昨年11月から今年の1月頃まで、私は東北地方の水産関係の取材を行っていた。連絡をとっていたのは、県や市町村、市場関係者、水産加工業者等の方々で、3月11日の地震で大きな被害を受けた方々でもある。
3月11日以来のニュースでは、今でもしばしば津波の映像が出てくる。あれから1カ月近くたち、何度も見ている映像だ。何回みても涙が出るし、凄すぎる映像に言葉が出ない。
日常に振り替えると、節電で街の夜は暗くなり、経済活動が鈍くなっているのは一目瞭然だ。この1ヶ月間の私自身の仕事のペースも明らかに落ちている。経済活性化のためにも日常に戻って仕事が重要、と思いつつも、なかなかそういう気持ちにはなれず、結局タラタラとしているようなものだ。
ほんの数ヶ月前にお世話になった方々がどうされているか、気になってネットを見ていたら、こんなものをみつけた。
被災地の市町村が発行する広報4月1日号だ。地震の直後のドキュメントレポートから3月27日現在の被害状況、復興に向けての決意とその動き、被災者への支援制度などをまとめた広報だ。写真を多用し、24ページとしっかりしたボリュームだ。久慈市職員の今の状況を考えれば、どれだけ忙しいかがわかる。その中でたった3週間の間にこのような広報を作り上げて発行し、ともに頑張ろうと地域住民に呼びかけるという力強さに心を打たれた。
かつて地域活性の仕事で、大堤防で有名だった被災地、田老町のイベントに携わったことがある。大阪のイベントで「田老さんさ」を披露するために、田老町の方々20人ほどが来阪したのだが、初対面でも臆せず全員がとにかく明るく元気。当時私はいろいろな市町村の方々と仕事をしていたのだが、その明るさが際立って見えた。慰労会で隣り合わせた女性に聞いてみたところ、「田老は海の町。漁に出れば帰ってくるまで生きているかわからないし、町は何度も津波に襲われているからそのたびにまっさらになっている。山と違って、海で生きるにはいつも前を向いて行かざるを得ないから明るくなるのでしょう。」と言われ、圧倒されたことがある。15年近く前のことである。
今回の震災後も、被災地域にはもう前を前を向いて歩き始めている方々がいる。牡蠣の養殖業者や自動車の部品工場の人がテレビの中で再建を語るときの目は光り、まっすぐ前を見ている。
かつての田老町の女性の記憶と重なり、改めて東北の人たちはなんて強いのだろうと私は頭が下がるのだ。