2015年8月31日

娘から見た親(高齢)の病院通い。その理想と現実


病院に行きたがらない高齢者、病院に行きすぎる高齢者・・・
高齢の親を持つ子どもとしては、どちらも悩ましいものです。
理想とされるお医者さんとのおつきあい、病院の通い方はあるでしょうが、
現実はなかなかそうはいきません。

病院は高齢者だけのものじゃない、と言うけれど

病院は高齢者のたまり場だと言われるようになって、30年くらいになろうか。
元気な高齢者は、おしゃべりをしに病院に行き、
病気になった高齢者は体がつらくて病院に行けない。
・・・かつてはそんな笑い話もあった。

そのせいで重篤な病気の患者さんが見られなくなるといけないからと、
今はできるだけ大病院ではなく近所のかかりつけ医に行きましょう、と言うのが常識。
国の方針でもある。
でも現実としては、やっぱりそんなのは理想だと思う。

理屈はわかる。
そりゃあ、そうでしょう。そうしたいですよ。
だけど、そのつもりでいても、若い人なら比較的簡単にそうできるかもしれないが、
高齢者の場合は、結果的になかなかそうはならないのが現実。

かかりつけ医のお医者さんに行きましょう、と言うけれど

かかりつけのお医者さんと言えば、
風邪をひいたら行くような、気軽に診てもらえるような、そういうイメージだ。
私にも、家の近所にそういうお医者さんがいる。

高齢の父の場合も、
元気で滅多にお医者さんにかかることがなかったときにはそういうお医者さんがいた。
でも元気だからほとんどお世話にならなかった。

しかし加齢とともに次々具合が悪くなってきた。
あちこちが悪くなり、その度に大きな検査が必要になり、大病院に行く。
さらに精密検査が必要だったり、違う科に診てもらうことになったり、
なかには先生と相性のよくなくて二度と行きたくないと言いだして
全く別の大病院に行ってもう一度最初から検査したり・・・。

気づくと、複数の大病院の複数の診療科に通うようになっていた。
足腰が元気ならいいけれど、だんだん足元がおぼつかなくなり、
付き添いなしには病院までは行けない。
若かった頃だったら、いずれ治るし、治ればもう行かなくなる。
だけど年をとるとなかなかよくならない。
多少はよくなってもまたすぐ悪くなるし、
悪くなれば、記録が残っている大病院に行く方が無駄がない。

父の場合、
 前立腺肥大で泌尿器科、帯状疱疹で皮膚科、
 腰が痛い脊柱管狭窄症で整形外科、
 高齢者特有の極度の便秘で胃腸科、
どれも症状が強く出たり落ち着いたりの繰り返しなので専門医に
診てもらうことになり、大病院に行く。
これだけの種類の持病を抱えるのだから、毎週どこかの病院の予約が入る。
風邪を引いたりといった日常的な症状が、それに加わるのだ。

病気の種類は別にしても、高齢者というのは、概ねそんなものじゃないか。


かかりつけ医に行けなくなる

そうなると、地域のかかりつけ医に行く機会がなくなってしまう。
それではマズイかなと思って、無理やりかかりつけ医に行ってもみるのだが、
これだけの診療科で診療を受け、その経緯を説明するだけでも大変なことだ。
ましてや高齢者の説明はゆっくりなのに話があちこち飛ぶ。
ちっとも来なかった患者が、来なかった間の要領を得ない話を延々と繰り返し、
どこがどのように悪いのか不明のまま薬の処方を書いてほしい、
と言い出すわけで、お医者さんから見れば、さぞかしイライラすることだろう。

こちらの言い方にも問題があるのかもしれない。
なんとなく関係性が悪くなり、いつの間にかかかりつけ医との関係は疎遠になってしまった。
もう今や、かかりつけ医に行ける雰囲気はない。

困るのは家族である。
なんせ、本人は一人で病院には行けないのだから。
しかもその病院は、かかりつけ医に比べて遠いのである。

病院に行くために

今のところ、家族が付き添って病院に行っている。
家族と言っても、我が家の場合は子どもたちはみな離れて暮らしているので、
老いた母が中心になって付き添うのだ。
そのため、母のプライベートな時間はほとんどなくなってしまう。

母の精神的負担を軽くするために、子どもである私たちも同行したり、
交代することもあるが、頻繁になるとなかなか難しい。
介護保険では病院付き添い(~院内介助)は適用されないので、
介護サービスプランに組み込んでもらうこともできない。

国の方針通り、かかりつけ医との関係を大事にして、
すべてをかかりつけ医に診てもらえていれば、
家族の負担はきっともう少し軽かったのだろう。
しかし、もはや戻ることはできない。
それに、そもそもそんなことは現実的にありえなかった。

今、老親だけの二人暮らしは心配も多いけれど、
本人たちが自分らしく暮らすためには第1優先なことだった。
たとえ負担が大きくても、両親のその気持ちは今もこれからも変わらなそうだ。
これも現実。

状況を見ながら、今後は
介護タクシー等、介護保険外のサービスの利用や、
訪問医療の活用等々、次の対策を少しづつ検討することになるのだろう。
子どもとして何ができるのか、それもお互いにできるだけ無理の少ない形で。

私たち世代にとって、老親の問題は大問題だ。
だけど、犠牲を払う気持ちが強くなると、どこかで歪みが生じてしまう。
その対策・解決方法は、
親によって、子どもによって、
家庭によって、人によって、たぶんみんな違う。

世間の理想通りにはいかなくても、
自分たちにとっての理想にどうやって近づけるのか、
・・・それを今、私たち家族も問われている。





 9月9日(水)のテーマは、
   もしも今・・・?!
    命にかかわる医療について、もう少し考えてみる




       

2015年8月27日

カラダも頭も気持ちも、野菜栽培のような「連作障害」、起きてませんか?

野菜栽培で、連作障害ということがあります。
毎年同じ場所に同じ野菜を繰り返し作ることで、
次第に生育不良になっていくことを言います。
それは野菜だけじゃない・・・
人のカラダも、頭も、気持ちも、似たようなことがあると思いませんか。

自分の肌で感じる連作障害?

私は化粧品にはあまりこだわりを持つ方ではないけれど、
それなりの年齢になってきたせいか、
基礎化粧品は特にいい加減なものは使いたくない、と思うようになってきた。
何をつけても荒れることなく元気だった肌が、敏感肌になってきたからだ。
それで、素性がわかるもの、自然なものを愛用する傾向になった。

10年近く前にあるきっかけで、いいものだからと使い始めた美容オイルがある。
使い始めた当初に劇的に肌の状態がよくなり、
すっかり虜(とりこ)になって、即、私の愛用品になった。
それから5年くらい使い続けたが、当初の劇的な喜び(?)を感じたことも忘れ、
愛用しながらも普通の日常になっていった。

ところが、あるきっかけで別の基礎化粧品を使う場面が訪れ、
新しいものを使ってみたら、あら不思議。
・・・そこでまた劇的に肌の状態が変わったのを実感したのである。

それは、10年前によくなって、さらに5年前によくなって、と言うんじゃない。
10年前によくなったけど、それがだんだん元に戻っていって、そしてまた新しい刺激でよくなったのだと思う。
同じものを使い続けていくうちに、その効果がなくなって行くのではないか。
まあ連作障害ほどひどいもんじゃないけど。

愛用品が連作障害を起こしていたのかどうかはわからないけれど、
感動的なモノも、毎日になれば日常になり、
私の肌にとっては「特別なもの」ではなくなっていったのだろう。

いろんなところで、実は慣れによる弊害がある

似たようなことは日々の日常にもたくさんあるのではないか。

たとえば運動。
面倒くさくてカラダを動かさないと、それが日常になり、どんどんカラダが動かなくなっていく。
ちょっとした運動を始めたとき、カラダはしんどいけどスッキリする。
でもそれが日常になると、しんどくないけどスッキリもしない。
だんだんとカラダに負荷がかからなくなってるから、
鍛えられる効果はどんどんと落ちていってしまうのだ。

たとえば頭。
今までの得意分野、慣れているフィールドは、わかりやすいし楽ちんだ。
そこでだけ頭を使っていると、自分が錆びていくのを感じてハッとすることがある。
普段あまり考えないことや知らない分野の情報に触れると、
難しくてわからないことも多いけど、嫌になったりもするけれど、
新しい世界が開けることがある。
ちょっとしんどいんだけど、自分の中で新しいスイッチが入るのを感じる。

怖いのは、無自覚な気持ちの「連作障害」

同じことを繰り返すことは楽ちんだ。
手間も楽だし、気も楽だし、
時間やお金もかからなかったり、効率的でもあるだろう。
だけどそれが柔軟性を奪って行ったり、頑固に向かわせたりするような気がする。
言わば、気持ちの「連作障害」だ。

特に年をとってくると面倒くさがりになるから、それに拍車がかかっていくのだ。
でも意外にそういうことに自分では気づかない。

誰よりも好奇心が強くて、誰よりも冒険心満載の猪突猛進だったはずの私は
いつのまにか慎重で細かい人間になっていた。
慎重だったり細かかったりすることは悪いことじゃないけれど、
知らないうちに新しいものを受け入れにくい体質になっている可能性大だ。
いけない、いけない。
私の中で「連作障害」が起きようとしているのかも?!

新しいことを始めること、知ること、やってみることは、
意識しないと始まらない。
継続は大きな力ではあるし、否定をする気はないけれど、
新しいスタートの面白味に、もっともっとワクワクしていきたい。
モノにも、コトにも、人にだって、気持ちだって。







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2015年8月24日

「終わっちゃった人」とはどういう人か? どういうことか?

「あの人、もう終わっちゃてるよね・・・」
ときどきそんな話題でおしゃべりをすることがありました。

「終わっちゃった」とは、どういうことなのでしょうか。
それは、一般的な表現ではなく、私固有の表現だったのかもしれません。

「終わっちゃった人」とはマイナスか?!

いつぐらいからだろうか。
ガツガツ活躍していた人が、落ち着くようになると、
「あの人、もう終わっちゃった・・・・」
と思うようになった。
それは、テレビの中の芸人さんや著名人だったり、
自分の身近な人、仕事関係の人だったり・・・。

私が「終わっちゃった」というのは、
かつてのアグレッシブな感じが落ち着いてきた感じに変わったときだ。
「脂がのった」状態から「脂がぬけた状態」に変わったとでも言おうか。
旬な時期ではなくなった、とも言える。

それは誰から見てもマイナス、というわけではないだろうが、
私から見るとマイナスな表現だった。
でもそれは、
いつもいつもアグレッシブでなくてはならない、
旬であり続けなければならない、ということの裏返しでもあった。

そんなことは無理に決まっているのに・・・

人はみんな違う、同じ人でもいろんな時がある

「アグレッシブ」と言っても、人によってその形は違う。
「終わっちゃった」と思うのは本人ではなく周りの人であって、
そう思っている周りの人がどこまで本質を捉えているかなんてわからない。

同じ人であったとしても、
 全速力で走るとき、
 軽く走るとき、
 キョロキョロ周りを見ながらゆっくり歩くとき、
 ちょっとお休みするとき、・・・・・
いろんな時がある。
「終わっちゃった」かどうかなんて、実はわからない。

でも、私はそんなことには気づかず、勝手にいろんな人を見ながら
「この人、終わっちゃったな・・・」なんて思っていたのだ。

思うことは自分に返ってくる

そうやって思っていたから、そのままブーメランのように自分に戻ってくる。

いずれ「終わっちゃった人」って思われるんじゃないか?
「終わっちゃった人」って思われたらどうしよう。
今の私、「終わっちゃった」かしら?!

 年齢と共に少しづつ体力が衰える、
 すぐ眠くなって徹夜なんてもうできない、
 覚えられないこと、思い出せないことが増える、
 以前のような食欲がなく、食べる量が減る、

等々、ちょっとした変化がきっかけで、
私は自分が「終わり」が近づいているのではないか、
「終わっちゃった」んじゃないかとビクビクするようになった。

でもそう思うのは、
きっと私自身が人のことを「あの人、もう終わっちゃった。」と思っていたから。
そのまま自分に返ってくるのだ。

自分がそう思っていたから、自分に対してもそう思う、
・・・そんなことに、私はずっと気づかなかった。

「終わっちゃった」ことについて
いろんな人といろんな話をする機会があったおかげで、
その考え方が「旬であり続けなければならない」という私固有の概念、
私独特な観念であることに、最近ようやく気づき始めた。

アグレッシブであること、がんばること、目標に向かって一目散に走ること
・・・どれも素敵なことだけれど、そうでなければいけない、というわけではない。
力が抜けても素敵な人だってたくさんいる。
私は今、ようやくそういう風に考えられるようになった。

終わっちゃうことなんて、きっとない。
だからいくつになっても、何をしていても「終わっちゃった人」なんてきっといない。

そう思うと、人のことも自分のことも、
以前よりもずっと優しく見られるようになるから不思議だ。





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2015年8月21日

醸し出される雰囲気とは何か? コミュニケーションの要素にヒントがあった。

いくら目鼻立ちが整っているからと言って、見た目がいいとは限らない。
目鼻立ちがパッとしなくても、とても魅力的に見える人がいる。
・・・・私はずっとそう思っています。
私が「人の顔」をおもしろがり、注目するところはそこなのですが、

そこには、コミュニケーションと大きな関係があるようです。


コミュニケーションの3要素

コミュニケーションにもいろいろあるが、
直接会う対面のコミュニケーションの場合の要素は三つ。
一つは話の内容 二つ目が話し方、三つ目が態度・表情。

この要素が相手に与える影響度合いは以下の通りだという法則がある。

 話の内容が、7%
 話し方が、38%
 態度・表情が、55%


これを初めて知った時、衝撃を受けた。
なに〜?!
話の内容はたった7%だって?!

態度や表情が全体の半分以上を占め、次に重要なのが話し方。
話の内容など1割にも満たないというのか。。。。
営業として対面で提案をする機会が多かった私にとっては、
初めてこれを知ったとき、自分を否定されたような気がしたものである。

これは「メラビアンのコミュニケーションの3要素」と言われるもので、

 話の内容とは、言語、
 話し方とは、声のトーン (聴覚)
 態度・表情とは、身体言語(ボディーランゲージ) (視覚)

と、そこでは整理される。
参考)アルバート・メラビアン Wikipedia

内容だけで勝負しようとしても、実はなかなかそうなれない

私はどこか、話の内容にこだわっていたところがあった。
コミュニケーション力で大事なのは話の内容。
内容が面白くなければしょうがない、と。

でも考えてみれば、
どんなにスジが通って正しい内容であっても、それを言う人が誰かによって
感動すら覚えたり、すんなり受け入れられたり、受け入れがたかったり
することがある。
それはもう理屈なんかじゃない。

その人のことを好きかどうかということも関係するだろうが
初対面であっても、スーッと入ってくる場合とそうでない場合があるのだから
コミュニケーションというのは、話の内容以上に聴覚とか視覚とか
によって作られるもの、という説があるのも納得できる。

静かな話し方、楽しい話し方、明るい話し方、暗い話し方・・・
エラそうな態度、上から目線、卑屈な態度、斜に構えた態度、いつもニコニコ、暗い表情・・・
それらは、醸し出す雰囲気そのものである。

会話だけじゃなく、講演なんかでもそうだ。

コミュニケーションの要素である「話し方」や「態度・表情」とは、
まさに醸し出す雰囲気の要素でもあるのだ。

雰囲気は蓄積し、にじみ出てくる

メラビアンの法則では、言語、聴覚、視覚と言われることから、

 要は見た目でしょ?!
 やっぱり見た目が大事!

と言う人も多いけれど、私はそこはちょっと違うと思う。
視覚というのは見た目の良し悪しではなくて、雰囲気が映し出される見た目だと思っている。

私がこだわってきたお葬式に飾る遺影をはじめ、人の「顔」「顔つき」も同じで、
要は見た目、視覚ではあるのだけど、
それが、目鼻立ちの美醜以上に感じさせるムード、オーラ、雰囲気というのが
顔つきに表われてきて、その影響が大きいから人の「顔」にこだわってきたのだ。
顔、顔つきは見た目だけじゃない、
それ以上に雰囲気が語るものがある、と。

だから、遺影だって、企業なら社長の顔写真だって、
個人ブランドを重視する人はプロフィール写真だって、
実は綺麗かどうか以上に、その人の雰囲気が伝わるかどうかを大事に
したほうがいい、と訴えて続けてきた。
それは今でも変わらずそう思う。

ではその雰囲気はどうやって作られていくのか?
それは、それまでの生き方が滲み出てくる結果なのだと私は考えている。
だから雰囲気と言うのは、時間と共にその人に蓄積していくのだ、と。
知らず知らずのうちに時間と共にじわじわと変わっていく。
あるコトがきっかけでガラッと変わる。
当の本人は、それにほぼ気がつかない。

 石崎さんって「顔」「顔つき」にこだわっているくせに、
 ご自分は怖そうに見えるよね。
 ふとした瞬間に口角が下がってつまらなそうにしてるように見える。
 話をしているときに眉間にシワを寄せていて、険しい感じがする。

私自身も、親しい人に言われることがある。
そんな風に思っていないのに、そんなつもりもないのに、
自分が思いもしない雰囲気を醸し出していることがあるようだ。
それは私がそれまでに無理をしていたから?
我慢をしていたから?
自分をいじめていたから?

日々の蓄積でじわじわと・・・・
毎日を自分らしく生きていくことが、きっと未来の雰囲気につながっていく。





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2015年8月15日

都会で感じるお盆

お盆とお正月は一斉にお休み、というのは今は昔。
今ではお盆など関係なく、夏休みは交代で取得するのが普通と言われますが、
13日に車で出かけたら、道はガラガラでした。
だって、お盆。
13日はご先祖様をお迎えする日ですものね。

私のお盆、今むかし

子どもの頃、お盆になると同居している祖母と一緒に迎え火を焚いた。
祖母がナスとキュウリを選んで割り箸を差すのを横で見ていた。
こうやって馬を作るのだという祖母の言葉を聞きながら、
こんなの馬になんか見えないよなあなどと思いながら、
意味もわからず火を焚いた。

それから何年か経ち、就職し、実家を出てからは
私にとってお盆と言えば夏休み。
取引先の休みが増え、仕事が暇になり、通勤電車が空き、
都内の道がガラガラになるイメージが濃くなった。

私にとってのお盆などそんなものだった今から20年くらい前。
勤務先の社長が、得意先の中でも新盆にあたる人に提灯を贈ろうと
言い出したことがあった。
それも、直接ご自宅にお届けしよう、と。
え~?! 提灯? 自宅に届ける~?

当時、その得意先の担当営業はそれをいやがった。
「提灯なんかもらっても迷惑だろう」と。
若かった私は、随分前時代的な古臭いことを社長は思いついたもんだな・・・
と思ったのをよく覚えている。
結果として提灯を贈ったのかどうか、どうやって贈ったのかは
忘れてしまったが。

お盆を意識するようになって・・・

若かった頃は、お盆などあまり意識することもなかった。
それが、数年前に義理の父が亡くなったことに加え、
それからほどなくして終活や供養の周辺の人とのつながりや仕事の機会が増え、
少しづつ私の意識が変わっていった。
単なる夏休みではなく、少し気にするようになったのだ。
それでも東京での暮らしの中でお盆を感じることはあまりなかった。

昨年のお盆のとき、スポーツクラブで気になる会話が耳に入った。
20代の女性トレーナーが顧客の中高年女性に、
「明日はご先祖様をお迎えに、提灯持ってお墓に行かないと・・・」
と話していたのだ。

我が家では迎え火を焚いてご先祖様をお迎えする、とは聞かされていたけど
実際に迎えに行くことはなかった。
うちのお墓は北陸なので迎えに行くには遠すぎたということはあるかもしれないが、
そんなことは聞いたこともなかった。

気になってあとでその女性トレーナーに聞いてみると、
離れた地方の実家の話ではなく自宅の話で、場所は東京と埼玉の県境だった。
お墓も地元、古くからその地域に住んでいる家だそうで、
家族や親せきみんなで提灯を持ってお墓にお迎えに行くのだと言う。

今でもやってるお盆の風習

一昨日、車で出かけた際にその話を思い出し、その地域の方に回ってみた。
そうしたら・・・

灯を入れた提灯を持ってお墓から帰る人たち

子どもからお年寄りまでの大家族の人、夫婦二人だけの人、
次から次へと提灯を持ってお墓にやってくる。
お墓参りに来た人同士で声をかけ、挨拶をし合い・・・、
そして、灯を入れた提灯を持って家族揃って帰るのである。
あたりはお線香の匂いでいっぱいだ。

聞いた話は本当だった。

最近になって、東京周辺でも昔からそこに住んでいる人たちが多い地域では
お盆でそのようなことをしている場所がいくつかある、
ということを知った。

今、改めてお盆を眺める

このような風習は地域独自の文化らしく、地域によって違うようだ。

東京に暮らす人たちは、地方から来た人たちの寄せ集まりで、
かつてはきっと長男が本家を守るから地域に残り、
分家になる人たちが都会にやってくるケースが多かったのだろう。
祖父母から親へ、親ら子どもへと代々伝えられるのは、
東京の風習ではなく故郷の風習であったりする。

だけど今、私の家の近所のスーパーでは、
お盆の時期になるとお盆飾りのナスとキュウリの詰め合わせがパックになって店頭に並ぶ。

青森の新興住宅街に住んでいた友人に聞けば、
お盆になると、家の前の道に出てナスとキュウリで馬を作り、迎え火を焚いていたと言う。
それも、彼女の家だけでなく、道にはそういうことをする家が点在していたそうだ。

私にナスとキュウリの馬を教えた祖母の家は北陸で、お墓も北陸だが、
東京に住む長男の父が両親(私にとっては祖父母)を東京に呼び寄せたのだ。
その習慣は北陸でやっていたものだったのだろうか。
それとも、遠く離れたから本来の習慣とは違ってやっていたのだろうか。
祖母が亡くなった今となっては、わからない。

SNSでタイムラインを眺めると、いろんなお盆の迎え方があることを知る。
家族親戚が集まってご先祖様をお迎えし、みんなでご馳走を食べる人たち、
仏壇周りにお盆飾りをする家・・・、
今も変わらず続けていることを知り、
約20年前に、もうそんな時代じゃないよ、時代はすっかり変わったんだから、
などと思っていた若かりし頃を思い浮かべ、そんな自分に苦笑いする。

確かに時代は変わったけれど、変わらないことや変わらない人たちがいる。
そこに私は憧れや羨ましさを抱き、そういう風習に込められた意味に
大きな興味を感じる。
それでも、私の周りにはお盆なんか関係なく仕事をする人もたくさんいる。

世の中はお盆真っ最中。
今の時代、東京の人はどんな風にお盆を過ごすのだろうか。




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 6月10日 生きざまと顔の関係 自分の顔について考える。