2014年2月3日

尊厳死の法制化、その2

前回に続いて、尊厳死の法制化について考える。


医療関係者に話を聞くと、本人が元気な時に延命治療を拒否する意志を示していたとしても、いざ家族が判断せざるを得ない場面になった時、家族は延命治療を拒否できない場合が少なくないと言う。
「やっぱり、なんとかしてください」と。
「生きていてくれるだけでいい。」
「最後まで望みを捨てたくない。」と。
事前に延命治療は望んでいないと言っていた家族であったとしても、そういう風に言い出すことは珍しくないそうだ。

わかるような気がする。
本人の意志は大事〜 というのは間違いない。私も本人だったらそうあってほしい。そうありたい、その通りだと頭では理解する。
しかし、家族の思いはどうなるのだろうか。
しかもその時本人に意識がないという状態の時に。
そのとき、改めて今一度確認することはできない。

本人の意志は事前に確認済みとは言っても、人の意志は時とともに変わるものだ。特に生命への執着心というものは、倫理観、人生観を明確に語れる人は別として、一般の普通の人の意志は一定ではないと思うのだが、どうだろうか。

私の父は40代の頃、寝たきり状態になった自分の母(私の祖母)を見て、自分が年をとったときにそうなりたくないと何度も言い、冗談交じりに、もしもそうなったら、うまく人生を終わらせてほしいと私に頼んでいた。
しかし、80歳を超えた今、娘の私から見て、その時とは少し違う印象を受ける。
時を経て、きっと気持ちが変わっているのだと思う。
その理由はまだ聞いたことはないが、父自身も明確に語れることではないように思う。
万一、今、父の身体が何かの事情で急変し、私が延命治療をどうするか判断する家族の立場になったとしたら…?
40代の頃の父の意志を、今、そのまま本人の意志と、私は言えない。

家族が命に関わる病気になり、複数ある治療法を選択すべき場面に立ち合ったこともある。
そのとき医師は患者に、「どの治療法を選択するかは、あなたの人生観、倫理観に照らし合わせ、ご家族ともよく相談して、よく考えて決めてください。」と言い、本人は迷いに迷ってなかなか決められなかった。
人生観、倫理観など言われても、そういうことを考えたこともなく人生を走ってきた者にとっては、なんとも難しい問題だ。病気自体で大きな負荷がかかっているのに、人によっては、病気になったこと以上の負荷がかかるのだ。そこに寄り添い、共に考える家族の思いも、それと同じくらい難しい。

結局のところ、命は誰のものなのか?自分だけのものなのか?という問題に行きつくように思うと前回書いたが、そうなると、
・どれだけ命について話してきたか(話を聞いてきたか) 、
・考え方を伝えてきたか(考え方について理解を得られているか)、
・それが 時系列を含めて、度々繰り返されているか、
等が大きく意味を持つようになってくるのだ。

尊厳死と安楽死は違うと言うが、それでも線引きは難しい。
昨年4月公開された 草刈民代主演映画「終の信託」(周防監督)は、主治医が患者本人から 託されたことを「医療か?殺人か?」と問うた映画で、考えさせられることが多かった。
医師にすべての責任を負わせてしまうことは、もちろんあってはならないし、そのための法整備が必要なことはよくわかる。
しかし、それが患者本人や家族の不利益になることは絶対にないだろうか。
また、医師を守ることになる法整備であるにもかかわらず、医療関係者が本人の意思と家族の要望との板挟みで 苦しむことはないだろうか。
法案整備に反対派の中には、医療を必要とする社会的弱者を軽視することになりかねないという主張もある。
何かしらの法整備は必要ではあるが、もう少しいろんな立場からの見解を含め、議論が必要なのではないかと個人的には感じている。