桜が満開だった時、桜が見たくて、仕事するのなんかやめて外に出かけた日のことである。
平日なのに公園は高齢者と小さい子ども連れでごった返していた。
シートを広げてお弁当を食べる人、写真を撮る人。
帰り道、少し疲れてカフェに入ったら、
高校生らしき女の子たちのおしゃべりが聞こえてきた。
高校生らしき女の子たちのおしゃべりが聞こえてきた。
ねぇねぇ、花見って何が楽しいの〜?
さあ・・・。
食べ物じゃない?
あ、そうなん?
ほら、いろいろみんなで食べるから。
そっかあ〜。
今、私はこの時期になると桜を見たくてたまらなくなり、そわそわする。
普段あまり歩かないくせに、桜を見るなら4キロ5キロと歩くのが平気になる。
だけど改めて考えてみると、それはここ数年の今だからこそで、
若い頃はそんなことなかった。
若い頃はそんなことなかった。
もちろん桜はキレイだなと思っていたけれど、
そわそわワクワクするようなほどではなかったのだ。
それこそ、お花見は仲間で集まるのが楽しかった。
そこで何を食べようかと考えるのや食べることが楽しかった。
桜の花はついでに楽しんでいたようなものだ。
でも今は違う。
仲間がいなくても、何も食べなくても、
桜の花を見ること、そのものが楽しい。
まさに「桜の花を愛でる」のだ。
子どもの時、見えなかったものが見えるようになる。
子どもの時、あまり感じなかったけど今とても愛おしく感じることがある。
これはいったいどういうことなんだろう。
私の母の趣味は茶道で、80歳を超えた今でも嗜んでいる。
季節の入れ替えや茶室の掃除など、
もうできないと言いながらも妹たちの手助けを得ながら続けている。
もうできないと言いながらも妹たちの手助けを得ながら続けている。
若い頃私は、母の趣味には全く興味が持てなかった。
何が楽しいのかわからなかった。
反抗期も手伝い、若い頃には日本文化に親しむこと自体を
毛嫌いしていたところがあったようだ。
毛嫌いしていたところがあったようだ。
妹たちは私とは違い、当時から母の趣味に理解を示していた。
当時からの流れで、今、妹たちは
年老いた母が季節に合わせて茶道具の入れ替えをする際に手伝っている。
年老いた母が季節に合わせて茶道具の入れ替えをする際に手伝っている。
それを横目に、今、私はちょっと羨ましく思う。
一つ一つじっくり学ぶタイミングやチャンスを逸してしまい、
今からはハードルが高くて、その場には入れない。
今からはハードルが高くて、その場には入れない。
でも日本文化を嗜むことには、秘かに大きな憧れを感じるのだ。
若い頃には想像もしなかったことだった。
人の気持ちや興味の対象、感覚、考え方は年齢とともに変わっていく。
例えばエンディングノートの場合も、一度書いたら終わりと思う人が多い。
まだ決めてないから書けない、と思う人も多い。
だけど、人の気持ちは変わることがあるんだから!
一度書いたからと言って終わりじゃない。
今は○○と思ったとしても、でも先のことはわからない。
だけど書いておけば、その時の気持ちがわかる。
仮に変わったとしても、自分の気持ちの変化そのものを確認することができる。
そういう変化を自覚できることは愛おしさを増幅させることがある。
一方でマイナスな気持ちは、変化を確認することでなぜか緩和されるように思う。
人が生きていると言うことは、気持ちや考え方が変わっていくことでもあるのだ。
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