「がんばる」ことを重視していくと、「あきらめる」ということは、どこか後ろめたく敗北感に近いものがある。
けれども、仏教講師の菊谷隆太さんによれば、そのうつむく感覚が少し異なり、上に向ける気がする。
そもそも「あきらめる」は仏教由来で「諦観」、「アキラカニ真理ヲミル」ことだそうな。
だから元々の「諦める」は、【なぜそんな結果になったのかの原因を明らかに見なさい】ということで、だいぶニュアンスが違うと菊谷さんご自身もfacebookの個人ページで書いておられる。たしかにぐっと上向きな感じになる。
夢をあきらめる、目標達成をあきらめる、などの言葉は敗北感がある。
けれども、そう至るには必ず原因があったわけで、なぜ夢をあきらめるのか、なぜ目標達成をあきらめるのか、その原因を分析してそに対策を考えたち、克服に努めたりすれば、結果も変わるというのだ。
そこで原因を見なかったりごまかしたりしないこと。
仏教講師の菊谷隆太さんの言葉には沁みるものがある。
あきらめる原因に向き合う方が、あきらめないよりも却って苦しいこともあるだろう。
けれど、あきらめることもポジティブであることを認識できるのは嬉しい。
昨年11月に発売になった、女子サッカー澤穂希選手の著書『負けない自分になるための32のリーダーの習慣』と『夢をかなえる。思いを実現させるための64のアプローチ』は、いずれも売行好調だったそうだ。
そのプロモーションでもしばしば使われる「諦めなければ夢はかなう」。
あまりの明言で、諦めないことだけが正しいように語られる風潮に行きすぎはないだろうか?
たしかに彼女は素晴らしいけど、「あきらめない」姿こそポジティブであり、強くて、正しくて、あきらめる人はダメなように言われる今の風潮に、私は少々違和感がある。
All or nothingではなく、いろいろながんばりがあっていいと思うのだ。
菊谷さんの言葉は、そんな行き過ぎた風潮に、少し歯止めをかけてくれそうに私には思え、温かい気持ちになった。
2012年2月8日
2012年1月31日
もらう側と与える側
ツイッターで、20代の女性が
「どう見積もっても与えられることの方が多い人生を送っている。残りの人生で、与える側として頂いた以上のものを返して行けるだろか?」とついぶやいていた。
彼女は、私の取引先の人でもあるので、ツイッター上でのつぶやきとは言え、私自身はリアルな彼女をよく知っている。いつも明るく笑顔を絶やさず、仕事にも前向きで熱心な女性だ。
もらう側と与える側。
ふ~ん、今の20代はこんなふうに思うんだ・・・。
私自身は、このような発想をしたことがなかったので、新鮮だった。
さて私は、自分自身が、今までもらった以上のものを、与える側として返していけるだろうか?
無理だ!
本当に多くのものをもらってきた。今ももらっている。
それだけのもの(こと)を人に与えるのは無理だとしても、できるだけ与える側になって、返していきたいものである。
そう言えば、私が後輩に奢った時に、御礼を言ってくる後輩たちに向かって、
私は「いずれ、あなたが後輩に奢ってあげなさい」とよく言っていた。
「与える側」として自分自身が返すことができなくても、循環が生まれて結果的に与えることになるのなら、それでもいいのかもしれない。
これなら、自分自身で返すよりも多くを与えることができそうだ。
「どう見積もっても与えられることの方が多い人生を送っている。残りの人生で、与える側として頂いた以上のものを返して行けるだろか?」とついぶやいていた。
彼女は、私の取引先の人でもあるので、ツイッター上でのつぶやきとは言え、私自身はリアルな彼女をよく知っている。いつも明るく笑顔を絶やさず、仕事にも前向きで熱心な女性だ。
もらう側と与える側。
ふ~ん、今の20代はこんなふうに思うんだ・・・。
私自身は、このような発想をしたことがなかったので、新鮮だった。
さて私は、自分自身が、今までもらった以上のものを、与える側として返していけるだろうか?
無理だ!
本当に多くのものをもらってきた。今ももらっている。
それだけのもの(こと)を人に与えるのは無理だとしても、できるだけ与える側になって、返していきたいものである。
そう言えば、私が後輩に奢った時に、御礼を言ってくる後輩たちに向かって、
私は「いずれ、あなたが後輩に奢ってあげなさい」とよく言っていた。
「与える側」として自分自身が返すことができなくても、循環が生まれて結果的に与えることになるのなら、それでもいいのかもしれない。
これなら、自分自身で返すよりも多くを与えることができそうだ。
2012年1月24日
大御所の訃報
料理写真家の大御所、佐伯義勝先生が亡くなりました。
享年、84歳。
私が仕事を始めたばかりの頃、雑誌で美しいシズルを出す料理写真と言えば、佐伯先生だった。
「家庭画報」など、目を見張るほどのきれいな料理写真は、たいてい佐伯先生の撮影。
大学で栄養学を専攻した私は、卒業後、広告代理店に就職し、テレビの料理番組や食物関係の企画制作の仕事を担当した。
食物の栄養のことは勉強して知っていても、料理を美しく見せたり、盛り付けたり、ましてや写真のことなど何も知らなかった。企画制作どころか、その前の資料集め等準備が中心で、撮影現場に連れて行ってもらった時は見学しつつ雑用のお手伝いを少々。ほとんど役に立ってなどいなかった。
当時、料理関係の撮影となると、佐伯先生のお弟子さんのカメラマンさんがやってくる、というのが通例で、カメラマンは自ら「自分は佐伯先生の何番弟子だ」などとおっしゃっておられるほど。まだヒヨッコだった私にとって、佐伯先生は雲の上の方だった。
その佐伯先生のお料理の撮り方は、おいしいものをそのまま。
「湯気も照りも、おいしいものは一番おいしそうなところをそのまま。余計な手は加えない。」と。
熱いものはアツアツのうちに。少しでも冷めたらすぐに作り直しで、いくつも作ったものだった。
一方で、写真撮影の技術と環境は、この数十年で劇的に変わった。
フィルムからデジタルに変わり、撮影する前の食材に手を加えることどころか、撮影後の写真にデジタル加工するなど当たりまえの世の中だ。
最近の私は、料理に関わる仕事をしていないので、最近の佐伯先生が、どのようなお仕事をされていたかは存じ上げないが、近しい人のお話によれば、前日まで、撮影のお仕事をされていたそうだ。
「佐伯先生らしい最期だと思います。」とのこと。
昨今どんな業界でも、例え大御所といえども一線を退かざるを得ない世の中ですが、最後の最期まで現役で仕事に携わっていられるというのは、本当に輝かしいことであり、理想の逝き方だと思います、と、かつての仕事仲間から、連絡をもらったのだった。
前回「元気な大人増殖を目指したい」でも書いたように、後進に道を譲ることを絶賛する風潮の中、その佐伯先生のお話には、なんだか嬉しくなった。
どんなに年を重ねても、若いものに負けない腕があるのならば、譲らない美学があってもいい。
佐伯先生の訃報連絡をくれた友人からのメールには、
「こうやって昭和を代表する巨匠がいなくなることは、淋しいことでもあります・・・」
と書いてあった。
本当にそうだ。
だからこそ余計に、いくつになっても頑張っているいろいろな方を見ると感動するし、勇気がわくのかもしれない。
享年、84歳。
私が仕事を始めたばかりの頃、雑誌で美しいシズルを出す料理写真と言えば、佐伯先生だった。
「家庭画報」など、目を見張るほどのきれいな料理写真は、たいてい佐伯先生の撮影。
大学で栄養学を専攻した私は、卒業後、広告代理店に就職し、テレビの料理番組や食物関係の企画制作の仕事を担当した。
食物の栄養のことは勉強して知っていても、料理を美しく見せたり、盛り付けたり、ましてや写真のことなど何も知らなかった。企画制作どころか、その前の資料集め等準備が中心で、撮影現場に連れて行ってもらった時は見学しつつ雑用のお手伝いを少々。ほとんど役に立ってなどいなかった。
当時、料理関係の撮影となると、佐伯先生のお弟子さんのカメラマンさんがやってくる、というのが通例で、カメラマンは自ら「自分は佐伯先生の何番弟子だ」などとおっしゃっておられるほど。まだヒヨッコだった私にとって、佐伯先生は雲の上の方だった。
その佐伯先生のお料理の撮り方は、おいしいものをそのまま。
「湯気も照りも、おいしいものは一番おいしそうなところをそのまま。余計な手は加えない。」と。
熱いものはアツアツのうちに。少しでも冷めたらすぐに作り直しで、いくつも作ったものだった。
一方で、写真撮影の技術と環境は、この数十年で劇的に変わった。
フィルムからデジタルに変わり、撮影する前の食材に手を加えることどころか、撮影後の写真にデジタル加工するなど当たりまえの世の中だ。
最近の私は、料理に関わる仕事をしていないので、最近の佐伯先生が、どのようなお仕事をされていたかは存じ上げないが、近しい人のお話によれば、前日まで、撮影のお仕事をされていたそうだ。
「佐伯先生らしい最期だと思います。」とのこと。
昨今どんな業界でも、例え大御所といえども一線を退かざるを得ない世の中ですが、最後の最期まで現役で仕事に携わっていられるというのは、本当に輝かしいことであり、理想の逝き方だと思います、と、かつての仕事仲間から、連絡をもらったのだった。
前回「元気な大人増殖を目指したい」でも書いたように、後進に道を譲ることを絶賛する風潮の中、その佐伯先生のお話には、なんだか嬉しくなった。
どんなに年を重ねても、若いものに負けない腕があるのならば、譲らない美学があってもいい。
佐伯先生の訃報連絡をくれた友人からのメールには、
「こうやって昭和を代表する巨匠がいなくなることは、淋しいことでもあります・・・」
と書いてあった。
本当にそうだ。
だからこそ余計に、いくつになっても頑張っているいろいろな方を見ると感動するし、勇気がわくのかもしれない。
2012年1月17日
元気な大人増加を目指したい
年末の掃除をしていたら、1999年頃の新聞記事スクラップが出てきた。
10年以上も前の記事だが、見返していて気になるコラムをみつけた。
1997年から朝日新聞でスタートした吉沢久子さんの「老いじたく考」。
当時から、高齢者向けの市場拡大や介護市場の有望性などはよく語られていた頃だった。
そういう中で、吉沢久子さんが介護の話題を老人の立場で聞くと、長生きしては申し訳ない気分になる、と書いていたのだ。
吉沢久子さんご自身が、介護の社会化が必要とかつて考えていた当人であったが、それは介護者の立場であって、老人の立場に立ってみると申し訳ない気分になる、と。「これでは元気に生きる気持ちも萎えてしまう」と書いていた。
吉沢久子さんご自身は、現在93歳。
20年以上前、既に家事評論家として大変ご活躍だったが、今現在も明晰に暮らし、執筆や講演をこなすようで、現役そのものだ。
私の関係する広告会社の営業マン。
今の時代、ただの広告営業でだけでは仕事などとれないからと、次々新しいことを仕掛け、まったく異なる業種の人に多種多様な相談をし、「いやぁ、勉強になる!」と言いながら営業活動を続けている方がいる。既存取引先への積極的な新提案だけでなく、新規取引先へも次々と飛び込み営業も行うその営業マンは、現在80歳を超えているが、お洒落な着こなしで背筋がピンとしたカッコよさだ。
こういう大先輩がいる、ということ自体が、私に勇気を与える。
そういう大先輩に、私は頭が下がる。心から尊敬するし、ワクワクする。
自分も少しでもそういう風になれればいい、と思う。
日々がんばろう!という気持ちになる。
凹んでなどいられないと思う。
それは、20代から見た40代や50代や60代・・・
40代から見た60代や70代や80代・・・
素敵な大先輩がいることは、自分自身の目指す将来をイメージしやすいし、それをめざしてがんばろうと思うのではないだろうか?
だから私は、ちゃんとした大人、元気な大人がいる、ということは社会を元気にすると思うのだ。
中小企業白書のデータによれば、2002年の起業希望者141万人に対して、2007年は101万人。この間には、ライブドア事件があった。ベンチャーの星、ホリエモン(堀江貴文氏)が逮捕されているのだ。彼は、起業を目指す人にとってわかりやすい目標であったはずで、彼の逮捕によって目標が分かりにくくなったのだと思う。
だから、多種多様な元気な大人が増えれば増えるほど、その下の世代にとって多種多様な目標が描きやすくなるはずだ。
けれども、現実はどうだろう?
年を重ねることで、しょぼくれたり、夢や希望をなくしたり、人生を諦め、どうでもいいと思ったり、何事も先送りにしようとしたり・・・そんな人も多く存在することも否めない。
でもそれは、就職難だから、若者に仕事がないから~と、後進に道を譲らざるを得ないことも影響しているだろう。
若者が活躍することが評価され、世代交代していくことが是とされる今の時代。
もちろん一理あるとは思うけれど、私は道を譲っても現役から退かない先輩が好きだ。
今、10年以上前の吉沢久子さんの新聞記事「長生きしては申し訳ない」というフレーズに触れ、介護問題に限らず、仕事を含めた生き方において、もっとワクワクしたり使命感を持つなど、熱い思いで前を向いて生きていくのをそいでしまうような論調が行きすぎてはいないだろうか?と気になった。それこそ「これでは元気に生きる気持ちも萎えてしまう」。
もちろん、そんな論調に負けないくらいの強さがあればいいのだが。
やはり、私自身は前述のような大先輩のように生きていきたい。
一方で世代など関係なく、大先輩も若い人も関係なく交流し続けたいと思う。
できれば自分が作った道は、どんどん後進に譲り、そしてまた新しいことに挑戦する、という形を目指したいと思っている。
10年以上も前の記事だが、見返していて気になるコラムをみつけた。
1997年から朝日新聞でスタートした吉沢久子さんの「老いじたく考」。
当時から、高齢者向けの市場拡大や介護市場の有望性などはよく語られていた頃だった。
そういう中で、吉沢久子さんが介護の話題を老人の立場で聞くと、長生きしては申し訳ない気分になる、と書いていたのだ。
吉沢久子さんご自身が、介護の社会化が必要とかつて考えていた当人であったが、それは介護者の立場であって、老人の立場に立ってみると申し訳ない気分になる、と。「これでは元気に生きる気持ちも萎えてしまう」と書いていた。
吉沢久子さんご自身は、現在93歳。
20年以上前、既に家事評論家として大変ご活躍だったが、今現在も明晰に暮らし、執筆や講演をこなすようで、現役そのものだ。
私の関係する広告会社の営業マン。
今の時代、ただの広告営業でだけでは仕事などとれないからと、次々新しいことを仕掛け、まったく異なる業種の人に多種多様な相談をし、「いやぁ、勉強になる!」と言いながら営業活動を続けている方がいる。既存取引先への積極的な新提案だけでなく、新規取引先へも次々と飛び込み営業も行うその営業マンは、現在80歳を超えているが、お洒落な着こなしで背筋がピンとしたカッコよさだ。
こういう大先輩がいる、ということ自体が、私に勇気を与える。
そういう大先輩に、私は頭が下がる。心から尊敬するし、ワクワクする。
自分も少しでもそういう風になれればいい、と思う。
日々がんばろう!という気持ちになる。
凹んでなどいられないと思う。
それは、20代から見た40代や50代や60代・・・
40代から見た60代や70代や80代・・・
素敵な大先輩がいることは、自分自身の目指す将来をイメージしやすいし、それをめざしてがんばろうと思うのではないだろうか?
だから私は、ちゃんとした大人、元気な大人がいる、ということは社会を元気にすると思うのだ。
中小企業白書のデータによれば、2002年の起業希望者141万人に対して、2007年は101万人。この間には、ライブドア事件があった。ベンチャーの星、ホリエモン(堀江貴文氏)が逮捕されているのだ。彼は、起業を目指す人にとってわかりやすい目標であったはずで、彼の逮捕によって目標が分かりにくくなったのだと思う。
だから、多種多様な元気な大人が増えれば増えるほど、その下の世代にとって多種多様な目標が描きやすくなるはずだ。
けれども、現実はどうだろう?
年を重ねることで、しょぼくれたり、夢や希望をなくしたり、人生を諦め、どうでもいいと思ったり、何事も先送りにしようとしたり・・・そんな人も多く存在することも否めない。
でもそれは、就職難だから、若者に仕事がないから~と、後進に道を譲らざるを得ないことも影響しているだろう。
若者が活躍することが評価され、世代交代していくことが是とされる今の時代。
もちろん一理あるとは思うけれど、私は道を譲っても現役から退かない先輩が好きだ。
今、10年以上前の吉沢久子さんの新聞記事「長生きしては申し訳ない」というフレーズに触れ、介護問題に限らず、仕事を含めた生き方において、もっとワクワクしたり使命感を持つなど、熱い思いで前を向いて生きていくのをそいでしまうような論調が行きすぎてはいないだろうか?と気になった。それこそ「これでは元気に生きる気持ちも萎えてしまう」。
もちろん、そんな論調に負けないくらいの強さがあればいいのだが。
やはり、私自身は前述のような大先輩のように生きていきたい。
一方で世代など関係なく、大先輩も若い人も関係なく交流し続けたいと思う。
できれば自分が作った道は、どんどん後進に譲り、そしてまた新しいことに挑戦する、という形を目指したいと思っている。
2012年1月12日
家庭ありきの仕事
当たり前のことだが、自分の年齢が上がってきたことで、親の年齢が上がってきた。
最近、私の周りでは、親が弱ってきたことでさまざまな問題を抱える人が増えてきた。
親の病気、親の介護を抱えながら仕事をしている人たちだ。
かく言う私も、昨年、夫の父を看送ったばかりだ。義父が亡くなる前の1年間は、病気とのおつきあいでもあった。今、義母は一人で暮らしており、義妹が頻繁に様子を見に行ってくれていて、うちは週に1度くらいのペースで行っている。
一方、私自身の両親は、二人で暮らしているが、近年急速に老いが目立つようになってきた。体のあちこちに故障を抱えるものの、緊急性が高いわけでもなく、二人揃っていることもあるので、私が行くのは月に1度くらいのペースだ。
今、まさに親の介護問題に直面しながら仕事をしている友人が、「家庭がざわざわすると、仕事どころじゃない。」としみじみと言う。
家庭がざわざわするというのは、家庭が落ち着かないということだ。
介護を抱えこんではいけない、というのはよく言われることだ。
しかしそのために各種サポートを受けようとしても、まず親本人がそれを嫌がることがあり、それをクリアしなくてはサポートを受けることができない。
親を説得してクリアしたとしても、親が入院する、入院先の医師と面談する、親に介護が必要になりケアマネージャーとの度重なる打ち合わせが入る、などなど、次々と時間が拘束される案件が発生する。仕事中でも連絡が入る。コントロール不能なので、自分のスケジュール管理にも支障が出る。・・・こういう状態で、今、仕事をしている人は世の中にどのくらいいるのだろう。
そういう中で大事になるのは、兄弟姉妹など家族の協力体制に他ならない。
家庭がざわざわしても、できるだけ仕事には支障が出ないようなローテーションを組むなどの家族の協力体制は、経済的な生活基盤を守るだけでなく、個々人の精神的負担を軽くする上でもとても大事なことだ。社会にとっても望ましい形であるのは間違いない。
震災以降、家族や絆の重要性が叫ばれるようになった。
こういうところで、その「絆」が生かされればと思う。
ちなみに私自身は三人姉妹。夫には妹がいる。
私の親の場合も夫の親の場合も、それぞれ妹たちに大いに助けられており、感謝している。
その点、兄弟姉妹のいない一人っ子は大変なことだろう。
最近は一人っ子が増えてきたことだし、少子高齢化問題はいずれ、深刻な老人(介護)問題へとつながっていくにちがいない。
最近、私の周りでは、親が弱ってきたことでさまざまな問題を抱える人が増えてきた。
親の病気、親の介護を抱えながら仕事をしている人たちだ。
かく言う私も、昨年、夫の父を看送ったばかりだ。義父が亡くなる前の1年間は、病気とのおつきあいでもあった。今、義母は一人で暮らしており、義妹が頻繁に様子を見に行ってくれていて、うちは週に1度くらいのペースで行っている。
一方、私自身の両親は、二人で暮らしているが、近年急速に老いが目立つようになってきた。体のあちこちに故障を抱えるものの、緊急性が高いわけでもなく、二人揃っていることもあるので、私が行くのは月に1度くらいのペースだ。
今、まさに親の介護問題に直面しながら仕事をしている友人が、「家庭がざわざわすると、仕事どころじゃない。」としみじみと言う。
家庭がざわざわするというのは、家庭が落ち着かないということだ。
介護を抱えこんではいけない、というのはよく言われることだ。
しかしそのために各種サポートを受けようとしても、まず親本人がそれを嫌がることがあり、それをクリアしなくてはサポートを受けることができない。
親を説得してクリアしたとしても、親が入院する、入院先の医師と面談する、親に介護が必要になりケアマネージャーとの度重なる打ち合わせが入る、などなど、次々と時間が拘束される案件が発生する。仕事中でも連絡が入る。コントロール不能なので、自分のスケジュール管理にも支障が出る。・・・こういう状態で、今、仕事をしている人は世の中にどのくらいいるのだろう。
そういう中で大事になるのは、兄弟姉妹など家族の協力体制に他ならない。
家庭がざわざわしても、できるだけ仕事には支障が出ないようなローテーションを組むなどの家族の協力体制は、経済的な生活基盤を守るだけでなく、個々人の精神的負担を軽くする上でもとても大事なことだ。社会にとっても望ましい形であるのは間違いない。
震災以降、家族や絆の重要性が叫ばれるようになった。
こういうところで、その「絆」が生かされればと思う。
ちなみに私自身は三人姉妹。夫には妹がいる。
私の親の場合も夫の親の場合も、それぞれ妹たちに大いに助けられており、感謝している。
その点、兄弟姉妹のいない一人っ子は大変なことだろう。
最近は一人っ子が増えてきたことだし、少子高齢化問題はいずれ、深刻な老人(介護)問題へとつながっていくにちがいない。
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