東北から帰ってきて、1週間が経過した。
不思議なことに、今、私は仕事に対する意欲が上がっていることに気づいた。ルーティンワークではなく、新しいことを手がけよう、という気持ちが特に上がっていた。東北に行き、見たことや感じたこと、そして東北の人たちの言葉を聞いたことが、私の気分を少し変えたのだと思う。
パワーをもらうとか、パワーを上げる、とか言う言葉はもはや言い古された感じがしてあまり使いたくないのだが、それでも私は、東北からパワーをもらってきたのは間違いないようだ。
さて、私は東京に戻ってきてからは、ここのところあまり会っていなかった人と、会うようにしてきた。私自身の仕事が少し落ち着いたこともあり、意識的に情報交換がてら会うようにしているのだ。
あくまでも仕事のつながりがある人との情報交換ではあるが、震災や原発事故の話題に触れる中で、自然と家族の話が出てくることが多くなったように思う。特に子どもの話や、出産の話などがちらちらと出てくる。
震災や原発事故をきっかけに、私たちはいろいろなことに気づいてしまったからだと思う。人は一人では生きていくのは大変だということ、誰でも絆を大事にしたいという気持ちがあること、実は今までの歴史がいろいろなことを教えてくれていたこと、私たちは今の現実からの教訓を次の世代に伝えていく必要があること、効率優先のあまりに心を無視してはいけないこと、などなど。
今の時代、両親と子供二人、というような「普通の家庭」は今や普通ではないくらい少なくなったけれど、それでも社会を構成する最小単位は、やはり家族だ。その家族の重要性を再認識させられ、自然と家族の話題が多くなっていくのだろう。東北では現実に結婚が増えているという。
さらに、原発事故の影響から来る放射性物質の問題。長い時間がたった後で放射性物質の悪影響が出る可能性が高いから、特に子どもへの心配が大きくなる。目に見えないから不安や恐怖は益々大きくなり、疑心暗鬼になり、周りの人に話したくなっていく。
だから、仕事に関わる話であったとしても家族の話題が前よりも増えてくるのだろう。
震災は本当に大変なことであったのは間違いなけれど、いろいろなことを教えてくれたし、私にチカラも与えてくれた。これを本当に無駄にしてはいけない、と今、私は何度も自分に言い聞かせている。
さあ、私も前に向かって進みます。これからの仕事を、見ていてください。
2011年6月6日
2011年5月26日
東北に行ってきました
前回のブログでも予告したように、5月17日~20日までの4日間、東北三陸地方の水産関係の自治体や各社に行ってきたので、少し報告したい。
行く前に大変だったのは宿の確保だった。
営業している宿自体が減っていることに加え、営業している宿はどこも復興関連の人たちで6月末まではどこもほぼ満室だったからだ。宿がとれなければ中止せざるを得ないし、地元に却って迷惑になるようならやはり遠慮した方がいいので、ぎりぎりまで行くことが決まらなかった。一方で、地元の復旧復興は日々動いており、2ヶ月たったこともあって、さまざまな業種が次々と営業再開している段階でもあった。私の計画は、4月末に再開した東北新幹線で仙台まで行き、そこからはレンタカーで海沿いを八戸まで移動するルートだ。一人だったので、運転するのも一人だし、海沿いの一般道の道路事情や距離感に若干不安はあったが、宿泊先については、地元の観光協会が、逐次営業再開情報をリアルタイムで把握していたことにも助けれ、うまく宿が確保できた段階で、急遽出発を決めたのだ。可能なら約20件ほどを回ろうと考えていた。
朝7時半に出発する新幹線が、ビジネスマンでほぼ満席だったのには驚いた。仙台から車で走り出すと、自衛隊の装甲車がやたらに目についた。日本にはこんなにたくさん装甲車があったんだ、と驚いてしまう。
2カ月たったせいか、一見、大変な被害を受けたように見えなくても、休業中のロードサイドの店舗をよく見ると、窓の上の方まで泥の跡が残っているのに気づく。それで、ここまで片付いたんだ、ということがわかるのだ。また、被害の様子は移動とともにだんだんと大きくなって行く~というわけではなく、ここまでは普通の風景がある地点からいきなり大変な状況に変わる、ということがしばしばあり、驚かされた。
私は、石巻の水産関係の方々とは接点が多かったので訪ねてみたところ、そこにはわずかに残った建物の外枠や看板以外は何も残っていなかった。それがそこだけ、とかある方向だけ、というのではなく、360度方向、見渡す限り何もなく人の姿もない。たくさんの鳥が空を飛んでいた。遠くに海が見えて周りには建物の跡が残っていて道路もあるのに人は誰もいない、という風景は、何とも言えないものがある。周辺を少し車で動いていたら、片づけをする自衛隊の人が見えてきた。これだけの片づけをするのにどれだけの時間がかかるのだろう?!と思ってしまう。
そういう場所にかつて本社や工場があった水産会社の方が、電話で話した時に「商品(水産加工品)は、3年かかっても5年かかっても必ず再開するから見ていてほしい」と、4月の段階で私におっしゃったのだ。私は、その工場があった場所に立ってみて、改めてその方の意志の強さに感銘し、これからずっと見続けていきたいと思った。仙台を出発してから、3時間後のことだ。
石巻から気仙沼に移動して市役所の方と面会。家を流され、何もなくなくなったというのに、「自分など全然いい方だ。家族は無事だし、自分は恵まれているから頑張らないと。」と言うのには、返す言葉がなかった。その気仙沼で1泊。コンビニや外食産業が少しづつ営業を再開しており、夕食に出かけると店は賑わっていた。来ているのは全国から応援で来ていると思われる自治体や復興関係者のようだった。
翌18日朝、さらに国道45線を北上する。とてもいいい天気で、空は真っ青。道は少し山の方に迂回したりトンネルがあったりして、とてもきれいな深緑と青い空のコントラストに感動しながらアップダウンを繰り返すのだが、そうするとしばしば「ここより先、津波浸水警戒区域」という標識が出てくる。その標識を超えると、風景は突然、3月下旬に新聞に出ていたような悲惨な風景に一変するのだ。この風景の物凄いギャップ。運転していくと、これを何度も繰り返すのだ。
駅よりも海側に市街地があった釜石は、街中が壊滅的な被害を受けていた。飲み屋さん、携帯ショップ、衣料品店などが破壊されている様子は、あまり報道には出てこないし、他の被災地とはまた違った印象だ。いくつかに分かれている市の庁舎のある部屋では、泥をかぶった資料を一つづつ片づけている職員さんの様子が見え、お訪ねする予定だったのだがそのまま失礼してきた。それでも、釜石の水産会社の方には元気な方が多かった。既に営業再開しているところ、年内再開目指して準備中のところなど各社事情はさまざまだが、全国のお客様から心配やお見舞いの連絡が入っていて、それを励みに、早速「私たちは元気です」とDMを出しているところもあった。
「決算で不良在庫の心配をする必要がなくなった。いいこともある。」と私を笑わそうとしてくれる人もいらした。震災直後の3日間、ほとんど食べるものがなかったそうで、食べもののありがたさを再認識し、今では外食して注文したライスをほんの少し残す時でも、必ずラップに包んでもらって持ち帰るようになったと言う。
さらに北上して宮古へ。出発から30時間ほどたって、初日以上の規模の瓦礫の山を見ても、「がんばろう」のノボリを見ても、破壊した建物に張り紙やOKマーク(撤去してもいいという意味)を見ても、目が慣れてきたせいか、私は驚かなくなっていた。私の感覚はどうやら麻痺してきていたようだ(東京に戻ってから麻痺していたことに気づいたのだが)。宮古市内はライフラインはかなり復旧しているものの、どこも信号は不通で、少々危なかったが、地元の人は慣れている様子だった。18日は宮古宿泊し、さらに北上。
久慈市に行った時は、「漁師は、なんとか船を守らないと!と言う思いで津波の時は沖に出て、命を賭けて船を守った。さぁ、これから復興だ!と、魚を獲ってきたら、放射能の風評被害で買ってもらえないものがある。ここまで頑張ってきたのに、あんまりだ。」という話を聞いた。久慈ではコウナゴが獲れるのだ。久慈市内の魚屋さんでも店頭のコウナゴが激減したという。
現在、三陸は漁港近くの市場が壊滅的被害を受けているし、冷凍庫や冷蔵庫は海沿いにあったからそれもなくなったこともあって、水揚げしても水産物を保管できない。水揚げ量自体はまだ少ないけれど、それでも水揚げした魚は水氷の状態で少しでも早く流通させなくてはならない。それも地元で。まるで昔のやりかたそのものだ。改めて昔のよさを再認識することもある、という地域の方の言葉が心に残った。
今回、状況や時間によって、通過するだけのところも含めて、訪ねてのは、
仙台、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石、山田、宮古、田老、普代、久慈、洋野、種市、階上、八戸、そして盛岡。
文章で書くにはなかなか表現しつくせないことがたくさんあるが、今回の訪問で何回「がんばろう」という言葉を聞いたかわからない。どこに行ってもあちことに「がんばろう」と書いてあるし、話をすれば誰もがそう言う。私はそれを何度も目にするうちに苦しくなってくるのだが、地元の人は違っていた。もっと「がんばろう」と言うのだから。遠くに離れている者は、東北の人以上にがんばって、継続的支援をできるようにならなくては、と逆に言われているような気持ちになった。今後、私は東北の復興をずっと見続けていきたいと思う。
行く前に大変だったのは宿の確保だった。
営業している宿自体が減っていることに加え、営業している宿はどこも復興関連の人たちで6月末まではどこもほぼ満室だったからだ。宿がとれなければ中止せざるを得ないし、地元に却って迷惑になるようならやはり遠慮した方がいいので、ぎりぎりまで行くことが決まらなかった。一方で、地元の復旧復興は日々動いており、2ヶ月たったこともあって、さまざまな業種が次々と営業再開している段階でもあった。私の計画は、4月末に再開した東北新幹線で仙台まで行き、そこからはレンタカーで海沿いを八戸まで移動するルートだ。一人だったので、運転するのも一人だし、海沿いの一般道の道路事情や距離感に若干不安はあったが、宿泊先については、地元の観光協会が、逐次営業再開情報をリアルタイムで把握していたことにも助けれ、うまく宿が確保できた段階で、急遽出発を決めたのだ。可能なら約20件ほどを回ろうと考えていた。
朝7時半に出発する新幹線が、ビジネスマンでほぼ満席だったのには驚いた。仙台から車で走り出すと、自衛隊の装甲車がやたらに目についた。日本にはこんなにたくさん装甲車があったんだ、と驚いてしまう。
2カ月たったせいか、一見、大変な被害を受けたように見えなくても、休業中のロードサイドの店舗をよく見ると、窓の上の方まで泥の跡が残っているのに気づく。それで、ここまで片付いたんだ、ということがわかるのだ。また、被害の様子は移動とともにだんだんと大きくなって行く~というわけではなく、ここまでは普通の風景がある地点からいきなり大変な状況に変わる、ということがしばしばあり、驚かされた。
私は、石巻の水産関係の方々とは接点が多かったので訪ねてみたところ、そこにはわずかに残った建物の外枠や看板以外は何も残っていなかった。それがそこだけ、とかある方向だけ、というのではなく、360度方向、見渡す限り何もなく人の姿もない。たくさんの鳥が空を飛んでいた。遠くに海が見えて周りには建物の跡が残っていて道路もあるのに人は誰もいない、という風景は、何とも言えないものがある。周辺を少し車で動いていたら、片づけをする自衛隊の人が見えてきた。これだけの片づけをするのにどれだけの時間がかかるのだろう?!と思ってしまう。
そういう場所にかつて本社や工場があった水産会社の方が、電話で話した時に「商品(水産加工品)は、3年かかっても5年かかっても必ず再開するから見ていてほしい」と、4月の段階で私におっしゃったのだ。私は、その工場があった場所に立ってみて、改めてその方の意志の強さに感銘し、これからずっと見続けていきたいと思った。仙台を出発してから、3時間後のことだ。
石巻から気仙沼に移動して市役所の方と面会。家を流され、何もなくなくなったというのに、「自分など全然いい方だ。家族は無事だし、自分は恵まれているから頑張らないと。」と言うのには、返す言葉がなかった。その気仙沼で1泊。コンビニや外食産業が少しづつ営業を再開しており、夕食に出かけると店は賑わっていた。来ているのは全国から応援で来ていると思われる自治体や復興関係者のようだった。
翌18日朝、さらに国道45線を北上する。とてもいいい天気で、空は真っ青。道は少し山の方に迂回したりトンネルがあったりして、とてもきれいな深緑と青い空のコントラストに感動しながらアップダウンを繰り返すのだが、そうするとしばしば「ここより先、津波浸水警戒区域」という標識が出てくる。その標識を超えると、風景は突然、3月下旬に新聞に出ていたような悲惨な風景に一変するのだ。この風景の物凄いギャップ。運転していくと、これを何度も繰り返すのだ。
駅よりも海側に市街地があった釜石は、街中が壊滅的な被害を受けていた。飲み屋さん、携帯ショップ、衣料品店などが破壊されている様子は、あまり報道には出てこないし、他の被災地とはまた違った印象だ。いくつかに分かれている市の庁舎のある部屋では、泥をかぶった資料を一つづつ片づけている職員さんの様子が見え、お訪ねする予定だったのだがそのまま失礼してきた。それでも、釜石の水産会社の方には元気な方が多かった。既に営業再開しているところ、年内再開目指して準備中のところなど各社事情はさまざまだが、全国のお客様から心配やお見舞いの連絡が入っていて、それを励みに、早速「私たちは元気です」とDMを出しているところもあった。
「決算で不良在庫の心配をする必要がなくなった。いいこともある。」と私を笑わそうとしてくれる人もいらした。震災直後の3日間、ほとんど食べるものがなかったそうで、食べもののありがたさを再認識し、今では外食して注文したライスをほんの少し残す時でも、必ずラップに包んでもらって持ち帰るようになったと言う。
さらに北上して宮古へ。出発から30時間ほどたって、初日以上の規模の瓦礫の山を見ても、「がんばろう」のノボリを見ても、破壊した建物に張り紙やOKマーク(撤去してもいいという意味)を見ても、目が慣れてきたせいか、私は驚かなくなっていた。私の感覚はどうやら麻痺してきていたようだ(東京に戻ってから麻痺していたことに気づいたのだが)。宮古市内はライフラインはかなり復旧しているものの、どこも信号は不通で、少々危なかったが、地元の人は慣れている様子だった。18日は宮古宿泊し、さらに北上。
久慈市に行った時は、「漁師は、なんとか船を守らないと!と言う思いで津波の時は沖に出て、命を賭けて船を守った。さぁ、これから復興だ!と、魚を獲ってきたら、放射能の風評被害で買ってもらえないものがある。ここまで頑張ってきたのに、あんまりだ。」という話を聞いた。久慈ではコウナゴが獲れるのだ。久慈市内の魚屋さんでも店頭のコウナゴが激減したという。
現在、三陸は漁港近くの市場が壊滅的被害を受けているし、冷凍庫や冷蔵庫は海沿いにあったからそれもなくなったこともあって、水揚げしても水産物を保管できない。水揚げ量自体はまだ少ないけれど、それでも水揚げした魚は水氷の状態で少しでも早く流通させなくてはならない。それも地元で。まるで昔のやりかたそのものだ。改めて昔のよさを再認識することもある、という地域の方の言葉が心に残った。
今回、状況や時間によって、通過するだけのところも含めて、訪ねてのは、
仙台、石巻、気仙沼、陸前高田、釜石、山田、宮古、田老、普代、久慈、洋野、種市、階上、八戸、そして盛岡。
文章で書くにはなかなか表現しつくせないことがたくさんあるが、今回の訪問で何回「がんばろう」という言葉を聞いたかわからない。どこに行ってもあちことに「がんばろう」と書いてあるし、話をすれば誰もがそう言う。私はそれを何度も目にするうちに苦しくなってくるのだが、地元の人は違っていた。もっと「がんばろう」と言うのだから。遠くに離れている者は、東北の人以上にがんばって、継続的支援をできるようにならなくては、と逆に言われているような気持ちになった。今後、私は東北の復興をずっと見続けていきたいと思う。
2011年5月14日
ゴールデンウイークの後半、私は日光に出かけてきた。修学旅行はすべて親の強い希望でキャンセルされ、日光の観光客は例年の95%ダウンで困ってる、という話を聞き、では行きましょう!とすぐに家族と計画を立てたのが4月上旬のことだ。連休直前には、「直前の駆け込みが増えて日光は混雑している」という報道があり、少々不安を抱いて向かったのだが、現実はやはりガラガラだった。何より大型バスをまったく見ない。団体客が全然いないということだ。東照宮なども連休最後の土曜日なのに人は少なく、想像はしていたが外国人は本当に少なかった。観光産業に関わる人たちは本当に大変だろうと改めて感じた。
連休が明け、仕事も通常モードに入った。
自粛モードも少しづつ消え、経済を動かそうという社会の流れになってきた。
私は来週、今までの仕事の流れで、東北三陸に行ってこようと計画中だ。実は復興関係業者以外は宿泊がままならず、2か月たってようやく移動中の一人分の宿が確保できそうだからだ。
水産関係の今までに取材したところ、お世話になったところを回ってくる予定だ。時間的な制約があるのですべてというわけにはいかないが、現在進行中の仕事についてはその相談もしてこようと思っている。大きく被災して完全ストップしているところなどは既にニュースでもよく出てきているし、行くにあたって連絡するも未だ連絡がつかないところもある。それでも連絡がついているところから、「今は大変だが、例え2年かかっても3年かかっても必ず復旧させるから見ていてほしい」と言われる。水産物の工場が流され、本社社屋も被災し、保管していた数億円分の原材料もダメになったようなところの言葉だ。また、「厳しい風景を目にしてトラウマにならないか、あなたの将来が心配だ。来るなら気持ちを強く持って。」とこちらを気遣ってくれる人もいらっしゃる。お見舞いと今後の相談に行くはずが、逆にそういう言葉をもらって、力をもらうのはむしろ私の方だ。
震災後の復旧・復興は、遠い道のりで長い時間がかかる。私に何ができるだろうと思い、考えても何もできない自分の無力さを今まで情けなく思ってきた。けれども、被災者の方の「見ていて」という言葉をもらい、ハッとした。私は、見ていることならできる。しかも、見ていることでこちらも力をもらう。ともに頑張れるような、そういう形で継続していけたらいいな、と思いながら行ってこようと思います。
連休が明け、仕事も通常モードに入った。
自粛モードも少しづつ消え、経済を動かそうという社会の流れになってきた。
私は来週、今までの仕事の流れで、東北三陸に行ってこようと計画中だ。実は復興関係業者以外は宿泊がままならず、2か月たってようやく移動中の一人分の宿が確保できそうだからだ。
水産関係の今までに取材したところ、お世話になったところを回ってくる予定だ。時間的な制約があるのですべてというわけにはいかないが、現在進行中の仕事についてはその相談もしてこようと思っている。大きく被災して完全ストップしているところなどは既にニュースでもよく出てきているし、行くにあたって連絡するも未だ連絡がつかないところもある。それでも連絡がついているところから、「今は大変だが、例え2年かかっても3年かかっても必ず復旧させるから見ていてほしい」と言われる。水産物の工場が流され、本社社屋も被災し、保管していた数億円分の原材料もダメになったようなところの言葉だ。また、「厳しい風景を目にしてトラウマにならないか、あなたの将来が心配だ。来るなら気持ちを強く持って。」とこちらを気遣ってくれる人もいらっしゃる。お見舞いと今後の相談に行くはずが、逆にそういう言葉をもらって、力をもらうのはむしろ私の方だ。
震災後の復旧・復興は、遠い道のりで長い時間がかかる。私に何ができるだろうと思い、考えても何もできない自分の無力さを今まで情けなく思ってきた。けれども、被災者の方の「見ていて」という言葉をもらい、ハッとした。私は、見ていることならできる。しかも、見ていることでこちらも力をもらう。ともに頑張れるような、そういう形で継続していけたらいいな、と思いながら行ってこようと思います。
2011年4月28日
自粛と社会のムード
大震災は、「命」を何度も何度も考える機会になった。「広告」は命に関わらないので、私自身は「生きる上で必要でないことを仕事にしている」という思いを抱かざるを得なかった。
大震災以降の1か月、広告ストップの動きは大きなものだった。
被災した企業はもとより、部品の供給が止まったことで商品が製造できなくなったり、品薄になったりする企業は、広告する意味がなくなるので当然のことながら広告はストップする。仕方がないことだ。
けれども、例え震災で大きな影響を受けていなくても「こういう状況の中で社会が広告を受け入れないムードがあるから広告は自粛する」という企業が意外と存在したのも事実だ。ACをはじめ、企業のCMも含めて、テレビのCMに対する視聴者からのクレームは大変なものであったし、世の中のムードというものが広告を受け入れにくい状況にあった。目立ったことはできるだけしない方がいいのでは・・・・そいう企業の思いの結果だと思う。
観光産業への影響も大きかった。震災に加えて、原発問題もあったため、栃木県日光は前年対比95%ダウン、という驚くべき数字になった。日光の場合は修学旅行需要が無視できないが、学校側と言うよりは保護者からの強い要望でキャンセルせざるを得ない状況にあったという。
1か月が過ぎ、ここにきてようやく社会のムードが変わりつつある。
テレビはACの割合が少しづつ減ってきて、一般企業のCMが戻りつつある。サントリーの「上を向いて歩こう」を歌った震災後バージョンのCMは視聴者の共感を誘ったし、評価も高かった。テレビに広告を戻すための大きな貢献をした。キャンセルになっていたゴールデンウイークの旅行予約も戻りつつある。被災地からも、「自粛をしないでほしい」という声がメディアで語られるようになってきたのも大きいだろう。
広告(やエンターテインメント)は、確かに生きるために絶対必要なものではないかもしれない。けれども、ないよりはあった方がいいものであって、それは社会のムードを作ったり、心を豊かにしたり明るくしたりするものであるはずだ。広告業界は、今、大変厳しい状況にあるのは確かだが、ここは我慢我慢。明るいムードに向かっていくために、今、智恵をしぼり続けなければならない(と、自分自身に何度も言う日々だ)。
大震災以降の1か月、広告ストップの動きは大きなものだった。
被災した企業はもとより、部品の供給が止まったことで商品が製造できなくなったり、品薄になったりする企業は、広告する意味がなくなるので当然のことながら広告はストップする。仕方がないことだ。
けれども、例え震災で大きな影響を受けていなくても「こういう状況の中で社会が広告を受け入れないムードがあるから広告は自粛する」という企業が意外と存在したのも事実だ。ACをはじめ、企業のCMも含めて、テレビのCMに対する視聴者からのクレームは大変なものであったし、世の中のムードというものが広告を受け入れにくい状況にあった。目立ったことはできるだけしない方がいいのでは・・・・そいう企業の思いの結果だと思う。
観光産業への影響も大きかった。震災に加えて、原発問題もあったため、栃木県日光は前年対比95%ダウン、という驚くべき数字になった。日光の場合は修学旅行需要が無視できないが、学校側と言うよりは保護者からの強い要望でキャンセルせざるを得ない状況にあったという。
1か月が過ぎ、ここにきてようやく社会のムードが変わりつつある。
テレビはACの割合が少しづつ減ってきて、一般企業のCMが戻りつつある。サントリーの「上を向いて歩こう」を歌った震災後バージョンのCMは視聴者の共感を誘ったし、評価も高かった。テレビに広告を戻すための大きな貢献をした。キャンセルになっていたゴールデンウイークの旅行予約も戻りつつある。被災地からも、「自粛をしないでほしい」という声がメディアで語られるようになってきたのも大きいだろう。
広告(やエンターテインメント)は、確かに生きるために絶対必要なものではないかもしれない。けれども、ないよりはあった方がいいものであって、それは社会のムードを作ったり、心を豊かにしたり明るくしたりするものであるはずだ。広告業界は、今、大変厳しい状況にあるのは確かだが、ここは我慢我慢。明るいムードに向かっていくために、今、智恵をしぼり続けなければならない(と、自分自身に何度も言う日々だ)。
2011年4月8日
頭が下がる東北の強さ
昨年11月から今年の1月頃まで、私は東北地方の水産関係の取材を行っていた。連絡をとっていたのは、県や市町村、市場関係者、水産加工業者等の方々で、3月11日の地震で大きな被害を受けた方々でもある。
3月11日以来のニュースでは、今でもしばしば津波の映像が出てくる。あれから1カ月近くたち、何度も見ている映像だ。何回みても涙が出るし、凄すぎる映像に言葉が出ない。
日常に振り替えると、節電で街の夜は暗くなり、経済活動が鈍くなっているのは一目瞭然だ。この1ヶ月間の私自身の仕事のペースも明らかに落ちている。経済活性化のためにも日常に戻って仕事が重要、と思いつつも、なかなかそういう気持ちにはなれず、結局タラタラとしているようなものだ。
ほんの数ヶ月前にお世話になった方々がどうされているか、気になってネットを見ていたら、こんなものをみつけた。
被災地の市町村が発行する広報4月1日号だ。地震の直後のドキュメントレポートから3月27日現在の被害状況、復興に向けての決意とその動き、被災者への支援制度などをまとめた広報だ。写真を多用し、24ページとしっかりしたボリュームだ。久慈市職員の今の状況を考えれば、どれだけ忙しいかがわかる。その中でたった3週間の間にこのような広報を作り上げて発行し、ともに頑張ろうと地域住民に呼びかけるという力強さに心を打たれた。
かつて地域活性の仕事で、大堤防で有名だった被災地、田老町のイベントに携わったことがある。大阪のイベントで「田老さんさ」を披露するために、田老町の方々20人ほどが来阪したのだが、初対面でも臆せず全員がとにかく明るく元気。当時私はいろいろな市町村の方々と仕事をしていたのだが、その明るさが際立って見えた。慰労会で隣り合わせた女性に聞いてみたところ、「田老は海の町。漁に出れば帰ってくるまで生きているかわからないし、町は何度も津波に襲われているからそのたびにまっさらになっている。山と違って、海で生きるにはいつも前を向いて行かざるを得ないから明るくなるのでしょう。」と言われ、圧倒されたことがある。15年近く前のことである。
今回の震災後も、被災地域にはもう前を前を向いて歩き始めている方々がいる。牡蠣の養殖業者や自動車の部品工場の人がテレビの中で再建を語るときの目は光り、まっすぐ前を見ている。
かつての田老町の女性の記憶と重なり、改めて東北の人たちはなんて強いのだろうと私は頭が下がるのだ。
3月11日以来のニュースでは、今でもしばしば津波の映像が出てくる。あれから1カ月近くたち、何度も見ている映像だ。何回みても涙が出るし、凄すぎる映像に言葉が出ない。
日常に振り替えると、節電で街の夜は暗くなり、経済活動が鈍くなっているのは一目瞭然だ。この1ヶ月間の私自身の仕事のペースも明らかに落ちている。経済活性化のためにも日常に戻って仕事が重要、と思いつつも、なかなかそういう気持ちにはなれず、結局タラタラとしているようなものだ。
ほんの数ヶ月前にお世話になった方々がどうされているか、気になってネットを見ていたら、こんなものをみつけた。
被災地の市町村が発行する広報4月1日号だ。地震の直後のドキュメントレポートから3月27日現在の被害状況、復興に向けての決意とその動き、被災者への支援制度などをまとめた広報だ。写真を多用し、24ページとしっかりしたボリュームだ。久慈市職員の今の状況を考えれば、どれだけ忙しいかがわかる。その中でたった3週間の間にこのような広報を作り上げて発行し、ともに頑張ろうと地域住民に呼びかけるという力強さに心を打たれた。
かつて地域活性の仕事で、大堤防で有名だった被災地、田老町のイベントに携わったことがある。大阪のイベントで「田老さんさ」を披露するために、田老町の方々20人ほどが来阪したのだが、初対面でも臆せず全員がとにかく明るく元気。当時私はいろいろな市町村の方々と仕事をしていたのだが、その明るさが際立って見えた。慰労会で隣り合わせた女性に聞いてみたところ、「田老は海の町。漁に出れば帰ってくるまで生きているかわからないし、町は何度も津波に襲われているからそのたびにまっさらになっている。山と違って、海で生きるにはいつも前を向いて行かざるを得ないから明るくなるのでしょう。」と言われ、圧倒されたことがある。15年近く前のことである。
今回の震災後も、被災地域にはもう前を前を向いて歩き始めている方々がいる。牡蠣の養殖業者や自動車の部品工場の人がテレビの中で再建を語るときの目は光り、まっすぐ前を見ている。
かつての田老町の女性の記憶と重なり、改めて東北の人たちはなんて強いのだろうと私は頭が下がるのだ。
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