない人が増えていくことだろう。
それでも、たとえ名前まではわからなくても、手続き上必要なことは、調べていけば、大変な手間ではあるがなんとかわかる。

むしろ考えておきたいのは関係性。
名前を知らないくらいということは、その係累とのつきあいが薄い可能性が高い。
私の場合、祖父母の名前がわかるとは言っても親族と会う機会は急速に減っている。
イトコ(従兄弟従姉妹)とはもう10年以上会っていない。
今後、どういうつきあいをしていくのか。

エンディングノートというのは、生まれてから死ぬまでの自分の人生はもちろんのことだが、その周りのこと、親や兄弟姉妹、子どもなど、今の自分の周りの人やその人との関係性について気づかせてくれる道具としても、有効なものだ。

今、家族関係や家族問題というのは、深刻化しているように感じる。
遺産相続も、揉めごとの件数はどんどん増えている。
財産の多寡ではない。むしろ財産が少ないほど揉めている。

相続対策という意味ではなく、どうやって心穏やかに暮らしていくか、生きていくか。
自分だけでなく、親や配偶者、兄弟姉妹、さらにその配偶者・・・
親族とどのようなつき合いをし、どういう生き方をしていくか。

家系図を書いてみることは、そういうことを考えるきっかけになる。





なかなか聞けない、終末医療現場で働いていた緩和認定看護師さんの話を聞くコラボイベント。
そのお話から自分の今を考え、生き方を考えてみませんか。
生き方を考えるのに便利なエンディングノートと、その中でも特に難しい項目の医療にスポットをあて、明るく考えていきます。


2015年1月10日

人が生きる価値というのは、次の世代につなぐことにある、と思う。

元旦に放映された異なる世代が一堂に集い、戦後の70年を一緒にふりかえる番組「戦後70年 ニッポンの肖像 プロローグ 私たちはどう生きてきたか」(NHK)
をご覧になっただろうか。

出演は、80代の半藤一利さん、今年70歳になるタモリ、50代の中園ミホさん、40歳の堺雅人さん。

中園ミホさんと同じ年の私は、
番組中で語る中園さんの感覚にとても近いものがある。
世代意識というのはこういうものだろう。
映像が流れれば、たまらない懐かしさだ。
子ども時代、青春時代、バブル時代の体験が次々と思いおこされる。

今年は戦後70年。
今年70歳になるタモリは、
厳しい戦況の中でお腹に宿り、戦争が終わった直後に誕生している。
そのタモリが語ったのが、
こんなにおもしろい70歳はない!

当時子どもだった私にはわからなかったけれど、今になってみれば、過去の人はすごかった。
終戦直後のボロボロの日本が、「アメリカに追いつき、追い越せ」ではなく、
「世界一」を狙っていたのだから。
番組中では、大人世代としてバブルを経験していない堺雅人さんも、
そこに驚いていた。

少子高齢化が問題視される最近の風潮は、弱々しい高齢者イメージだが、
なんのなんの・・・!
私から見れば、輝かしい高齢者だ。
豊かで恵まれた時代とは違い、覚悟が大事とか、覚悟を持とうなんて思わなくても、
厳しい時代だからこその覚悟がある。
それは、ひたすら「一生懸命」「夢中」・・・。
それに加えて、上を、上を、という目標意識とでも言おうか。

高齢者というと悲惨なことや暗い話題ばかりがクローズアップされがちだけれど、
実際には、そういう過去を経て、それを礎に、今、ますます輝く人たちがたくさんいるはずで、今だからこそ、そういう人たちがもっともっと注目されてもいいと思う。
そういう人たちの人生(生き方)に、私はとても興味がある。

そういう人の存在や、そういう人の話から、私は大きな力をもらえるからだ。
勇気すらわいてくる。
だから、そういう生きざまが表れている顔に、私は惹かれる。

「人が生きる」という価値は、そういうことにあるんではないかと思う。
子孫繁栄だけでなく、生き方や思いを次の世代につなぐこと。
どんな世代であっても、「生きる」ことは次の世代への責任があるはず。

改めて過去をふり返り、タモリじゃないけど今の私も、改めて思う。
「こんなに動く55歳はない。」

55年間は、高度成長とバブルと急速な景気冷えこみと・・・
悲しい災害や、驚くくらいの大事件もたくさんあった。
目まぐるしい変化の波が次々と来た(来る)。
こんなこと、そうそう経験できないんじゃないか?!

そして、どんな世代の人も、
「こんなに××な○○歳はない。」と思えるといい。





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2015年1月9日

好きなことで生きていく その2 会社視点で。

好きなことで生きていく。
好きなことを仕事にしよう。

しばしばそう言われる今の時代については、やや疑問に感じることもあって書いたことがある。
そうなれればたしかに幸せだろうけど、なかなかそうなれるもんじゃないだろう。

だけど、少しでもそういう方向に近づければ、きっとパフォーマンスが上がる。
そうなれば誰だって、本来以上の力を発揮できるはず。
人は、やりたいことであれば楽しんでできるから。
楽しいから熱中する。
多少つらくても頑張れる。

でも、やりたくないことは大した苦難がなくても、そもそもやること自体がイヤなんだから、そりゃあ、頑張れって言われたって、そんなのは聞いているふりだけ、右から左。
テキトーにやるに決まってる。

だから、働くなら少しでも好きなことに近づけられるような仕事をした方がいい。
企業側も、従業員に好きなことをさせていく方が業績アップへの道だ。
その方が従業員が頑張ってイキイキと働くんだから。

会社員時代、定期的な目標管理の面接の際に私は、
「好きな仕事だけをしたいというのか?!」と上司を怒らせたことがある。
今から15年くらい前のことだ。
それは楽をしたい、という意味ではなく、自分が好きな仕事を徹底的にやりたいという意味ではあったのだが、そうすると当時持っていた仕事全部はできなくなる。
当時の社会から見れば、「好きな仕事をしたい」というのは、かなり無茶、無謀な主張だった。

今でも、会社の中で好きなことをしたいと言うのは、意外に難しいことかもしれない。
だけど、従業員一人一人が、少しでも好きなことに近づいていける実感が持てれば、それぞれのパフォーマンスは上がるはずだ、という思いは変わらない。
企業は、そうやってもっともっと「人」を生かしていったほうがいいと私は考えている。

最近よく言われる「好きなことで生きていく」書籍や講座や塾は、個人から見た視点で語っていることが多い。
会社にぶら下がらず、個人で好きなことをして生きていこう、と。
そりゃあ、そうできればいいかもしれないが、誰もがそうできるわけじゃない。
なかなかそうできない人が多いという現実がある。

私は、会社こそがそういう視点で「人」を生かしていけばいいのに、と思う。
それは、私自身が「会社が好き」「仕事が好き」と思っていたから25年も同じ会社でワクワク働き続けてこられた、それなりの成果を上げて働いてこられた、と実感しているからだ。

生活を考えれば、会社から離れたくてもそう簡単に会社をやめられない人は多いだろう。
会社だって、社員たちにいかに働いてもらうかが課題だ。
充実感を持って働いてもらった方が、会社の風土も従業員の雰囲気もいいに決まっている。

本来、そういう視点で働く思いを支援をするのは上司の役割なのかもしれない。
しかし今はプレイングマネージャーが多く、肝心の上司は責任範囲も広くて、なかなかそういう視点で部下を見られなくなっているように思う。

企業は、特に経営者には、従業員が会社の中で「好きなことで生きて」いけるようにする智恵を絞ってほしいと思う。


従業員が会社の仕事の中に「好き」を探し、「好き」を見つけて働いていければ、きっと従業員のモチベーションは上がるはずだ。
たとえ「好き」が見つからなくても、将来の「好き」につながりそうな実感を持てれば、気持ちは変わる。

それが企業の業績につながるはずだ。
これからの時代は、そういう会社がどんどん強くなると思う。




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2015年1月8日

「下流」の人は、人とつきあわないことが判明した?!

毎日新聞が去年のクリスマスイブに発表したこの記事は、私にとっては衝撃だった。

日本の世論2014:「下流」の人は他人と関わらない傾向 (毎日新聞)
http://mainichi.jp/feature/news/20141223mog00m040012000c.html

毎日新聞社と埼玉大社会調査研究センターが実施した世論調査「日本の世論2014」である。

貧困と人間関係の貧しさに相関関係ができた

と、専門家が指摘したという。
記事によれば、人とのかかわりという意味では、

 「近所づきあいのある安心感と、他人と関わらない気楽さのどちらを選びますか」との質問に、「上流」の56%、「中流」の46%が「安心感」を選んだが、「下流」は36%。五つの層で見ると、「気楽さ」を選んだのは「下の下」が40%と最も高く、最も低い「中の上」では23%だった。

とある。
自分を「下流」と思う人のほうが、人と関わる安心感より、人と関わらない気楽さを好む、ということだ。

私自身は、これからの時代は“経済力”よりも“人との関係力”が大事になると、強く感じている。
逆に言えば、お金があまりなくても、人とのつながりやおつきあいを大事にしていけば、気持ちが豊かでいられる、と考えている。
ところが、下流(経済的に貧しい)の人は他人と関わらないとなると、その考えを真っ向から否定されたように思え、もはやお金がなくては気持ちも豊かになれないと言われているようで絶望的な気になったのだ。

お金がないと、人と関われないのか。
上流の人でないと、人付き合いができない(しにくい)のか。


家族との関わり方においても、

 「親の面倒をみるのは子どもの務め」と思う人は「上流」で61%、「中流」は50%、「下流」は44%。

とある。

親の面倒を見ることと、家族のつながりが深いこととはイコールではないが、
お金がないから親の面倒などみられないと思うのか、
上流の人は親からお金をもらってきたから親の面倒を見なければ、と思うのか・・・。
いずれにしろ、ここに上流かどうかとの相関がある、というのは間違いない。

しかしよくよく読んでみると、いくつかの問題があった。

まず、この「上流」「中流」「下流」というのがミソ。
上流かどうかを5段階に分け、自分がどこに属するかを選んでもらって分類している。
たしかに

世帯年収「300万円未満」の人の45%が「下流」に属すると思っていた。

とあるが、これはあくまでも自己評価なので、実際の裕福度とは必ずしも一致しない。

私は、自分自身のことを、上流か下流かなど考えたこともなかったが、仮に自分でその分類をする時というのは、自分が自分をどう評価しているのかという気持ちの要素が大きいのではないかと思う。
だからどこに分類されるかというのも、同じ人でもその時々によって変わるのではないかと思う。

例えば、社会一般から見れば経済的に裕福だとしても、本人が不本意に感じていれば、自分を5段階評価で「上の上」にはしないだろう。
また、年収等、経済的にはかなり厳しそうであったとしても、自己評価が高い人だってきっといるに違いない。

人との関わりを大事にするかどうかは、今の自分に満足できているかどうかではないかと私は思っている。
ある程度の経済力がないと、その自分に対する満足度をキープできない、ということなのではないか。

経済力は大事。
でもそれだけじゃない。

自分にどれだけ満足できるか。
自分に対してどれだけ肯定感を持てるか。
自分を褒めてあげられるか。

だから自分に自信を持つことが大事なのだと思うし、自分を褒めよう・褒めたいと思う人は人のことも褒められるから、結果的に人と関わりを持つようになるのではないかと思う。
親との関係性もそういうことなのかもしれない。


やはり、これからの時代は“経済力”よりも“人との関係力”が大事になる。
・・・この自論は取り下げることなく、主張したい。
そして、私自身に対しても、言い続けていこう。
自分を大事にしていこうね、と。





補足)
上記はあくまでも子育てを卒業したオトナ世代の話かもしれません。
これから子どもを生み、育てようという世代の中には、そんなきれいごとを言ったって、現実にお金がなければ子ども生むことも育てることもできない、お金がなければどうしようもないと言う人もいるでしょう。
たしかに最低限の経済力は必要なのですが、それでもお金だけのせいにせず、自分を大事にすることや自分に自信を持つ(持てるようになる)ことで変わることがあるし、さらに人との関わりで乗り越えていければ、と思います。



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2015年1月7日

ネット上の自分、いつまで生かす? いつまで生き続ける?

今、ネット上に自分で書いた自分情報がある人は、数年前に比べてとても多くなっている。

前々から気になっていたことではあるが、朝日新聞デジタルの「死後もネットに漂う自分の痕跡 消去を託せる相手は…」を読み、改めてネット上の自分情報を考えてみた。

私がこのブログを書き始めたのが6年前。
他にもこんなブログを書いている(いた)し、ずっと前には会社を辞めるまでのカウントダウンブログなんていうのも書いていた。
mixiやtwitter、Facebook等のSNSもある。
さらに、Webサイトを3つ持っている。

上記以外にも、だいぶ前に少しだけ書いたブログもあったが、今ではその名前もパスワードもわからない。
張本人の私が今では書くことはおろか、見ることも探すこともできない。
自分の頭の中では消滅しかけているのに、ネット上にはたぶん・・・・ある。

他の人やメディアが自分のことを書くのは別として、これらの自分で書いた情報を管理しているのは自分だ。
基本的には自分でないと、消したくても消せない。
消すかどうか決めるのは自分だ。

数年前に亡くなった知人は、今でもネット上で笑顔で微笑む。

彼はいち早くGoogleにプロフィールと写真を掲載していた。
まだFacebookの日本語インターフェースがなかった頃で、ネット上に出していることが珍しいくらいだった。
その後、その画面はいつのまにかGoogle+に変わっていた。
無味乾燥だったプロフィールページが、今では彼の写真とともに出身地や学校、当時の勤務先がきれいに表示されている。
彼がネット上に出していたのはたぶんGoogleだけ(今でているのはGoogle+だけ)だろうが、実際のところはわからない。

彼は、我が家にとって大切な兄貴分で、家族のようなつきあいをしていた。
私はネット上で会えてうれしいけど、誰も何もできないからたぶんずっとこのまま。
これからもずっとここにいる・・・。

当時に比べて、ネットの上の情報は今、爆発的に増えた。
何百倍か、何千倍か、それ以上だ。
私自身がそうであるように、一般的に個人一人一人のネット上情報も、おそらくすごく増えているだろう。
たとえば今、私が事故で突然この世から消えたら、現段階では私が書いたネット上情報はたぶん彼と同じようにずっとネット上で生き続けることになる。
もしかしたら永遠に?

有名人が亡くなった場合は、ブログなどそのまま保持していつまでもファンがコメントを投稿し合うこともあるし、Facebookでは、家族がタイムラインに亡くなったお知らせを投稿する場合も見かけるようになってきた。
ネット上でどう生きていくか、ネットをどう利用するかは、いろいろな形が出始めている。

現在、私が書いたネット上情報のほとんどについては、私だけしかID・パスワードを知らない。
記録はあるがきちんと伝えていないので、たぶん私だけしか管理できない。

「終活」の世界では、自分の死後にこのネット上の情報をどうやって消すか、消せるようにどうやってIDやパスワードを記録しておくか、等を考えるようアドバイスするのが基本だ。
ネット上情報を消すことを前提に、消さねばならないという前提に立ったアドバイスが多い。
私が書いたエンディングノートに関する本でもネット上情報の管理についてはほぼ同様の形で少しふれているが、本が出てから1年以上たつ。

日本でFacebookが急速に広まってからまだ4年。
これからさらにいろいろなものが出てくるだろうし、逆に消えていくかもしれない。
新しいルールができるかもしれない。

ネットとのつきあい方や関わり方がどんどん変わっていく今の時代に、ネット上の自分情報を消す必要があるのかどうかさえ、正直なところ今の私にはよくわからない。
個人的には、人によっていろいろな選択肢があっていいように思う。

ネット上にいつまで生きる? 
ネット上にいつまで生かす?

ちょっと前の常識は、すぐに非常識に変わるかもしれない。




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2015年1月5日

2014年によく読んでいただいた記事 ベスト10

このブログを書き始めて約6年。

私の場合、忙しくなると3か月も放置状態で書かなかったりと、かなり怠け者なブロガーだ。
今までどんな記事がよく読まれているのかを確認したこともなく、自分が書いたブログ記事を読み返すこともほとんんどなかった。

が、昨年、私はブロガーかさこさんかさこ塾(4期生・10月21日~週1回×4回)に通うご縁に恵まれ、多少は更新頻度が高まり、自分のブログへの思い入れも少し深まったような気がする。

かさこさんの「2014年に最も読まれた記事」を読み、私の記事はどうだったんだろう?!と思い、2014年の記事を改めてふりかえってみた。

やはり、かさこ塾入塾後の記事の順位が高いのは、かさこさんの影響が大きい証。
お正月休みが終わろうとする時期ではあるが、以下、紹介したい。

ベスト10は以下の通りでした。


1位 2014年8月19日
今の時代のプロフィール写真、その撮り方とは

2014年で私が最も読んでほしかった記事でもあったので、うれしいし、ありがたいです。かさこ塾に入塾前でしたが、この記事をかさこさんがシェアしてくれたことが大きかった。


2位 2014年11月11日
顧客満足がいくら高くても、期待値はどんどん上がる。もっともっともっと・・・・

顧客満足の高さには定評があるホテルに行ってみたら、予想に反して意外にも・・・・ということを書いたのですが、そのホテルに知られたり、どこかに文句言われたりしないかなとドキドキしました。が、何もなかった。


3位 2014年9月9日
プロフィールに年齢を出すかどうか・・・

私自身が年なんか気にしない、自然体で、と言いながらも、プロフィールに年齢を出していなかったのですが、年齢を出すかどうか気にしている人は意外に多いんですね。直接メッセージもいくつかいただきました。


4位 2014年11月3日
いい会社とは、会社を辞めた人を温かく見守れる度量があるかどうか

AllAbout newsdig に転載されたときにタイトルが、「サイバーエージェント藤田社長の“公開処刑”に思う「なぜ人は会社を辞めるのか?」 と変わっていてびっくり! あまりに強烈なタイトルにビビって慌ててタイトル変更をお願いしたのですが、このタイトルのままだったらもっと読まれたのかも?!


5位 2014年12月1日
無意識に我慢している・・・・朝の電車から。

電車に乗っているといろんな人がいるし、日常だからこそ思うことがたくさん。電車ネタは、書きたくなることが満載です。


6位 2014年12月12日
この人と私の距離は近過ぎる?遠すぎる? 程よい距離感とは?

人との関係性や関わり方は、私にとっては大きなテーマの一つです。その気持ちのよい関係性、かかわり方ってどういうものか。ずっと気になっていたことでした。


7位 2014年10月31日
体験談、ナマの話には説得力がある

マーケティング的には基本中の基本の話。ちょうどかさこ塾が始まり、そこで出会った同期生のの話をきっかけに書きました。


8位 2014年12月26日
好きなことをして生きていく・・・それは必ずしも絶対正解とは限らないと思う。

総論は賛成なんだけど、でも各論になるとすべて是ってわけじゃない、いろんな思いがある、念のため言っておきたい・・・そういうことってよくあるんですが、最近よく言われ始めた「好きなことをして生きていく」ことにも、やや違和感がありました。


9位 2014年8月5日
起業家にとっての大問題、生活費の不

お金より大事なことがある・・・そりゃそうだけど、お金がないと不安。私自身も本当はそういうことを考えること自体がイヤなんですが、やはりここは無視できない現実です。


10位 2014年8月22日
実家にある昔の写真、片付けられない? 片付けたくない?!

2014年、私が2番目でに読んでもらいたかった記事でした。10位以内に滑りこみセーフ!で、うれしいです。


以上10位までの発表でした。
今年はどこまで更新できるか・・・・今年もどうぞよろしくお願いします。



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2015年1月4日

SNSへの気持ち、つきあい方がどんどん変わる

SNS、中でもFacebookとのつき合い方で、この半年くらい悩んでいることがある。
お友達ルールについてだ。

私はFacebookについては当初かなり懐疑的だった。
Facebookで事前に個人情報を調べることに対しても、私は否定的だった。
友達というのはリアルなしにはあり得ないと考えていたので、Facebook上の友だちの数など意味なしと考えていた。

当時、私にとってFacebookは不気味で気持ちが悪く、2011年には何度もそういうことを書いていた。
だったらFacebookなどやらなければいいのだが、それでも当時、私はFacebookのアカウントを持ちたかった。
初対面の名刺交換で、Facebookのアカウントの有無を尋ねられることがあるので、アカウントがあった方が何かと好都合だったからだ。

でもmixiで、気づくと深夜まで延々とやり続けてしまった苦い経験があったので、当初はSNSにあまり前向きにはなれなかった。

mixiと違って実名登録が基本のFacebookの場合、投稿を見ることは疑似面会のようなもの。
名刺交換をしてもその後会うことがなくなると記憶が薄れてしまうのが常なのだが、Facebookをやっていると、時々名前を見る可能性が高くなる。
どんな行動をしているのかがわかる。そのため、記憶が薄まりにくい。
内容によっては好感度が増す。
プロフィール写真がきちんと入っていればなおさらだ。

私はアカウントだけ持ちたかったのが、だんだん見るようになり、気づくと自らも発信するようになっていった。
そのおかげで、思わぬ共通の知り合いを発見し、距離感が縮まったり、理解度が深まったりすることもしばしばになった。
当初は、Facebookで共通の知り合いが出てくるのが不気味だと書いていたのだから、変われば変わるものだ。

それでも、プライベートな友達に自分がどんな仕事をし、どんなことを考えているのかを知られることには少々躊躇するところがあり、趣味関係の友人や、大昔の友人には長いことFacebookをオープンにしてこなかったのだが、昨年あたりから少しづつオープンにし始めた。

仕事の顔、家庭の顔、趣味の世界の顔・・・、これらのいろんな顔を、今まで私は使い分けているつもりだったのだ。
そうやって八方美人を志向していたのかもしれない。
でもFacebookで投稿すれば使い分けが難しくなる。
そもそも何のために使い分けるのか。
その意味や必要性が自分でもわからなくなり、今、私はオープンにしつつある。

それでもお会いしたことがない人からの友達申請については、オープンになれずにいる。
たとえ共通の友人が複数いたとしても、知らない人からの友達申請が来ると身構えてしまうのだ。

そのため当初から「一度もお会いしたことがない人とはFacebookでは友達にならない」というマイルールを設けてきた。
友達申請に当たってご丁寧にメッセージをいただいた方からの場合には、いつも丁重にお断りの返信をしてきた。
しかし、お会いしたことがないためにお友達になれずに残念!と思った方が今までに数多くいた。
が、ルールを設けた以上は、曖昧にしてはならないと思い、私はずっとそうしてきた。

それはそれで、ちゃんとしている、信用できる、というそれなりの評価をいただいてはきたものの、そもそも私は何のためにそんなルールを設けているんだろう?
こうしてブログを書き、Webサイトを複数持ち、メディアの取材を受けることもあるのに、何のためにFacebookの友達申請をお断りする必要があるのか。

何となく怖いから・・・ただそういう漠然とした思いだけでそんなマイルールを設けてきたけれど、それは私自身が自分で考えることを放棄していただけなのかもしれない。

私は、自分が思うこと、目指すことと近いことを考えている人の情報を得るために、
そして自分が思うこと、目指すことを発信するためにFacebookを使ってきた。
今、私は「なんとなく怖いこと」への対処や、どうブロックしたらいいかは、多少智恵がついたようについたように思う。

2015年はこのマイルールを解禁しようかと思う。
杓子定規なルールではなく、その都度自分の考えを大事にして意味のあることをしようと思う。

SNS、それもFacebookへの私の思いが、この数年でこんなにも変わっている。

周りでは、Facebookはもう疲れてやめようと思う、という人もいる。
これからますます変わっていくだろう。
使い方が変わるだろう。
人によっても変わるだろう。
要は人それぞれ。
何のために使うのか。何を求めて使うのか。
自分に合った使い方をすればいい。


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2015年1月3日

一人ではできないときは、人に連れていってもらう

女優の田中裕子さんは、「写真撮影でポーズを決めるのが苦手だ。」そうだ。
今日の朝日新聞(別刷りbeテレビ番組表)のインタビュー記事に書かれていた。
女優さんらしからぬ言葉だが、一般人ともなればますますだ。

その田中裕子さんの自然体な演技、印象的な演技のもとになるのが、「連れていってもらう」ということに、私は興味を引かれた。

ドラマで演じるとき、自分一人では行けないところに共演者に連れていってもらう、というのだ。

「芝居をしている時、私の目に映るのは自分じゃなく、相手の役者さんですから。」
「私にとって、共演者がだれか、はとても重要なことなんです」



自分の足で立つ、
自立する、
自分の軸を持つ、
・・・そういうことの重要性や大事さを私はしばしば言ってきたけど、同じくらい大事なのが他との関係性。
相手によって気づかされれることの重要性を、私は最近しばしば感じている。
時には身をゆだねるくらいの緩さや柔軟性が大事だな、と。

すなわち、連れていってもらうこと。



自立しなくちゃ、自分でがんばらなくちゃ。
私自身がずっとそう思ってがんばってきたけれど、一人で頑張ることに限界を感じて来たのも事実。
私にとって孤独は困りものだ。

自立するというのは、私が私が・・・ではなく、たぶん相手を認めること、相手を受け入れること。
さらに、相手を応援することでもあるように思う。
わかっているはずなのに、時々私はそれをできなくなることがある。
そんなとき、自立してないなあと思うのだ。

私が私が・・・ではなく、連れていってもらう。そうありたいと思う。
そして、あなたを連れていきましょう、という存在でもありたいと思う。



さて、女優も田中裕子さんでさえ苦手なように、写真撮影が苦手な人は少なくない。
そんな方のために、いい顔撮影会を行います。

特徴は、撮影の数日前に私がお会いして、今までに嬉しかったこと、しんどかったこと、頑張ってきたこと、つまり今までの人生をお聞きすること。
撮影日には、さらに詳しくお聞きし、その方らしい「いい顔」の瞬間にお連れしましょう。
夢中でお話をお聞かせくださるときの人の顔って、とても自然体でいい顔です。

撮影するのは、数多くの百歳の顔を撮り続けてきた、小野さん。
写真集や写真展、雑誌などでも活躍するプロのカメランです。

1月31日(土)、百歳王写真館(東京・巣鴨)にて。
お問い合わせ、お申し込みは、こちら