2016年6月8日

子どもも、高齢者も、行きたい所に行かれないのはいろんな格差につながって い くと思う。


宮城県の部活では試合に行くのも大変。

東日本大震災依頼、鉄道が通らなくなったことで、公共交通機関では試合会場まで行けず、部活の顧問の先生の車で行かざるを得ない、という現実があるそうです。

入学時に保護者から
「お子さんを先生の車に乗せることがありますけどいいですか」
という同意書を取っている学校もあるとか。
教員の車による生徒の送迎なしには、学校運営そのものが成り立たない実態がそこにあります。

行きたくても「足」が確保できなければ行けない。
以前、同意を取ることに注目してこの件を書いたけれど
http://kimikoishizaki.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html

この件でもう一つ注目したいのは足の確保の問題。

部活の中学生・高校生の中には、試合や大会に参加するためにどうやって足を確保しようかと悩まざるを得ない鳩たちがいるということ。
足が確保できなければ諦めざるを得ないのです。
たぶんそれは震災に関係した地域だけではなく、過疎の進む地域共通の悩みでしょう。

マイカーが増えて電車やバスの利用客が減る。
電車もバスも、民間が運営する以上は、
乗る人がいなくなれば存続できないのは当たり前。
だから廃線、廃止になってしまうのだけど、
でも暮らしている人にとっては、それは行きたい所に移動する自由を奪われていることでもあります。

誰もがマイカーを運転できるわけではない。
上記の例のように、部活の中学生・高校生といった運転免許がとれない子どもたちだけではありません。
大人でも諸事情で運転免許を持てない人もいるでしょう。
免許証を自ら返納した高齢者だってそうです。

そのせいで、病院に行けない。
買い物にも行けない。
友達のところに行けない。
役場に行けない。
やりたいことを諦めることが多くなる。
結果、孤立したり家にこもりがちになったりすることも。

いろいろな機会を奪ってしまうのです。
だから家族の送り迎えが必要?
だから学校の先生が車を出す?
それって、やっぱりおかしいと思います。
そうやって周りに負担をかけなければ、自分が行動できない環境というのは、基本的人権を奪われてる。
周りに無理を強いたり、遠慮してガマンしたりすることは、格差を生んでしまいます。
そして、その差はどんどん広がっていってしまいます。

地域や社会のしがらみいっぱいの中、何でもルールがあって周りについていけばよかったかつての時代と違い、今は、たくさんある選択肢から何を選ぶか、「自分」はどういう生き方・暮らし方を望むかを自分で考え、選択できる時代。
それは、個々の自立を促す時代でもあります。
だからこそ、せめて移動のためのインフラは確保しておかないと。
奪ってはならないと思うのです。

高齢者に至っては、インフラが確保できなければ自立を奪い、心身が弱っていくのを加速させていくのではないかと思います。