2011年5月26日

東北に行ってきました

前回のブログでも予告したように、5月17日~20日までの4日間、東北三陸地方の水産関係の自治体や各社に行ってきたので、少し報告したい。
行く前に大変だったのは宿の確保だった。
営業している宿自体が減っていることに加え、営業している宿はどこも復興関連の人たちで6月末まではどこもほぼ満室だったからだ。宿がとれなければ中止せざるを得ないし、地元に却って迷惑になるようならやはり遠慮した方がいいので、ぎりぎりまで行くことが決まらなかった。一方で、地元の復旧復興は日々動いており、2ヶ月たったこともあって、さまざまな業種が次々と営業再開している段階でもあった。私の計画は、4月末に再開した東北新幹線で仙台まで行き、そこからはレンタカーで海沿いを八戸まで移動するルートだ。一人だったので、運転するのも一人だし、海沿いの一般道の道路事情や距離感に若干不安はあったが、宿泊先については、地元の観光協会が、逐次営業再開情報をリアルタイムで把握していたことにも助けれ、うまく宿が確保できた段階で、急遽出発を決めたのだ。可能なら約20件ほどを回ろうと考えていた。
朝7時半に出発する新幹線が、ビジネスマンでほぼ満席だったのには驚いた。仙台から車で走り出すと、自衛隊の装甲車がやたらに目についた。日本にはこんなにたくさん装甲車があったんだ、と驚いてしまう。
2カ月たったせいか、一見、大変な被害を受けたように見えなくても、休業中のロードサイドの店舗をよく見ると、窓の上の方まで泥の跡が残っているのに気づく。それで、ここまで片付いたんだ、ということがわかるのだ。また、被害の様子は移動とともにだんだんと大きくなって行く~というわけではなく、ここまでは普通の風景がある地点からいきなり大変な状況に変わる、ということがしばしばあり、驚かされた。
私は、石巻の水産関係の方々とは接点が多かったので訪ねてみたところ、そこにはわずかに残った建物の外枠や看板以外は何も残っていなかった。それがそこだけ、とかある方向だけ、というのではなく、360度方向、見渡す限り何もなく人の姿もない。たくさんの鳥が空を飛んでいた。遠くに海が見えて周りには建物の跡が残っていて道路もあるのに人は誰もいない、という風景は、何とも言えないものがある。周辺を少し車で動いていたら、片づけをする自衛隊の人が見えてきた。これだけの片づけをするのにどれだけの時間がかかるのだろう?!と思ってしまう。
そういう場所にかつて本社や工場があった水産会社の方が、電話で話した時に「商品(水産加工品)は、3年かかっても5年かかっても必ず再開するから見ていてほしい」と、4月の段階で私におっしゃったのだ。私は、その工場があった場所に立ってみて、改めてその方の意志の強さに感銘し、これからずっと見続けていきたいと思った。仙台を出発してから、3時間後のことだ。
石巻から気仙沼に移動して市役所の方と面会。家を流され、何もなくなくなったというのに、「自分など全然いい方だ。家族は無事だし、自分は恵まれているから頑張らないと。」と言うのには、返す言葉がなかった。その気仙沼で1泊。コンビニや外食産業が少しづつ営業を再開しており、夕食に出かけると店は賑わっていた。来ているのは全国から応援で来ていると思われる自治体や復興関係者のようだった。
翌18日朝、さらに国道45線を北上する。とてもいいい天気で、空は真っ青。道は少し山の方に迂回したりトンネルがあったりして、とてもきれいな深緑と青い空のコントラストに感動しながらアップダウンを繰り返すのだが、そうするとしばしば「ここより先、津波浸水警戒区域」という標識が出てくる。その標識を超えると、風景は突然、3月下旬に新聞に出ていたような悲惨な風景に一変するのだ。この風景の物凄いギャップ。運転していくと、これを何度も繰り返すのだ。
駅よりも海側に市街地があった釜石は、街中が壊滅的な被害を受けていた。飲み屋さん、携帯ショップ、衣料品店などが破壊されている様子は、あまり報道には出てこないし、他の被災地とはまた違った印象だ。いくつかに分かれている市の庁舎のある部屋では、泥をかぶった資料を一つづつ片づけている職員さんの様子が見え、お訪ねする予定だったのだがそのまま失礼してきた。それでも、釜石の水産会社の方には元気な方が多かった。既に営業再開しているところ、年内再開目指して準備中のところなど各社事情はさまざまだが、全国のお客様から心配やお見舞いの連絡が入っていて、それを励みに、早速「私たちは元気です」とDMを出しているところもあった。
「決算で不良在庫の心配をする必要がなくなった。いいこともある。」と私を笑わそうとしてくれる人もいらした。震災直後の3日間、ほとんど食べるものがなかったそうで、食べもののありがたさを再認識し、今では外食して注文したライスをほんの少し残す時でも、必ずラップに包んでもらって持ち帰るようになったと言う。
さらに北上して宮古へ。出発から30時間ほどたって、初日以上の規模の瓦礫の山を見ても、「がんばろう」のノボリを見ても、破壊した建物に張り紙やOKマーク(撤去してもいいという意味)を見ても、目が慣れてきたせいか、私は驚かなくなっていた。私の感覚はどうやら麻痺してきていたようだ(東京に戻ってから麻痺していたことに気づいたのだが)。宮古市内はライフラインはかなり復旧しているものの、どこも信号は不通で、少々危なかったが、地元の人は慣れている様子だった。18日は宮古宿泊し、さらに北上。
久慈市に行った時は、「漁師は、なんとか船を守らないと!と言う思いで津波の時は沖に出て、命を賭けて船を守った。さぁ、これから復興だ!と、魚を獲ってきたら、放射能の風評被害で買ってもらえないものがある。ここまで頑張ってきたのに、あんまりだ。」という話を聞いた。久慈ではコウナゴが獲れるのだ。久慈市内の魚屋さんでも店頭のコウナゴが激減したという。
現在、三陸は漁港近くの市場が壊滅的被害を受けているし、冷凍庫や冷蔵庫は海沿いにあったからそれもなくなったこともあって、水揚げしても水産物を保管できない。水揚げ量自体はまだ少ないけれど、それでも水揚げした魚は水氷の状態で少しでも早く流通させなくてはならない。それも地元で。まるで昔のやりかたそのものだ。改めて昔のよさを再認識することもある、という地域の方の言葉が心に残った。
今回、状況や時間によって、通過するだけのところも含めて、訪ねてのは、
仙台、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石、山田、宮古、田老、普代、久慈、洋野、種市、階上、八戸、そして盛岡。
文章で書くにはなかなか表現しつくせないことがたくさんあるが、今回の訪問で何回「がんばろう」という言葉を聞いたかわからない。どこに行ってもあちことに「がんばろう」と書いてあるし、話をすれば誰もがそう言う。私はそれを何度も目にするうちに苦しくなってくるのだが、地元の人は違っていた。もっと「がんばろう」と言うのだから。遠くに離れている者は、東北の人以上にがんばって、継続的支援をできるようにならなくては、と逆に言われているような気持ちになった。今後、私は東北の復興をずっと見続けていきたいと思う。