2015年2月26日

周りのイメージが行動を制限するのはもったいない。

学生時代の恩師を訪ねた。

60歳になる前にご主人と暮らしやすい老人ホームに入られ、そこから私の母校に通勤していた。
先生は生物の先生で、山歩き好き。
現役時代から退任後も、変わらず丹沢や秩父、山梨、長野の山を歩き、山の植物を愛で、スケッチをし、それを本にまとめて出版するほど。

80代半ばを超えた今も、近くの公園まで歩く毎朝の散歩を欠かさない。
1人でふらりと、海外旅行にもしばしば出かけている。
誰かと一緒に行こうとすると、日程調整とかでなかなか行けなくなるでしょう?と先生は笑う。

そんな先生は、立ち居振る舞いはしなやかで、おっとり。
話す口調は、私が高校生の頃から今も変わらずとても穏やかだ。

肩に全然力が入らない、先生のそういうお姿が私は大好きで、
ときどき先生のそういう生き方を間近で見たくなり、お訪ねしている。

先生の一人息子さんは、東京から少し距離があるところに住まわれていて。
その息子さんが、ときどき訪ねてくるそうだが、
自分をとても心配しているのがわかると言う。
「もう年なんだから。」と思われているのだろう、と。

だから、海外旅行に行くのを、もうやめたのだそうだ。
考えてみれば、いつどうなるかわからない年になった。
海外で万一のことがあったら、息子に迷惑をかけるから。
・・・そうおっしゃるのだ。

聞きながら、少し残念に思った。
高齢者だから、と心配されるから動けなくなる。

心配されることはたしかに心やさしいのだけど・・・・
他人の私は何も言うことはないけれど、それで本当にいいのかな。

場合によっては、やさしさが自由を奪う。
やさしいことが悲しませてしまうことがある。
そのやさしさによって、
私の好きな先生のカッコよさまでが奪われていくようで、少し寂しく思った。
もちろん、これは私の勝手な思い込みかもしれないが・・・。

高齢者はこういうもの、
高齢者だから○○があたりまえ、
そういうイメージだけが先行し、そのイメージを前提にした思いやり。
周りのイメージが、行動を制限してしまうのは寂しい。

高齢者だから、ではなく、
○○さんだから、という考え方になればいいのに、と思う。

高齢者というひとくくりにしないで。
人は十人十色、百人百色だ。
その人にとって、いい形であればいい。

要は、その人が大事なことを大事にする生き方、暮らし方だ。
私自身もそうありたいと思うから。

大事にすることを諦めたり、我慢したくない。
だけど、意外に日々に追われたり、なんとなく時間を過ごしていると
やらなければいけないこと、周りが求めていることに向かいがちで、
自分が大事なことを忘れていたり、気づかなかったりもする。

エンディングノートには、自分が本当に大事にしたいことを気づかせてくれるものがある。
そういうことを確認するためにエンディングノートを使う、というのもよいと思う。
自分が大事にしたいことのための能力は、
たとえ年をとっても、いくら親切にされても、衰えないようにしたいものだ。

私という人間も、
何歳の女性、というイメージではなく、
ずっと働いてきた女性、というイメージではなく
私という個人である。

周りが作るイメージにとらわれてしまうと、自分自身も苦しくなるような気がする。